短編
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私には、鳳長太郎という幼なじみがいる。家がお隣でお父さん同士が仕事仲間だったから、生まれたときから家族ぐるみでずっと仲が良かった。
それもあってか、私の記憶のなかでもアルバムの写真のなかでも、隣を見ればいつでも長太郎がいる、そんな日々を送ってきた。
氷帝に入学して、中等部に進級して。これからも今までと変わらずに、授業が終わったら待ち合わせをして、二人で並んで帰宅する生活が続くのかなあと思っていたのだけれど。
「ごめんね、詩織ちゃん。部活終わったあとにミーティングがあるらしくて……今日も一緒に帰れなさそう」
そう、最近長太郎と一緒に帰る機会がぐんと減ったのだ。
つい先月、長太郎はテニス部の正レギュラーとなった。中等部になってから未経験の状態で入部して、約二百名いる他の部員を押し退けて正レギュラーなれるなんてそれはとてもおめでたいことだし、聞いたときは本当に嬉しかったのだけれど、それに比例して、長太郎が部活にかける時間がどんどん増えていったのだ。
仕方がないこと、私が口出しすることじゃないことは頭では理解しているのだけど、言葉に言い表せない感情が私の心を曇らせた。
でも、一緒に帰れないと判明するとご飯も食べずに真っ先に私の所へ来て、申し訳なさそうな顔をする長太郎に私の自分勝手な考えをぶつけるわけにはいかない。
「大会近いし仕方ないって。だからさ、その分練習頑張ってね。応援してる」
大会を控えていつも以上に繊細になってる長太郎に迷惑や心配を掛けたくなくて。気持ちとは裏腹に明るく笑顔で返答すると、長太郎は微笑みを溢し、落ち着いたらまた一緒に帰りたいと言い、自分の教室へと戻っていった。
数日後の昼休み、昼ご飯を食べ終わって教室でぼんやりしていたら、長太郎が一緒に帰れる!と報告しに来た。
どうやら今日は関東大会前最後のリフレッシュ期間として、跡部先輩と監督さんが放課後を丸々オフにすると取り決めたらしい。「じゃあいつも通り、放課後階段前で待ち合わせだね。待ってるから!」と約束を早口で取り決めると、満面の笑みのまま自分のクラスへ戻っていった。
(あんなに笑ってる長太郎、久しぶりに見たなあ)
何だかんだで顔を合わせる機会はめっきり減ってしまっていたから、私が見る長太郎は、謝りに来るしゅんとした顔ばかりだった。悲しい顔よりは、笑ってる顔の方が見ていて気分がいいし、どちらかといえば好きだなあと思う。
……何でだろう、長太郎の笑顔を見てから心が落ち着かない。浮き足立った気持ちを人に悟られたくない思った私は、力を込めて顔を叩く。ぺちんと小さく音が鳴り響き、クラスメートが数名こちらを振り向いた。
ああ、恥ずかしい。取り繕うように、私は彼女らに向けてはにかんだ。
「ーーでね、そこで宍戸さんが助けてくれたんだ!俺、本当に嬉しくて」
「この前の部活中に宍戸さんのキャップが反対になっててね。日吉とアレって言った方がいいのかな?ってずっと話してたんだけどね……」
「…………」
授業が終わり、約束した通り私と長太郎は待ち合わせ場所で落ち合って一緒に帰路を辿っているのだが。
(何か……何だろう、モヤモヤする)
口を開けば宍戸さん、宍戸さんって。長太郎のダブルスパートナーである先輩ということは知ってる。耳にタコができるくらい聞いていたから。話を聞いているだけでも、すごく優しくて頼り甲斐のある人で、長太郎が尊敬しているということも分かる。
でも、折角久し振りにこうして二人で帰れてるんだから、たまにはテニスの事を忘れて、いつも通り取り留めのない話をしたいのに。最近のフォルの話とか、今年の夏休み、家族旅行どこに行くかとか話したいことはいっぱいあるのに!
私の知らない長太郎が増えたみたいで、嫌だ。そんな態度を丸出しで話を聞いてるのに気づいていないのか、長太郎は楽しそうにペラペラ話を続けている。
「わ、もう家着いちゃったね。早いなあ」
「そうだね……」
「……?もしかして詩織ちゃん、体調悪い?そういえば、さっきまで俺ばっか話してたよね。ごめん、気づいてあげられなくて」
(ああ、もう。そうじゃないんだってば……!)
長太郎は悪くないのに、ハッキリ言えない私が悪いのに。多分このまま一緒にいたら、八つ当たりしてしまう。そう思った私は適当な方便を使い、長太郎と別れた。
「ああ~……!!」
自分の部屋に入った瞬間、一気に気が抜けてベッドに倒れ込んでしまった。長太郎、別れる前すごく心配そうな顔してこっちを見てたなあ。試合頑張ってとか、気の利いたことも言えなくて。
「ダメダメだよ、こんなんじゃ……」
何時間そのままの状態でいたのだろう。ベッドに突っ伏したままでいたら、急にスマホから音が鳴り響いた。誰だろう、お母さん?友達?名前だけ確認しようと横に立て掛けておいたバッグを漁って画面を見てみると、そこには「長太郎」と表示されていた。
『詩織ちゃん、もう体調は良くなった?
すぐに気づいて早めに家に返してあげられたらよかったんだけど、久しぶりに一緒に帰れたから嬉しくなっちゃって全然周りが見えてなかった。本当にごめん、今日は早めに寝てね。
明日は無理して学校来たりとかしちゃダメだよ。
あと、こんなときに言うのも何なんだけど、さっき伝えられなかったからここに書いちゃうね。昨日、関東大会一回戦の日にちが決まったんだ。十九日の日曜日に○○庭球場の六番コートで開催されることになった。
俺頑張るから。もしその日、予定がないなら詩織ちゃんにも観に来てほしいな』
「長太郎……」
長太郎は、変わっていなかった。私の勘違いだ。彼は今までと全く同じ、優しい男の子だった。
画面越しに与えられた優しい言葉が心地よくて、愛おしくなって画面を指の腹で擦る。
「……応援、絶対行こう」
むくりと起き上がって、壁掛けカレンダーの十九日に、大きな赤丸を書いた。『ありがとう、応援行くね』と返信もした。
長太郎たちならきっと勝てる。あんなに毎日頑張ってたもん。
明日、学園で会ったら今日のこと謝ろう。そんなことを考えながらシャワーを浴びるために、浴室へと向かった。
時は過ぎて、開催された関東大会、私は長太郎のご家族と一緒に観戦した。ーー氷帝学園は青春学園との拮抗した試合の末、一回戦敗退という結果に終わった。
氷帝コールが鳴り止まない中、正レギュラーたちは観客席に礼をすると、そのまま待機のバスへと戻っていった。長太郎の顔は見れなかったけど、涙を流してはいなかったとおばさんは言っていた。
お疲れ様、ずっと見てたよ。格好良かったよ、スカッドサーブ、凄かった。ーー言いたいことはいっぱいあったけど、無理だった。長太郎の頑張りが勝利という形で報われなかったのが悲しい上に、今彼と向かい合って口を開いたら、私の方が泣いてしまいそうなのが嫌で。
結局、私はその日長太郎とは一切話すことなく帰宅した。寝る前にメッセージを送ろうかと思ったけど、止めておいた。
敗退してナイーブになってるかもしれないし、負担を掛けたくない。本当はすぐにでも家を飛び出して、会って話して、思い切り慰めてあげたいのに、長太郎の気持ちを知るということが物凄く怖いと感じている私がいた。
「……」
悩んだ末、私はメッセージアプリで、長太郎とのトーク通知をオフにした。このモヤモヤが晴れるまでは、端末上で会話するのは避けたかったからだ。
そして次の日の全校集会で、テニス部の戦績発表が行われた。改めて敗退してしまったという事実を突きつけられたような気がしたが、壇上に立つ正レギュラーの面持ちは皆凛としていて、体育館内は拍手喝采に包まれた。
昼休み、音楽の授業が終わって友人と自分の教室へ帰る途中、C組の前を通った。チラリと中を覗くと、長太郎がクラスメートに囲まれている姿が見えた。
「ぁ、」
話の内容までは聞こえなかったけど、多分試合のことについて色々聞かれてるんだと思う。
注視してみると頬を赤くした、私のクラスでもよく可愛いって噂されている女の子もその中にいた。
(ーーあの子もしかして、好きなのかな。長太郎のこと)
そんな考えが脳裏を過ったあと、ハッとした。
どうしてそんなこと、私が考えているんだろう。まずあの子が本当に長太郎のことを好きかどうかなんて分からないし、私が気にすることでもないはずなのに。
……何か最近長太郎のこと考えると、思考が変な方向に飛びっぱなしだ。
C組の前でピタリと足を止めた私を不審に思ったのか、友人が怪訝な顔をして振り返ってきた。
「詩織ー、どしたの?早くご飯食べに行こーよ」
「…………」
「詩織?」
「私、どっか変なのかな……」
「ええ……いきなり何?」
長太郎のことを考えるだけで頭の中が熱くなって、胸がぎゅっとされるような感覚に襲われる。友人の問いかけにも答えずにフラフラと教室へと向かう私を、長太郎がじっと見つめていたことは、誰も気がついていなかった。
「詩織ちゃん、今日は放課後大丈夫?一緒に帰りたいな」
学校にいたらまたモヤモヤが大きくなってしまいそうだから、さっさと帰ろうと思って教室から出ると、悩みの種である長太郎が渡り廊下で待ち構えていた。
「ちょ、長太郎……部活は?」
「今日はオフ。一日、自分だけでこれからの練習について考えてきなさいって監督からの課題が出たんだ。だからーー」
「ごめん、私、今日ちょっと用事あるから。一人で帰って」
言葉を断ち切って、そのまま階段へと向かう。じゃあね!と後ろを振り向いて伝えると、長太郎は何が起こったのかまだ理解していないような、すっとんきょうな顔のまま廊下に立ち尽くしていた。
「あぁ……何でこんな……」
やってしまった。私は一人項垂れながら長太郎に見つからないよう、遠回りしてゆっくり歩を進めていた。一緒に帰ろうって誘ってもらえて、すごく嬉しかったのに。どうして長太郎のことを避けちゃうんだろう。自分で自分が分からない。
そのまま歩いていると、道の先にぽつんと駄菓子屋があるのが見えた。もう駄菓子屋なんて何年も入ってない。最後に行ったのは、幼稚舎五年生の時だったっけ……
気分転換したいし、少しだけ寄り道していこうかなとも思ったのだけれど、店から出てきた人物を見て私は即座に電柱の陰に身を隠した。
(あれって、長太郎の先輩!)
ラケットバッグを背負って出てきた二人組。片方は赤髪のおかっぱで小柄な人。もう片方は丸眼鏡を掛けて青髪の知的な印象を受ける長身の人。面識は無いのだけれど、長太郎とテニスを関連付ける人物と鉢合わせしたくなくて隠れてしまった。
(ど……どうしよう。この体勢、めちゃくちゃ不自然だよ!)
とりあえず二人がいなくなるのを待とうと思い電柱にぴったりとくっついていると、何やら世間話をし始めた。
「あ~あ!暑っちい暑っちい!!アイス食わなきゃやってらんねーよ!」
「岳人、ほぼ毎日食ってんなあ。腹下すで」
「夏だからいーんだよ!つーか侑士も早く食えよ!溶けんだろ!」
「はいはい……せや。この前言ってた鳳の話、今どうなっとるん?」
(……長太郎?!)
思わず足に力が入った。ズリ、と砂利の音が鳴ってしまって、気づかれるのを恐れた私は、慌てて再び体勢を立て直した。
「どうだろ、俺もあんま聞いてねえな……最初聞いたときはマジか!って思ったんだよなあ。あー顔見てみてえ!」
「ホンマに。鳳が好きになるくらいやから、きっと外見だけじゃなくて中身も純朴なんやろなぁ」
「なー。今度移動教室中に廊下で会ったら聞いてみっかなあ」
「あんまり驚かせちゃアカンで」
「分かってるっつーの!つーかアイツ、意外と口堅くて何にも喋らねーからな!」
棒アイスを舐めながらそのまま二人は反対方向へ歩いていった。ーー私は、その場に立ち尽くしたまま、コンクリートを見つめていた。
長太郎に、好きな人。
長太郎のこと「を」好きな子がいるってわけではなく、長太郎「の」好きな人を指しているということを理解するのに少々の時間を要した。
じりじりと背後を太陽で灼かれる不快感と、心のモヤモヤの相乗効果で、無意識のうちに私の瞳からは涙が一筋流れていた。
「え、うそ。えぇ……」
気づいたころにはもう遅く、それはぽろぽろと零れ出した。
自分で自分が分からない。何で長太郎に好きな人がいるってだけで、こんなに胸が締め付けられるんだろう。ただの幼なじみ、普通の友達なのに。恋人とか、そういう関係じゃないのに。
「ただの……友達」
ーー私は知らず知らずのうちに、長太郎ともっと深い関係になりたいと思っていたのかもしれない。友達より幼なじみより、もっと近くてもっと一緒にいられる関係。
「わたし……長太郎のこと、好きだったんだぁ……」
自分の気持ちを口に出して反芻してみたら、どっと涙が溢れてきた。好きだ、好きだったんだ。もしかしたら、ずっと前から気づかないふりをしていただけなのかもしれない。
私の知らない長太郎が増えていくのが嫌なのも、一緒に帰れなくなって寂しい気持ちになったのも、笑顔も見ると嬉しい気持ちになっちゃうのも、全部、長太郎のことが好きだったから。
でも、気づくのが遅かった。もう長太郎には好きな人がいるんだ。告白してOKをもらったら、二人は付き合うんだ。長太郎が好きになっちゃうくらいの人なんだから、すっごく優しくてたおやかで、私とは比べ物にならないような女の子なんだろうーー。脳が勝手に妄想を膨らませてしまう。考えれば考えるほど辛くなるのは自分なのに。
もうどうやったって長太郎とずっと一緒にいることは叶わないんだという結論に至ったのは、泣きながら歩き続けて、自分の家についてからだった。
泣き腫らした私を見て家族は皆驚いた顔をしていたし、理由を聞いてきたのだけれど、返事もそぞろにさっさと階段を駆け上って自分の部屋で布団に潜り込んでしまった。
結局、起きてるとまた色々と考えてしまいそうだと思った私はその日は晩ご飯も食べずにシャワーを浴び、さっさと寝ることにした。
午前六時よりちょっと前。いつもより早く目が覚めた私はゆったりと洗面台へ向かった。鏡を見ると、目蓋が真っ赤に腫れている。
「ぁぁ……すっごいぶさいくだあ……」
学校、休みたいなあと思ったけど、昨日の今日で休んだらまた長太郎を心配させてしまうかもしれない。
……こんなときでさえ、長太郎のことを一番に考えてしまう自分の脳を一回思いきりぺちんと叩いてやりたい。少しだけ鏡とにらめっこを繰り広げ、用意した蒸しタオルで顔を温めてから、朝食を摂るためリビングのある一階へと下りた。
昼休み。ご飯を食べた後に教室で机に突っ伏していると、クラスメートの女の子たちが喋ってる声が聞こえてきた。
「ーーでね、二年生の中だったらやっぱり鳳くんが一番格好いいなぁって思う!」
「身長高いし、優しいしね。分かるかも」
「だねー。しかもこの前の関東大会戦、ダブルスで先輩と組んだ試合勝ったらしいよ!サーブめっちゃ速かったって、観戦しに行ったC組の子が言ってた」
……まさか自分のクラスでも長太郎の名前を聞くことになるなんて思ってもみなかった。しかもこの子たちも、長太郎のこと気になってるような素振り。
(ああ、モヤモヤする)
このままの状態でクラスメートの話を盗み聞きすることはあんまりよろしくないと思っているのだけれど、聞かなかったふりをして流せるほど大人な私じゃない。どうしたものかなあと机の板目を薄目で見つめていた。
「そういえば、岬さんって鳳くんと幼なじみなんだよね……ほら、あの席の子!いいなあ」
「岬さん?ああ、確かに。周りの目気にせずに話しかけられるし、幼なじみ特権ってやつ?羨ましいなあ」
『幼なじみ特権』。その単語を耳にしたとき、ぴくりと肩が動いてしまった。
そんな特権はない。確かに今まで長太郎と接するときは異性とか同姓とか、そんなの考えず、遠慮なんて全くしないまま会話してたから端から見たら恋人みたいに見えてた部分もあったのかもしれない。だけど、中途半端に距離が近いから今こうして考えあぐねていることだっていっぱいあるのに。
「……そんなんじゃないよ、私と長太郎は」
蚊の鳴くような声でぽつりと漏れ出した本音は、誰の耳にも届かなかったと思う。
でも、私自身の心は動いた。
長太郎が誰かを好きとか、誰かが長太郎のことを好きとか、考えてモヤモヤする前に。まず自分の気持ちをぶつける。その後のことは考える。不器用で直球な方法だけど、多分これ以外の方法だと私のモヤモヤは晴れない。
言うが早いか、私は起き上がって早足で教室を駆け出した。今日は火曜日。長太郎は、間違いなくあそこにいるはずだ。
「長太郎!!」
バン!と大きな音を立ててドアを開けると、ピアノの鍵盤に手を掛けたまま、目を丸くした長太郎がこちらを見つめてきた。ーーここは音楽室。毎週火曜日、急ぎの用事がないとき、長太郎は中等部に進級してから榊先生から鍵を借りてここでピアノを弾いているのだ。
つい先程までは心が落ち着くようなピアノのメロディが流れていたのに、今はシンと静まり返っている。
「詩織ちゃん……?」
急な来客で演奏を中断されたのにも関わらず、心配そうな顔をして長太郎は近づいてきた。どうしたの、と聞かれる前に私は早口で長太郎の話を遮った。
「長太郎お願い、聞いて。聞くだけ聞いて、私のはなし」
もうどうなったっていい。気まずくなってずっと話せなくなったとしてもいい。一生モヤモヤするよりだったら、全部話してどうにかなっちゃう方が百万倍マシだ。
「私、長太郎のこと好きなの。友達としてじゃなくて、恋愛感情で好き」
顔を見据えてはっきりとゆっくりと、普段より大きな声で伝えた。『好き』という言葉を聞いた瞬間、長太郎はほんの少し目を見開いた。
「長太郎に好きな子が別にいるって知ってる。聞いたから。でも、言わないままにしておけなかった。でも、だからって答えをききたいわけじゃなくて、ただわたしのきもちをしってほし……う、だから……」
今ここで涙を流したら間違いなく泣き落としになってしまう。そうなると長太郎は、絶対自分の意思にそぐわない行動をとってでも私を泣き止ませようとしてくるから、それだけは何としてでも避けたかった。
これ以上口を開くと反動で涙も出る。私が唇を噛みしめて下を向いたまま動かなくなると、再び室内は静寂に包まれた。
「わたし、わたし……」
「……っ」
いきなり長太郎に優しく抱き寄せられた。あやそうとしているのだろうか。でもそんなことされても、より虚無感と惨めさが増すだけ。やめてと身をよじっても、長太郎は私を離さなかった。
「詩織ちゃん、俺の話も聞いて。このままでいいから」
目を離すことができない。見えない何かで固定されているように、瞳と瞳が物凄く近くで一直線上で交わった。
「あのね、俺の好きな人は詩織ちゃん。キミなんだよ」
「うそだ」
「嘘なんかじゃない。ずっと前から、幼稚舎の頃から俺はずっとキミのことが大好きだった」
私の涙が長太郎の額にぽとりぽとりと落ちる。今、私は何を言われてるんだ。
「俺が気持ちをちゃんと伝えてなかったから、勘違いしたんでしょ。俺たち、両思いだったんだよ」
「りょうおもい……」
「うん、そうだよ」
だから泣かないで?と長太郎は眉をハの字に曲げながらハンカチで涙を拭ってくる。
両思いだったんだ、私たちって。脳がようやくその単語を理解した。だけどその瞬間、また滝のように涙が溢れて止まらなくなる。
「う、うぅ!もうなんで、りょうおもいなの!」
「もう……詩織ちゃん、どうしてそんなこと言うの?」
長太郎は困ったような顔をして、頭を撫でてきた。
「せっかく長太郎と話せなくなってもいいって気持ちで暴露したのに、知らなかったんだもん、恥ずかしいじゃん。こんなのさあ」
「詩織ちゃんは俺ともう話したくないの?」
「ちがう、そんなわけない、好きっていったじゃん」
グズグズのままそう答えると、長太郎は笑った。何がおかしいんだ。
「好きなら両思いでいいじゃん、これからもずっと一緒にいられるよ。もう絶対、不安になんかさせない」
「……約束、してくれるの」
「するよ、勿論」
ほら、と小指を出された。おずおずと私も同じように差し出すと、長太郎が指を絡めてきた。
指切りげんまんーー。何年ぶりにこんなことしたんだろう。長太郎の指はとっても温かかった。
「……長太郎」
「なあに?詩織ちゃん」
「この前の試合、見てたよ。サーブも目に見えないくらい速かった。格好よかった」
「ふふ、今言うんだ」
「ずっと言おうと思ってたけど話せなかったから。ごめん」
「本当に見てくれてただけで嬉しいから、謝らないで……それとね、」
長太郎の瞳を見つめると、涙に濡れて睫毛がキラキラと光っていた。嫌になるくらい綺麗で、目を離せなくなる。
「泣かないで、笑って?笑ってる詩織ちゃんの顔、大好きだから」
長太郎、自分だって涙滲んでるくせに。こんなこと言っちゃうんだもん。
……上手くできたかは分からないけど。くしゃりと泣き笑いしてみせると、長太郎はすごく嬉しそうな顔をして、私を抱きしめてくれた。
ーーそれから時は過ぎて、中学三年生の三月。先日卒業式を済ませた私たちは、あと数週間で高校生になる。双方とも氷帝学園のエスカレーター式に乗っかり、そのまま高等部に進学することとなった。
「はい詩織ちゃん。アールグレイでも良い?」
「うん、ありがとう」
課題も特に出てないので、私たちは春休みを悠々自適に過ごしていたところであった。今はおうちデート中。さっきまで長太郎のピアノを聞かせてもらっていたところだ。
「ふう。今日は暖かいし、過ごしやすくていいね」
長太郎から差し出された紅茶を飲みながら、部屋に隣接されているバルコニーに目を向ける。そこからは抜けるような青空が見えた。
「本当だね。夕方になったらどこかに買い物でも行っちゃう?……あ、帰りに桜も見たいなあ」
「詩織ちゃん、桜好きだもんね。少し歩いたところに公園あるし、そこで夜桜見よっか」
「ふふ、そうしよ!」
陽気にあてられて、思考までふわふわしてきた。でも、とっても幸せだ。
「詩織ちゃん、」
「うん?……んっ」
呼び掛けられて目を向けると、不意に唇を奪われた。唇と唇が触れ合う感覚を覚えて、瞳を閉じる。
付き合い始めてから、もう数えきれないくらいキスをした。喧嘩や仲違いをすることもあったけど、何やかんやでずっと仲良くしてるし、好きという気持ちが薄まったことは一度もなかった。
息継ぎの音が口から漏れて、何となく気恥ずかしさを覚えた。一旦離れたかと思ったら、あくまでも優しく、噛みつくように再び口内を侵食される。
上あごの部分を撫で付けるように舌で刺激されると、気持ちいいけど何だかちょっと、恥ずかしい。ただの息継ぎとは違う、喃語のような声が私から漏れ出しているのに気づくと、長太郎は熱を孕んだ視線を向けてきた。
「可愛い。詩織ちゃん、可愛い…」
「ん、ふぁ。ちょ、長太郎…まって、ちょっと待って」
いつもよりも口数が少なくなった長太郎は、ほぼゼロ距離で髪の毛に顔を埋めてきた。
「きゅ、急にさあ……いやとかじゃないけど、なんでこんな、」
「だって詩織ちゃん、これくらいハッキリやらないと分かってくれないから」
そう言うと長太郎私の肩に両手を置いて、ゆっくりと力を込めてきた。
「わ、わ、わ……!」
まるで花を優しく手折るようにベッドに押し倒される。真上に見えていた鈴蘭の形を模したシャンデリアは、長太郎の大きな身体に隠れてしまう。
「…いい?」
照明の逆光で、長太郎の瞳がテラテラと光っている。いつもの彼からは想像もつかないような表情で、長太郎は私に同意を求めてきた。……そんな顔されて、断れる人っているんだろうか。
「……っ」
肯定のかわりに、ぎゅっと瞳を閉じる。
「にゃあ」
ーーいつの間に部屋に入ってきていたのだろう。ぽす、ぽす、と鳳家の愛猫であるフォルトゥナータが、可愛らしい鳴き声を上げながら長太郎の腰をパンチしてきた。二人と一匹。姿勢を崩さないまま、しばらく固まっていると、痺れを切らした一匹が、再び「にゃあ」と鳴き声を発した。
長太郎の顔をチラリと見ると、先程までの雄々しい表情は消え失せて、いつも通り人の良さそうな雰囲気を纏っていた。
「もう、フォルってば。じゃれてるんじゃないんだよ~……」
私の上から退くと、長太郎は泣き言を漏らしながら猫の背を撫でていた。
(ド、ドキドキした……!!もしあのままフォルが来なかったら、多分)
想像するだけで、顔が熱くなる。
ちらりと向こうを見てみるとばっちり目と目が合う。長太郎は目を細めると、内緒話をするように囁いた。
「今度は二人きりのときにね」
言葉の裏に、中学は卒業したんだからもう手加減はしないぞ、という静かな圧を感じた。
私の知らない長太郎ってまだまだいっぱいいるんだ。今回のは全く想像したことのないような姿で、少し驚いたけど……高校三年間の間に、一体どれだけ新しい長太郎が見られるんだろう。
私はベッドにへたり込んでクッションを抱きしめながら、猫と戯れる彼を見つめていた。
それもあってか、私の記憶のなかでもアルバムの写真のなかでも、隣を見ればいつでも長太郎がいる、そんな日々を送ってきた。
氷帝に入学して、中等部に進級して。これからも今までと変わらずに、授業が終わったら待ち合わせをして、二人で並んで帰宅する生活が続くのかなあと思っていたのだけれど。
「ごめんね、詩織ちゃん。部活終わったあとにミーティングがあるらしくて……今日も一緒に帰れなさそう」
そう、最近長太郎と一緒に帰る機会がぐんと減ったのだ。
つい先月、長太郎はテニス部の正レギュラーとなった。中等部になってから未経験の状態で入部して、約二百名いる他の部員を押し退けて正レギュラーなれるなんてそれはとてもおめでたいことだし、聞いたときは本当に嬉しかったのだけれど、それに比例して、長太郎が部活にかける時間がどんどん増えていったのだ。
仕方がないこと、私が口出しすることじゃないことは頭では理解しているのだけど、言葉に言い表せない感情が私の心を曇らせた。
でも、一緒に帰れないと判明するとご飯も食べずに真っ先に私の所へ来て、申し訳なさそうな顔をする長太郎に私の自分勝手な考えをぶつけるわけにはいかない。
「大会近いし仕方ないって。だからさ、その分練習頑張ってね。応援してる」
大会を控えていつも以上に繊細になってる長太郎に迷惑や心配を掛けたくなくて。気持ちとは裏腹に明るく笑顔で返答すると、長太郎は微笑みを溢し、落ち着いたらまた一緒に帰りたいと言い、自分の教室へと戻っていった。
数日後の昼休み、昼ご飯を食べ終わって教室でぼんやりしていたら、長太郎が一緒に帰れる!と報告しに来た。
どうやら今日は関東大会前最後のリフレッシュ期間として、跡部先輩と監督さんが放課後を丸々オフにすると取り決めたらしい。「じゃあいつも通り、放課後階段前で待ち合わせだね。待ってるから!」と約束を早口で取り決めると、満面の笑みのまま自分のクラスへ戻っていった。
(あんなに笑ってる長太郎、久しぶりに見たなあ)
何だかんだで顔を合わせる機会はめっきり減ってしまっていたから、私が見る長太郎は、謝りに来るしゅんとした顔ばかりだった。悲しい顔よりは、笑ってる顔の方が見ていて気分がいいし、どちらかといえば好きだなあと思う。
……何でだろう、長太郎の笑顔を見てから心が落ち着かない。浮き足立った気持ちを人に悟られたくない思った私は、力を込めて顔を叩く。ぺちんと小さく音が鳴り響き、クラスメートが数名こちらを振り向いた。
ああ、恥ずかしい。取り繕うように、私は彼女らに向けてはにかんだ。
「ーーでね、そこで宍戸さんが助けてくれたんだ!俺、本当に嬉しくて」
「この前の部活中に宍戸さんのキャップが反対になっててね。日吉とアレって言った方がいいのかな?ってずっと話してたんだけどね……」
「…………」
授業が終わり、約束した通り私と長太郎は待ち合わせ場所で落ち合って一緒に帰路を辿っているのだが。
(何か……何だろう、モヤモヤする)
口を開けば宍戸さん、宍戸さんって。長太郎のダブルスパートナーである先輩ということは知ってる。耳にタコができるくらい聞いていたから。話を聞いているだけでも、すごく優しくて頼り甲斐のある人で、長太郎が尊敬しているということも分かる。
でも、折角久し振りにこうして二人で帰れてるんだから、たまにはテニスの事を忘れて、いつも通り取り留めのない話をしたいのに。最近のフォルの話とか、今年の夏休み、家族旅行どこに行くかとか話したいことはいっぱいあるのに!
私の知らない長太郎が増えたみたいで、嫌だ。そんな態度を丸出しで話を聞いてるのに気づいていないのか、長太郎は楽しそうにペラペラ話を続けている。
「わ、もう家着いちゃったね。早いなあ」
「そうだね……」
「……?もしかして詩織ちゃん、体調悪い?そういえば、さっきまで俺ばっか話してたよね。ごめん、気づいてあげられなくて」
(ああ、もう。そうじゃないんだってば……!)
長太郎は悪くないのに、ハッキリ言えない私が悪いのに。多分このまま一緒にいたら、八つ当たりしてしまう。そう思った私は適当な方便を使い、長太郎と別れた。
「ああ~……!!」
自分の部屋に入った瞬間、一気に気が抜けてベッドに倒れ込んでしまった。長太郎、別れる前すごく心配そうな顔してこっちを見てたなあ。試合頑張ってとか、気の利いたことも言えなくて。
「ダメダメだよ、こんなんじゃ……」
何時間そのままの状態でいたのだろう。ベッドに突っ伏したままでいたら、急にスマホから音が鳴り響いた。誰だろう、お母さん?友達?名前だけ確認しようと横に立て掛けておいたバッグを漁って画面を見てみると、そこには「長太郎」と表示されていた。
『詩織ちゃん、もう体調は良くなった?
すぐに気づいて早めに家に返してあげられたらよかったんだけど、久しぶりに一緒に帰れたから嬉しくなっちゃって全然周りが見えてなかった。本当にごめん、今日は早めに寝てね。
明日は無理して学校来たりとかしちゃダメだよ。
あと、こんなときに言うのも何なんだけど、さっき伝えられなかったからここに書いちゃうね。昨日、関東大会一回戦の日にちが決まったんだ。十九日の日曜日に○○庭球場の六番コートで開催されることになった。
俺頑張るから。もしその日、予定がないなら詩織ちゃんにも観に来てほしいな』
「長太郎……」
長太郎は、変わっていなかった。私の勘違いだ。彼は今までと全く同じ、優しい男の子だった。
画面越しに与えられた優しい言葉が心地よくて、愛おしくなって画面を指の腹で擦る。
「……応援、絶対行こう」
むくりと起き上がって、壁掛けカレンダーの十九日に、大きな赤丸を書いた。『ありがとう、応援行くね』と返信もした。
長太郎たちならきっと勝てる。あんなに毎日頑張ってたもん。
明日、学園で会ったら今日のこと謝ろう。そんなことを考えながらシャワーを浴びるために、浴室へと向かった。
時は過ぎて、開催された関東大会、私は長太郎のご家族と一緒に観戦した。ーー氷帝学園は青春学園との拮抗した試合の末、一回戦敗退という結果に終わった。
氷帝コールが鳴り止まない中、正レギュラーたちは観客席に礼をすると、そのまま待機のバスへと戻っていった。長太郎の顔は見れなかったけど、涙を流してはいなかったとおばさんは言っていた。
お疲れ様、ずっと見てたよ。格好良かったよ、スカッドサーブ、凄かった。ーー言いたいことはいっぱいあったけど、無理だった。長太郎の頑張りが勝利という形で報われなかったのが悲しい上に、今彼と向かい合って口を開いたら、私の方が泣いてしまいそうなのが嫌で。
結局、私はその日長太郎とは一切話すことなく帰宅した。寝る前にメッセージを送ろうかと思ったけど、止めておいた。
敗退してナイーブになってるかもしれないし、負担を掛けたくない。本当はすぐにでも家を飛び出して、会って話して、思い切り慰めてあげたいのに、長太郎の気持ちを知るということが物凄く怖いと感じている私がいた。
「……」
悩んだ末、私はメッセージアプリで、長太郎とのトーク通知をオフにした。このモヤモヤが晴れるまでは、端末上で会話するのは避けたかったからだ。
そして次の日の全校集会で、テニス部の戦績発表が行われた。改めて敗退してしまったという事実を突きつけられたような気がしたが、壇上に立つ正レギュラーの面持ちは皆凛としていて、体育館内は拍手喝采に包まれた。
昼休み、音楽の授業が終わって友人と自分の教室へ帰る途中、C組の前を通った。チラリと中を覗くと、長太郎がクラスメートに囲まれている姿が見えた。
「ぁ、」
話の内容までは聞こえなかったけど、多分試合のことについて色々聞かれてるんだと思う。
注視してみると頬を赤くした、私のクラスでもよく可愛いって噂されている女の子もその中にいた。
(ーーあの子もしかして、好きなのかな。長太郎のこと)
そんな考えが脳裏を過ったあと、ハッとした。
どうしてそんなこと、私が考えているんだろう。まずあの子が本当に長太郎のことを好きかどうかなんて分からないし、私が気にすることでもないはずなのに。
……何か最近長太郎のこと考えると、思考が変な方向に飛びっぱなしだ。
C組の前でピタリと足を止めた私を不審に思ったのか、友人が怪訝な顔をして振り返ってきた。
「詩織ー、どしたの?早くご飯食べに行こーよ」
「…………」
「詩織?」
「私、どっか変なのかな……」
「ええ……いきなり何?」
長太郎のことを考えるだけで頭の中が熱くなって、胸がぎゅっとされるような感覚に襲われる。友人の問いかけにも答えずにフラフラと教室へと向かう私を、長太郎がじっと見つめていたことは、誰も気がついていなかった。
「詩織ちゃん、今日は放課後大丈夫?一緒に帰りたいな」
学校にいたらまたモヤモヤが大きくなってしまいそうだから、さっさと帰ろうと思って教室から出ると、悩みの種である長太郎が渡り廊下で待ち構えていた。
「ちょ、長太郎……部活は?」
「今日はオフ。一日、自分だけでこれからの練習について考えてきなさいって監督からの課題が出たんだ。だからーー」
「ごめん、私、今日ちょっと用事あるから。一人で帰って」
言葉を断ち切って、そのまま階段へと向かう。じゃあね!と後ろを振り向いて伝えると、長太郎は何が起こったのかまだ理解していないような、すっとんきょうな顔のまま廊下に立ち尽くしていた。
「あぁ……何でこんな……」
やってしまった。私は一人項垂れながら長太郎に見つからないよう、遠回りしてゆっくり歩を進めていた。一緒に帰ろうって誘ってもらえて、すごく嬉しかったのに。どうして長太郎のことを避けちゃうんだろう。自分で自分が分からない。
そのまま歩いていると、道の先にぽつんと駄菓子屋があるのが見えた。もう駄菓子屋なんて何年も入ってない。最後に行ったのは、幼稚舎五年生の時だったっけ……
気分転換したいし、少しだけ寄り道していこうかなとも思ったのだけれど、店から出てきた人物を見て私は即座に電柱の陰に身を隠した。
(あれって、長太郎の先輩!)
ラケットバッグを背負って出てきた二人組。片方は赤髪のおかっぱで小柄な人。もう片方は丸眼鏡を掛けて青髪の知的な印象を受ける長身の人。面識は無いのだけれど、長太郎とテニスを関連付ける人物と鉢合わせしたくなくて隠れてしまった。
(ど……どうしよう。この体勢、めちゃくちゃ不自然だよ!)
とりあえず二人がいなくなるのを待とうと思い電柱にぴったりとくっついていると、何やら世間話をし始めた。
「あ~あ!暑っちい暑っちい!!アイス食わなきゃやってらんねーよ!」
「岳人、ほぼ毎日食ってんなあ。腹下すで」
「夏だからいーんだよ!つーか侑士も早く食えよ!溶けんだろ!」
「はいはい……せや。この前言ってた鳳の話、今どうなっとるん?」
(……長太郎?!)
思わず足に力が入った。ズリ、と砂利の音が鳴ってしまって、気づかれるのを恐れた私は、慌てて再び体勢を立て直した。
「どうだろ、俺もあんま聞いてねえな……最初聞いたときはマジか!って思ったんだよなあ。あー顔見てみてえ!」
「ホンマに。鳳が好きになるくらいやから、きっと外見だけじゃなくて中身も純朴なんやろなぁ」
「なー。今度移動教室中に廊下で会ったら聞いてみっかなあ」
「あんまり驚かせちゃアカンで」
「分かってるっつーの!つーかアイツ、意外と口堅くて何にも喋らねーからな!」
棒アイスを舐めながらそのまま二人は反対方向へ歩いていった。ーー私は、その場に立ち尽くしたまま、コンクリートを見つめていた。
長太郎に、好きな人。
長太郎のこと「を」好きな子がいるってわけではなく、長太郎「の」好きな人を指しているということを理解するのに少々の時間を要した。
じりじりと背後を太陽で灼かれる不快感と、心のモヤモヤの相乗効果で、無意識のうちに私の瞳からは涙が一筋流れていた。
「え、うそ。えぇ……」
気づいたころにはもう遅く、それはぽろぽろと零れ出した。
自分で自分が分からない。何で長太郎に好きな人がいるってだけで、こんなに胸が締め付けられるんだろう。ただの幼なじみ、普通の友達なのに。恋人とか、そういう関係じゃないのに。
「ただの……友達」
ーー私は知らず知らずのうちに、長太郎ともっと深い関係になりたいと思っていたのかもしれない。友達より幼なじみより、もっと近くてもっと一緒にいられる関係。
「わたし……長太郎のこと、好きだったんだぁ……」
自分の気持ちを口に出して反芻してみたら、どっと涙が溢れてきた。好きだ、好きだったんだ。もしかしたら、ずっと前から気づかないふりをしていただけなのかもしれない。
私の知らない長太郎が増えていくのが嫌なのも、一緒に帰れなくなって寂しい気持ちになったのも、笑顔も見ると嬉しい気持ちになっちゃうのも、全部、長太郎のことが好きだったから。
でも、気づくのが遅かった。もう長太郎には好きな人がいるんだ。告白してOKをもらったら、二人は付き合うんだ。長太郎が好きになっちゃうくらいの人なんだから、すっごく優しくてたおやかで、私とは比べ物にならないような女の子なんだろうーー。脳が勝手に妄想を膨らませてしまう。考えれば考えるほど辛くなるのは自分なのに。
もうどうやったって長太郎とずっと一緒にいることは叶わないんだという結論に至ったのは、泣きながら歩き続けて、自分の家についてからだった。
泣き腫らした私を見て家族は皆驚いた顔をしていたし、理由を聞いてきたのだけれど、返事もそぞろにさっさと階段を駆け上って自分の部屋で布団に潜り込んでしまった。
結局、起きてるとまた色々と考えてしまいそうだと思った私はその日は晩ご飯も食べずにシャワーを浴び、さっさと寝ることにした。
午前六時よりちょっと前。いつもより早く目が覚めた私はゆったりと洗面台へ向かった。鏡を見ると、目蓋が真っ赤に腫れている。
「ぁぁ……すっごいぶさいくだあ……」
学校、休みたいなあと思ったけど、昨日の今日で休んだらまた長太郎を心配させてしまうかもしれない。
……こんなときでさえ、長太郎のことを一番に考えてしまう自分の脳を一回思いきりぺちんと叩いてやりたい。少しだけ鏡とにらめっこを繰り広げ、用意した蒸しタオルで顔を温めてから、朝食を摂るためリビングのある一階へと下りた。
昼休み。ご飯を食べた後に教室で机に突っ伏していると、クラスメートの女の子たちが喋ってる声が聞こえてきた。
「ーーでね、二年生の中だったらやっぱり鳳くんが一番格好いいなぁって思う!」
「身長高いし、優しいしね。分かるかも」
「だねー。しかもこの前の関東大会戦、ダブルスで先輩と組んだ試合勝ったらしいよ!サーブめっちゃ速かったって、観戦しに行ったC組の子が言ってた」
……まさか自分のクラスでも長太郎の名前を聞くことになるなんて思ってもみなかった。しかもこの子たちも、長太郎のこと気になってるような素振り。
(ああ、モヤモヤする)
このままの状態でクラスメートの話を盗み聞きすることはあんまりよろしくないと思っているのだけれど、聞かなかったふりをして流せるほど大人な私じゃない。どうしたものかなあと机の板目を薄目で見つめていた。
「そういえば、岬さんって鳳くんと幼なじみなんだよね……ほら、あの席の子!いいなあ」
「岬さん?ああ、確かに。周りの目気にせずに話しかけられるし、幼なじみ特権ってやつ?羨ましいなあ」
『幼なじみ特権』。その単語を耳にしたとき、ぴくりと肩が動いてしまった。
そんな特権はない。確かに今まで長太郎と接するときは異性とか同姓とか、そんなの考えず、遠慮なんて全くしないまま会話してたから端から見たら恋人みたいに見えてた部分もあったのかもしれない。だけど、中途半端に距離が近いから今こうして考えあぐねていることだっていっぱいあるのに。
「……そんなんじゃないよ、私と長太郎は」
蚊の鳴くような声でぽつりと漏れ出した本音は、誰の耳にも届かなかったと思う。
でも、私自身の心は動いた。
長太郎が誰かを好きとか、誰かが長太郎のことを好きとか、考えてモヤモヤする前に。まず自分の気持ちをぶつける。その後のことは考える。不器用で直球な方法だけど、多分これ以外の方法だと私のモヤモヤは晴れない。
言うが早いか、私は起き上がって早足で教室を駆け出した。今日は火曜日。長太郎は、間違いなくあそこにいるはずだ。
「長太郎!!」
バン!と大きな音を立ててドアを開けると、ピアノの鍵盤に手を掛けたまま、目を丸くした長太郎がこちらを見つめてきた。ーーここは音楽室。毎週火曜日、急ぎの用事がないとき、長太郎は中等部に進級してから榊先生から鍵を借りてここでピアノを弾いているのだ。
つい先程までは心が落ち着くようなピアノのメロディが流れていたのに、今はシンと静まり返っている。
「詩織ちゃん……?」
急な来客で演奏を中断されたのにも関わらず、心配そうな顔をして長太郎は近づいてきた。どうしたの、と聞かれる前に私は早口で長太郎の話を遮った。
「長太郎お願い、聞いて。聞くだけ聞いて、私のはなし」
もうどうなったっていい。気まずくなってずっと話せなくなったとしてもいい。一生モヤモヤするよりだったら、全部話してどうにかなっちゃう方が百万倍マシだ。
「私、長太郎のこと好きなの。友達としてじゃなくて、恋愛感情で好き」
顔を見据えてはっきりとゆっくりと、普段より大きな声で伝えた。『好き』という言葉を聞いた瞬間、長太郎はほんの少し目を見開いた。
「長太郎に好きな子が別にいるって知ってる。聞いたから。でも、言わないままにしておけなかった。でも、だからって答えをききたいわけじゃなくて、ただわたしのきもちをしってほし……う、だから……」
今ここで涙を流したら間違いなく泣き落としになってしまう。そうなると長太郎は、絶対自分の意思にそぐわない行動をとってでも私を泣き止ませようとしてくるから、それだけは何としてでも避けたかった。
これ以上口を開くと反動で涙も出る。私が唇を噛みしめて下を向いたまま動かなくなると、再び室内は静寂に包まれた。
「わたし、わたし……」
「……っ」
いきなり長太郎に優しく抱き寄せられた。あやそうとしているのだろうか。でもそんなことされても、より虚無感と惨めさが増すだけ。やめてと身をよじっても、長太郎は私を離さなかった。
「詩織ちゃん、俺の話も聞いて。このままでいいから」
目を離すことができない。見えない何かで固定されているように、瞳と瞳が物凄く近くで一直線上で交わった。
「あのね、俺の好きな人は詩織ちゃん。キミなんだよ」
「うそだ」
「嘘なんかじゃない。ずっと前から、幼稚舎の頃から俺はずっとキミのことが大好きだった」
私の涙が長太郎の額にぽとりぽとりと落ちる。今、私は何を言われてるんだ。
「俺が気持ちをちゃんと伝えてなかったから、勘違いしたんでしょ。俺たち、両思いだったんだよ」
「りょうおもい……」
「うん、そうだよ」
だから泣かないで?と長太郎は眉をハの字に曲げながらハンカチで涙を拭ってくる。
両思いだったんだ、私たちって。脳がようやくその単語を理解した。だけどその瞬間、また滝のように涙が溢れて止まらなくなる。
「う、うぅ!もうなんで、りょうおもいなの!」
「もう……詩織ちゃん、どうしてそんなこと言うの?」
長太郎は困ったような顔をして、頭を撫でてきた。
「せっかく長太郎と話せなくなってもいいって気持ちで暴露したのに、知らなかったんだもん、恥ずかしいじゃん。こんなのさあ」
「詩織ちゃんは俺ともう話したくないの?」
「ちがう、そんなわけない、好きっていったじゃん」
グズグズのままそう答えると、長太郎は笑った。何がおかしいんだ。
「好きなら両思いでいいじゃん、これからもずっと一緒にいられるよ。もう絶対、不安になんかさせない」
「……約束、してくれるの」
「するよ、勿論」
ほら、と小指を出された。おずおずと私も同じように差し出すと、長太郎が指を絡めてきた。
指切りげんまんーー。何年ぶりにこんなことしたんだろう。長太郎の指はとっても温かかった。
「……長太郎」
「なあに?詩織ちゃん」
「この前の試合、見てたよ。サーブも目に見えないくらい速かった。格好よかった」
「ふふ、今言うんだ」
「ずっと言おうと思ってたけど話せなかったから。ごめん」
「本当に見てくれてただけで嬉しいから、謝らないで……それとね、」
長太郎の瞳を見つめると、涙に濡れて睫毛がキラキラと光っていた。嫌になるくらい綺麗で、目を離せなくなる。
「泣かないで、笑って?笑ってる詩織ちゃんの顔、大好きだから」
長太郎、自分だって涙滲んでるくせに。こんなこと言っちゃうんだもん。
……上手くできたかは分からないけど。くしゃりと泣き笑いしてみせると、長太郎はすごく嬉しそうな顔をして、私を抱きしめてくれた。
ーーそれから時は過ぎて、中学三年生の三月。先日卒業式を済ませた私たちは、あと数週間で高校生になる。双方とも氷帝学園のエスカレーター式に乗っかり、そのまま高等部に進学することとなった。
「はい詩織ちゃん。アールグレイでも良い?」
「うん、ありがとう」
課題も特に出てないので、私たちは春休みを悠々自適に過ごしていたところであった。今はおうちデート中。さっきまで長太郎のピアノを聞かせてもらっていたところだ。
「ふう。今日は暖かいし、過ごしやすくていいね」
長太郎から差し出された紅茶を飲みながら、部屋に隣接されているバルコニーに目を向ける。そこからは抜けるような青空が見えた。
「本当だね。夕方になったらどこかに買い物でも行っちゃう?……あ、帰りに桜も見たいなあ」
「詩織ちゃん、桜好きだもんね。少し歩いたところに公園あるし、そこで夜桜見よっか」
「ふふ、そうしよ!」
陽気にあてられて、思考までふわふわしてきた。でも、とっても幸せだ。
「詩織ちゃん、」
「うん?……んっ」
呼び掛けられて目を向けると、不意に唇を奪われた。唇と唇が触れ合う感覚を覚えて、瞳を閉じる。
付き合い始めてから、もう数えきれないくらいキスをした。喧嘩や仲違いをすることもあったけど、何やかんやでずっと仲良くしてるし、好きという気持ちが薄まったことは一度もなかった。
息継ぎの音が口から漏れて、何となく気恥ずかしさを覚えた。一旦離れたかと思ったら、あくまでも優しく、噛みつくように再び口内を侵食される。
上あごの部分を撫で付けるように舌で刺激されると、気持ちいいけど何だかちょっと、恥ずかしい。ただの息継ぎとは違う、喃語のような声が私から漏れ出しているのに気づくと、長太郎は熱を孕んだ視線を向けてきた。
「可愛い。詩織ちゃん、可愛い…」
「ん、ふぁ。ちょ、長太郎…まって、ちょっと待って」
いつもよりも口数が少なくなった長太郎は、ほぼゼロ距離で髪の毛に顔を埋めてきた。
「きゅ、急にさあ……いやとかじゃないけど、なんでこんな、」
「だって詩織ちゃん、これくらいハッキリやらないと分かってくれないから」
そう言うと長太郎私の肩に両手を置いて、ゆっくりと力を込めてきた。
「わ、わ、わ……!」
まるで花を優しく手折るようにベッドに押し倒される。真上に見えていた鈴蘭の形を模したシャンデリアは、長太郎の大きな身体に隠れてしまう。
「…いい?」
照明の逆光で、長太郎の瞳がテラテラと光っている。いつもの彼からは想像もつかないような表情で、長太郎は私に同意を求めてきた。……そんな顔されて、断れる人っているんだろうか。
「……っ」
肯定のかわりに、ぎゅっと瞳を閉じる。
「にゃあ」
ーーいつの間に部屋に入ってきていたのだろう。ぽす、ぽす、と鳳家の愛猫であるフォルトゥナータが、可愛らしい鳴き声を上げながら長太郎の腰をパンチしてきた。二人と一匹。姿勢を崩さないまま、しばらく固まっていると、痺れを切らした一匹が、再び「にゃあ」と鳴き声を発した。
長太郎の顔をチラリと見ると、先程までの雄々しい表情は消え失せて、いつも通り人の良さそうな雰囲気を纏っていた。
「もう、フォルってば。じゃれてるんじゃないんだよ~……」
私の上から退くと、長太郎は泣き言を漏らしながら猫の背を撫でていた。
(ド、ドキドキした……!!もしあのままフォルが来なかったら、多分)
想像するだけで、顔が熱くなる。
ちらりと向こうを見てみるとばっちり目と目が合う。長太郎は目を細めると、内緒話をするように囁いた。
「今度は二人きりのときにね」
言葉の裏に、中学は卒業したんだからもう手加減はしないぞ、という静かな圧を感じた。
私の知らない長太郎ってまだまだいっぱいいるんだ。今回のは全く想像したことのないような姿で、少し驚いたけど……高校三年間の間に、一体どれだけ新しい長太郎が見られるんだろう。
私はベッドにへたり込んでクッションを抱きしめながら、猫と戯れる彼を見つめていた。
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