武市

武市さんと出会って6年目の春が来た。
勤王まんじゅう作りは頼まれて3年目になる。
今日はそのまんじゅうの受け取りの日で、私は朝から張り切って作ったそれらを箱に詰めて武市さんが来るのを待っていた。



新兵衛は思い詰めた顔で武市のいる場所へ向かっていた。
その顔はもうこれ以上はならないと言わんばかりであった。

「田中君」

自分が向かうと師はいつも通り凛々しい顔で、けれどこれから向かう先を思って酷く柔らかい雰囲気を纏っていた。
ああ、危うい。
自分は恋というものに些か疎いものの、彼のある者に対する執心ぶりが見ていて危うさを感じるものになったと初めに気づいたのはいつの事だろう。
彼はこの4年ですっかり変わってしまった。
されば自分が彼の熱を止めねばならないと新兵衛は決心をつけて武市に向き直った。

「用意はできたか?では向かうぞ」
「武市先生」
「何だ」
「もう、あの娘のところに向かうのはおやめ下さい」
「……何だと?」

瞬間、ピリと空気が張り詰める。
もう一度言ってみろ、と言葉にならずとも伝わってくる重い覇気を纏った低い声は、予想通りの反応だった。
それで臆する新兵衛ではなかったが、久方ぶりに向けられる師からの鋭い眼差しには相当応えた。されどここで引いてはならぬと踏みとどまった。

「菓子の受け取りなら私とキンノブたちのみで構わないでしょう」

師の過ちを防がずして何が忠臣かと、新兵衛はその一心で訴えた。
武市はその言葉に新兵衛の瞳を真っ直ぐに捉えると、新兵衛の言葉にしない本意を見透かすような眼差しを向けた。

「…言いたいことはそれだけか?」
「度々私用でも会っているようですが、それもお控えください」

促されるならと新兵衛は進言した。
冷たい瞳は変わらず、されどふいに逸らされた武市のそれは新兵衛ではなくここにいない誰かを見ているようであった。

「…君から見て私はあの子に溺れているように見えるか」
「…危ういほどに」

自身で自覚していたことには驚いたが、それでも尚あの娘のところに向かう師のことが新兵衛には理解できなかった。
思わず身を乗り出すように一歩踏み出していた。

「武市先生、あの娘はただの市民で、しかも我々英霊とは違いただの人間です」
「私も人間だった」
「今は違います!もうこれ以上の深入りは抑えるべきです!これからは菓子の受け取りも購入も全て他の者に任せるべきかと」
「無理な相談だ」
「っですが」
「田中君」

理性的でいつも正しい選択をする師らしくない、まるで駄々っ子のような返答に狼狽し自然と語気が強まっていく新兵衛の声よりも更に覇気を纏った声が部屋に響いた。

「…本音を言うなら、」

次第にそれは弱々しくなり、武市の表情も苦しいものへと変わっていった。

「私は、君でさえ彼女に会って欲しくないと思っている」

それはまるで。

「たしかに私は彼女に溺れているのだ」

嫉妬と執着で今にも気が触れてしまいそうな。

「きみの言う通り、危ういのかもしれんな」

自分の知らない師がそこに居た。
その目には自身に対する憐憫と嫌悪と、他者への殺意があった。
鬼だ。
嫉妬に狂った殺意が自分にも向けられていることに気づいた新兵衛はゾッとした。思わず背に冷や汗が伝う。
こんな気持ちを隠して彼女に会い自分たちに接していたのかと思うと恐ろしかった。
瞬間、新兵衛は事態の重さを真に理解した。
溺れているなんて浅かったのだ。
もう、此方の助けでは元へは戻れぬところまで沈んでいるのだ。
そんな新兵衛の困惑を置いて武市は、ふっとその瞳から身震いするような激情を落とすと、目の前の巨体の横を通りぬけるように足を進めた。
──行かせてはいけない!
頭の中を走り抜けた直感に従って新兵衛は咄嗟にその広い肩を掴んでいた。

「なりません!お願いですからもうあの娘に会いに行くのはおやめ下さい!」
「仕事に関しては君の言い分も分からないでない。だが正直、他は私のプライベートだぞ。君が口を挟むことではないと思うが」
「今後の計画に差し障ります!」
「限度は弁えているし身の程も弁えている」
「っ本当にそうお思いですか」

またもや此方の意見に耳を貸さない武市に新兵衛は、これだけは言いたくは無かったことだが口にしなければいけないと覚悟を決める。

「…何が言いたい」
「…正直、あなたがあの方以外にそのような情をなどと…信じられません」
「……」

その言葉に顔を伏せてしまった武市の表情は分からなかった。
だが目を覚ましてほしい。
だってあなたには。

「あなたには奥方がいらっしゃ──」

バチッ!!!

それは武市が新兵衛の手を振り払った音だった。
いよいよ彼らしくない振る舞いに新兵衛は目を見開いた。
目の前で手を下ろしながら怒りのオーラを漂わせる師は、幾重にも眉間に皺を刻み、此方を鉤爪で握り殺さんとするような龍の目つきを持って新兵衛を見ていた。

「……言っただろう。身の程は弁えていると」
「とっ、とてもそうは見えませんっ!」
「いい加減にしろ!君が口を出すことじゃない!」
「いいえ!あなたは正気ではない!」

長身の男と大柄な男の空気が震えんばかりの怒号であった。
新兵衛は何故分かってくれないと腹立たしく苦しく悲しく、また同時に武市の表情も新兵衛以上に怒りと苦しさを滲ませていた。

「っどうしても、行かれるのですか」
「…ああ」
「…………でしたら」

カチ、と刀に手をかける音がする。
新兵衛の3度目の決心であった。
ああ、自分が彼にこんなことをするなど……。新兵衛は目を伏せた。
言葉が届いたらどれだけよかったか。されど言葉では通じなかった。
なれば非礼を承知でも。
たとえそれで師を殺めることになっても。
忠臣である己は師の過ちを止めねばならない。
新兵衛の決断を理解した武市は、されど彼の覚悟を問いかけた。

「…………どうする」

新兵衛の開眼と共に武市も静かに刀に手をかける。

「無礼を承知で、力ずくで止めるまで」
「なら、こちらも押し通らせてもらう」

互いの掛け声を端に、覚悟が打ち当たる音がした。





「…………武市さん、遅いなあ……」

いつもならもうとっくに運び終えて1時間が経つ時刻を差す時計を確認してカウンターで独りごちた。
こんなことは始めてだ。武市さんはドタキャンするような人じゃないので、もしや事故にあったのかと思うといてもたってもいられなくて電話を掛けたが誰も出ず、連絡のないまま待ちぼうけているが、来られない訳が出来たことは分かった。

「私が持っていこうか…」

待っていても仕方ないと、今日作った分の勤王まんじゅうの箱を見る。
この大量の箱を運ぶ手段を考えるべく頭をフル回転させた。

「やあ、こんにちは何か──あれ、君は」
「こっこんにちは!あのっ勤王まんじゅうのお届けに来ました」

昭和勤王党の扉を叩くと端正な顔の青年に出迎えられた。

「ああ!まんじゅうの子か!あ〜っそっか今日だったね。や〜行けなくてごめんごめん。おっと運んできてくれたんだ」
「はい、荷台を借りて…」
「そっか、急に2人が行けなくなったからどうしようかと思ってたところなんだ。本当にありがとう。ここまで歩いてきたのかい?大変だったね。よかったらお茶でも飲んでいって」
「あっ、えっとお邪魔します…」

青年に連れられて中に通される。
実は勤王まんじゅう作りを頼まれて3年目になるものの、ここを訪れたのは初めてだった。
打ち合わせは全て私の店でしていたし、特に訪れる用もなかったからだ。
だから厳かな雰囲気の室内に自分が足を踏み入れて良いものかとおそるおそるの足取りになる。

「あっ、僕は坂本龍馬だよ」

そんな私を気にするでもなく案内してくれた青年が手を差し出してくれたので、私も自己紹介をして握手を終えた。

「あの、坂本さん、武市さんと田中さんはどうなされたんでしょう、か…?」

聞いてもいいものか悩んだが朝から気になって仕方なかったのでこちらもおそるおそるで問いかけると坂本さんは、

「ああ。今朝大喧嘩したんだよ」

とケロっとした様子で答えてくれた。

「えっ?!けっ、けんかですか!?」
「そう。それもお互い本気でやり合ったものだから2人とも重傷になってね」

大喧嘩だなんて、な、なにがあったのだろう。流石にこれは聞かない方がいいだろうか。

「理由知りたい?」

すると坂本さんの方から教えてくれそうな雰囲気で顔を近づけられて、思わず身を引いてしまった。でも理由は気になる。

「まあ僕も知らないんだけどね」
「はい?」

しかし途端にあっけらかんとした表情でそう言った坂本さんはなんだか掴みどころのない人だ。

「坂本さんは大丈夫だったんですか?」

見たところこの人は怪我なんかもしてないようだけど聞いてみたら、まるで想定外の質問であったと言わんばかりに坂本さんは目を丸くする。

「僕?僕は部外者だから関係ないよ」
「えっ?」

部外者だという予想外の答えに今度は私が目を丸くしてしまう。

「2人の問題だから僕が割って入るのも違うだろ?」
「は、はあ……?」

そういうものなんだろうか?と首を傾げる私に坂本さんは続けた。

「結局は相倒れでさ、部屋もめちゃくちゃだから直さないと……あっ、まんじゅう届けに来てくれて本当にありがとうね。適当なところに置いといていいよ」

言葉に甘えて空いたスペースに勤王まんじゅうの箱を置いていくと、しゃがんでいる時に後ろから覆い被さるように坂本さんが「ねぇ」と声をかけてきた。

「ここの和菓子さ、君が作ってるの?」
「えっ?は、はい」

振り向いて見上げると金色の瞳と目が合う。
蛇みたいだ、と思った。
さながら今の私は蛇に睨まれたカエルだろうか。
どうしてそう思うのだろう。
坂本さんは雰囲気も柔らかで決して強面ではないのに、不思議とどこか異様な怖さを感じるから背後を取られると心が落ち着かない。

「最近、武市さんが食べてるのは君のところの菓子ばっかりなんだよ」
「あっ、そ、そうなんですか…!」

しかし、ニコとした笑みが紡ぐ言葉には、わっと嬉しくなった。
ここ数年で武市さんの来店も増えていたけどまさかそこまで贔屓にしてもらってる事に友人としても作り手としても嬉しさが湧き上がって、気分が高揚した。

「彼は君のことが好きみたいだ」
「え?」

思わず鼻歌を口ずさむ勢いでいたら後ろから降りかかった言葉をちゃんと聞き取れなくて振り返ったけど、返って来たのは先程と同じ笑みで、結局何て言われたのかは分からなかった。

「武市さんに会いたい?」
「えっ」
「部屋で休んでるよ。もうそろそろ目を覚ます頃かもしれない。今行ったら顔を合わせられるんじゃないかな」

どう?
休んでるときにそれも怪我をしてる人を伺うなんてでもお見舞いとしてなら……と、坂本さんの誘いに負けた私であった。

案内された部屋に入ると武市さんが疲労を滲ませた顔でベッドに伏せていて、丁度目を覚ましていたらしく私に気づくと驚いた顔をした。

「君がなぜ、ここに…」
「あっ、そのすみません…勝手にお邪魔して…」
「い、いや違うんだ。謝る必要はない。君のことだから心配してここまで来てくれたのだろう?」
「は、はい。あっ、あのまんじゅうもお届けできたので、ご心配なさらず」
「なに!」

私の言葉に武市さんは眉間に手を当てて深く息を吐いた。

「……すまない。大変だったろう」
「えっ?いえむしろ運動が出来てよかったです!」

武市さんに会えるならと思うと道のりも辛くなかったから武市さんが気に病むことではないのだと一生懸命説明したら、武市さんはまたため息を吐いて眉を困ったように下げて私を見た。

「君は優しすぎるな…それが君のいい所でもあるが、そのせいで無理はしないように。……だが本当にありがとう。しばらくここで休んでいってくれ。大したもてなしもできずすまんが…」
「えっ?いえいえおもてなしだなんてお構いなく!武市さんはしっかり体を休めてください…!」

むしろ勝手に押しかけておいて、休まなくてはならない武市さんを働かせるなんて出来ないと頭を振って、「武市さん、まだお休みなされた方がいいのでは…?まだ疲れが取れていないように見えます」そう言えば武市さんも納得してくれてベッドに体を倒した。
……どうしよう。武市さんが寝るなら私はもうお暇させてもらった方が。
後ろ髪を引かれる思いで椅子から腰を上げようとしたら、察した武市さんから「待ってくれ」と声がかかった。

「え?」
「折角来てくれたんだ。もう少し私との話に付き合ってくれないだろうか。…君も休みたいだろうに、申し訳ないが…」
「いっ、いえこちらこそお話したいです!」

むしろ武市さんとお話できるならと思って来たのだと椅子に座り直したら武市さんのさっきまでの疲れた顔に少しだけ嬉しさが現れた気がした。

「今回のことについて坂本君から何か聞いたか」
「田中さんと大喧嘩されたと…」
「ああ……身内の揉め事だ」

そう零す武市さんは辛そうで、きっと同じように休んでいる田中さんも今の武市さんと同じ想いなのだと思うと、これまで私が見てきた互いを思い合う2人に早く戻って欲しいと思った。

「仲直り、してくださいね」
「……ああ、できることならそうしたい。私は大事な人を悲しませてばかりだ。今回もそうだ。田中君を傷つけ、君に心配を掛けた」
「えっ」
「……ん?」

耳が拾った言葉に驚いた私に、武市さんが問いかける。
今、だって。

「だいじな…ひと…」
「うん」
「…私も、なんですか?」

私に都合のいいように解釈してるだけかもしれないが、武市さんの言葉を考えるにそう思えてしまって、思わず聞いてしまった。

「…大事だよ。君は、私にとって」
「へ、」
「……いっとう、大事なんじゃ」
「いっとう……」

武市さんから滅多に出てこないお国訛りは私の知らない言葉で、当然だが復唱したところで意味が分かるわけでもなく。
多分……大事な人に入ってることはたしかだろう。えっそれだけで結構すごく嬉しいことだ。いっとうの意味が分からなくても、多分悪い意味では無いのだろうと思うことにした。

「やはり、しばらく離れるべきか……」
「えっ?」
「…いや、何でもない」

考え込んでいたから武市さんの言葉を耳がちゃんと拾えなかったのだが、武市さんはそう言うと「話に付き合ってくれてありがとう。見送りができずすまんが、私はもう休むよ」と目を閉じた。
なんだがとても疲れているようだ。できれば早く武市さんの疲れが取れるといいのだけれど……。
4/9ページ
スキ