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おはなし



唯仁とはじめて会ったのは、あの子が10歳の時だった。最初は裕平さんの後ろに隠れていて、私が膝を折って目を合わせると、少し顔を逸らされた。挨拶しなさい、とお父さんに言われて仕方なさそうに、こっちを向く。
「……秋唯仁です」
「佐竹羽波です。ゆいとくん、よろしくね」
「……………」
たっぷり沈黙を使った後に、はい、と返事が投げ返される。目尻が下がって、ふにゃりと笑われた。だから私は、最初の印象として嫌われてはいないのかな、ならよかった、と安心したのをよく覚えている。そんなことはなく、なんのことはない。唯仁はその場その時で人に合わせることとか、愛想笑いやおべっか使いが、小さい頃から上手だっただけの話だった。
裕平さんと結婚して、私は秋羽波になった。友達も少ない、男の人とお付き合いしたこともほとんどない私だったけれど、彼とその息子のことは本当に大切にしようと思った。お母さんである冬月さんは、唯仁が幼い頃に病気で亡くなったらしい。写真に残された彼女は、かわいらしくあたたかくて、私とは似ても似つかないタイプの人だった。私はあんな風に笑えないし、ああやって人を抱きしめて幸せそうにすることもできない。けれど、裕平さんの妻として、唯仁のお母さんとして、変わらなくちゃいけないと思った。うまく笑えるように、小さなことから楽しめるように。
「……………」
「ゆいとくん、気になるなら、」
「だいじょぶ」
「こっちで、見ても……」
いいんだよ、と。逃げられたので、言葉尻が萎んで消えた。キッチンの入り口からじっとこっちを伺っていた唯仁が、ぱっとリビングへ逃げていく背中。ここに住み始めてからこっち、気づくとじっと見られているのだけれど、まあ突然知らない人が自分の家に住み始めたら気にならないわけがないか、と放っておいている。実際、困るわけでもないし。
今日は私は久しぶりのお休みで、唯仁と一緒にはじめて二人だけでお出かけした。近所の公園に行って少し遊んで、あと買い物をしただけだけど、妙に緊張した。一緒に行こうと持ちかけた時、「ぼくはお留守番してるからいいよ」と一旦断られたものの、少し引き下がったらすぐについてきた。後から考えると、お互い食い下がって話がこじれるのを避けただけだろう。別に来たかったわけでもないし、時間をかけて意地を張ってまで断るのも面倒と思われたのだ。思えば、この頃から既に興味を持たれていなかった。
家に帰ってきて、夕ご飯までの時間はたっぷりあったので、時間をかけた料理をすることにした。一応、仕事で厨房に立っている身である。自信がないわけではない。夕食には早い時間から台所を使い始めたので、気になったらしい唯仁は何度か静かに覗きに来ていたものの、こちらが気づいていることに気づいたが最後、二度と来なくなった。リビングの片隅で、一人で小さくなって本を読んでいる。気づかないふりをしたところで、早かれ遅かれこうはなっていただろうな。
「ゆいとくん、お父さん遅くなっちゃうみたいだから、夜ご飯先に食べよう」
「うん」
「……どのくらい食べる?」
「……ふつうくらい」
湯気を立てているのは、ゆっくり手をかけて作ったホワイトシチュー。付け合わせにフルーツサラダと、パセリを散らしたバターライス。もしも苦手なものがあったら残していいよ、と告げたものの、「もう少し食べたい」とシチューは最初の量の半分ぐらいおかわりしてくれた。デザートには、さっき出かけた時に買ってきたロールケーキ。食べきって、唯仁がお風呂から出てきた頃、裕平さんが帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
「ん、今日シチュー?」
「はい。ゆいとくんと一緒に買い物に行って」
「……んー……そか。美味しそう」
少し間があるな、とは思った。けれど、その時は気にもしなかったのだ。それから割とすぐに唯仁がおやすみなさいを言って自分の部屋へ向かって、温め直したシチューを食べながら、裕平さんが教えてくれた。
「唯仁、シチュー食べれた?」
「はい……どうしてですか」
「ホワイトシチュー、嫌いなはずだから」
「……え」
「でも、いつのまにか食べられるようになってたのかな。食べてたんだもんね」
「……………」
「ね、はなちゃん。食べてたんだからいいんだって。大人になったってことでしょ」
「……無理していたのかも」
「違うよー。唯仁の成長だよー」
気を遣わせて、おかわりまでさせてしまった。こんなことなら、最初から苦手なものを聞いておけば良かったのに。もしかしたら食べるの相当きつかったんじゃなかろうか。マイナス思考だよー、とシチューを食べながらのんびり言っている裕平さんに、唯仁の嫌いな食べ物を聞いてメモした。食材や味で嫌いなものがあるというよりは、食感で得意不得意を決めているようで、特にどろっとした食感のものは基本的にあまり好きではないらしい。カレーもスープカレーとかキーマカレーの方が好きなんだよ、子どもなのにね、と裕平さんは笑っていたけれど、教えてもらわなきゃ危うく普通のカレーを作るところだった。気をつけよう。
「あっ、ゆでたまご、ゆでたまごはかたいのと半熟、どっちが好きでしょうか」
「もう唯仁に聞きなよ……」
「う……」
「教えてくれるって。仲良くなれるし」
「……もう私の作る料理なんて食べたくないかも……」
「はなちゃんの作るご飯おいしいから大丈夫だよ」
そんなことはない、と言い切るには、自分のプライドが邪魔をした。その代わりに、でも嫌いなものを無理やり食べさせてしまいました、なんて自分でも打ちひしがれた声が出た。裕平さんはやっぱり、だから嫌いじゃなくなったんだって、と笑っていたけれど。
思い返すと、唯仁はご飯を残したことがない。こっちがよそってあげたのが、ホワイトシチューの時が最後というのもあるかもしれない。言わないだけで苦手なものを無理して食べているかもしれないという疑念に囚われて、だったら自分で食べ切れる量を加減して盛ってもらった方がいい、と思ったのだ。そう説明すると、特に疑問も反論もなく「わかった」と頷かれたっけ。男の子の食べる平均量がわからないので、よく食べる方なのかそうでもないのかは判断できないけれど、食べるのが早いことは知っている。一口が大きいのだ。まあ、一緒に食事をとっていて盛り上がったことなんてないし、食卓を囲んだところで私と喋る内容も困るだろうし、いいのだけれど。
裕平さんと唯仁と過ごして、生活にも慣れて。唯仁が15歳の時だった。裕平さんは、交通事故で亡くなった。あっという間の五年間。私は彼に、なにかしてあげられたんだろうか。一緒にいることを選んでもらって、それに比例するなにかを返してあげられたんだろうか?考えても考えても答えは出なくて、そんなものはないとしか思えなくて、なんだかどこか他人事みたいな間にお葬式も済んだ。そして私は、唯仁と二人で遺されたのだ。実の父を、血の繋がった唯一の肉親を喪った唯仁のことが心配だったけれど、どう窺ったところで、あまり変化はないようにしか見えなかった。もしかしたら上澄みだけ繕っていて、私がそれを見抜けなかっただけかもしれない。唯仁からしたら、私の方が打ち拉がれてしまっているように見えて、落ち込むに落ち込めなかった、とか。もしそうだとしたら、申し訳ないことをしたと今更ながらに思う。裕平さんがよく手を合わせていた夕月さんのお仏壇の隣に位牌を置いて、写真や花や結婚指輪を飾ってあるのだけれど、唯仁がそこで立ち止まっているところは見たことがない。私から頼んだお花の水の交換や簡単な掃除をしている時間を除いて、唯仁が二人の前で足を止めることはなかった。
唯仁は、特に手のかからない子だった。目立った悪いこともしない。運動はあまり得意でないのか自分から取り組まない代わりに、勉強は真面目にする。音楽が好きで、よく自室から漏れ聞こえているのは知っていた。私は詳しくないから、音楽の話をできたことはないけれど。すんなり成長して、ぱっと実家を出て、一人暮らしをはじめた。それからはほとんど家に戻ってくることもなく、時々、本当に稀に、元気にしているかどうかの連絡をするくらい。語学の勉強をするために短期で留学したことも、二年間大学院に通って無事に卒業したことも、学んだことを生かして就職し働いていることも、知っている。ただ会っていないだけだ。唯仁にとって私は最初から他人で、いつまでもそのままなのだ。男の子なんてそんなもんだろう、なんて周りの人は言うけれど、きっとそれだけじゃない。それはなんとなく、分かっていた。

「あ、秋さん。秋さんは知ってます?」
「……はい?」
「なんか、若い子に人気なんですって。あたし知らなくて」
「こないだMステ出てたじゃないすか!見てくださいって言ったのにー!」
「あはは、ごめんごめん」
お昼休憩中。泰村さんに呼ばれて、そっちに向かう。一人で食べるよりは寂しくなくていいだろう。菊田くんがぶーぶー言っているのに、泰村さんが笑っている。泰村さんは私と歳が近くて、菊田くんはどちらかというと唯仁に歳が近いぐらいのはずだけれど、二人は仲がいい。私は、働いてる期間ばかり長い割に職場でそんなに話せる人がいないから、少し羨ましい。隣に座れば、ほらほら、とスマホを見せられる。
「私もテレビ、あんまり見ないから……」
「あたしも知らなくて。菊田くん、もっかい見してよ」
「えー。しょうがないですねー」
「見えないよ!もっとこっちにして!」
「もう!泰村さんうるさい!」
「バンドなんだってー!」
「泰村さん静かに!聞こえないじゃないですか!」
菊田くんが見せてくれたのは、どうやら音楽番組の出演シーンらしかった。私でも知ってる司会者さんが話を振って、カメラが切り替わる。この人たちですよ!と教えてくれる通りに画面を眺めて、目を疑った。
「……ん?……うん?」
「あっ、秋さん知ってた?」
「あ、いえ、知っ……知ら……いや……?」
「どうかした?」
「……なんでも……?」
知ってるはずの顔が、知らない場所にいた。見間違えじゃなければ、唯仁のように見えるのだけれど。でもあの子がなんで、ていうか仕事はどうしたの。雷に打たれたようなショックにしどろもどろしているうちに、動画は終わってしまった。不思議そうに見てくる二人を誤魔化して、なんとか平静を取り繕いながら食事を済ませる。午後の仕事には全く手がつかなかった。大きなミスをしなかったのが奇跡なくらいだ。
家に帰ってきて、さっき見た動画を必死で思い出して、なんとかネットの検索をする。最近のインターネットはすごい。それっぽい言葉で、近いように検索結果を出してくれる。慣れないことなので時間はかかったけれど、この人たちがバンドだということと、最近話題になっていて人気があるということがわかって、ついにメンバーの写真を見つけた。
「……えっ……?」
時間を置いて改めて見てみても、どこからどう疑おうと、唯仁でしかない。流石に見間違えたりはしない。一体なにがどうなったらこんなことに。
それから夜な夜な、少しずつ調べては情報を集めていった。菊田くんに聞いたら簡単なのかもしれなかったけれど、どうしても気が引けた。だって、曲も聞きはしたけれど、普段から音楽に触れることがないので、いいのか悪いのかがさっぱり分からなかったのだ。好きとも嫌いとも言えない。ただ、息子と思わしき人がいるから、知りたいだけ。直接唯仁に聞けばもっと簡単に解決する問題だってことには、目を瞑ったまま。しばらくの間しつこく調べて、ついには嘘が本当か分からない情報ばかりに行き当たるようになった頃、調べるのをやめた。語学力の秘訣は帰国子女!?というネット記事の見出しに、一歩引いてしまったのだ。本人が公言していなければ、見知らぬ誰かが大声で拡散した嘘も、大多数の人に信じられてしまうのだな。とか、思ってしまった。だって唯仁は帰国子女ではないはずだから。私が教えてもらっていないだけで、10歳より前に外国に住んでいたなら話は別だけれど、それは流石にない。裕平さんのことは信用している、ので。
それと。調べているうちに、これ以上知りたくなくなってしまった。動画を見たり、記事を読んだりしているうちに、唯仁が嘘をついていることを知ってしまったからだ。嘘をつくこと自体は、悪いことではないと思う。だって、誰かを傷つけるような嘘じゃない。「妹がいる」とか。「この前実家に帰った時に」とか。誰も傷つかない、投げたっきり宙ぶらりんの嘘。さも本当のように語られる家族の話が真実ではないと分かるのは、私だけだ。唯仁は、そうありたかったのかもしれない。私みたいな、いるんだかいないんだか分からないような、血も繋がっていない母親と二人きりの家族じゃなくて。もっと普通で暖かくて団欒が似合うような、亡くなる前の夕月さんと裕平さんと三人で暮らしていた頃のような、家族。そう思うと、もう調べる気はなくなった。唯仁が悪いわけじゃないのに、弱音と恨み言を吐いてしまいそうで、そんな自分は嫌だった。

「……あつ……」
車を降りて、思わず声が出た。茹だるような暑さ、とはこのことだ。熱中症警戒情報、なんていうのも朝に見たテレビでやっていたっけ。お盆だから、とお墓参りに来たのはいいけれど、暑すぎて挫けそうだ。二週間に一回、最低でも一月に一回以上は必ず来るようにしているけれど、前回はこんなに身の危険を感じる暑さではなかったと思うのに。
お花とお線香を持って、手桶に水を汲んで向かう。小さな女の子と両親が向かいから歩いてきて、一歩引いて道を譲った。軽く会釈されて、女の子には明るい声でお礼を言われて、頭を下げる。家族らしい家族。引け目を感じないと言ったら嘘になる。お墓の前について、ふと気づいた。お花が、新しくなってる。あと、まだ長くて火のついたままのお線香。誰かが今さっきまでここにいたことを物語るそれに、裕平さんのお母さんかな、とぼんやり思って。
「……、」
裕平さんは、海外の硬貨を集めるのが好きだった。集めていたことは、お母さんは知らなかった。親には秘密なんだ、そんなもんコレクションしてどうするとかどうたらって、昔からやかましいから、と悪戯じみた笑顔を見せてくれたことを覚えている。家でこっそり集めていた。それはまだ家にとってある。だから、裕平さんが好んでいた銀色の小さな硬貨が、花の横にひっそりと置かれているのは、ここにいた人間がお母さんではないことを示しているわけで。硬貨のコレクションを知っているのは、私以外にたった一人だけだ。それに気づいた途端、花もお線香も手桶も置き去りに、踵を返していた。もう帰ってしまったかもしれない。走ったところで、追いつけないかもしれない。けれど、考えるよりも早く足は動いていて、耳を突き刺す蝉の鳴き声に突き飛ばされるように駆け出していた。私は車で来たから、駐車場に向かったならすれ違っているはず。最寄りの電車の駅は歩いて30分以上かかるけれど、バス停ならすぐ近くにある。二人で来る時は、ほとんどバスだった。上がった息もそのままに境内から出て、通りへと向かう。汗みずくになりながら、ようやくバス停が見えた時、ちょうど発車しようとしているバスが見えた。さっきすれ違った親子連れが私に気づいて、止めてくれている。近くまで走ってきたけれど、乗るつもりじゃないから、ふらふらのまま首を横に振って、運転手さんに身振り手振りで「出発してくれ」の意思表示をした。バスの中には乗客が少なくて、よく知った顔はいなかったから。女の子が手を振ってくれて、なんとか振り返す。笑えているだろうか。急に走って、止まって、暑さに身を焼かれて、目の前がちかちかした。間に合うわけないのに、追いかけたりして。どっと力が抜けて、倒れ込むように古いベンチに座り込んだ。耳鳴りがする。目が眩む。瞼をおろしたまま荒い息をついていると、じゃり、と足音が鳴った。またバスに乗ると勘違いされては迷惑がかかってしまう。退かないと、と無理やり目を開けて、立ち上がって。
「……なにしてんの」
「……ゆ……」
怪訝そうな顔でこっちを見る、唯仁がいた。
驚きも重なって、立ち上がれないまま荒い息を吐き続けていた私に、手に持っていた缶を見下ろした唯仁は、ちょっと待ってて、とだけ言い置いて遠ざかっていった。少し離れた場所にある自動販売機に向かって、小銭を入れているのが見える。唯仁が戻ってくるまでに少しは呼吸が落ち着いて、手渡されたペットボトルに、お礼を言う。冷たい。気持ちいい。吹き抜けた風は蒸し暑いままで、嫌そうに眉を潜めた唯仁が自分の手にあった缶を呷った。なんて話しかけたものかと迷いながら、口を開く。
「……唯仁、お墓……その、裕平さんのところ、来てくれたんでしょう。ありがとう」
「……なんでお礼?」
「えっ、ええと、忙しいだろうから、お仕事」
「別に。行ってないなと思って」
そう、と返したきり、言葉が途切れた。蝉の声だけが響く。どうしてこんなところに、と聞いた私に、タクシーを呼んだから、と端的に答えた唯仁は、流石に言葉足らずだと思ったのか、こっちを見ないままに話し出した。帰ろうと思ってタクシーを呼んだものの、少し時間がかかると言われ、飲み物が欲しくなって自動販売機に向かったはいいけれど、お寺から一番近い場所にあった自動販売機は釣り銭切れで、二番目に近い場所にあった自動販売機は飲めそうなものが根こそぎ売り切れで、ここまで歩いてきてしまった、と。お茶もスポーツドリンクも缶コーヒーもなかった、あったかいお汁粉かゼリーの二択は嫌だった、とぼそぼそ言われて、頷いた。それは誰でも嫌だ。運がなかったね、と告げれば、黙ったままだった。拗ねているんだろうか。
「お茶も、ありがとう」
「……なんであんな走ってたの?バス乗らないし」
「えっ、唯仁が、いると思って……」
「はあ」
「……話が、したくて」
「そう」
というか、走ってきたところも、バスに乗らなかったところも、見られていたのか。さっき買いに行った自販機のところにいたなら、見えるはずだし、見ていたから不審に思ってこっちに来たのだろう。あっさり返事をされて、口を噤む。
「……電話でもなんでも、すればよかったのにね。ごめんね」
「……なにが?」
「唯仁が、その、バンド?やってることとかも知らなくて、そうだ、お仕事どうしたの」
「とっくにやめたけど」
「そ……そう、そうよね。……あと、ええと……」
「母さん車なの」
「えっ、う、ん」
「暑い。話すなら車の中でにする」
「た、タクシーは」
「キャンセルするからいいよ」
「ご迷惑でしょうっ」
「そうだけど」
話しながら、ベンチの前を通り過ぎて歩いていこうとする唯仁が、振り返った。そうだけど、そう、なんだけど。じゃあ、このままタクシーをキャンセルしないで唯仁と別れたとして、私はその後、どうするんだろうか。また後日、連絡する?ゆっくり話す機会を設ける?どちらにしても、勇気が出ない気がした。話したいことは、聞きたいことは、伝えたいことは、たくさんあるのに。無言のまま待たれて、ぱたりと汗が落ちた。暑い。このままここで話をするのは、確かに無理だ。
「裕平さんのところ、に、私、みんな置いてきちゃったから……唯仁も一緒に」
「俺もう墓参りしたけど」
「……車の中が冷えるまで、時間かかるし」
「……………」
なにか言おうとして、やめたみたいな口の動きだった。わかった、とさっき私が走ってきた道を戻り出した唯仁の後ろを、ついて歩く。面倒だ、と思われたんだろうか。暑いのに、炎天下の中を何度も歩かせて、唯仁が暑いのを特に苦手に思っていることは知っているのに、自分の我儘を通して。駄目だなあ、と他人事みたいに思った。ほとんど無言のまま、駐車場に立ち寄って車のエアコンをつけて、お墓の前まで戻ってきて、お花の支度をする。唯仁が用意してくれたらしいお花に、足したらいいかな。暑い、無理、と零して一歩離れた木陰から見ている唯仁に、声をかけた。私が気づいていないだけだったら、申し訳ないなと思って。
「もしかして、今までも来てくれてたの」
「来てない。久しぶり」
「じゃあ、どうしたの?」
「……どう……」
少し言い澱んだ唯仁が、小さく零した。聞き違えていなければ、友達が死んだから、と。それに言葉を返すより早く、気が向いたから、特に意味はない、と言い直されてしまったけれど。聞いて欲しくないことだったんだろう。言うつもりもなかったのかもしれない。顔を上げて唯仁の方を見れば、目が合った。
「……暑い。ほんとにもう無理」
「あっ、ご、ごめんね、もう終わりにするから」
「気持ち悪い」
「こ、これ飲む?あっ、でも私の飲みかけ嫌だよね」
唯仁の顔色がいよいよ悪くなってきたので、手を合わせて、車に戻ることにした。裕平さんのところには、また来れるし。私も、柄にもなく走ったりして、すごく疲れたし。唯仁は、助手席に来るかと思ったら、後部座席に座った。それがなんだか、子どもの頃のままのようで、少し懐かしくて。しばし車内で涼んで、静かな車内に唯仁の声がした。蝉の鳴き声は、遮断されて遠くなっている。
「で?なに」
「……テレビ見た、のよ」
「うん」
「す……すごいね、私、唯仁がそうやって、楽器やってるなんて知らなくて。ドラムだっけ、それは知ってたけど」
「……あー……」
「……知らなくて、ごめんね」
微妙そうな声に、つい謝罪の言葉が漏れた。知らなくて。知ろうともしなくて。聞きもしなくて。興味も、きっとなくて。お母さんになろうと、夕月さんの代わりになれたらと思っていたのに、そうなれた時間は1秒足りとも存在しなかった。ミラー越しに目があって、つい逸らした。私のことなんて、唯仁は親とも思っていないだろうけど。けれど、後悔がないわけじゃないのだ。こうなる前に、もっと早く、もっと昔から、本当の親子みたいになれていたら、と。
「唯仁は、すごいよ。夕月さんと、裕平さんの子どもだからかな。私には、なんにも、してあげられたこととかないし」
「今日晩飯なに?」
「は、えっ」
「晩飯。なに?」
「……まだ考えてない……」
「シチュー作れる?」
「……買い物に行けば」
「実家帰る」
「えっ!?」
「シチュー作るなら。白いやつ」
「と、突然」
「無理ならいいけど」
「……作る……」
「あ、待って。家寄りたいから、住所ナビに入れる」
後部座席から手が伸びてきて、知らない住所を打ち込んでいった。現在地からのナビゲーションを開始します、という電子音声に、大きな欠伸を漏らした唯仁が目を擦った。
「ついたら起こして」
「……はい」
「ねむい」

久しぶりにホワイトシチューを作った。一杯と半分おかわりした唯仁は、「母さんの作ったもので、食べられなかったもの無いから」と、あっさり言ってのけた。無理をしているわけでも気を遣っているわけでもなく、裕平さんが正しかったのだ。食事の途中で泣き出した私に、珍しくぎょっとした顔を見せた唯仁は、何故かバスタオルを持ってきた。なんでバスタオル。目の前にティッシュがあるのに。そう思っていたら可笑しくて、泣きながら笑った。目を丸くした唯仁が、小さくつぶやいた。
「……母さんが笑ってるの、はじめて見た」



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