落第人生、転落忍生
長次の場合
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《中在家長次の気遣い》
中在家長次には前世の記憶があった。
彼はその事実を喜びもせず嘆きもせず静かに受け入れていた。
彼の隣には、七松小平太がいた。
その事実は彼にとって当たり前の事であって、同時にありがたい奇跡であった。それを自覚し、日々誠実に生きていた。
小平太には愛する人がいた。
必死にその人を探す小平太を彼はいつも気遣った。
彼は読書好きが高じて古書店を営むことになった。豪傑すぎて現代社会に適合できない小平太を気遣い、従業員として雇った。
彼が23歳になる頃、孤児院で暮らす少女、きりと出会った。
そう、彼女はかつて忍術学園で同じ図書委員会に所属していた、きり丸だった。
行く場所が無い彼女を気遣い、彼はきりを養子として迎え入れた。
小平太にも、きりにも愛する存在がいて、その相手を想って顔を曇らせることが多々ある。
その度に彼は静かに支えた。
そして、彼はついに古書店の傍ら情報屋を開くことに決めた。
「情報屋を始めようと思う」
「わかった。手伝えばいいんだな!」
彼の言葉に小平太はドンと己の胸を叩く。
小平太の事だ、何を手伝えばいいかさっぱりわかっていないだろう。けれども、それで良い。
彼の目的は別にある。
「…情報を扱っていれば…いつかきっと滝夜叉丸に辿り着く」
「……」
続いた彼の言葉に小平太は上手く返事が出来なかった。
細かいことは気にしないはずの小平太が、喉の奥に何かをひっかけている。
「…長次には、敵わんなぁ…」
そう言って小平太は困ったように笑った。
彼はいつだって、小平太を気遣っていた。
「……初めまして。平滝夜叉姫と申します。竹谷先輩と同じ、警備官をしております。」
その言葉は、明らかに小平太の心臓を抉った。
そして、それを見ていた彼の心臓も。
「良い加減にしろ滝!!」
「やめてください!」
ぴしゃり、と小平太の頬が打たれた。
飛び出して行った彼女を追うことなく、呆然と立ち尽くす小平太。
「たき…」
うわごとのようにその名を口にした。
頬を伝って雫が落ちる。
その刹那
獣の咆哮のような叫び声をあげ、小平太が暴れだす。
古書修繕用の道具が入った箱を蹴散らし、柱に腕を打ち付ける。
その目は完全に理性を失っていて、何度も本棚に突進している。本の重みで棚はビクともしないが、小平太の身体には痛々しい痣ができてしまっていた。
獣の咆哮だと思っていたのは、小平太の慟哭だった。止めどなく涙を流しながら叫んでいる。何度も咳き込み、声は枯れてしまっていた。
「小平太」
彼は小平太を思い切り殴りつけ気絶させた。
それはこれ以上小平太自身を傷つけないための気遣いだった。
暴れないように腕を縛り、叫ばないように手ぬぐいを口に詰めた。
小平太が目を覚ましたのは、夜だった。
「気がついたか小平太。」
彼の声に小平太が視線をそちらへ寄越す。
「長次…」
「……」
消え入りそうな声で小平太がそう言えば、彼は側に寄ってゆっくりと座る。
「…私は諦めないぞ」
小平太の言葉に彼は静かに頷く。
「滝の事は、細かいことじゃない」
「……」
「細かいことじゃないんだ」
「………」
月が沈むまで、彼は小平太の側を離れなかった。
それから暫くして、きりが古書店で働きたいと言い出した。
もう、きりも立派な大人だ。彼はきりの選択を受け入れた。
きりが、諜報員として働くと言った時も、同じだった。
彼は、きりの心を尊重した。
こうして、きりが情報収集し、彼がそれを取り引きするという体制が整った。
小平太は用心棒だ。裏通りの人間は血の気の多い者もいるから、それなりに出番がある。
情報屋稼業は順調だった。
しかし、小平太ときりは時々顔を曇らせる。気掛かりなことがあるのだろう。
滝夜叉丸と半助。愛しているからこそ、心を蝕む。
そんな二人を、彼はいつも気遣っていた。
何か言葉をかけるでもなく、ただ静かに耳を傾け、受け入れた。
静かな古書店はいつでも温かい。
それは店主の人柄なのだろう。
だからこそ小平太も、きりも、救われているのだろう。
そして、滝夜叉丸も。
彼女が店を飛び出してから数ヶ月がたったころ、滝夜叉丸は古書店を訪れた。その日から滝夜叉丸と小平太のわだかまりは少しずつ解け、彼女はこの“古書店”の常連となった。
店先の桜が開花の準備を進めている季節のことだった。
その一年後から、物語は始まる。