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月と敬慕





借金があった。仕事もまともにしないまま遊び歩いて、友達の口車に乗って大金を使って、賭博で大負けして、気がついた時にはもう遅かった。貯金もなく、収入もなく、返せる当てもない。マンガやドラマで見るみたいに内臓でも売るんだろうか、それともどこかでタダ働きさせられるとか、と他人事のように考えていた俺に今の仕事をくれたのが、久多さんだった。兄貴みたいな人だ。俺みたいな外れ物のクズの面倒を見てくれる、すごい人だ。だから俺は、久多さんみたいになりたい。かっこいいと思う。
「ねえ、聞いてますかあ」
「分かった、分かったって。お前、絡み癖あるのに酔うなよ」
「だあってえ」
「金もないのに。ほら、もう着くぞ」
「ふぁい」
タクシーのドアが開くと、湿った熱気が入り込んできた。これだから夏は嫌いだ。俺の住んでるボロアパートは、大通りからかなり奥まったところにある上に、ある程度までは近づけてもそれ以上は道が細すぎて車が入れない。俺と酒を飲むたびここまで送ってくれる久多さんが、呆れたように少し笑って、俺の背中を押した。
「おら。出世払いだ、ちゃんと返せよ」
「……ぁい……」
「明日非番だろ。明後日な」
「はあい、おやすみなさあい」
一方通行の細道を曲がってタクシーが消えるまで、ふらふらと手を振った。出世払いか。俺は出世したら久多さんにいくら返せばいいんだろう。もう覚えていない。そもそも、借金を返し切らないといけないのに、出世する日は来るんだろうか。本気で返したいなら遊ぶのをやめてまともに働けばいいんだと思うけど、そんなことはできないので、雀の涙程度にしか貯金もないまま、日々が過ぎていく。ぼんやりと空を見上げると、月が見えた。借金が膨れ上がって首が回らなくなったあの日、あの時にも、月が見えたっけ。自業自得の借金なのに、久多さんは俺の面倒を見て、時には叱って、まともに生きさせようとしてくれている。やってる仕事はもしかしたらまともじゃないかもしれないけど、俺は自分が今更まともに社会で働けるだなんて思っていないので、だから、俺はやっぱりああいう風になりたい。きっとそれで、俺も真似っこして、アイちゃんを家に置いているのだ。今日はもう寝てしまっただろうか。
「……んぇ」
ジーパンの後ろポケットから家の鍵を引っ張り出して、うちと隣の家の玄関の間に誰かが座り込んでいるのを見つけた。酔っ払いだろうか。隣の家との間、というか若干うちの玄関扉にかかっているので、邪魔だ。足を投げ出して座り込んでいる男に、声をかける。
「おい。おーい。そこ、俺の家なんだけどー。おとなりさんー?」
「……………」
「おい。起きろー。それか別んとこで寝ろー、にーいちゃーん、おーい。……んん?」
あまりに反応がない。救急車呼ばなきゃいけない感じの酔い方だったら面倒だな、とうんざりして、少し乱暴に男の肩を掴んで揺さぶった。がくがくと頭が揺れる。なのにまだ、微動だにしない。そのうちに、気づいた。
「……なんか……?」
血の匂い。こいつ怪我してんのか、と顔を覗き込んで、飛び退いた。黒い服の腹部付近は裂けていて、ふらふらしていて気がつかなかっただけで地面には流れ出た血液が広がっていた。濃い血の匂いはそこからで、呼吸の音はしなかった。恐る恐る触った首筋は血液の循環を感じさせなかったし、そおっと持ち上げた手は力無く落ちた。
死んで、る?

救急車。よりも、警察。と思った時に、スマホから手が離れた。警察は、ダメだ。夏の夜だというのに嫌に寒くて、後ずさる。さっき考えなしに揺らしたせいで体のバランスが傾いでいたのか、俺が下がったことで、男の体が玄関前に倒れた。およそ耐える力の入っていないその姿に、急いで元に戻そうとして、なかなかうまくいかずに無理やり座らせて、血の付いてしまった手と自分の服に、背が震えた。
「あ、っあいちゃ、アイちゃん、っ」
がちゃがちゃと玄関の鍵を開けて、中に飛び込む。真っ暗な室内。家の前であんなことがあって、彼女は無事だろうか。もし彼女の身に何かあれば、俺は。
「アイちゃん!」
「……なんですか……」
のそりと布団から体を起こした彼女の細い肩を掴む。悲鳴を上げられたが、構っている暇はなかった。怪我はない。普通だ。いつも通り。やめてください、と振り払われて、電気がつく。俺の姿にぎょっとしたアイちゃんが、はくはくと口を開け閉めした。
「け、怪我」
「俺は平気、アイちゃんは大丈夫?なんか、怖い思いしたとか」
「あたしは、平気ですけど……」
「そか、うん、そっか」
力が抜けて、へたへたと座り込んだ。じゃあこれどうしたんですか、と問いかけられて、うっかり口をついてしまった。黙っていようと思ったのに。
「家の前で人が死んでて」
「し……はっ?」
「あっ、いや、俺じゃない、俺はやってない」
「……冗談ですよね?」
「見てくる?」
「……………」
「俺も嘘だと思いたいけど。知らない人が死んでる」
「……警察に、」
「警察はダメ」
「……どうしてですか」
「アイちゃん、困るでしょ」
「……………」
そう言い返されるのを分かっていて、聞いたのだろう。黙り込んだ彼女に、とにかく自分はやっていないし、なんならアリバイを証明できる人もいる、でも警察に連絡したらアイちゃんのことを調べられちゃうしそれは困る、だから警察は呼ばない、ともう一度説明すれば、しばらくの間を置いて、頷かれた。良かった。とりあえず着替えることにしよう。あんなに酔っ払って良い気分で帰ってきたはずなのに、一瞬で醒めてしまった。
「アイちゃん、なんか物音とかしなかった?」
「気になりませんでしたけど……」
「ほんと?じゃあいいや。どうしよ、家の前の人」
「……朝になったらさすがに、誰か気付きますよ」
「そうだよね。そうだよ、あ!そう!俺、触っちゃったよ!」
「……指紋」
「どうしよう!俺指紋取られたことある!」
「……………」
「捕まるかな?」
「アリバイがあるんでしょ」
「あ。そうだったね」
とりあえず、久多さんに電話してみた。俺のアリバイを、絶対証明してくれるはずだ。だって一緒に飲んでたし、俺が家に帰った時には死んでいた男の腹は血が流れ出た後だった。死亡推定時刻に、俺がここにいなかった証拠さえあればいい。アイちゃんはそもそもここにいる人じゃないから、いることがバレなければ疑われることもないわけだし。とにかく、あの男をどこか違う場所に動かさなければ。家の前で見つかったら、警察が事情聴取に来るだろう。そんなことを考えながら、スマホの連絡先から久多さんを呼び出して電話をかければ、数コールで出た。
『はい?』
「あ、久多さん、俺ちゃんと久多さんと飲んでましたよね」
『は?なに言ってんだ、お前。覚えてないのか』
「覚えてますって!でも、久多さんも俺と飲んでたこと覚えてますよね?」
『ああ、まあ。どうした?』
「あのー、家の前に死体が、っ」
「バカっ」
『あ?』
「もが、っぶは、な、なんでもないです!」
『……死体?』
アイちゃんのファインプレーも虚しく、口を滑らせてしまった。せっかく手で口を塞いでくれたのに、間に合わなかった。本日二回目だ。テンパっているとかそういう問題じゃなく、自分が黙っていることを苦手としているのを忘れていた。訝しげな声を上げた電話の向こうの久多さんと、目の前で天を仰いで目を覆ったアイちゃん。ごめんて。俺があんまり頭良くないのなんて、アイちゃんだって知ってるでしょ。

「死んでたな」
「……俺じゃないですよ」
「知ってるよ。そんなことは」
電話口で説明してもラチがあかなくて、痺れを切らした久多さんがうちに来た。うちの近くまで来たことはあっても、実際にこうやって家まで来てくれるのは初めてだ。うん、ちょっと緊張する。アイちゃんにはできれば隠れてて欲しかったけど、狭い家には隠れるような場所なんてなくて、押し入れに詰め込むわけにも浴槽の中に閉じ込めるわけにもいかず、その場にいてもらうしかなかった。アイちゃんがこの家に来てから、ここに俺以外の人間が入ってきたことはない。他人との交流がほとんど無くなった彼女は、久多さんに警戒しているように、俺の背後からは動こうとしなかった。
どう見ても未成年の、線の細い女子が深夜俺の家に当然のようにいることに、久多さんはなにも触れなかった。というか、触れないでいてくれた。面倒になると思われたんだろうか。
「警察はダメなんですよ。どうしたらいいですかね」
「はあ。まあ、お前が警察沙汰になったら俺も困るな」
「でしょ。え?なんでですか?」
「お前、自分の仕事忘れたのか」
ため息を吐いてそう言ったきり、どうしたもんか、と再び玄関へ向かった久多さんを目で追ったアイちゃんが、バーテンダーじゃなかったんですか、とこそこそ聞いてくる。それはそうだし嘘はついてないんだけど。本職と副職というか、なんというか。
アイちゃんが裸足の爪先を擦り合わせて眠そうにし始めた頃、久多さんが戻ってきた。よく眠くなれるな、と思ったけれど、アイちゃんは死体を見ていないから、何処か他人事なのかもしれなかった。見てほしくもないけど。俺が殺したとは、思ってないのかな。そもそも、家の前で人が死んでるって、言葉で聞いただけで信じてるのかな。俺だったら信じない。アイちゃんは、俺を信用してるから、信じているのかな。
「飯田」
「はい」
「なんとかする。お前、終わるまで仕事休め」
「えっ」
「外にも出るな。ああ、うーん、コンビニぐらいならいいや」
「ど、なんとかって、どういうことすか」
「片付けとくって言ってんだ」
「……かたづけ」
「そう。お片付け。終わったら連絡するから」
それじゃ、と眠そうな欠伸を残して出て行こうとした久多さんを追って、玄関口まで行く。アイちゃんが焦ったように服の裾を掴んできたけれど、振り切ってしまった。靴を履いている彼の前に何を言うでもなく立てば、目が合った。
「いい女だな」
「……は、えっ?」
「身内か?顔似てないな」
「ぇあ、違、血ぃ繋がっては……」
「一週間もしないうちに、普段通りになるよ。なんか困ったことあったらまた電話しな」
そうだな、休みの間の給料をやろう。そうあっさり言った久多さんが、自分の財布から一万円札をごっそり抜いて、俺に渡した。普段の給料を日給にしたら、絶対こんなにもらってない。返そうとする前に、久多さんは出て行った。残された俺と一万円札の束。ぺたりぺたりと足音がして、アイちゃんがついてきて、俺の手を覗き込んだ。
「お金」
「……俺休みになっちゃった」
「口封じ料ですか?」
「えっ、そういうこと?」
「違うんですか」
「でも警察には連絡しなくていいみたい。よかったね、アイちゃん」
「……よかったんですかね」


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