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月と敬慕






「おはよ、アイちゃん」
「……おはようございます……」
休み、3日目。久多さんからの連絡はない。あの夜が明けた次の朝、恐る恐る玄関から出てみたけれど、死体はなかったし、地面に血の痕すら残っていなかった。まるで夢みたいだったけれど、俺が前日脱ぎ捨てた服には、名前不明の死体さんの血が残っていた。だから、あれはきっと現実なのだ。ほとんど眠れずにいたのに『片付け』らしい音もしなかったけれど、どういうことなのだろう。気づかれてはいけないから、音がしなかったのは正解なんだろうけれど。
「秀くん、朝早いですよね」
「うん。あんま寝れないの」
「ふあ」
恐らくは、そうですか、の意を欠伸で示したアイちゃんが、眠そうに目を擦って洗面所の方へ消えた。アイちゃんとこうやってゆっくり過ごすのは久しぶりで、昨日も一昨日もなんだかんだで楽しかった。朝ごはんは昨日買ってきたパンだ。パンダさんの絵が書いてある蒸しパン。なにこれ駄洒落じゃん!とゲラゲラ笑っている俺に、アイちゃんは不思議そうな顔をしていたけれど。
洗面所から戻ってきたアイちゃんは、寝間着から普段着になっていた。いや、あんまり大差はない。寝る時は俺のTシャツを着ているってだけだ。髪を二つにくくったアイちゃんが、手を合わせる。
「いただきます」
「いっただっきまーす」
「……今日買い物、一緒に行っていいですか」
「うん。なんか欲しいものあるの?」
「秀くんずっといるなら、料理ぐらい、しよっかなって……」
「えー!アイちゃんご飯作ってくれんの!」
「うるさ」
「やったー!」
メロンパンを齧りながら眉をしかめたアイちゃんに飛びつく。やめて、と押し退けられてしまったけれど。えー、アイちゃん料理とかできるんだ。女の子だもんね。卵焼きとスープぐらいで良ければ、なんて念を押されたけれど、全然いい。いつもだったら、コンビニ弁当かお弁当屋さんの弁当かカップ麺かの違いだから。
「新婚さんみたいっ」
「……………」
照れている顔。数秒おいて、無言でパンチが飛んできた。

アイちゃんは、家出少女だ。出会ったのは偶然で、あんまり治安の良くないタイプの繁華街をぷらぷらしていた俺に、一晩泊めてくれないかと頼んできたのがアイちゃんだった。恐らくそういう筋の隠語なのだろう、いくら分までならできる、それ以上は追加料金、みたいなことを言われたけれど、全く分からなかったのでとりあえず分かったフリだけして自分の家に連れて行った。いや、だって、細っこくって白くて儚げな女の子に、一晩泊めてくださいなんて言われちゃったら、オッケーするでしょ。俺が頷かなかったら、他の人にも同じようなこと持ちかけてたんだろうし。別に、顔が可愛かったからとか、緩い服の胸元を見てとか、そういうわけではない。断じて。それに、頼んできた時の顔が、どちらかというと影のある、沈んだ表情だったから。あー、こんなことしたくないなー、って書いてあった。言葉回しや態度は丁寧な割に、顔には出るのだ。
家についてすぐ、お礼を、と及ぼうとするアイちゃんに、とりあえずご飯食べる?とカップ麺を差し出した。そういうわけにいかないから、いやほんとにその気はないから、と押し問答をして、力づくで勝った俺がアイちゃんにご飯を食べさせることに成功した。不満げに豚骨ラーメンをすするアイちゃんに、俺はなにもしないからここに住んでいいよ、と告げた。人助けがしたかった、のが最初の理由だ。あとは、人のことを疑った目で見ている、ハリネズミみたいな女の子を、安心させてあげたくなった。笑ったところが見たいな、と思ったのだ。
それからなんだかんだで、アイちゃんはうちにいることになった。何度か出て行こうとしたけれど、その度に俺が捕まえては連れ帰るので、諦めた。が、正しいのかも。それから、俺はアイちゃんはちょっとずつ心を開いてくれて、俺はアイちゃんのことが大事だなーって、かわいいなーって思うようになって、アイちゃんも俺のことをおんなじ風に思ってるって教えてくれた。好き、という言葉に当てはめるには、なんだか違うような気もする関係性だ。別に俺、アイちゃんとチューしたくないし。いや、したくないというと語弊がある。できるなら、するけど。できるならば、そりゃもちろん、するけども。
だから、元々は家出少女のアイちゃんは、警察のお世話になるわけにはいかないのだ。きっと家に返されてしまう。彼女の裸の身体には、煙草を押しつけられたような火傷の跡と、古い痣と切り傷が残っている。それが家出をする前にできたものなのか、そうでないのかまでは俺は知らない。聞いてないから。アイちゃんだって特に話そうともしないし。けど、そこまで知って、彼女を手放せるかと言われたら、答えはノーだ。
日焼けはしない体質だと前に言っていたのを聞いたことがある。いつも真っ白な肌を太陽光に晒しながら、俺より一歩先にアイちゃんが外に出る。俺が仕事の時は、お金だけ置いてってコンビニでお昼ご飯を買ってもらってる。二人で外出るのなんて、滅多にない。玄関の鍵を閉めていると、アイちゃんが口を開いた。
「そういえば、どこに死体があったんですか」
「ここ」
「……嘘だあ」
「ほんとだよ」
「……嘘だが嘘ですよ。疑ってませんから」
「なあに、どしたの。俺怒ってないよ」
「知ってます」
「ねえ、今ちょっと怖かったんでしょ、俺が怒ったと思ったんでしょ、アイちゃん」
「思ってませんっ」
コンビニに到着。他にもお客さんがいて、アイちゃんは俺を柱代わりに、他の客と近づかないようにちょろちょろしていた。周りをうろうろされるの、ちょっとかわいいとか、思ったりして。俺が持つカゴにアイちゃんがいろいろ入れていく。卵焼きとスープくらい、と言っていたけれど、そもそも俺の家にはまともなフライパンと鍋がない。なんかちっちゃいのならあるっけ。家を出る前に、これしかないよ、とアイちゃんに見せたら、仕方なさそうな顔だった。でも一応調理器具があるにはあるということは秀くんも料理できるんですか?と聞かれて、あれは昔の彼女が持ってきて置いてったやつ、とうっかり言ってしまったので、5分ぐらいガン無視されたけれど。
「ありがとうございましたー」
「ん。アイスはんぶんこ」
「ありがとうございます」
アイちゃんが気づかないようにカゴの中に滑り込ませた、二つ入りのアイス。ミルクコーヒー味のやつ。お会計してる間に見つかって、予想通りに目を輝かせてこっちを見てきたので、満足である。アイちゃんが、嬉しそうにアイスを咥える。暑いもんね。
家に帰ってきたら、ちょうどお隣さんが出てきたところだった。初めて見たかも、お隣さん。洗濯物的に男だろうなとは思ってたけど、それ以外の情報は今まで全くなかったから。右側の目を怪我しているのか眼帯をつけて、同じく右側の腕が包帯と絆創膏で痛々しい彼が、ぺこりと頭を下げる。喧嘩かなんかだろうか。痛そうだ。細い道をすれ違って、玄関の鍵を開けた。
「そういえば秀くん、最近喧嘩しませんね」
「最近もなにも、アイちゃんとこに怪我して帰ってきたのなんて一回か二回でしょ」
「そうでしたっけ」
「多分」
昔はやんちゃしてたけど、アイちゃんと住むようになってからはそんなことないはずだ。怪我して帰ってきた印象が強いから、よくやってると思われているんだろうか。心外だなあ。
「ねえ、エプロンないんですか?」
「ないよー」
「はあ」
アイちゃんが作ってくれたのは、宣言通りに卵焼きとコンソメスープ。卵焼きっていっても、あれだ、外国の朝ごはんに出てきそうなやつ。ケチャップがかかってるやつ。炊飯器はないので、米はレンジでチンした。卵が余ったから、明日はオムライスにしますか、ってアイちゃんが平然と言ってのけて、俺が思わず立ち上がったのでお茶がこぼれて怒られた。
「オムライス、何年も食べてない!」
「ご飯ケチャップで炒めて卵乗せるだけの、具とかないやつですよ」
「ぜんっぜんいい!アイちゃんすごい!」
「……………」
また照れてる。そっぽを向かれて、視界に入るように回り込めば、叩かれた。
休み、もうしばらく続いても、いいかもしんない。そう思った3日後に、久多さんから電話が来た。残念。




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