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月と敬慕





隣の家の男が、出ていく音。俺は彼に嘘をついた。嘘、というか、全てを話さなかった。写真で見せられた男が来ていたのは事実だし、女の子が連れて行かれたのを見たのも事実だ。けれど。
まず、帰ってきたのが夕方というところから嘘だった。俺はずっと家にいた。最近ずっとそうだが、逼迫した用事がないのに家を出るのが、怖かったのだ。いつまた、あの男が俺の後ろを歩いているか、分からないから。ただ、それが起こった時間が夕方だということは、本当だった。
「ここすか?」
「ああ。さっさと済ませるぞ」
「はい」
部屋の隅で蹲っていた俺は、知らない男の声に顔を上げた。外の様子を見張るために、あの日からずっと閉められない小窓から、それは漏れ聞こえていた。そっと近づけば、男たちは隣の家に用があるようで、さすがになにをしているかまでは見えなかったが、声だけはずっと聞こえていた。むしろ、声が聞こえただけでも充分だった。男たちは隣の家の鍵を開けようとしていた。恐らくは、ピッキングだろう。このアパートは古い。鍵も、セキュリティーなんてあってないようなもの、といったレベルでしかないので、そう時間がかからない内に鍵は開いたようだった。がたがたと何かを倒すような音と、逃げ惑うような走る音。くぐもった女の子の悲鳴。数分が過ぎ去って、静かになった隣の部屋から、男が二人出てきた。静かになった女の子を、抱きかかえて。二人の男はどちらも、隣の家の住人ではなかった。女の子は、この前すれ違ったから覚えている。どうやら下っ端らしい若い男が女の子を連れていて、目つきの悪い年上らしい男が、うちの前を通り過ぎる時に、開いている窓に気がついた。
「っ……」
「……………」
咄嗟に隠れて、小さくなる。立ち止まる足音。なにしてんすか、と若い男の声がして、数呼吸置いてから、なんでもないよ、と男が低く笑った。誰もいないんだから、なんでもない。そう男ははっきりと、恐らくは俺に向けて告げた。誰もいない、なにも見ていない。どこかに告げ口なんてできようはずもない。俺がもう既に一つ秘密を抱えてしまっていることを、まるで男は知っているようだった。知っていたのかもしれない。あの日の夜、眠れずにずっと部屋の前を見張っていた時に、隣の家を訪れたのはあの低く笑った男だった。
ぐったりしている女の子を抱きかかえたまま、二人は何事もなかったかのように行ってしまった。息を殺したまま全てを見ていた俺は、そこでようやく安心したのだ。自分に危害が及ばなかったことに対して、じゃない。これで一人減った、と思った。あの血溜まりを知っているかもしれない人間が、一人減った。それに対して安心したのだ。

遡ること、34日前。
「分かってるって。ちゃんと考えてる」
「ほんと?いつもそう言う……」
「本当。ちゃんと戸締りするんだぞ」
「……うん」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
瑞歩を家へ送り届けて、自分も帰路を辿る。月が綺麗に見える夜だった。明日でとりあえずひと段落か、何も起きなくて良かった。ストーカーは諦めたんだろうか、と一人思いながら、瑞歩の家と比べたら天と地ほどの差がある自分の住むアパートへと、道を曲がる。うちに招いたことはまだない。ドン引かれたらやだし。
「……?」
見知らぬ男が、うちの前に立っていた。お隣さんだろうか。にしては、うち寄りに立っている。鍵でも無くして困っているのかな、と呑気に思うまで、気がつかなかったのだ。ようやく足を止める。男との距離は、もうそう遠くなかった。
「……ぇ、っ」
男の手には、鈍く光る包丁が握られていた。切れかけた電球の灯りしかない、薄暗い家の前でも、いやにはっきりと見えた。男はぼうっとそこに立ったまま、じっとこっちを見ている。唇をあまり動かさないまま、男が喋った。
「瑞歩さんから離れろ」
「……は、?」
「……………」
「みず……はあ?なん、っなんで、そんなこと言われなきゃ、」
「瑞歩さんから、離れろ」
淡々とした口調は変わらないまま、一回目よりもはっきりと、そう告げられる。それと同時に包丁を握っていた手が緩慢に動いて、刃先をこっちに向けて、構えられた。言葉を途切れさせた俺に、男は何も言わず、しばらく無言が続いた。分かった、と言えばいいんだろうか。恐らくこの男は、瑞歩のストーカーなのだろう。ここで、言葉だけで了承することは簡単だ。けれどきっとこいつは、真偽を確かめにまた瑞歩の後をつけると思う。それで嘘がバレたら、危険な目に遭うのは瑞歩ではないのか。簡単に刃物を持ち出すような人間に、軽々しく嘘をついて大丈夫なものなのか。なんと答えていいか迷って黙り込む俺に、男がまたぼそぼそと吐き捨てた。
「……二股をかけているのを知っている。瑞歩さんから、早く離れろ」
「……はっ?」
「……………」
「なんで知って、ていうか、いや、二股とかかけてねえし、なんで……」
意味のない言葉を重ねながら、血が足下に落ちていくのを感じた。俺が帰り道に同行したこの約一週間、瑞歩はストーカーの気配を感じなかったという。それは、気の緩みでもなんでもなく、本当だったのではないか。俺がいるのを見て、男は瑞歩の後をつけるのをやめた。その代わりに、瑞穂を送り届けた後の俺に、ずっとついてきていたのではないかと、思った。少なくとも昨日までの5日間、後をつけられていた?なんなら、家も見張られていたのかもしれない。昨日確かに、高校時代の友人から連絡が来て、久しぶりに会ったし、家にも招いた。けどそれは一晩だけだし、付き合うつもりもない。二股、という言葉が出る時点で、その一連は見られていたとみて間違い無いだろう。ということは、この男は、ずっと。それに思い至った途端、急に怖気立って、半歩足を引いた。男はそれに呼応するように、距離を詰めてきた。
「ひ、っ」
「もう会うな。離れろ」
「な、ん……っなんでお前、誰なんだよ!」
「……………」
「っ……!」
無言で距離を詰められて、恐怖心が勝った。強張る足のまま、無理やり逃げ出そうと踵を返した俺に、男が手を伸ばす。服の裾を力任せに引っ張られてバランスを崩し、ほとんど家の玄関に突っ込むように倒れ込んだ。顔の右側を思い切りドアノブに打って、目の上が異様なほど熱くなる。転ばずに体勢を保ったらしい男が、俺の胸ぐらを掴みなおして、包丁をこっちに向けたまま、離れろ、と再び繰り返す。殺される、と本気で思った。だってこの男は、俺を逃してくれなかった。ただ脅したいだけじゃない。言うことを聞かなかったら、刺される。死にたくない。その一心で、無我夢中だった。
俺の上にいる男を無理やり突き飛ばす。虚を疲れたようで、男の身体が後ろに傾いた。掴まれたままの胸ぐらを離させようと殴りかかった手は男の頬に当たって、反動で振り回された刃物に身体を引く。さっきぶつけた右側の額を鋒が掠って、痛みはもう感じなかった。勢いのまま地面に転がって、ざりざりと皮膚が削れる音がした。顔を上げると、男の靴が見えて、そのまま蹴られた。腹に入った足を、こみ上げる吐き気もそのまま抱え込む。伸ばした手は、包丁を握る男の手に、届いた。包丁を中心に、揉み合いになる。これさえ奪えば、殺されずに済む。男が垂らした鼻血が、俺の手に滴ってきた。そのせいで一瞬滑った手に気を取られた男に、咄嗟に頭突きして、刃物を奪い取る。自分の手の内に入った包丁を、焦ったように取り返そうとする男へ、向けた。
「……あ、っ」
柔らかい感触。じわじわと、暖かいなにかが滲み出てくる。身体を引くと、俺と手にくっついたままの包丁は、ずるりと男の腹から抜けた。声もないまま、顔を歪めて、腹を押さえ膝をついた男を、他人事のように見下ろす。震える手を伸ばされて、気持ちが悪い、と思った。それは、死にかけの虫を見ているのと、同じような感覚だった。
何度か腹を刺した。何度刺したかは、いまいちわからないけれど、男がぴくりともしなくなってようやく、気持ち悪さがなくなって、手を止めた。真っ赤になった自分の手と、脂ぎった包丁。動きを止めてしまうと興奮状態も切れて、ぞっとした。急に、なにもかもが怖くなった。自分の家の鍵を開けるのに手こずって、なんとか部屋に駆け込んで、必死で手を洗う。何度洗っても血が落ちなくて、途中でやめた。台所の小窓を開けて外を覗くと、男の足が投げ出されているのが見えた。まだいる。どこかに行ってくれ。早く目を覚まして、帰ってくれ。玄関口で取り落としたらしい真っ赤な包丁が、いつまでもそこにあった。
それから。男がいついなくなるかと見張っていたら、隣の家の男が帰ってきた。それからしばらくして、見知らぬ男がまた一人増えて、ストーカーの男を見ていたそいつはすぐに帰っていった。頭ががんがん痛んで、目の奥が燃えるみたいに熱かった。呼吸が苦しくて、何度も短く意識を失って、気がついたら倒れていた。次に目を覚ました時には、身体が酷く重くて、辺りは窓から差し込む光で明るかった。まだ自分の身体は血で汚れていて、玄関に落ちている包丁もそのままで、そのはずなのに、窓の外には男がいなかった。服を着替えて、恐る恐る部屋から出る。血の痕跡すらない。自分の家のドアノブも、血で濡れた手で触ったから汚れていたはずなのに、綺麗になっていた。なんだ。あいつ、いなくなったのか。きっと、生きてたんだ。病院にでも行ったに違いない。それで自分が犯罪者だってバレたら困るから、血も掃除していったんだ。そうだ。きっとそうだ。玄関の扉を閉めると、笑えてきた。なんだ。良かった。じゃあ、あとは、自分の手の汚れを綺麗にするのと、血がついた服と包丁をどうにかして処理すればいいってことだ。簡単なことじゃないか。ちゃんと考えれば、大丈夫だ。

いつ男が戻ってくるかわからなくて、見張るために窓は閉められなかった。けれど、一ヶ月が経っても男は戻ってこなかった。血がついた包丁と服は、家の裏に埋めた。お隣さんは出ていった。女の子は拐われた。あと残っているのはあの怪しい男だ。ここにいるのは危険かもしれない。次は俺が拐われるかも。それは困る。せっかく、平穏が取り戻せそうなのに。



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