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司まふ

 

 静かな部屋に響くのは硬質なペンの音と穏やかな寝息だけだ。
ふっと指先を止めて肩を回し、ごりごりと筋肉の凝りに低く呻く。
ついでにと後方を見遣ればソファベッドに横たわり体を縮めている愛おしい者の姿に胸の奥から愛おしさが滲んだ。
 心配になるほどに白く細い指先がうっすらと色づいた口元の近くででゆるく握りこまれている。いつも完璧な表情を浮かべるかんばせは今はなんの表情も作らず赤子のように無垢なままだ。群青のスカートからすらりと伸びた脚もソファベッドからずり落ちそうになっている濃紺のタイツに包まれたつま先までその全てが美しく整っている。
 さらりと艶めいた髪をほどいて横たわる無防備さに込み上げかけた感情を振り払うようにかぶりを振って、できる限り目を逸らしながらソファの端に寄せられていた薄手の毛布で彼女の柔い肢体を覆い隠す。
 すぅすぅと微かな呼吸に耳をすませて、随分を気を許してもらったものだと感慨深くなる。以前までの関係ならまったく考えられなかった。

 初めて出会った彼女の微笑みの中にある違和感に惹かれて、なかば義務感じみた思いで彼女の元へ押しかけ意気揚々と高説を垂れて、自信満々に差し伸べた手をとられなかったあの瞬間の衝撃は今でも忘れられない。
 向けられた表情は微笑でかたどった控えめな困惑と少しばかりの呆れ、そして、瞳の奥にある暗く淀んだ色。微笑みで繕った瞳の奥にあった重々しい苛立ちと吐きつけるような嫌悪。美しい微笑みをかたちづくる少女の奥底にあるぐつぐつと煮え立った負の感情に触れた瞬間、目の前がスパークした。宙を駆ける流れ星が唐突に頭上へ墜落したような、頭から胸の奥までを貫いたような感覚で全身に軽い痺れが走った。
いつになく慌てた様子のえむに手を捕まれそのまま連れ去られ、寧々や類に説教という名の正論で諭される最中も頭の中にあったのは彼女の瞳の色だけだった。

 それからというものの何度となく彼女の元へと通ってはすげなくされることを繰り返した。
 彼女の手を引いて明るい方へと連れ出したい。彼女を救いたい。彼女の拠り所となりたい。その全てを自分が担いたい。熱に浮かされたようにそれだけが胸を占めて自分の出来る精一杯の真剣さで彼女にオレと向き合ってくれと追い縋り、その度に曖昧に誤魔化されたり困ったような微笑みで流される。
叶わない想いと耐え難い胸の熱に狂わされて思考回路がしっちゃかめっちゃかにおかしくなっていた。

───それもまぁ、以前の話、だが。

ローテーブルのうえに行儀悪く肩肘をついて彼女の寝顔を見つめながらぼんやりと思い起こす。



 ある時、街の片隅で彼女の大切な人達だという者たちの間で穏やかに目を伏せ薄く微笑む彼女を見た。いつも見るたおやかで表情豊かなどこまでも完璧に麗しい微笑ではなく、なんとなしについこぼしてしまったというような、口端がゆるく持ち上がる程度の、ともすれば笑ったと気づかないくらいのささやかな微笑みだった。
それだけで、分かってしまった。

───あぁ、彼女の居場所は、幸福は既にあったのだ、と。

 ささやかな微笑みに気づいて自分の事のように喜びはしゃいで彼女を囲む少女達と冬の朝のように静かで静謐な雰囲気へと戻った彼女の様子を遠巻きに眺めて、自分の欲の浅さがじわじわと頬を熱くさせていった。泣きたくなるくらいに恥ずかしくて、みっともなさと情けなさで何をしに外へ出たかも忘れて気づけば自宅のベッドで天井を見上げていた。
そうしてぐるぐると巡る思考のなかでようやく思い至った。果たして自分は一度でも彼女の感情に寄り添おうとしただろうか、と。
 そりゃそうだ、と口端を噛んだ。自分は自分の気持ちばかりで彼女のことなんてちっとも思いやってなんていなかった。共感もなにもなく、ただただ自分の気持ちだけを押し付ける、そんな輩にいったい誰が柔い心の内側を見せるだろうか。信用なんて、ましてや信頼なんて到底出来るわけが無い。
 なんて簡単で酷く当たり前のことを見落としていたのだろうと自分の視野の狭さに愕然とした。
痛いくらいにぐちゃぐちゃだった胸の内をえぐりとった疎外感とあのささやかな微笑みがまぶたの裏に焼き付いたように消えない。ぽっかりと胸の内にあいた寂寞と寂寥感とが彼女の幸せを願いたいという想いに変わるまでには幾日と経たなかった。

 しつこくつきまとってきた男が唐突に知り合いの知り合いという関係性に違わない距離感になったことに彼女も不可解なものを感じていたようだったが、彼女がオレに何かを問い質すことはなかった。
 偶然街中で会えばなんでもない世間話をして、学生生活のなかでバッティングしたときには一方的に気まずい思いもしたが(向こうは全然気にしていない様子だった)ふとした拍子に彼女が仲間たちと学業以外に打ち込むものがあることを打ち明けられてからは彼女との関係も少しづつ変わっていって、いつの間にやら自宅に招いて居眠りをされるくらいの仲になっていた。

 今でも彼女の目を見つめるには勇気がいる。胸の奥が熱くなって心臓が太鼓を叩くみたいに好き勝手に鳴り出し、耳の血管がごうごうと瀑声じみた音を響かせて頬が勝手に熱を持つ。
 それはやっぱり恋なのかもしれないし、全然違うなにかなのかもしれないが、今はもう名前なんてどうでもよかった。
 救いたいとか、素を見せて欲しいとかそういう気持ちがもうないとは言わない。今でもやっぱり自分が彼女のなにか特別なものになりたいという気持ちがある。けれどそれはあくまで自分の叶えたい欲望のひとつだ。
 難解にこんがらがった感情をひとつひとつ丁寧に解いていけばそこにあるのは単純で漠然とした愛おしさだった。
 笑った顔が見たい。無理をしないで欲しい。心もとなさげに目を逸らす彼女を抱きしめたい。所在なさげにふらふらと揺れる手を捕まえて握りたい。辛い時に涙を流せる場所があって欲しい。心を動かされるものに胸をときめかせて欲しい。
そしてなにより、何もかも見通しているように何もかもを拒絶したようなあの眼を真っ直ぐ受け止めたい。
 そうして分かったのは、自分はやはり彼女を愛することをやめたくないという事だった。救うことが出来なくても、その役目は自分じゃダメだとしても、それでも傍にいたいのだ。彼女が安心して目をつむれるように、横たわることができるように、当たり前に息を吐いて吸えるように。
 背伸びがすぎるかもしれないし、高望みがすぎるかもしれないけれど、自分は彼女の居場所のひとつになりたいのだ。


 ちらりと時計を見るといつも彼女が家へ帰る時間が近づいていた。名残惜しい気持ちを胸の底に沈めて声をかける。
 眠る朝比奈の顔を見つめる。健やかであれ、穏やかであれ、どうか、どうかその道先に幸いあれと、願いながら名前を呼ぶ。
どこまでも深いマリンブルーのような瞳の輝きをじっと待つ。

世界でいちばん愛おしい色が見えるまで、あと少し。





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