武市
初めて勤王党に行かなかった。
自分の店もお休みにした。
きっとあの人が探してる。
会えない。
今は武市さんに会えない。
店にいられない。
どこかに行かないと。
朝からぽつぽつと雨が降っている。
私の気持ちと一緒だ。
朝からふとした瞬間に泣いて、沈んで、疲れてしまった。
気持ちの整理がつかないまま気がついたら夜。
外はいつの間にか土砂降り。
傘を持って無かったのでびしょ濡れになりながら自分の店に戻る。
案の定、店の前に立つ人と目が合った。足が止まった。
私と同じでずぶ濡れ。怒ってる。心配してる。私を見て安堵してる。
あんなに濡れて風邪、引かないかな。
今でもやっぱりあの人を好きな自分に感情がめちゃくちゃになる。
足が動かせなくて、気がついたらその人が目の前に来ていた。
「……」
何も言えなくて俯いたまま、自分の足元を見ていた。
「……心配したぞ」
元気のない声が耳に届く。
武市さんは軒下から出てきたからまた雨で濡れてしまう。こんなに上等なスーツを私のせいで汚してしまって申し訳ない。
傘も差さずに私たちふたり、ずぶ濡れになっていく。
「無事でよかった……朝から連絡がつかないから何事かと……一体どうしたんだ?」
聞きたいこと、怒りたいことが沢山あるだろうに、武市さんの声色は終始優しい。
「……すみ、ません……」
「何をしていたか話してはくれないか?」
「…………」
武市さんはきっと私の行動にわからないと思っているだろうに、ここまできても声が優しい。けれど、それがどうしようもなく辛くて目頭が熱くなる。
今は武市さんの優しさすべてが、私には辛かった。
会いたかった。
会いたくなかった。
優しくしないで。
心配してくれて嬉しい。
つらい。
もうなにもかもがあべこべだ。
頭の中がぐちゃぐちゃで何かを言えば泣きそうになる。
「……何があったんだ」
「っ、へ…?」
ずっと顔を上げない私の頬に手のひらが添えられて、武市さんが屈んで私と目を合わせる。
雨で前髪が乱れている。色っぽくて、こんな時なのに心臓が高鳴ってしまう。どうしようもないくらい自分がこの人を好きなことが、またさらに好きになったことがわかって、心臓が締め付けられて、余計に辛くなる。
好きになっちゃいけないのに。
好きになるのをやめないといけないのに。
だって、この人には奥さんがいる。
武市さんは私の目元をゆっくり撫でると、悲しそうな目をして口を開いた。
「泣いている」
「っ、」
いつの間にか雨に紛れて涙が伝っていた。
「どうした、何があった」
「っ、やめ、」
「このままでは風邪を引く。中に入ろう」
「っほ、といて、」
抵抗する私に武市さんは目を丸くして、「何を言う」とありありと顔に書いて私の肩を掴んだ。
「恋人を放っておける訳ないだろう」
「っ!」
『恋人』という言葉に私の中のせき止められていた感情が決壊した。
「っ離してください!」
たまらず大声を上げていた。武市さんの胸板を押して、むりやり手を引き剥がしていた。
「…な、にを」
武市さんは訳が分からないという顔をしている。傷ついたようにも見える。
「もう、やめて……」
私の心も傷ついて痛みが、涙が溢れて止まらない。
「触らないで…っほっといて…っもうこれ以上、っ好きに、させないで…」
手で顔を覆う。
嗚咽が止まらなくて、声が酷く鼻声だった。こんな声を武市さんに聞かれてることが恥ずかしくて本当に嫌で、けれどあんなに好きな武市さんの優しさが何よりも嫌だった。
諦めないといけないのに、このままじゃ好きをやめられないじゃないか。
ああでも、武市さんを突き飛ばしたくなかった。
好きな人を拒絶したくなんてなかったのに。
なんでこうなったんだろう。
「っ、店に、入ら、ないでください……」
雨の音だけがひどく鮮明に聞こえる。
「っま、まんじゅうもっ、もうつくれませんっ…」
街ゆく人が私たちの様子に足を止めるのがわかる。
「っもう、っ、店に来なっ、来ないでくださ、い」
ぼろぼろ涙で揺れる視界に、傷ついた顔の愛しい人を見た。
「もう、あっ、会えません…っ!」
振り絞って声を張り上げた。
言い終わるその瞬間、子供みたいに声を上げて泣いてしまう。
拭っても拭っても溢れてくる雫は、もうどれが涙で雨なのかわからない。
「どういう、ことだ……?」
いつの間にやら目の前に来ていた人が私と同じで泣いているような、震える声で問いかけてくる。
「なぜいきなり、そんな、私を突き放すようなことを言う」
「っあ、会ってはいけない、っからです」
「理由になっていない」
「っ」
「どうした?一体君に何があったんだ?」
肩を掴まれずとも、詰め寄るその人は私の返事を聞くまで逃がしてくれないだろう。
「他の者に何か言われたか?」
違うと、力いっぱい頭を振る。
「……なら、私のことが嫌いに、なったか」
「っ!」
武市さんのとても悲痛そうな問いかけに息が詰まった。
それなら、どれだけ楽だっただろう!
私が武市さんを嫌いになるわけがないと、この人は知っているだろうか。
奥さんが居ると知って、私が遊びだったかも知れないと気づいても、それでも嫌いになれなかった。
今日一日、ずっとひとりで辛い気持ちを抱え込んで過ごしても、一瞬たりともあなたの事を嫌いになれなかったのだ。
はっ、と詰めていた息が零れる。
武市さんはなんで私が泣いてるか怒っているか知らないから理由を聞いてくるけれど、それがどんなに残酷なことかも知らないのだ。
言わせないでほしいのに。
考えるだけで心がいたいのに、言葉にすればぜんぶがしぬほど痛くなるのに。
それに、これを言えば私たちの関係は終わってしまう。
ああ、罰が当たったのだ。
道端の石ころが高嶺の花を望んではいけなかった。
こんなことなら片思いのまま幸せに浸かっていたかった。
でも今更そんなことどうにもならないから。
意を決して、息を飲んで、言葉を吐いた。
叫びにも近かった。
「あっ、あなたには、お、奥さんがっ、いらっしゃるじゃないですか…!」
私の精一杯の叫びは届いただろうか。
まだまだ強くなるどしゃぶりの雨に私の顔は涙と雫でぐちゃぐちゃだ。
ああ、終わった。終わってしまった。
どうしよう。もう武市さんと一緒にいられなくなってしまった。
「っ、」
武市さんは無言のままだ。
叶うことなら否定してほしかった。けど現実はそうじゃなくて。
それが辛くてますます涙が溢れる。
「……田中君から、聞いたのか」
しばらくすると覚悟を決めていたように、思ったより冷静な声が聞こえた。
「へ…?」
なぜ、田中さんの名前が上がるのだろう。
もしかして、彼は武市さんに奥さんがいることを知っていたのだろうか。
たしかにそれなら初対面の冷たい態度に納得が行く。妻帯者の主君に惚れた娘にいい思いはしない筈だ。岡田さんだって本当は私のことを初対面のときに斬りたくてしょうがなかったかもしれない。
「っ…!」
全ての疑問に納得がいって、自分の馬鹿らしさに怒りたくなる。
武市さんには怒れなかった。
だって私は、今でも武市さんのことを、素敵で、かっこよくて、優しくて。
ああ好きだなあ、と思ってしまう。
だから悪いのも馬鹿なのも、ぜんぶ私なのだ。騙されて当然だから。それくらい身の程知らずなことをしたから。こんなに素敵な武市さんの恋人になるなんて、やっぱり私には望んじゃいけないことだったから。
いつもなら武市さんが拭ってくれる涙を自分で拭っていたら、武市さんが手を伸ばしかけて、やめた。
私が触れないでと言ったからだ。
だからそれで私が傷つくのもおかしいのに胸がズキンと痛むのも、やっぱり心の底では武市さんに涙を拭って欲しいからだ。
「……私の話を聞いてくれるか」
下ろした手の拳を握りしめて、武市さんは言った。
「辛いが、君が言うならもう来ないから、今日だけは中に入れてくれないか。話が終わったら帰るから」
泣きそうな声だ。微かに震えている。
そんなふうに懇願されたら断れない。
こくりと頷いてしまった。
「…私は人ではない」
「……え?」
「英霊と言って、聖杯戦争という戦いによってこの土地に呼び出された、過去の人間だ。人間としての本当の私は既に亡くなっている」
「は……?」
店に入って語り出した武市さんの言葉に、理解が追いつかない。
何を、言ってるんだろう。
「君の言う通り、たしかに私には妻がいる。勿論今でも妻のことは愛しているし、英霊になった今でも彼女以外と触れ合うつもりすらなかった。…だが、その妻もとうに亡くなり、今のこの世にはいない。だからといって君に恋をして良い理由にはならないが、私は──」
「ま、まって。まって、ください」
英霊?過去の人間?もう亡くなってる?聖杯戦争?人じゃない?
一度に聞くには情報量が多いし何一つすぐには飲み込めない。
──武市さんが人間じゃない?
でも、この人は私が作った和菓子を食べ、繋いだ手には体温があって、呼吸をして、見た目だって私と変わらない。どう見たって人だ。
「からかって、るんですか?」
「は、」
だがら思わずそう言ってしまった。
だって信じられない。そんな戦争初めて聞いたし、武市さんが人じゃないなんて信じられるわけが無い。
それに、こんなこと想像したくないし、武市さんがそんなことする人じゃないって分かってるけど。
もし、もし私を丸め込むための嘘だったら。
そうだったらどうしようって思ったら、途端に責めるような口調になってしまった。
「そんな、ひどい、まだ奥さんはいないって言ってくれた方が、よっぽど楽だったのに」
「なにを、」
「いっそのこと、振ってほしかったのに!」
「っ私が君を揶揄うものか!!」
「っ!」
初めて聞いた怒鳴り声に、驚きと怯えで肩が思い切り跳ねた。
武市さんは悔しそうな顔だった。
すると泣きそうな私を見て、目を伏せると一度ため息を吐いて、いつもの落ち着いた声色に戻った。
「……怒鳴ってすまない。だが、私の言葉に嘘偽りがないこと…それに私が…この第二の生で出会った最愛の人である君に嘘をつかないことは、私の真名に誓おう」
「最愛、の…」
「訳あって詳しいことは話せないが、君が知りたいことで私が応えられることなら何でも話そう」
「……」
「だから、どうか信じて欲しい……!」
苦しそうに、泣くのを我慢しているような目で、懇願するように言われて、私はどうしてもこの人が嘘をついているようには思えなくなった。
冷静に考えれば、今の武市さんのように高杉さんも自分たちは複雑だ、詳しい理由は話せないがと言っていた。
きっと、この人たちは私には理解できないほどの複雑な事情を抱えている。
今でも奥さんを愛していると言うのも本当だと思う。それでも武市さんが私と恋人になったのも、彼なりに葛藤があって、何か訳があるのだろう。
少し頭が落ち着いてきて、心が少し楽になり始めてきた。
その代わりに武市さんは未だに苦しそうに、どこへも縋れない手を握りしめていた。
「だからどうか、私から離れないでくれ…」
「武市、さん」
「会わないなんて、そのようなひどい仕打ち、されたら、私は…」
語尾につれて力をなくしていく声に、痛いほどに握りこまれている手に、たまらなくなって、咄嗟にその手を包み込んでいた。
武市さんの目が見開かれる。
目元が少し赤かった。
「っ、」
「聞きません。何も」
「は、」
もう大丈夫だと言いたかった。
武市さんが打ち明けてくれたことで、私の心がだいぶ救われたから。
けれど武市さんは何か勘違いしたようで、先程よりも泣きたそうな顔に変わった。
「私は…もう君に、不要だろうか」
「へっ?」
「とぼけずともいい。もう私の話には耳を貸すほどの価値がないのだろう。すまない、無理を言って引き止めてしまった。約束通り、もう来ない」
「えっ、ちょ待っ!待って!待ってください!違いますっ!」
泣きそうな顔でまくし立てて店を出ていこうとするから私に出せる全力で腕を引っ張って引き止めると、武市さんは何が起こったのかわからないみたいな顔をした。あああ私の言い方が悪かったんですごめんなさい…!
「ちち違います!武市さんが打ち明けてくれたことで十分だと言いたくて」
「は……?」
「信じます、武市さんのこと」
私の意志を伝えるように繋いだ手に力を込める。
信じようと思う。武市さんのこと。
私がこの世界で一番好きな、たったひとりの大切な人だから。
この人がいないと、私の世界はあってないようなものだから。
「人じゃない、ことにはびっくりしましたけど…でも、私のお菓子を食べてくれて、一緒に笑ったり、お出かけしたり…手を繋いだり、抱きしめてくれたり、お話したり。まだ沢山武市さんとしてないことはありますけど、もし武市さんが、いわゆる人じゃなくでも…それが出来るだけで私は十分ですから」
「……」
「奥さんがいらっしゃることも…初めて知った時はショックで堪らなくて、なんで妻帯者なのにとか、なんで私と恋人になったんだろうとかずっと悩んで苦しくて…でもまだちゃんと理解出来てはないですけど、武市さんにも何か事情があることだけは分かったので…いつか武市さんが私にすべて話してもよくなったとき、話を聞きたいです。それで自分でどうするか選びたいと…そう思います」
武市さんは誠実な人だから単に私を騙していたわけじゃないと思う。
彼なりに話す時期を考えて、来るべき時が来たらちゃんと話してくれたはずだ。
私が傷ついたらまるで自分のことのように悲しんでくれるこの人が、ただ酷いなんてことはないと知っている。
私が好きになった武市さんはそういう人だから。
私を傷つけないようにして、それで武市さんが苦しんでいたんだと思うと、目の前の人に謝りたくて、慰めたくて堪らなかった。
「っ、」
すると、ぽろと武市さんの灰褐色の瞳が涙を零した。
「…へっ?!」
「っすまない」
「えっ、あの、武市さん大じょう」
ぶですか?という言葉は目の前の人に抱きしめられたことで声にならなかった。片腕が私の身体に回されている。片手は今も繋がったままで、私の溢れた手汗がバレると思うと恥ずかしくなった。
「えっ、えああの」
「っ今だけは」
「へっ?」
「今だけは、君に触れることを許してほしい」
「…あっ……」
許しを請うような声。
ずっとこの人は私の咄嗟の触れないでという言葉を守ってくれていたから。
「君への愛しさが、っ溢れて止まらないんだ」
顔を上げると、武市さんから零れた綺麗な涙が私の頬に落ちた。
堰を切ったようにぽろぽろと涙を流す武市さんに私も愛おしさで胸が締め付けられる。
今日、ずっとこうしたかった。抱きしめられたかった。貴方のぬくもりが欲しくてたまらなかった。でも言いたい言葉が、武市さんの切ない表情を見ると喉に詰まって声にならない。
「……此度の生で恋をするつもりはなかった。人として生きた私の最愛は妻ただ1人だ。英霊となって、妻がそばにおらずとも、彼女以外の人を愛するつもりすらなかったのだ」
この人の奥さんを私は知らないけれど、武市さんが妻という言葉に込める愛おしさに、ああ、この人は本当に奥さんを愛しているんだと、胸が痛いほど分かった。
「──だが、君と会う度に気持ちが溢れるのを止められなかった」
けれど、武市さんの言葉に、それが私にも同じ程に向けられていると分かって、もうたまらなくて。
武市さんがもう一度、今度は堪えるように、止められなかったのだ、と零した瞬間、私も涙を零してしまった。
「っ私に笑いかける君が愛おしくてたまらない、菓子を作るとき味見をするその唇に触れたい、かよわく柔らかい手を包み込んで離したくない…君の目に映るのが私だけであってほしい。その想いを、抑えることができなかった」
ひっ、う、と嗚咽が零れてしまう。泣き出す私に武市さんは眉を八の字にして、より愛おしさを滲ませた瞳になった。私の涙を拭ってくれる優しい手のぬくもりを、武市さんから貰う言葉を、これだけはと、必死になって受け取る。
「これは罪ではなく、此度で生を受けたことの喜びだと思った。誰かを愛することはこの世に生を受けた者に等しく与えられた喜びだと」
「っ」
愛するという言葉に、胸が詰まる。
私で、いいんだろうか。
そんな、武市さんの大切な相手が、私なんかでいいんだろうか。
こんなにも真っ直ぐな人が愛する人が。
「っ、わたしなんかで、いいんですか……っ?」
拭いきれないほど大粒の涙を流しながら問いかけると、武市さんは涙を浮かべた目元を緩めて、微笑みを浮かべた。
「君がいい」
「っへ、」
「君じゃないと、だめなんだ」
「ぁ、っ、う……」
「君を、愛している」
もうだめだ。嬉しい。しぬほど嬉しい。
顔も手も体もカッと熱くなって、武市さんの胸板に顔を埋めて泣いた。
すると手を握られて、名前を呼ばれた。
その声に泣いていた顔を上げると、武市さんの瞳に私が映っていた。
泣いているけれど、今までで一番幸福そうな笑顔だった。
自分の店もお休みにした。
きっとあの人が探してる。
会えない。
今は武市さんに会えない。
店にいられない。
どこかに行かないと。
朝からぽつぽつと雨が降っている。
私の気持ちと一緒だ。
朝からふとした瞬間に泣いて、沈んで、疲れてしまった。
気持ちの整理がつかないまま気がついたら夜。
外はいつの間にか土砂降り。
傘を持って無かったのでびしょ濡れになりながら自分の店に戻る。
案の定、店の前に立つ人と目が合った。足が止まった。
私と同じでずぶ濡れ。怒ってる。心配してる。私を見て安堵してる。
あんなに濡れて風邪、引かないかな。
今でもやっぱりあの人を好きな自分に感情がめちゃくちゃになる。
足が動かせなくて、気がついたらその人が目の前に来ていた。
「……」
何も言えなくて俯いたまま、自分の足元を見ていた。
「……心配したぞ」
元気のない声が耳に届く。
武市さんは軒下から出てきたからまた雨で濡れてしまう。こんなに上等なスーツを私のせいで汚してしまって申し訳ない。
傘も差さずに私たちふたり、ずぶ濡れになっていく。
「無事でよかった……朝から連絡がつかないから何事かと……一体どうしたんだ?」
聞きたいこと、怒りたいことが沢山あるだろうに、武市さんの声色は終始優しい。
「……すみ、ません……」
「何をしていたか話してはくれないか?」
「…………」
武市さんはきっと私の行動にわからないと思っているだろうに、ここまできても声が優しい。けれど、それがどうしようもなく辛くて目頭が熱くなる。
今は武市さんの優しさすべてが、私には辛かった。
会いたかった。
会いたくなかった。
優しくしないで。
心配してくれて嬉しい。
つらい。
もうなにもかもがあべこべだ。
頭の中がぐちゃぐちゃで何かを言えば泣きそうになる。
「……何があったんだ」
「っ、へ…?」
ずっと顔を上げない私の頬に手のひらが添えられて、武市さんが屈んで私と目を合わせる。
雨で前髪が乱れている。色っぽくて、こんな時なのに心臓が高鳴ってしまう。どうしようもないくらい自分がこの人を好きなことが、またさらに好きになったことがわかって、心臓が締め付けられて、余計に辛くなる。
好きになっちゃいけないのに。
好きになるのをやめないといけないのに。
だって、この人には奥さんがいる。
武市さんは私の目元をゆっくり撫でると、悲しそうな目をして口を開いた。
「泣いている」
「っ、」
いつの間にか雨に紛れて涙が伝っていた。
「どうした、何があった」
「っ、やめ、」
「このままでは風邪を引く。中に入ろう」
「っほ、といて、」
抵抗する私に武市さんは目を丸くして、「何を言う」とありありと顔に書いて私の肩を掴んだ。
「恋人を放っておける訳ないだろう」
「っ!」
『恋人』という言葉に私の中のせき止められていた感情が決壊した。
「っ離してください!」
たまらず大声を上げていた。武市さんの胸板を押して、むりやり手を引き剥がしていた。
「…な、にを」
武市さんは訳が分からないという顔をしている。傷ついたようにも見える。
「もう、やめて……」
私の心も傷ついて痛みが、涙が溢れて止まらない。
「触らないで…っほっといて…っもうこれ以上、っ好きに、させないで…」
手で顔を覆う。
嗚咽が止まらなくて、声が酷く鼻声だった。こんな声を武市さんに聞かれてることが恥ずかしくて本当に嫌で、けれどあんなに好きな武市さんの優しさが何よりも嫌だった。
諦めないといけないのに、このままじゃ好きをやめられないじゃないか。
ああでも、武市さんを突き飛ばしたくなかった。
好きな人を拒絶したくなんてなかったのに。
なんでこうなったんだろう。
「っ、店に、入ら、ないでください……」
雨の音だけがひどく鮮明に聞こえる。
「っま、まんじゅうもっ、もうつくれませんっ…」
街ゆく人が私たちの様子に足を止めるのがわかる。
「っもう、っ、店に来なっ、来ないでくださ、い」
ぼろぼろ涙で揺れる視界に、傷ついた顔の愛しい人を見た。
「もう、あっ、会えません…っ!」
振り絞って声を張り上げた。
言い終わるその瞬間、子供みたいに声を上げて泣いてしまう。
拭っても拭っても溢れてくる雫は、もうどれが涙で雨なのかわからない。
「どういう、ことだ……?」
いつの間にやら目の前に来ていた人が私と同じで泣いているような、震える声で問いかけてくる。
「なぜいきなり、そんな、私を突き放すようなことを言う」
「っあ、会ってはいけない、っからです」
「理由になっていない」
「っ」
「どうした?一体君に何があったんだ?」
肩を掴まれずとも、詰め寄るその人は私の返事を聞くまで逃がしてくれないだろう。
「他の者に何か言われたか?」
違うと、力いっぱい頭を振る。
「……なら、私のことが嫌いに、なったか」
「っ!」
武市さんのとても悲痛そうな問いかけに息が詰まった。
それなら、どれだけ楽だっただろう!
私が武市さんを嫌いになるわけがないと、この人は知っているだろうか。
奥さんが居ると知って、私が遊びだったかも知れないと気づいても、それでも嫌いになれなかった。
今日一日、ずっとひとりで辛い気持ちを抱え込んで過ごしても、一瞬たりともあなたの事を嫌いになれなかったのだ。
はっ、と詰めていた息が零れる。
武市さんはなんで私が泣いてるか怒っているか知らないから理由を聞いてくるけれど、それがどんなに残酷なことかも知らないのだ。
言わせないでほしいのに。
考えるだけで心がいたいのに、言葉にすればぜんぶがしぬほど痛くなるのに。
それに、これを言えば私たちの関係は終わってしまう。
ああ、罰が当たったのだ。
道端の石ころが高嶺の花を望んではいけなかった。
こんなことなら片思いのまま幸せに浸かっていたかった。
でも今更そんなことどうにもならないから。
意を決して、息を飲んで、言葉を吐いた。
叫びにも近かった。
「あっ、あなたには、お、奥さんがっ、いらっしゃるじゃないですか…!」
私の精一杯の叫びは届いただろうか。
まだまだ強くなるどしゃぶりの雨に私の顔は涙と雫でぐちゃぐちゃだ。
ああ、終わった。終わってしまった。
どうしよう。もう武市さんと一緒にいられなくなってしまった。
「っ、」
武市さんは無言のままだ。
叶うことなら否定してほしかった。けど現実はそうじゃなくて。
それが辛くてますます涙が溢れる。
「……田中君から、聞いたのか」
しばらくすると覚悟を決めていたように、思ったより冷静な声が聞こえた。
「へ…?」
なぜ、田中さんの名前が上がるのだろう。
もしかして、彼は武市さんに奥さんがいることを知っていたのだろうか。
たしかにそれなら初対面の冷たい態度に納得が行く。妻帯者の主君に惚れた娘にいい思いはしない筈だ。岡田さんだって本当は私のことを初対面のときに斬りたくてしょうがなかったかもしれない。
「っ…!」
全ての疑問に納得がいって、自分の馬鹿らしさに怒りたくなる。
武市さんには怒れなかった。
だって私は、今でも武市さんのことを、素敵で、かっこよくて、優しくて。
ああ好きだなあ、と思ってしまう。
だから悪いのも馬鹿なのも、ぜんぶ私なのだ。騙されて当然だから。それくらい身の程知らずなことをしたから。こんなに素敵な武市さんの恋人になるなんて、やっぱり私には望んじゃいけないことだったから。
いつもなら武市さんが拭ってくれる涙を自分で拭っていたら、武市さんが手を伸ばしかけて、やめた。
私が触れないでと言ったからだ。
だからそれで私が傷つくのもおかしいのに胸がズキンと痛むのも、やっぱり心の底では武市さんに涙を拭って欲しいからだ。
「……私の話を聞いてくれるか」
下ろした手の拳を握りしめて、武市さんは言った。
「辛いが、君が言うならもう来ないから、今日だけは中に入れてくれないか。話が終わったら帰るから」
泣きそうな声だ。微かに震えている。
そんなふうに懇願されたら断れない。
こくりと頷いてしまった。
「…私は人ではない」
「……え?」
「英霊と言って、聖杯戦争という戦いによってこの土地に呼び出された、過去の人間だ。人間としての本当の私は既に亡くなっている」
「は……?」
店に入って語り出した武市さんの言葉に、理解が追いつかない。
何を、言ってるんだろう。
「君の言う通り、たしかに私には妻がいる。勿論今でも妻のことは愛しているし、英霊になった今でも彼女以外と触れ合うつもりすらなかった。…だが、その妻もとうに亡くなり、今のこの世にはいない。だからといって君に恋をして良い理由にはならないが、私は──」
「ま、まって。まって、ください」
英霊?過去の人間?もう亡くなってる?聖杯戦争?人じゃない?
一度に聞くには情報量が多いし何一つすぐには飲み込めない。
──武市さんが人間じゃない?
でも、この人は私が作った和菓子を食べ、繋いだ手には体温があって、呼吸をして、見た目だって私と変わらない。どう見たって人だ。
「からかって、るんですか?」
「は、」
だがら思わずそう言ってしまった。
だって信じられない。そんな戦争初めて聞いたし、武市さんが人じゃないなんて信じられるわけが無い。
それに、こんなこと想像したくないし、武市さんがそんなことする人じゃないって分かってるけど。
もし、もし私を丸め込むための嘘だったら。
そうだったらどうしようって思ったら、途端に責めるような口調になってしまった。
「そんな、ひどい、まだ奥さんはいないって言ってくれた方が、よっぽど楽だったのに」
「なにを、」
「いっそのこと、振ってほしかったのに!」
「っ私が君を揶揄うものか!!」
「っ!」
初めて聞いた怒鳴り声に、驚きと怯えで肩が思い切り跳ねた。
武市さんは悔しそうな顔だった。
すると泣きそうな私を見て、目を伏せると一度ため息を吐いて、いつもの落ち着いた声色に戻った。
「……怒鳴ってすまない。だが、私の言葉に嘘偽りがないこと…それに私が…この第二の生で出会った最愛の人である君に嘘をつかないことは、私の真名に誓おう」
「最愛、の…」
「訳あって詳しいことは話せないが、君が知りたいことで私が応えられることなら何でも話そう」
「……」
「だから、どうか信じて欲しい……!」
苦しそうに、泣くのを我慢しているような目で、懇願するように言われて、私はどうしてもこの人が嘘をついているようには思えなくなった。
冷静に考えれば、今の武市さんのように高杉さんも自分たちは複雑だ、詳しい理由は話せないがと言っていた。
きっと、この人たちは私には理解できないほどの複雑な事情を抱えている。
今でも奥さんを愛していると言うのも本当だと思う。それでも武市さんが私と恋人になったのも、彼なりに葛藤があって、何か訳があるのだろう。
少し頭が落ち着いてきて、心が少し楽になり始めてきた。
その代わりに武市さんは未だに苦しそうに、どこへも縋れない手を握りしめていた。
「だからどうか、私から離れないでくれ…」
「武市、さん」
「会わないなんて、そのようなひどい仕打ち、されたら、私は…」
語尾につれて力をなくしていく声に、痛いほどに握りこまれている手に、たまらなくなって、咄嗟にその手を包み込んでいた。
武市さんの目が見開かれる。
目元が少し赤かった。
「っ、」
「聞きません。何も」
「は、」
もう大丈夫だと言いたかった。
武市さんが打ち明けてくれたことで、私の心がだいぶ救われたから。
けれど武市さんは何か勘違いしたようで、先程よりも泣きたそうな顔に変わった。
「私は…もう君に、不要だろうか」
「へっ?」
「とぼけずともいい。もう私の話には耳を貸すほどの価値がないのだろう。すまない、無理を言って引き止めてしまった。約束通り、もう来ない」
「えっ、ちょ待っ!待って!待ってください!違いますっ!」
泣きそうな顔でまくし立てて店を出ていこうとするから私に出せる全力で腕を引っ張って引き止めると、武市さんは何が起こったのかわからないみたいな顔をした。あああ私の言い方が悪かったんですごめんなさい…!
「ちち違います!武市さんが打ち明けてくれたことで十分だと言いたくて」
「は……?」
「信じます、武市さんのこと」
私の意志を伝えるように繋いだ手に力を込める。
信じようと思う。武市さんのこと。
私がこの世界で一番好きな、たったひとりの大切な人だから。
この人がいないと、私の世界はあってないようなものだから。
「人じゃない、ことにはびっくりしましたけど…でも、私のお菓子を食べてくれて、一緒に笑ったり、お出かけしたり…手を繋いだり、抱きしめてくれたり、お話したり。まだ沢山武市さんとしてないことはありますけど、もし武市さんが、いわゆる人じゃなくでも…それが出来るだけで私は十分ですから」
「……」
「奥さんがいらっしゃることも…初めて知った時はショックで堪らなくて、なんで妻帯者なのにとか、なんで私と恋人になったんだろうとかずっと悩んで苦しくて…でもまだちゃんと理解出来てはないですけど、武市さんにも何か事情があることだけは分かったので…いつか武市さんが私にすべて話してもよくなったとき、話を聞きたいです。それで自分でどうするか選びたいと…そう思います」
武市さんは誠実な人だから単に私を騙していたわけじゃないと思う。
彼なりに話す時期を考えて、来るべき時が来たらちゃんと話してくれたはずだ。
私が傷ついたらまるで自分のことのように悲しんでくれるこの人が、ただ酷いなんてことはないと知っている。
私が好きになった武市さんはそういう人だから。
私を傷つけないようにして、それで武市さんが苦しんでいたんだと思うと、目の前の人に謝りたくて、慰めたくて堪らなかった。
「っ、」
すると、ぽろと武市さんの灰褐色の瞳が涙を零した。
「…へっ?!」
「っすまない」
「えっ、あの、武市さん大じょう」
ぶですか?という言葉は目の前の人に抱きしめられたことで声にならなかった。片腕が私の身体に回されている。片手は今も繋がったままで、私の溢れた手汗がバレると思うと恥ずかしくなった。
「えっ、えああの」
「っ今だけは」
「へっ?」
「今だけは、君に触れることを許してほしい」
「…あっ……」
許しを請うような声。
ずっとこの人は私の咄嗟の触れないでという言葉を守ってくれていたから。
「君への愛しさが、っ溢れて止まらないんだ」
顔を上げると、武市さんから零れた綺麗な涙が私の頬に落ちた。
堰を切ったようにぽろぽろと涙を流す武市さんに私も愛おしさで胸が締め付けられる。
今日、ずっとこうしたかった。抱きしめられたかった。貴方のぬくもりが欲しくてたまらなかった。でも言いたい言葉が、武市さんの切ない表情を見ると喉に詰まって声にならない。
「……此度の生で恋をするつもりはなかった。人として生きた私の最愛は妻ただ1人だ。英霊となって、妻がそばにおらずとも、彼女以外の人を愛するつもりすらなかったのだ」
この人の奥さんを私は知らないけれど、武市さんが妻という言葉に込める愛おしさに、ああ、この人は本当に奥さんを愛しているんだと、胸が痛いほど分かった。
「──だが、君と会う度に気持ちが溢れるのを止められなかった」
けれど、武市さんの言葉に、それが私にも同じ程に向けられていると分かって、もうたまらなくて。
武市さんがもう一度、今度は堪えるように、止められなかったのだ、と零した瞬間、私も涙を零してしまった。
「っ私に笑いかける君が愛おしくてたまらない、菓子を作るとき味見をするその唇に触れたい、かよわく柔らかい手を包み込んで離したくない…君の目に映るのが私だけであってほしい。その想いを、抑えることができなかった」
ひっ、う、と嗚咽が零れてしまう。泣き出す私に武市さんは眉を八の字にして、より愛おしさを滲ませた瞳になった。私の涙を拭ってくれる優しい手のぬくもりを、武市さんから貰う言葉を、これだけはと、必死になって受け取る。
「これは罪ではなく、此度で生を受けたことの喜びだと思った。誰かを愛することはこの世に生を受けた者に等しく与えられた喜びだと」
「っ」
愛するという言葉に、胸が詰まる。
私で、いいんだろうか。
そんな、武市さんの大切な相手が、私なんかでいいんだろうか。
こんなにも真っ直ぐな人が愛する人が。
「っ、わたしなんかで、いいんですか……っ?」
拭いきれないほど大粒の涙を流しながら問いかけると、武市さんは涙を浮かべた目元を緩めて、微笑みを浮かべた。
「君がいい」
「っへ、」
「君じゃないと、だめなんだ」
「ぁ、っ、う……」
「君を、愛している」
もうだめだ。嬉しい。しぬほど嬉しい。
顔も手も体もカッと熱くなって、武市さんの胸板に顔を埋めて泣いた。
すると手を握られて、名前を呼ばれた。
その声に泣いていた顔を上げると、武市さんの瞳に私が映っていた。
泣いているけれど、今までで一番幸福そうな笑顔だった。
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