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司まふ

 波打ち際、彼はひどく穏やかな顔でそう言うと、私の手をとった。ざぁざぁと波音が耳を叩くなかで静かに手を重ねる。
 先程まで春先の海ではしゃいでいた彼の手足は春風と寄せる波に晒され酷く冷えていた。
 常にくるくると回る星々のような微笑みをたたえた彼の体温のなさに自分の身体が強ばったのがわかった。

 彼の前でいい子以外の顔を出したことは無かった。
初めて彼の前で口に出した「疲れた」という言葉と上手く作れなかった「朝比奈まふゆ」の表情に対して彼は驚くでも励ますでもなく、なんでもないように「なら、逃げてしまおうか」と言った。

 真っ直ぐに突き刺さる視線が私に誤魔化しを許さない。
何を言うべきか迷い数秒の間見つめあって、結局俯いた私に彼は静かに問いかける。

「最後に行きたい場所はないか?会いたい人はいないか?話したいことは?逃げるということは放棄するということだ。捨てて背を向けて、選択次第ではもう二度と戻ることができないということだ。
 それでもいいなら、逃げてしまおうか」

 重ねられた掌が次第に彼の体温と私の体温が交じり合うように融けていく。

ぱしゃり、と彼の足が海へと一歩、沈み込んだ。

 瞬間に沸き上がった感情をなんと表現すればいいのかはわからなかった。
ただ、それは明らかに衝動で、どうしようもないほどに情緒的な感情だった。

 重ねられた掌を強く握りしめ、陸へと強く牽引する。
 場違いに明るい声で驚いて見せる目の前の彼が信じらず凝視すると彼は困ったように頬をかいた。

「そんな顔をするな、試したわけでもましてや冗談だったわけでもないぞ?」

 彼の中にある真意を見つけようと目を凝らすも、見えるのは言葉に迷ったように目を彷徨わせる彼の顔だけだ。

「そうだな、俺はお前と死んではやれない。
だが、お前が死ぬのを見届けることはできると思ったから、かな」

 彼の言葉は何一つとして頭に入ってこない。それなのに、心臓はどくどくと早鐘を叩いている。
 かすかに震えた私の手をゆるく解くと、彼は海から砂浜へと足を運び、一歩、また一歩と私から離れていく。

「オレにはやりたいことがあって、居たいと思える場所があって、守りたいと思うものがいて、何一つとして取りこぼすことはできない。…オレはお前と一緒に死んではやれない」

 そこまで言い切ると、ゆっくりとこちらへと向き直り、真剣な表情になる。

「だから、お前がこの境界線を踏み越えてどこか遠くへ行ってしまいたいと願うなら、オレはそれを見届けることしかできない。
───故に、境界線までは付き合ってやる。お前が踏み越える瞬間までは、見届けてやろう」

 そう言い放つと、不敵に笑い、挑発的に手を差し伸べた。

「その境界線上が俺たちが居られるただ一つの場所だ」

 差し伸べられた手と刺し貫くような瞳に動けなくなる。

「なに、それ」

 不意にこぼれた呟きを拾い上げ、彼は堂々と笑った。




「分からないか?これ以上なく真摯で正直な、愛の告白だ」





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