君とありふれた話をしよう
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side.H
目が覚めて視界に入ったのは見慣れた天井
ガンガンと痛む頭と、吐き気を感じつつも体を起こし見渡すと明らかにここは俺が借りている部屋で
以前、飲み仲間となった岸辺ちゃんと冗談交じりで交換した情報がこんな風に役立つのは全くの不覚である
お互いの住所を(何となく)知っているのに、連絡先は交換していない現状に少し笑った
何となく覚えている昨夜の出来事、そして失態に頭を抱えたくなる
ふと視界に入ったベッドサイドに常温のミネラルウォーターと薬、そして初めて見る整った文字が綴られた手紙
“おはようございます、かな
覚えているか分かりませんので一応置き手紙を
酔いつぶれてしまったので送り届けさせて頂きました
二日酔いだと思いますので薬もどうぞ、付き合わせてしまったお詫びです
お休みだと言うことだったので、休肝日をゆっくりお過ごしください
鍵はポストの中に入れてあります 岸辺”
「岸辺ちゃんらしい」
見た目から受ける印象は、大人しそうな女の子
穏やかな雰囲気に話し方をする岸辺ちゃんに声をかけたきっかけは九条ちゃんに過ぎない
上辺だけの付き合いしかしていなかった九条ちゃんが、休日に一緒に遊ぼうと思えるような人間が出来た、と言う事は俺達の中では衝撃で
しかも見た目からは九条ちゃんが好みそうな女の子では無いと言う印象を受けたから余計
それで偶然出会ったあの場で声を掛けた
一体どんな子なのか知りたい、というただの好奇心
そうして何度か会って、印象は徐々に変わっていく
纏う柔らかい雰囲気はそのままなのに、思ったよりしっかりしている
周りをしっかり見ているし、何よりペース配分が上手い
自分に対しても周りに対しても
それを相手に意識させずさらりとやってのける器用さは岸辺ちゃんが持つ特徴だろう
俺が振る話を楽しそうに聞いてくれる様子はまさに聞き上手、と言う言葉が当て嵌まる
たまに洩れ出る愚痴にも嫌な顔をせず聞いてくれるし、守秘義務が絶対とされる職場であるのは理解しているのか、深くは聞いてこない距離の取り方
まぁ、守秘義務はお互い様だろうから分かっている、と言うスタンスなのだろうけど
驚くほどお酒にも強いと言う見た目とのギャップも面白い
何となく人となりを知れた今でもこうして会っているのは、偏に俺も楽しいと思って居るからで
それにしても、あの日は気を抜きすぎた
その日あった嫌なことを、感じ取られてしまうほどには俺も堪えていたのだと思う
そして、それを深くは聞いてこずにふわふわ笑ってくれる岸辺ちゃんが居て
以前から擡げていた、彼女の限界はどこなのだろう、何て言う好奇心も相まって勝負を仕掛けておいて玉砕
しかもこうして世話まで焼かれて
彼女には、甘えてもいいや、と思わせる何かがある
比較的甘やかすのが上手い自覚のある俺でさえも甘えたくなるほどの包容力
なるほど、看護師向きかも知れない
なんて現実逃避をしたはいいものの、俺の失態は紛れもない事実
それを詫びたいのに、連絡先を知らないものだからまた偶然あの居酒屋で出くわすまではその機会はお預けなのだ
情けなさ過ぎるだろ、俺…
そう言えば何か調べてみればいいと言われたが、一体何だっただろうか
記憶がふわふわしていて思い出せない
そうなるまで飲んでしまった自分がまた恥ずかしい
溜息を吐いて下を見た際に、自身がスーツなままであることに気付く
そりゃ着替えはさせられないか、と納得して、それでもネクタイは外されていると言うところにまた面倒見の良さを感じて
取り敢えずシャワーか、と薬を飲み込んだ後に気合いを入れて立ち上がった
*****
それから岸辺ちゃんに再会したのは大体3週間後だった
今回は結構間が空いてしまった
いつもの居酒屋の暖簾を括り、見慣れた後ろ姿を見かけて声を掛けようとして
その対面に見知らぬ男がいることに気付く
聞こえてくる迷惑そうな声に、あぁ絡まれているのだな、とすぐに察する
彼女の柔らかい雰囲気は、男が好むもの
1人で飲んでいるとなれば、格好の獲物だろう
穏やかで優しそうな彼女が標的にならないはずが無い
俺が居るときはちょうどいいナンパ避けになっていたのだろう
お世話になったお礼に、と彼女の名前を呼び起こしながら近寄り
「ごめん希空、思ったより仕事が長引いてさ」
さも待ち合わせをしていましたよ、と言う体を装って後ろから声を掛ける
振り向いて少し驚いたような顔をしたあと、合点がいったと言う顔をして
『遅いよ、研二
罰として今日の会計は研二持ちだからね』
初めて呼ばれた名前
初めて聞いた彼女の気安い話し方
そんなものを新鮮に思いながら、ごめん、と笑う
そのまま対面の男性を少し睨めば、そそくさと退散していくのだから、何というか
そうして空いた対面席に腰掛ければ、助かりました、と聞き慣れた敬語
それが少し面白くなくて
「あれ、もう研二って呼んでくれないんだ?」
『…恋人ごっこ続けたいんです?』
「同い年なんだし、気軽に話して欲しいだけなんだけどな」
『…何か、今更少し照れくさいのですが』
「…何それ、可愛いね」
『五月蠅いです』
少しだけ拗ねたように言う岸辺ちゃんが可愛かったので今日の所はこれまでにする
それ以前に、俺はお礼をしなければいけない立場なのでからかうのはここまでにしておく、と言うかからかうべきでは無かったのだろうけど
店員に取り敢えず生、と注文だけをして岸辺ちゃんを見る
こうして当たり前の様に受け入れられるのも、なんだか見慣れた光景になったな、何て思いながら
「岸辺ちゃん」
『はい?』
「この前はありがとう、正直助かりました」
『…あぁ、あれは私も少し調子に乗ったと言いますか…』
「でもまぁ、仕掛けたのは俺だしね」
『楽しかったので私は特に気にしていませんよ
勝手に萩原さんのテリトリーに踏み入ってしまったので、気を悪くさせていないか、だけは少々心配でしたが』
「なんでそんな低姿勢なの、岸辺ちゃん」
俺が笑えばそれに釣られて岸辺ちゃんも笑う
これ以上俺が気にしないように、と言う岸辺ちゃんの気遣いだろうから、有り難く受け入れて
先程冗談交じりに言われた、会計については持つつもりでは居るけれど
「そう言えば」
暫く会っていなかった間の事を話して、一段落付いた時
ふと思い出したのは調べてみればいいと言われた何かについて
すっかり忘れていたその話題を持ち出すと、少しだけ気まずそうな顔をする
なんて事無いように言われた様だったので聞いてもいいと思って居たのでそんな顔をされるとは思って居なかった
そう言った旨を伝え、言いたくないのならそれでもいいと言えば
『酔った勢いで言うのと、素面で言うのは何か違うというか…
女々しいと言うか、気障なことをしてしまったような…』
などと言われ、渋っている理由を俺なりに分析してみる
と言うか、何となく分かった
「カクテル言葉だ?」
『…うん、まぁ、はい
それを聞くって言うことは、何のカクテル飲んだかは覚えてないんですか?』
「ジンの何か、を飲んだことは覚えてるんだけど」
『一応先に弁明しておきますけど、先に言った2つはカクテル言葉意識してなかったですからね
ジンでアルコール度数が高めのものをピックアップしただけで』
「うんうん、言ってみ?」
『…イラッとしたので教えません』
「え、ごめん!」
つい、とそっぽを向いた岸辺ちゃんに慌てて謝る
珍しく劣勢な姿に、ついついからかいすぎてしまったようだ
けれどもう教えてくれる気は無くなったらしく、適当に調べたらすぐ出ますよ、なんてつっけんどんに返される
これはまずったかもしれない、と焦る俺とは裏腹に聞こえる笑い声
『怒ってないですけど、教えはしませんよ』
そう言って悪戯に笑うもんだから、降参だ、とこちらは肩を竦める
そうすると先程の不機嫌は演技だったのだと思えるほどけろっとした様子でグラスを口に運ぶ
なんだか初めて岸辺ちゃんの素を見た気がして、また機会を見て聞いてみようと大人しく引き下がる
それにしても…
「岸辺ちゃんって、泥酔したことってあるの?」
『ないですね』
「間髪入れず
前にストレス発散のために飲みに来たって言ってたよね?
酔えないのにストレス発散になるの?」
『酔えないわけでは無いですよ、現に前は酔って思考能力奪われてましたし
それにお酒に溺れて発散って健全じゃないでしょ?酒は飲んでも呑まれるな
ふわふわして楽しくなって、好きな組み合わせを見つけてってするのは楽しいので、十分ストレス発散になってますよ
気分転換とも言うのかもしれないですけど』
「なるほど、なんか岸辺ちゃんらしいね」
『そうです?』
「上手いこと自分の中で折り合い付けてんだなー、って感じ」
『折り合い…』
小さく呟いて少し考え込むように顎を撫でる
もしかして、また墓穴でも掘ってしまったのだろうか、と内心ヒヤヒヤしていたのだが
ぱっと顔を上げた岸辺ちゃんの表情は怒っている様子もなく
『よく見てますね、萩原さん』
「岸辺ちゃんもでしょ」
『お巡りさんには負けますよ』
「看護師さんだって凄いと思うけど」
なんてクスクス笑う
お互い頼んでいたものが全てなくなって、キリがいいとお互い思ったのか自然と席を立つ
最初決めていたように支払うと、最初は難色を示していたのだが、男の面目を守ってくれたらしい、思って居たより簡単に引き下がってくれた
そして、次は私が奢りますね、何て相手が不快に思わないような一言を添えるもんだから、この子はモテるだろうなぁ、何てぼんやりと思う
今日はお互いそのまま解散、となる流れとなったので駅まで一緒に向かう
最寄り駅からほど近い場所に住んでいると言うことで、家まで送っていったことは無いが、電車を利用することは一緒なのでいつもの流れだ
そうして駅に着き、それぞれ利用する路線へ行こうとなったとき
「あ、そうだ」
『どうかされました?』
「連絡先、そろそろ交換しようよ」
『…あぁ、そう言えばしてませんでしたね』
「忘れてたの?」
『連絡不精なもので、誰かと頻回にメッセージを交わすことも無いもので』
「それ、俺にも連絡しないって言ってる?」
『貰ったら返しますよ』
「しないんだね…
九条ちゃんとの奴も全然動いてないんだろうな…」
『業務連絡ならありますが』
「業務連絡」
『文字をね、打つのが面倒臭いんです
長くなるなら電話の方がいい』
「…、それ、昔誰かも言ってたなぁ」
『さゆですかね』
「そうだね、九条ちゃんだわ」
何て少し遠い目をしてみると、目の前の岸辺ちゃんはくすくす、と笑う
意外と似たもの同士だったんだね、2人
そりゃ友人と言える位の関係にもなれるよ
そんなやり取りを交わし連絡先を交換して今度こそ解散
その後宣言通り岸辺ちゃんからは必要事項以外の連絡は来ないが、こちらが送れば下らない内容でもちゃんと返事が来るのでぽつぽつとやり取りは続いている
連絡先を交換したお陰で、会う回数も以前より増えた
すれ違いが無くなったことが大きいだろう
そして、会うのはあの居酒屋では無くバーになることが増えた
食事が終わって居ないのなら居酒屋、食事は終わっているがお酒を飲みたいときはバー、と言う感じに
完全に飲み友達、と言う関係になったんだな、なんて思う
『え、あの天パの人さゆが好きなんです?』
「そうだよ、知らなかったの?
じんぺーちゃん一途だから高校の頃から九条ちゃん一筋」
『さゆとは恋バナとかしないし、さゆって自分のこと話さないから…
にしてもだいぶ長い片思いですね、告白はしてないんです?』
「してるし、今も絶賛アピール中」
『フラれてるのに?』
「と言うか、うーん、26歳になる年の11月7日を過ぎないと付き合えない、って言われてるんだよね」
『それは何というか、随分具体的なフり方ですね…?』
「それについては、何というか、うん、あれなんだけど」
『…思い当たる節はあるけど自分の口からは語れない、と』
「…うん、まぁ、そう言う事なんだけど、正確に読み取ったね、今ので」
『何となく』
そう言えば最近さゆと勤務が被ると、いつも前見かけた天パが迎えに来てるんですけど、何か知ってます?
そんな岸辺ちゃんからの問いから始まった恋バナ(当事者はここに居ないが)
随分濁した俺の返答に、相変わらず彼女は深く聞かずふーん、と軽く流す
あんなイケメン手玉に取ってるとは流石さゆ、なんて笑っていて
多分、こう言う距離感が心地よくて九条ちゃんも一緒に居る事を選んだのだろう
なんて頭では思いながら、今度はお互いの恋愛事情について話が移り変わる
とは言ってもお互いそう言った対象が居らず、そこまで盛り上がらなかったのだが
お互いがお互いを褒めて、謙遜して、笑う
そしてそう言えば、といった感じで今度は岸辺ちゃんの家族の話になる
近日めでたく岸辺ちゃんのお兄さんが結婚するらしい
「へぇ、それはおめでたいね」
『あの自由奔放な兄の首根っこを捕まえてくれる人が見つかってよかったです』
「自由人なんだ?」
『えぇ、昔から
やりたいことに一直線な、まぁ良いように言えば真っ直ぐな熱い人だったんですよね』
「それは…、何というか正反対?」
『私の家母子家庭なので、私がしっかりせねば、と』
「と言う事には下にも?」
『弟2人と妹2人、因みに妹は双子』
「わぉ、大家族」
『父は私が6つの頃、一番下が産まれてすぐ病死して
私も幼いながらに頑張らねば、と』
「お姉ちゃん強い」
『そうですよ、守るものがある人間は強いんです』
なんて少し冗談めかして笑う
けど、それは正にその通りだと思う
何かのために、誰かのために、と動ける人間というのは強いもので
当たり前の様に人を受け入れてしまうようなこの包容力は、そういった所から生まれたのか
『萩原さんもお兄さん?』
「そうだよ、妹が1人」
『やっぱり、甘やかし上手だと思った』
「岸辺ちゃんはなかなか甘やかされてくれないけどね?」
『そりゃお姉ちゃんですから』
「妹でもあるのに?」
『あれは弟みたいなものです』
「酷い言われようだなー」
当たり前の様に人を甘やかして、一体彼女は誰に甘えるのだろうか
そんな疑問がふと頭に過ぎったけれど、口には出さず
そうして夜は更けていく
いたずらっぽく笑う声
(少しずつ見える君、ホントの姿はいつ見せてくれるの?)
目が覚めて視界に入ったのは見慣れた天井
ガンガンと痛む頭と、吐き気を感じつつも体を起こし見渡すと明らかにここは俺が借りている部屋で
以前、飲み仲間となった岸辺ちゃんと冗談交じりで交換した情報がこんな風に役立つのは全くの不覚である
お互いの住所を(何となく)知っているのに、連絡先は交換していない現状に少し笑った
何となく覚えている昨夜の出来事、そして失態に頭を抱えたくなる
ふと視界に入ったベッドサイドに常温のミネラルウォーターと薬、そして初めて見る整った文字が綴られた手紙
“おはようございます、かな
覚えているか分かりませんので一応置き手紙を
酔いつぶれてしまったので送り届けさせて頂きました
二日酔いだと思いますので薬もどうぞ、付き合わせてしまったお詫びです
お休みだと言うことだったので、休肝日をゆっくりお過ごしください
鍵はポストの中に入れてあります 岸辺”
「岸辺ちゃんらしい」
見た目から受ける印象は、大人しそうな女の子
穏やかな雰囲気に話し方をする岸辺ちゃんに声をかけたきっかけは九条ちゃんに過ぎない
上辺だけの付き合いしかしていなかった九条ちゃんが、休日に一緒に遊ぼうと思えるような人間が出来た、と言う事は俺達の中では衝撃で
しかも見た目からは九条ちゃんが好みそうな女の子では無いと言う印象を受けたから余計
それで偶然出会ったあの場で声を掛けた
一体どんな子なのか知りたい、というただの好奇心
そうして何度か会って、印象は徐々に変わっていく
纏う柔らかい雰囲気はそのままなのに、思ったよりしっかりしている
周りをしっかり見ているし、何よりペース配分が上手い
自分に対しても周りに対しても
それを相手に意識させずさらりとやってのける器用さは岸辺ちゃんが持つ特徴だろう
俺が振る話を楽しそうに聞いてくれる様子はまさに聞き上手、と言う言葉が当て嵌まる
たまに洩れ出る愚痴にも嫌な顔をせず聞いてくれるし、守秘義務が絶対とされる職場であるのは理解しているのか、深くは聞いてこない距離の取り方
まぁ、守秘義務はお互い様だろうから分かっている、と言うスタンスなのだろうけど
驚くほどお酒にも強いと言う見た目とのギャップも面白い
何となく人となりを知れた今でもこうして会っているのは、偏に俺も楽しいと思って居るからで
それにしても、あの日は気を抜きすぎた
その日あった嫌なことを、感じ取られてしまうほどには俺も堪えていたのだと思う
そして、それを深くは聞いてこずにふわふわ笑ってくれる岸辺ちゃんが居て
以前から擡げていた、彼女の限界はどこなのだろう、何て言う好奇心も相まって勝負を仕掛けておいて玉砕
しかもこうして世話まで焼かれて
彼女には、甘えてもいいや、と思わせる何かがある
比較的甘やかすのが上手い自覚のある俺でさえも甘えたくなるほどの包容力
なるほど、看護師向きかも知れない
なんて現実逃避をしたはいいものの、俺の失態は紛れもない事実
それを詫びたいのに、連絡先を知らないものだからまた偶然あの居酒屋で出くわすまではその機会はお預けなのだ
情けなさ過ぎるだろ、俺…
そう言えば何か調べてみればいいと言われたが、一体何だっただろうか
記憶がふわふわしていて思い出せない
そうなるまで飲んでしまった自分がまた恥ずかしい
溜息を吐いて下を見た際に、自身がスーツなままであることに気付く
そりゃ着替えはさせられないか、と納得して、それでもネクタイは外されていると言うところにまた面倒見の良さを感じて
取り敢えずシャワーか、と薬を飲み込んだ後に気合いを入れて立ち上がった
*****
それから岸辺ちゃんに再会したのは大体3週間後だった
今回は結構間が空いてしまった
いつもの居酒屋の暖簾を括り、見慣れた後ろ姿を見かけて声を掛けようとして
その対面に見知らぬ男がいることに気付く
聞こえてくる迷惑そうな声に、あぁ絡まれているのだな、とすぐに察する
彼女の柔らかい雰囲気は、男が好むもの
1人で飲んでいるとなれば、格好の獲物だろう
穏やかで優しそうな彼女が標的にならないはずが無い
俺が居るときはちょうどいいナンパ避けになっていたのだろう
お世話になったお礼に、と彼女の名前を呼び起こしながら近寄り
「ごめん希空、思ったより仕事が長引いてさ」
さも待ち合わせをしていましたよ、と言う体を装って後ろから声を掛ける
振り向いて少し驚いたような顔をしたあと、合点がいったと言う顔をして
『遅いよ、研二
罰として今日の会計は研二持ちだからね』
初めて呼ばれた名前
初めて聞いた彼女の気安い話し方
そんなものを新鮮に思いながら、ごめん、と笑う
そのまま対面の男性を少し睨めば、そそくさと退散していくのだから、何というか
そうして空いた対面席に腰掛ければ、助かりました、と聞き慣れた敬語
それが少し面白くなくて
「あれ、もう研二って呼んでくれないんだ?」
『…恋人ごっこ続けたいんです?』
「同い年なんだし、気軽に話して欲しいだけなんだけどな」
『…何か、今更少し照れくさいのですが』
「…何それ、可愛いね」
『五月蠅いです』
少しだけ拗ねたように言う岸辺ちゃんが可愛かったので今日の所はこれまでにする
それ以前に、俺はお礼をしなければいけない立場なのでからかうのはここまでにしておく、と言うかからかうべきでは無かったのだろうけど
店員に取り敢えず生、と注文だけをして岸辺ちゃんを見る
こうして当たり前の様に受け入れられるのも、なんだか見慣れた光景になったな、何て思いながら
「岸辺ちゃん」
『はい?』
「この前はありがとう、正直助かりました」
『…あぁ、あれは私も少し調子に乗ったと言いますか…』
「でもまぁ、仕掛けたのは俺だしね」
『楽しかったので私は特に気にしていませんよ
勝手に萩原さんのテリトリーに踏み入ってしまったので、気を悪くさせていないか、だけは少々心配でしたが』
「なんでそんな低姿勢なの、岸辺ちゃん」
俺が笑えばそれに釣られて岸辺ちゃんも笑う
これ以上俺が気にしないように、と言う岸辺ちゃんの気遣いだろうから、有り難く受け入れて
先程冗談交じりに言われた、会計については持つつもりでは居るけれど
「そう言えば」
暫く会っていなかった間の事を話して、一段落付いた時
ふと思い出したのは調べてみればいいと言われた何かについて
すっかり忘れていたその話題を持ち出すと、少しだけ気まずそうな顔をする
なんて事無いように言われた様だったので聞いてもいいと思って居たのでそんな顔をされるとは思って居なかった
そう言った旨を伝え、言いたくないのならそれでもいいと言えば
『酔った勢いで言うのと、素面で言うのは何か違うというか…
女々しいと言うか、気障なことをしてしまったような…』
などと言われ、渋っている理由を俺なりに分析してみる
と言うか、何となく分かった
「カクテル言葉だ?」
『…うん、まぁ、はい
それを聞くって言うことは、何のカクテル飲んだかは覚えてないんですか?』
「ジンの何か、を飲んだことは覚えてるんだけど」
『一応先に弁明しておきますけど、先に言った2つはカクテル言葉意識してなかったですからね
ジンでアルコール度数が高めのものをピックアップしただけで』
「うんうん、言ってみ?」
『…イラッとしたので教えません』
「え、ごめん!」
つい、とそっぽを向いた岸辺ちゃんに慌てて謝る
珍しく劣勢な姿に、ついついからかいすぎてしまったようだ
けれどもう教えてくれる気は無くなったらしく、適当に調べたらすぐ出ますよ、なんてつっけんどんに返される
これはまずったかもしれない、と焦る俺とは裏腹に聞こえる笑い声
『怒ってないですけど、教えはしませんよ』
そう言って悪戯に笑うもんだから、降参だ、とこちらは肩を竦める
そうすると先程の不機嫌は演技だったのだと思えるほどけろっとした様子でグラスを口に運ぶ
なんだか初めて岸辺ちゃんの素を見た気がして、また機会を見て聞いてみようと大人しく引き下がる
それにしても…
「岸辺ちゃんって、泥酔したことってあるの?」
『ないですね』
「間髪入れず
前にストレス発散のために飲みに来たって言ってたよね?
酔えないのにストレス発散になるの?」
『酔えないわけでは無いですよ、現に前は酔って思考能力奪われてましたし
それにお酒に溺れて発散って健全じゃないでしょ?酒は飲んでも呑まれるな
ふわふわして楽しくなって、好きな組み合わせを見つけてってするのは楽しいので、十分ストレス発散になってますよ
気分転換とも言うのかもしれないですけど』
「なるほど、なんか岸辺ちゃんらしいね」
『そうです?』
「上手いこと自分の中で折り合い付けてんだなー、って感じ」
『折り合い…』
小さく呟いて少し考え込むように顎を撫でる
もしかして、また墓穴でも掘ってしまったのだろうか、と内心ヒヤヒヤしていたのだが
ぱっと顔を上げた岸辺ちゃんの表情は怒っている様子もなく
『よく見てますね、萩原さん』
「岸辺ちゃんもでしょ」
『お巡りさんには負けますよ』
「看護師さんだって凄いと思うけど」
なんてクスクス笑う
お互い頼んでいたものが全てなくなって、キリがいいとお互い思ったのか自然と席を立つ
最初決めていたように支払うと、最初は難色を示していたのだが、男の面目を守ってくれたらしい、思って居たより簡単に引き下がってくれた
そして、次は私が奢りますね、何て相手が不快に思わないような一言を添えるもんだから、この子はモテるだろうなぁ、何てぼんやりと思う
今日はお互いそのまま解散、となる流れとなったので駅まで一緒に向かう
最寄り駅からほど近い場所に住んでいると言うことで、家まで送っていったことは無いが、電車を利用することは一緒なのでいつもの流れだ
そうして駅に着き、それぞれ利用する路線へ行こうとなったとき
「あ、そうだ」
『どうかされました?』
「連絡先、そろそろ交換しようよ」
『…あぁ、そう言えばしてませんでしたね』
「忘れてたの?」
『連絡不精なもので、誰かと頻回にメッセージを交わすことも無いもので』
「それ、俺にも連絡しないって言ってる?」
『貰ったら返しますよ』
「しないんだね…
九条ちゃんとの奴も全然動いてないんだろうな…」
『業務連絡ならありますが』
「業務連絡」
『文字をね、打つのが面倒臭いんです
長くなるなら電話の方がいい』
「…、それ、昔誰かも言ってたなぁ」
『さゆですかね』
「そうだね、九条ちゃんだわ」
何て少し遠い目をしてみると、目の前の岸辺ちゃんはくすくす、と笑う
意外と似たもの同士だったんだね、2人
そりゃ友人と言える位の関係にもなれるよ
そんなやり取りを交わし連絡先を交換して今度こそ解散
その後宣言通り岸辺ちゃんからは必要事項以外の連絡は来ないが、こちらが送れば下らない内容でもちゃんと返事が来るのでぽつぽつとやり取りは続いている
連絡先を交換したお陰で、会う回数も以前より増えた
すれ違いが無くなったことが大きいだろう
そして、会うのはあの居酒屋では無くバーになることが増えた
食事が終わって居ないのなら居酒屋、食事は終わっているがお酒を飲みたいときはバー、と言う感じに
完全に飲み友達、と言う関係になったんだな、なんて思う
『え、あの天パの人さゆが好きなんです?』
「そうだよ、知らなかったの?
じんぺーちゃん一途だから高校の頃から九条ちゃん一筋」
『さゆとは恋バナとかしないし、さゆって自分のこと話さないから…
にしてもだいぶ長い片思いですね、告白はしてないんです?』
「してるし、今も絶賛アピール中」
『フラれてるのに?』
「と言うか、うーん、26歳になる年の11月7日を過ぎないと付き合えない、って言われてるんだよね」
『それは何というか、随分具体的なフり方ですね…?』
「それについては、何というか、うん、あれなんだけど」
『…思い当たる節はあるけど自分の口からは語れない、と』
「…うん、まぁ、そう言う事なんだけど、正確に読み取ったね、今ので」
『何となく』
そう言えば最近さゆと勤務が被ると、いつも前見かけた天パが迎えに来てるんですけど、何か知ってます?
そんな岸辺ちゃんからの問いから始まった恋バナ(当事者はここに居ないが)
随分濁した俺の返答に、相変わらず彼女は深く聞かずふーん、と軽く流す
あんなイケメン手玉に取ってるとは流石さゆ、なんて笑っていて
多分、こう言う距離感が心地よくて九条ちゃんも一緒に居る事を選んだのだろう
なんて頭では思いながら、今度はお互いの恋愛事情について話が移り変わる
とは言ってもお互いそう言った対象が居らず、そこまで盛り上がらなかったのだが
お互いがお互いを褒めて、謙遜して、笑う
そしてそう言えば、といった感じで今度は岸辺ちゃんの家族の話になる
近日めでたく岸辺ちゃんのお兄さんが結婚するらしい
「へぇ、それはおめでたいね」
『あの自由奔放な兄の首根っこを捕まえてくれる人が見つかってよかったです』
「自由人なんだ?」
『えぇ、昔から
やりたいことに一直線な、まぁ良いように言えば真っ直ぐな熱い人だったんですよね』
「それは…、何というか正反対?」
『私の家母子家庭なので、私がしっかりせねば、と』
「と言う事には下にも?」
『弟2人と妹2人、因みに妹は双子』
「わぉ、大家族」
『父は私が6つの頃、一番下が産まれてすぐ病死して
私も幼いながらに頑張らねば、と』
「お姉ちゃん強い」
『そうですよ、守るものがある人間は強いんです』
なんて少し冗談めかして笑う
けど、それは正にその通りだと思う
何かのために、誰かのために、と動ける人間というのは強いもので
当たり前の様に人を受け入れてしまうようなこの包容力は、そういった所から生まれたのか
『萩原さんもお兄さん?』
「そうだよ、妹が1人」
『やっぱり、甘やかし上手だと思った』
「岸辺ちゃんはなかなか甘やかされてくれないけどね?」
『そりゃお姉ちゃんですから』
「妹でもあるのに?」
『あれは弟みたいなものです』
「酷い言われようだなー」
当たり前の様に人を甘やかして、一体彼女は誰に甘えるのだろうか
そんな疑問がふと頭に過ぎったけれど、口には出さず
そうして夜は更けていく
いたずらっぽく笑う声
(少しずつ見える君、ホントの姿はいつ見せてくれるの?)