┋灰谷 竜胆┋夢
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自分を大切にできない彼女と、それごと含めて好きでいる竜胆くんの話です
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「あ、ナマエちゃん。悪いけどこれ裏の倉庫から持ってきといて」
社員さんのその声に、申しわけなさなんて一欠片も混じっていなかった。もうとっくに退勤時間は過ぎていて、外はどんどん暗くなっているのに。私が断らないことを知っているから、当然のように重たい仕事を置いていく。
ずきずきと疼く右手の指は青白く腫れていて、思うように力がはいらない。数日前、スタッフの子が落としそうになった重い荷物をとっさに支えて、指をひどく捻ってしまったばかりだった。
倉庫のすみに積まれた大きな油の缶。そのひとつを抱えようとして、両手にぐっと力を込める。それにともなってずきん、と指の痛みがはしり、握る力が抜けてしまう。大きな缶が腕からすべり落ち、壊してはいけない、と私はすかさず足を前に出してしまった。
「いっ……!!」
重力に倣ったそれは、がこん、と重量のある音を立てて足の甲を直撃した。電流が走るような痛みが広がり、唇を噛んでしゃがみこむ。
ずきん、ずきん。
足の痛みに合わせて、突き指した指先までじくじくと疼きがぶり返す。暗い倉庫のなかで震える吐息をこぼしながら、それでも、缶が破れて中身が漏れださなくてよかった、と。それだけを考えて私は無理やりまた身体を起こした。
「なんかすごい音しなかった?」
戻ると、社員さんが顔だけを上げて聞いてくる。
「すみません、一回持ちあげたときに手が滑っちゃって。でも大丈夫です」
うわずった声でついた嘘を、誰もなにも疑わない。やり残した仕事を片付けてやっとタイムカードをきったときには、もう規定の時間を一時間ちかく過ぎていた。「いやー、新しい子がすぐにやめちゃうからさ」なんて、謝られもしない店長の愚痴に、ただ小さくうなずいて店を出た。
自分が大切にされていないことなんてとっくに知っている。誰かが困るくらいなら、私が少しだけ歩きにくくなる方がずっと効率がいい。
世の中には、自分が我慢するだけでうまくいくようなことがいくつもあると思う。それは不幸なアピールでもなんでもなくて、私の観測上の話で。
でも、竜胆くんは違う。彼は私が自分のことを「どうでもいい人間」として扱うことを許してくれない。
「お疲れ。……やっと帰ってきた」
やっとの思いで帰宅した家の中は、大好きなひとの落ち着く匂いがする。玄関の明かりのした、竜胆くんが少しだけ眉を寄せて待っていた。
「ただいま。遅くなっちゃってごめんね」
「おかえり。あの店、またお前にばっか仕事押し付けたのかよ」
竜胆くんの低い声はいつだって私の味方をしてくれる。怒るのは断れなかった私に対してではなく、私を雑にあつかう世界に対して。
「……んーん。私が、やりますって言ったから。ごはんすぐ作るね」
足の甲のことなんて今の私の優先順位には一ミリも入っていなかった。待たせてしまった申し訳なさだけで靴を脱ごうとするけれど、突き指のせいでうまく力がはいらない。指先が空を切って身体がかたむいた瞬間、衝撃がくるよりも先に、竜胆くんの腕が私の身体を横からかっさらった。
「わ、あ、びっくりした……ごめんね」
宙に浮いた身体を預けながら、なんでもないような笑顔をつくる。けれど竜胆くんは私のそんな表情なんて少しも見ていなかった。鋭い視線は不自然にこわばった私の足元に突きささっていて、私はあわてて言葉を繋ぐ。
「お腹すいてるよね? パスタならすぐ作れるんだけど嫌かな」
一刻もはやく自分への注目を逸らしたかった。はやく竜胆くんが美味しいものをたべて、笑ってくれればそれでよかった。
「メシの話なんかしてねーよ。それ、足見せて」
有無を言わせない力加減で私を玄関の段差に座らせ、竜胆くんは迷いなく床にひざをつく。高級なスラックスが汚れることなんて気にもとめずに厭わない動作が、いまの私にはいたたまれなくなる。
「あ、いいの、自分で脱げるから……っ」
「いいから。じっとしてろ」
伸ばした手が片手でやわらかく制される。私の腰を支えて安定させると、抵抗する隙も与えずに靴下に指をかけられた。布地が肌をすべるわずかな摩擦さえ痛いはずなのに、触れ方があまりにやさしくて、痛みよりさきに涙が滲みそうになる。
「ごめん、ちょっとぶつけちゃったの」
ゆっくりと剥きだしにされた足の甲は、目もあてられないほど毒々しい滅紫にひどく腫れあがっている。それを見た竜胆くんの喉が苦しそうに、いちど大きく鳴った。
「……これのどこが『ちょっと』なんだよ」
とりあえず冷やさねーと。動くなよ。そう言い残して竜胆くんがキッチンへ向かう。その間、私はぼんやりと玄関の壁を見つめていた。
指に力がはいりにくいことなんてわかっていた。あんな重たいものを持てば、手が滑ってこうなることだって予測できたはずなのに。
それでも、もしもう一度あの場面に戻ったとしても私はきっと同じことをするんだろう。後悔するどころか、心のどこかでは「明日、ちゃんと歩けるかな」なんて実務的なことばかり考えている自分が、たまらなくおろかで、救いようがない。
しばらくして戻ってきた彼の手には、薄いタオルに包まれた氷嚢が握られている。
「冷てーけど我慢して」
腫れあがった熱に、痛いほどの冷たさが重なる。これは一度きりのことじゃない。数日前の突き指のときも、彼はこうして氷をあててくれた。
「なんでこんな怪我したんだよ」
竜胆くんは私の足を自分の膝に乗せたまま固定して、私の顔をまっすぐに見あげる。言い逃れもできなくて、私は今日のできごとをぽつりぽつりと説明した。
「……油の缶を、落としそうになっちゃって。……大きな音がしたら大変だし、壊しちゃいけないと思って、とっさに足を……」
それを聞いた竜胆くんはすこしの間、絶望したような顔をしていた。
「お前さ、自分のことなんだと思ってんの。道具か何かだと思ってんの?」
突き放すような言葉なのに、私の足を支える手のひらはとろけるようにあたたかい。自分のこと。私は、私をなんだと思っているんだろう。
なにも言葉を発せない私の腫れた指を、竜胆くんがそっとにぎった。私の目を見つめる紫の瞳が訴えるように震えている。
「俺は今怒ってるし、呆れてんだよ。こんな指のお前に危ねぇことさせて、時間過ぎても平気で仕事押しつけるその店にも。そんな所に気ぃ使って、怪我までして帰ってきたナマエにも」
怒られているのに、その裏側には私を救おうとする圧倒的な愛があるのを感じて、頭がふわふわと霞んでしまう。
自分が否定の意見を持たないだけで、周りは平穏にまわっていく。その観測結果を信じて生きてきた私にとって、竜胆くんの存在はいつだって計算ちがいの連続だった。彼は私が自分を適当に扱うことにだれよりも憤って、だれよりも傷ついた顔をする。
「この間言ったよな。お前を縛りたくねーからバイトだって許した。けど、それはお前が笑って帰ってくるのが前提なんだよって」
竜胆くんには、私ひとりを養って余りあるほどのお金がある。それでも私が申し訳ないからと、おねがいを言って始めたアルバイトだった。彼は私の自由を奪うのを嫌って認めてくれたけれど、この間の突き指が決定打となって「次も同じようなことがおきたら最後」とふたりの中で決めたのだった。
「……約束、してたもんね。ごめんね、竜胆くん」
ようやく絞りだした言葉に、彼は私の頭を大きな手でなでて応える。
冷やし終えて熱が少し引くと、竜胆くんは「今日はもう動くな」と私をソファに固定して、手早く出前をたのんでくれた。届いた食事を囲んでいるあいだも私は落ち込んだままだったけれど、竜胆くんはそれ以上私を責めることはしなかった。それどころか、私が好きな具材を取り皿にすっと移してくれたりして。
「え、いいの?」
「遠慮すんの禁止。余計なこと考えんのも」
私が聞き返す隙もあたえないように、つぎからつぎへと美味しいものが小皿に並んでいく。
「ナマエは今、俺が選んだもんを美味そうに食って笑ってりゃいいの。わかった?」
呆れたような、でも底なしに甘いその声に、私はひとくち彼が選んでくれたエビを口に運んだ。お兄ちゃんばかりが優先される食卓や、お母さんの機嫌をうかがって味のしなかった食事。そんな記憶の景色は嘘みたいに書きかえられていく。
「……、おいしい」
「だろ。こっちのソースつけてみる?」
誰かにここまで至れり尽くせりされるのはなんだか落ち着かなくて、くすぐったい。でも竜胆くんが私のために動いてくれる一挙一動には迷いがなくて、いつの間にか甘えることをゆるされてしまう。
食後にテレビをつけてとりとめのないバラエティ番組を眺めているうちに、部屋の空気はいつも通りのおだやかさを取り戻していた。
「あはは、竜胆くん見て。あの芸人さんほんとおもしろい」
「んー。さっきまであんな凹んでたのに、立ち直りはや」
「お笑いのパワーはすごいんだよ」
「あーあ、俺は芸人に負けたのかぁ」
口では毒づきながらも、目元はやわらかく緩んでいた。可笑しくなってふたりで顔を見合わせて笑う。
こうしてたのしく会話を重ねられる時間が、私にとってどれほど贅沢なものなのか。竜胆くんにそれをどう伝えたら、全部わかってくれるんだろう。
本当はお風呂も一緒に入りたかったけれど、今日もどうしても叶わなくて。別々に済ませて湯気と一緒に戻ってくると、竜胆くんはすでに救急箱を傍らに置いてソファでまっていた。
「ナマエ、こっち」
呼ばれるままに隣に座ると、竜胆くんが手際よく私の足の甲を手当てしていく。
「明日は絶対安静だからな。キッチン立つのもだめ。俺が全部やるから」
「……ほんとに、ごめんね」
白い包帯が、私の打撲痕をかくすようにして幾重にもかさなっていく。一巻きごとが慎重で、彼の真剣な表情をみるたび心のどこかが苦しくなった。
部屋の明かりをけして布団にもぐり込んだとき、竜胆くんがおやすみの前に言った。
「自分のこと、ちゃんと大事にしろよ」
そうやって生きてくのが当たり前だったから。我慢をするだけで、波風が立たないから。
自分を大事に。それってどうやるの。
自分を優先したら、周りにはどんないいことがあるの。
ほんとうは嫌だと言いたかった。
ほんとうは、私のことをちゃんと見てほしかった。
自分の意思がはっきりあったころ、それを出すことも許されないような気がして、出口のない苦しさを自分の身体に向かって発散させていた。痛いのに、痛いと感じることで安心した。
もし傷跡がなかったら、夏には水着を着ていっしょに海にいけたんだと思う。お風呂だって毎日いっしょに入って、大好きな竜胆くんともっと近くで笑い合えたかもしれないのに。
深い海の底に沈んでいくような、暗い眠りだった。夢のなかでも私は自分を責め続けていた。どうしてこんな傷を作ってしまったの。どうして自分を大切にしなかったの。そうすれば今、あたりまえの「恋人らしいこと」を、後ろめたさもなく楽しめていたのに。
自業自得だ。私の未来を狭めたのはほかでもない私なのだから。
──ふいに、冷たい夜気が肌をなでた。
あつい。足の甲が、包帯のなかでどくどくと脈を打っている。
嫌な予感がして、まどろみのなかで薄く目を開けた。
月明かりが差しこんだベッドのうえで、重たかった布団が私の身体から静かにめくられている。そして、二の腕を覆っていたはずの、うすいカーディガンの感覚が消えている。
はっとして、声が出なかった。ベッドの横に座り込んだ竜胆くんが、私の腕の白い線を確かめるように指先でなでていたから。
「……みないで、」
かすれた声がこぼれ、全身から血の気が引いていく。見ないで、お願い。こんなもの、見せたくなかった。
私が起きたことに気づいたのか、竜胆くんの動きが一瞬とまる。それでも手は離れなかった。見ないで、と顔をそむける私の腕を、竜胆くんは逃がさないようにそっと力をこめて引き寄せた。
見られるのが怖いから、ずっと隠していたかった。私の内側のことも、わざと自分を傷つけていたなんて歪な価値観も。
でも本当の恐怖はそこじゃない。こんな子だとは思わなかったって、彼が私から離れていってしまうこと。
きらわないで、竜胆くん。私のとなりにいて。パニックになった思考のいちばん奥で、捨てきれなかった願いが涙となって枕を濡らしていく。
「ナマエ、こっちむいて」
ふるえる私の肩を大きな手が包み込む。拒絶されるのを恐れて固く目をつむった頬に、あつい吐息が触れた。そのまま、視界が彼の広い胸板でいっぱいになる。
「勝手に見て、ごめん。気づいてた。ナマエが必死に隠したがってることも、全部」
責められたら、蔑まれたら、そう思っていた。彼はとっくに、私の醜さも弱さも全部知ったうえで、そばにいてくれたんだ。
「……ごめん、ね、……ごめん、なさい……っ」
どうしてか、謝罪の言葉ばかりがあふれて止まらない。こんな身体でごめんなさい。隠し事をしていてごめんなさい。ぐしゃぐしゃに泣きじゃくる私の頭を、彼はあやすように何度も何度も撫でてくれる。
「自分を、だいじにするって、どうやるのかわからなくて」
その言葉の定義が、私にはどうしても理解できなかった。私が少しくらい傷ついたところで世界は何も変わらない、変わってくれないはずだ。竜胆くんはすこしだけ身体を離し、私の顔を覗きこむ。
「ナマエはさ、俺のこと大切って思ってる?」
突拍子もない問いかけに、私は泣いたままこくりと大きくうなずいた。大切なんて言葉じゃ足りないくらい、私が生きていけるすべてなのに。
「ナマエが自分を大切にするってのは、俺を大切にするってことと同じなんだよ。お前が痛いと俺も痛いし、お前が自分を傷つけたら、俺も傷つくの」
腕の白い傷あとが並ぶ場所に、竜胆くんは祈るように唇を落とした。
「けどさ、自分を大切にできないナマエも、俺は大切にしたいよ。そうするやり方が分からないお前も、したいのに出来ないお前も、俺はずっと好きだから」
暗闇のなかで交わされる言葉は、まるでお互いの魂をつなぎとめる誓いのようだった。竜胆くんは私の頬を包みこんで、ぽろぽろこぼれる涙を親指でぬぐってくれる。
「……でも、もしナマエが自分を今よりすこしでも尊重できるようになってくれたら、そんときはちょっとだけ。もっと、好きになっちゃうかもな」
茶目っ気のある、でもどこまでも切実な声。
竜胆くんがくれたのは、自分を苦しめる必要なんてどこにもないような肯定だった。私ですら投げだしたくなるこの身体を、彼はこんなにも大切に、誰よりも特別な宝物みたいに扱ってくれる。
名前をよんで好きだよといえば、俺は愛してると返してくれるひとがいる。それは何よりも自分を大切にしようと思える強い契機だったのに、どうして気がつかなかったんだろう。
価値を他人任せに生きていた浅はかな自分が、一瞬だけひどく嫌になった。けれど、そんな私さえも愛してると言ってくれる彼の腕の中にいると、少しだけ愛おしいもののようにも思える。
自分の欠けているところや好きになれないところだって、それは愛されるために必要で、尊いものだったのに。
すべてをあばいて受けとめてくれた彼を、竜胆くんを好きになった私の心を、ずっと大切にしていたい。
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