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月と敬慕






あれから1ヶ月近くが経過して、暑さもだいぶおさまってきた頃。俺はとっくに仕事に戻って、しばらくはなんとなくそわそわしながらやっていたけれど、警察が来るわけでもなく、危ない目に遭うわけでもなく、今まで通りの日常に戻った。だからなんだか、あの死体さんのことは、なかったことのようになっていた。
今日は、アイちゃんにお土産を買ってきた。かぼちゃプリン。かぼちゃが好きだと聞いたのはつい一昨日のことで、コンビニに入ったらちょうど期間限定のそれを見つけたので、つい買ってしまったのだ。空を見上げたら、今日も月がよく見えた。まんまるではないのが残念だ。アイちゃんは、喜んでくれるだろうか。ポケットから鍵を取り出して回そうとして、違和感に気付いた。
「……?」
いつもの方向に回しても、鍵が開いた感じがしない。反対に回すと、がちゃりと音がした。気を取り直してもう一度いつもの方向に回し直して、扉を開ける。鍵、開いてたのかな。俺、朝閉め忘れた?それとも、アイちゃんが昼間買い物行って、帰ってきて閉め忘れたのかな。電気のついた部屋の中に、声をかける。
「ただいまー。アイちゃん、鍵開いてたよ?女の子なんだから、気をつけてって……」
中は無人だった。お風呂入ってるとか、トイレか、といろんなところを覗き回って、それでもアイちゃんはいなかった。ゴミでも捨てに行ってるのかな。それで鍵が開きっぱなしだった、とか。プリンを冷蔵庫にしまって、一人意味もなく部屋を見渡した。
しばらく待ってみたものの、アイちゃんは戻ってこなかった。家の外に出てみて、辺りを一通り歩き回って、それでも見つからなかった。違和感がふくれあがっていく。少しずつ、指先から冷え切っていく感覚。鍵は、どうして開いていた?部屋の電気はつきっぱなしだった。アイちゃんは、果たして自分で出ていったんだろうか。ちょっとそこまで、と思って家を出たところで、何かに巻き込まれた?そう説明づけるには、何もかもが中途半端すぎて、アイちゃんは自分から家を出ようとなんてしていなかったんじゃないか、と思ってしまうと、そうとしか考えられなくて。
「は、い?」
「あの。お隣の飯田です。この、この子。この子見ませんでした?いなくなっちゃって」
「は……」
一通り外を歩き回って、家に戻っても誰もいないままだった。もう一度外を探しに行こうかと思った時、お隣さんの家の電気がついていることに気付いて、インターホンを押してみた。うちと同じ古ぼけた音に呼ばれて出てきたのは、若い男。しばらく前につけていた眼帯や包帯はきれいさっぱり無くなっていた。スマホにあったアイちゃんの写真を見せながら、駄目元で話せば、ゆっくりとまばたきした彼は、うなずいた。
「見ましたよ」
「そ……えっ!?どこで!?」
「ど、どこって、家の前で……」
「いつ!」
「自分が、帰ってきた時だったんで……夕方、5時頃ですけど」
勢いに任せて、肩を鷲掴みにしてしまった。驚いた表情で、振り払うわけでもなくされるがままになっている男は、俺の質問にぽつぽつと答えた。帰ってきた時に、知らない男がちょうど俺の家に入って行くところを見たこと。それから少しして、台所の小窓越しに、アイちゃんがその男に連れられて行くところを見たこと。正確に言えば、窓から見えた男らしき人越しに、アイちゃんらしき女の子を見た、だけ。だということだったけれど、それでも充分だった。どんな男だったかと問えば、首を傾げながら答えてくれた。
「短髪で、ガタイのいい……そんなにはっきりは見えませんでしたけど」
「なんか特徴とか、優しそうか怖いかとか!」
「こ、怖そうな……サングラスしてましたよ、派手な服着てて、多分……」
「俺みたいな!?」
「そ、そうです」
引き気味の男が玄関扉を閉めようとするのを、無理やり足で止めながら、スマホを操作する。こんな感じとか、こんな、と職場関係の知り合いの悪そうな人たちをピックアップして写真を見せていけば、途中で男の声が変わった。
「あ。この人、すごく似てます」
「……へっ?」
「この人です。横顔は、こんな感じでした」
男が指さしたのは、俺が肩を組んでいる相手。顔を背けて、少し迷惑そうな顔をしている、久多さんだった。

本人にすぐに連絡を取ることは簡単だった。俺はいつもそうしてきたし、困ったことがあったらなんでも言えって言ってくれてるのは久多さんの方だ。けれど、その彼が、どうしてアイちゃんを連れて行く?しかも、俺になんの連絡もなく。確かに久多さんは、ここにアイちゃんがいることを知っている。逆に言えば、他の人間は知らないはずなのだ。アイちゃんは本当ならここにいない人間で、居候しているだけ。積み重なった「どうして」に、久多さんに電話しようとしていた指を止めた。気になったのは、男の言葉。
「女の子の方、具合が悪そうでしたよ」
だったら尚更、俺に連絡がないとおかしいと思う。例えば久多さんがここに来た時にアイちゃんがちょうど具合悪くなって、病院かなんかに連れて行ったんだとしても、それを黙っておく理由がない。黙っておくということは、俺にバレてはいけないということだ。それは、どうして。具合が悪くなったのではなく、悪くさせられた、のだとしたら。俺に黙って彼女を連れ去る必要があった、として、その理由は。細っこくて非力なアイちゃんを、静かにさせる方法なんて、いくらでもあるだろう。彼女の抵抗なんて、大人の男からしたら大したものじゃない。じゃあ、どうして?
俺の服がしまってある収納ケースの、一番奥の一番下。小さなポーチに入っているのは、アイちゃんが持っていた財布と、スマホだ。スマホの方は、もうお金を払っていないからなのか、通信機能はない。財布には、身分証明書がまだ入っている。何かあったときにはここからこれを持っていこうって、二人で話した。逆に言えば、何もなければこれはこの場所から動かさないことにしよう、とも。久しぶりにそれを引っ張り出して、開けた。学生証に書いてある名前は、「藍川しずく」。今よりも短い髪と、愛想笑い。連れ戻されるかもしれないから、俺はアイちゃんのことを名前で呼べなかった。怖かったのだ。アイちゃんが二十歳になって、俺と結婚して、そしたら名前で呼べるねって、話していた。それが楽しみだった。いつかアイちゃんと二人で好きなだけ外に出て、かわいい服を買ってあげて、遊園地とか動物園とかに遊びに行って、美味しいものをたくさん食べるつもりだった。だから。
もう誤魔化されないし、騙されない。アイちゃんがどこにいるのかちゃんと分かるまで、誰のことも信じない。信頼と愛を天秤にかけた時、俺は信頼を踏み躙ることを選ぶ。最悪、アイちゃんを連れて行った理由なんて、もうどうだっていい。聞く必要もない。俺から彼女を取り上げたことが、俺が報復する理由に当たるのだから。人をどうすれば痛めつけられるかとか、人がどうしたら命を落とすかとか、そういうことはみんな、もう知っている。いくつかなら、やったこともあるし。首を絞めるとか。腹を刺すとか。顔を殴るとか。そんな手段はいくらでもあるのだ。彼女の身体に残る傷のように、外から見えないだけで、世の中にいくらでも溢れ返っている。
手を汚してでも、彼女を取り戻す。アイちゃんの財布を自分のポケットに入れて、立ち上がった。かぼちゃプリンの賞味期限が切れるまでに、二人で帰ってこれたらいいんだけど。


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