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我妻家今昔





「諒太は自殺なんかしないと思うんですけど」
そう口に出すと、三人が三人、同じような面食らった顔をした。自分もそう思っていたから正に図星ととるか、何言ってんだこいつはと思われているととるかは、あたしの自由だろう。言葉にするのは憚られるから。まるで、現実を認められていないみたいだから。きっとその通りなのだろうけれど。
警察の人が言うには、自殺らしい。争った形跡もなし、物が取られたわけでもなし。事実からしたらそうなんだろう。けど、現実に基づいた事実じゃなくて、気持ちの問題の話をしているわけで。あの諒太から、自殺、と言う言葉を導き出すことの方が難しくないだろうか。諒太と話したことがある人なら、そう感じると思う。それは間違っていないはずなのに、みんな、なにか辛いことがあったのかとか、心に抱えたものがあったのかとか。あるわけないじゃん、諒太だよ。あるわけないのに、みんながそう言うから、もしかしたらあるのかもしれないと思ってみるしかなかった。だってあたしは諒太じゃないから、諒太がほんとはなにを考えていたのかなんて知らない。みんなが言うように、あっけらかんとした笑顔の裏で重苦しいことを考えていたのかも。そんなはずないのに、そうであると思わざるを得なくなっていく。だって、状況証拠はどう見ても自殺だ。ただ単純に納得がいかないだけで。
自殺を疑っているなんて、家族には到底言えるはずもなかった。それ以前にみんな、一人の人間を喪った事実を受け止める方に心が傾いていたから。だからあたしはもしかしたら、正しく現実逃避をしていたのかもしれない。諒太が死んだことを受け入れてしまわないように、彼が自殺したと言う事実そのものを認めようとしなかったのかも。それは分からない。自分のことなのに分からないことって、ほんとうにあるんだ。
お葬式にはいろんな人が来た。勿論、あたしの知らない人ばかり。みんな涙ながらにお悔やみの言葉を言って、悲しみをいっぱいに表現しては、手を合わせていく。どこか他人事だった。こんなことされたらまるで諒太が死んじゃったみたいだ、と途中で思って、そうだった、諒太は死んじゃったんだっけ、って思い直すぐらいだった。自殺するならきっとなにかしら悩み事があったんだろうなあとか、もしかして自殺じゃなくて他殺だったなら恨みを持ってる人がいるんだろうなあとか、他殺ならどうやって自殺に見せかけたんだろうとか、つらつら考えているうちに、遠目にも背の高い頭が見えた。諒太の、バンドの人たち。今まで結局直接会ったことはなかった。こんな場所で初対面になるとは、思ってもみなかったけれど。あの人たちなら、何か知ってるんじゃないかと思った。諒太の近くにいた人たち。あたしの知らないなにかを。納得できる理由を。みんなが好き勝手に作り出す、諒太が内心で考えていたとかいうなんとやらを。

「あの。我妻諒太の妹です。こんばんは」
「……こんばんは」
捕まえるのに少し時間がかかって、一人になった時に声をかけてしまった。三人まとまっててくれたら手間省けたのに。諒太もよく、集団行動苦手なんだよな、とか言ってたっけ。
不思議そうというよりは、不審げに訝しむ表情を隠しもせず浮かべた、背の高い赤茶けた頭。諒太曰く「どらちゃん」。目の下にどこか陰りを残したまま、なんですか、と全く歓迎していない声色を投げかけられる。ああ、この人は今腹を立てているんだな、と一発で分かる声だった。だから思ったのだ。来たくなかったのか、と。
「諒太のこと嫌いでしたか」
「……は?」
「嫌そうだから」
「嫌……別に、違いますけど。気を悪くしたなら、謝ります」
「気は悪くしてません。人間なら誰かしらには嫌われてて当然だと思うんで」
「……ほんとにボーカルくんの妹かよ……」
「ほんとに妹です」
「聞こえてるし……」
「耳はいいんです」
ため息をついた彼は、少し表情を和らげた。なんですか、とさっきよりは穏やかに言われて、こんな不躾な年下の女相手に猫を被らなくてもいいのに、と思った。どうせ、諒太がぎゃーすか文句言ってたの聞いてるし。まあいいか。そっちのが話しやすいなら。
「諒太は自殺なんかしないと思うんですけど」
「……………」
「あの」
「……はあ」
絶句、を取り繕う、やる気のない返事だった。面倒そうなため息を再び吐いた彼は、一歩近づいてきた。でかくて圧が怖いんですけど。あたし別に、女の子の中で小さい方でも弱々しい方でも可愛らしい方でもないけど、つい引いてしまった。詰まりかけた息を吐き出して、言葉を続ける。
「諒太が、悩んでたこととか。原因になりそうなこととか、あと、例えば恨み買ってたとか、なんか揉めそうな人とかいたりしたのかなって思って」
「……自殺じゃないって、そういう」
「別に、警察を信用しないわけじゃないですけど。でももし誰かとなんかあったなら、話変わってくるんじゃないかなって」
変に早口にはなってしまったけれど、聞きたいことは聞けた、はず。こっちをまっすぐに見たまま黙り込んだ彼は、しばらく考えて、口を開いた。
「もし、俺が恨みを持ってたら、次はあなたを殺します」
「……えっ」
「疑われて調べられたら、困るんで」
「こ……いや、……」
「兄が亡くなって、それに引きずられて自殺したように見せかけて」
「ひっ」
「ははは」
手を伸ばされて、思わず弾けば、平坦に笑われた。嘲笑、って感じ。めっちゃ馬鹿にされてる感がすごい。何か言おうとして、言葉が見つからなくて、口を閉じる。一連の動作を数回繰り返した頃、くつくつとしつこく笑っていた彼が口の端を歪めたまま話しだした。
「は。おもしろかった」
「……ば、馬鹿にして」
「誰かを疑ってるなら、誰彼構わずそういうこと聞かない方がいいんじゃないですか。黙らされちゃうかもしれないから」
「あなたで最初です!」
「じゃあ、ひとを見る目がないってことで」
「あ、おっ、性格悪……!」
「今兄妹の確信が持てました」
まあ、と言葉を切った彼が、視線を少しだけ斜めに下げた。あたしとは目が合わないくらいには高くて、彼よりは低い。きっとそこは、彼から見た、諒太の頭があった場所なのだと思う。眉根を寄せた彼は、誰とも視線を合わせないまま、あまり口を開かずに吐き捨てた。
「……悩みなんか知らないし、原因なんてもんも心当たりすらないけど。そのぐらいの付き合いしかなかった割には、生きるの楽しそうに見えてたのに、」
「……………」
「……とは、思います。あったかどうか分からないものを、なかったと言い切るほど、深い関係じゃなかったんで」
それじゃあ、誰かに殺されないように気をつけて。愛想のない笑顔を浮かべた彼は、言うだけ言って、踵を返した。そこまで話して、置いていかれてようやく、自分の名前を名乗ってもいなければ、相手から名乗られてもいないことに気がついた。次に期待。

「あの」
「……あ。あー、えー、と。おくやみ、申し上げます?」
「……………」
なぜ疑問形。自分でも違和感を感じたらしく、申し上げます、と言い直した、跳ねっ返りの黒い頭。諒太曰く「ぎたちゃん」。妹の我妻利香子です、と今度こそ自己紹介をすれば、横峯悠です、と頭を下げられた。さっきよりは性格に難がなさそうだ。
「諒太は自殺なんかしないと思うんですけど」
「……んー……」
「でも、あたしが知らないだけで、もし悩みとかあったのかなって。心当たりがあったら、教えてほしいんです。原因を知りたくて」
さっきとは聞き方を変えた。だってぶっちゃけ怖かったんだもん。困ったように少し俯いた彼は、悩みかあ、と独りごちてから、こっちを向いた。
「犬と猫と鳥、どれがいいかはずっと悩んでたかな」
「……は?」
「飼うなら」
「いや……いや、それじゃ死なないでしょ」
「俺もそう思う。あとは……うーん……」
「……………」
「……天丼とカツ丼どっちが美味しいかも悩んでたけど……それは天丼って言ってたっけ……多分」
「あの、そういうんじゃないです」
「ですよねえ。分かってるんだけど」
分かっては、いるんだけど。そう繰り返した彼が、ぐすりと鼻を鳴らした。変わり者だとか、掴みどころがないとか、言ってた割には仲良さそうにしてる話をよく耳にした。みんなでいるのは楽しいけど、ぎたちゃんといるのは特に楽しい、とかって。だから、仲良いなら、何か知ってるかなって思ったけど。
「ごめんなさい。そういう深刻な話、したことないんだ」
「……そうですか」
「どうでもいいことばっか喋ってたから。ボーカルく、あ、リョータくんとは」
「どっちでもいいですよ。諒太も、皆さんのこと名前で呼んでなかったんで」
「うん。名前、覚えられてなかったかんね」
最後まで。そう、何かを思い出したようにくしゃっと笑った彼が、あたしと目を合わせた。なにか話そうとして一旦やめた彼は、無かったことにするように口を噤んだものの、少し目を泳がせながら話し出した。
「……言っていいのか、分かんないけど。最後に連絡とってたの、多分俺なんだよね」
「えっ」
「普通にLINEしてて。ボーカルくんが歌詞書いたのにりっちゃんにボロクソ言われて不採用なって、じゃーどうすんべって話をしてて。自分だけで考えててもまたダメ出しされるだろうからって、一緒にアイデア出してて」
「はい」
「ボーカルくん、思いつくのは早いから。数うちゃ当たるっていうか、そんで、まとまってきたから明日見せるわーっつって、俺がそのLINE受け取ったのが多分最後みたいで」
「……はい」
「部屋から歌詞見つかってね」
秘密で見せてもらって秘密で写真撮ったから、誰にも言っちゃダメだよ。そう言われて、スマホを渡される。ルーズリーフいっぱいに書かれた文字は、紛れもなく諒太の文字だった。馬鹿のくせに字だけは綺麗だから、見間違えたりはしない。ごちゃごちゃとたくさん書いてあるように見えて、使いたいところは印がつけてあるらしかった。けれど印の有る無しに関わらず、どの言葉も。
「死のうとする人が、こんな前向きな歌詞書くかなあって、俺は思うけど」
「あたしもそう思います」
「ね。誰かに言えないぐらい考え込んでたことが、もしかしたらあったのかもしんないけど。けど、ボーカルくんがぱっと思いつく言葉ってみんな、お日様みたいだったよ」
だから、というか、なんというか。直前までこんな歌詞を作っていたことを知っていて、それを遺された身としては、自分の知っている姿を信じてみてもいいんじゃないか。無理に悩み事を探さなくても、そんなのは見つかるわけがないと思っても、自由なはずで。自分はとりあえずそう思うことにしている、と、言葉を探しながらぽそぽそと、彼は話し切った。あたしにはできなかったことだ。あたしにはできなかったことだ。だから、あたしにあの歌詞を見せてくれたんだろうけど。わざわざ引っ掻き回さなくてもいいんじゃないかって、自分の中にある兄の姿を信じてあげたらいいんじゃないかって、自分でもそう思うけど。
「ありがとう、ございました」
「ううん。力になれなくてごめんなさい」
「いえ。その、……ちょっと、自信が持てました」
「ん?」
「自殺してないって、あたしが思ってても、みんなはそうだって言うし。違和感あるのに、そう思わなきゃいけないのが嫌だったので」
「あー、だって、ほんとのことなんか誰にも分かんないよ。自分のほんとのことなんて、誰かに言わないでしょ」
「……………」
「だから俺の中のほんとのボーカルくんは、すげー声がでかくて超元気で、いっつも前向きでブロッコリーだけはマジで食べれない人」
「……諒太まだブロッコリー食べれないんですか」
「うん。他のものはなんでも食べれるけどブロッコリーだけはほんと無理だって。一口食べて吐いてたよ」
「……あは」
昔と変わってない姿が鮮明に想像できて、つい笑ってしまった。久しぶりに笑った気がした。

「あの!」
「ひっ、人、違いです」
「人違いじゃないです!なんっで、逃げるんですか!」
「お、追いかけてくるから」
捕まえるの超大変だった。あそこにいるな、と見つけてから、人を縫って追いかけるまでの間に、こっちに気付いた彼に何故か逃げられたのだ。最初はタイミングが悪かったのかと思ったけど、途中で分かった。明らかにあたしから逃げている。それに気付いたあたりで、追いかけっこのスピードが段違いに上がって、最終的には走って捕まえにかからなきゃいけなかった。どういうことだよ。人違いじゃないなら逃げてごめんなさい、と悲壮な声で言われて、捕まえていた手首を離す。いじめてるみたいじゃないか。
「我妻諒太の妹です。我妻利香子といいます」
「あ、おれ、あの、宮本風磨です……ぼ、諒太さんとは、バンドメンバーで」
「知ってます」
「そっ、うですよね、そうですよね……」
無意味にへらへらしながらへこへこされて、若干イラッとした。いや別に、この人は悪いことしてないんだけど。あたしが一方的に腹立っただけなんだけど。
この人はあたしから逃げたので、建物の外まで来てしまった。出入り口から少し離れた、建物と建物の隙間。差し込む明かりも薄いそこは、周りよりも暗がりになっていた。これなら、顔が知れてる人と話してても、大丈夫だろうか。暗くても、鈍い金髪は目立つけれど。というか正直、さっきまでの二人と同じように室内で話したいけれど、仕方ない。
「諒太は自殺なんかしないと思うんですけど」
「……えっ」
「あたし、心当たりなくて。理由とか、原因とか、きっかけとか。もしなにかあったなら、教えてほしいと思って」
「理由……」
虚を衝かれたように言葉を溢した彼が、目を伏せた。睫毛長いな。あと、猫背だから気づかなかったけど、この人もでかい。さっきのギターの人も身長あったし、諒太の周りにはでかい人しかいなかったんだろうか。かわいそうに。しばらく無言が続いて、二回ぐらい車が通り過ぎたのを見送って、ようやく彼が口を開いた。
「……思い当たらないです」
「でしょうね。みんなそう言います」
「う……すみません……」
「だから尚更分からないんです。自殺って、状況的にはそうだったかも知れないけど、心情的には信じがたいじゃないですか。そう思いませんか」
「……そう、思います」
「……言わせたみたいになってません?」
「ほ、本当にそう思います、そう、思ってたんです、けど」
言葉を区切った彼と、目が合って、そこでやっと気付いた。この人、目が赤い。目蓋もなんとなく腫れているように見える。相当疲れてるんじゃなければ、ついさっき泣いたんだろうな、と窺わせる顔だった。こんなこと思っちゃいけないかもしれないけど、諒太相手で泣いてくれる人いたんだ。失礼ながら、もっとお仕事的な関係なのかと思っていた。ぼんやりとそんなことを考えているうちに、言葉を選び終わったらしい彼が話し出した。
「そ、そんなこと考え込むよりも、ボーカルくんなら、どうするかなって思って」
「そんなこと」
「ぃ、あの、悪い意味じゃなくて、だって、時間は戻らないから、その……」
「……はい」
「えっと……もしかしたら、言い方が悪いかもしれないけど。なくなったものは戻ってこないし、してしまったことに取り返しは、つかないから。だから、その……」
「……………」
「……終わったことを、考えるよりも。ボーカルくん、あの、諒太さんなら、それはそれとして、先のことを考えるんじゃないかなって、俺はさっき思ったんです」
「……はい」
「だから……うーん、なんて言ったらいいか……うまくは、言えないんですけど」
なんとなく、言いたいことは分かった。この人は、ちゃんと前を向こうとしているのだ。自分だけなら立ち止まってしまうところを、他でもない、今はいないはずの諒太の力を借りて、無理にでも足を進めようとしている。それが良いことか悪いことかはあたしには分からないけれど、少なくとも彼の中には、諒太がまだ生きていることだけは、確かだった。
彼の中に、というか、彼らの中に、というべきか。最初に話を聞いたドラムの人も、やなことばっか言ってたけど、話し振りと態度からして未練はありそうだった。話しかけた時に半ギレだったのも、よく考えたら諒太が嫌いだったからじゃなくて、その反対なのかもしれない。仲良かったはずの人のお葬式に突然行かなきゃいけないってなったら、悲しむより先に怒りが立つ気持ちは、分からなくもない。今の自分がまさに、悲しみよりも別のことを優先してしまっているから。ギターの人も、周りがどうこう言う影から作った本当か嘘か分からない諒太じゃなくて、今まで一緒にいて楽しかった思い出をかき集めた諒太を信じていた。その諒太は、確かにどうしようもなく馬鹿でうるさいアホかもしれないけど、そうじゃない諒太をあたしは知らない。他の人だって、知らないはずだ。今あたしの目の前で、すごく躊躇して、言葉を選びながら話す彼の中でも、諒太は生きている。この先どうしようかと考える時に、諒太だったらどうするだろう、なんて言うだろう、って思える灯台として。あたしはその想像上の諒太にムカつくかもしれないけれど、現実の諒太とだって散々口喧嘩して騒いできたんだから、それが当たり前で、普通のことなのだ。その普通を、無理に捨てたりなんかしなくてもいい。それはもしかしたら、思い出に囚われて、過去ばかり見つめてしまうことになるのかもしれないけれど、それはそれで誰かに迷惑をかけているわけでもなし、勝手にしたっていいじゃないか。
「だから、その、自殺かどうかって、俺も考えてたんですけど。あんまり、考えてもよくわからないし、り、諒太さんがそれを選ぶとは、やっぱり思えないし」
「……………」
「し、っ死ぬ勇気とかも、自分にはなかったけど、でも、諒太さんは、そもそもそんな思い詰めるタイプには見えないっていうか、っあ、嫌な意味じゃなくて、うーん……」
「……わかります」
「そ、っそうですか、よかった……」
「諒太、痛い時とか嫌な時のリアクション、クソでかいですもん。めっちゃ嫌がるし。だからわざわざ自分からそんなことしないと思うんですよね」
「うん、そ、そうです、そうですよねっ」
「好きなこととか楽しいことなら、やめろっつっても何回でもやるんですけどね……」
「そう、そうなんですよ」
「昔から変わんなくて。小学生ぐらいの時、公園のブランコから落ちたんですよ。やめろって言われてんのに、めちゃくちゃな高さで漕ぎまくって、落ちて。もう通り三本ぐらい突き抜けて近所の小学校まで響く声で叫んで」
「あはは……想像できる……」
「無傷でしたけど」
「はは、あははっ、すごい、らしいですね」
「そうなんですよ。諒太のやつ、だから」
だから。の、後が、突然言葉にならなかった。ひく、と喉が震えて、引っかかる。最初は何が起きたのか分からなくて、まばたきをしてやっと思い至った。ああ、あたし、泣いてるんだ。ぱたぱたと滴った涙に、咄嗟に拭うこともできずに、呆然とする。なにか言おうとする度に、しゃくり上げてしまって、全く言葉にならなかった。これじゃあ迷惑だろうな、と前に目を向けると、眉を下げたまま笑っていた彼が、少しだけ背中を伸ばして、あたしに影を作った。
「……あの。こうしたら、俺が一人で泣いてるように、見えると思うので……」
「……は……」
「い、っ嫌だったらごめんなさい、あの、触ったりとかしないんで、あっ、ハンカチとかもないんですけど、ただ、ほんと、いらなかったら退くんで」
「……いやじゃないです」
それから、本当にただ静かにそこに立ってただけの彼は、あたしが泣き止むまで壁の役割をしっかりこなしていた。諒太が死んでから、はじめてちゃんと泣けた。自殺の理由も、そもそも本当に自殺だったのかも、何もかも全く納得はいってないのに、憑物が落ちたみたいだった。しばらく涙が止まらなかったので、もし諒太に見られたら、ブサイクな泣き顔だな!って指差して笑ってきそうで、それはちょっとむかついた。その苛立ちに、嫌な感じはしなかったけれど。
あたしが泣き止んで離れた時、彼は鼻が赤くなっていた。つられ泣きさせちゃったのかもしれない。自分のことで手一杯だったから、気がつかなかったけど。もう大丈夫だと伝えると、一歩離れた彼がスマホを取り出して、顔を青くした。たっぷり連絡が入っているらしい。いや、だから逃げなければよかったじゃないか。逃げたりしたからこんなところで話す羽目になったし、探されているんだと思うんだけど。
「あ、あの、戻らなくちゃ、俺」
「連絡先、教えてください」
「えっ……」
「諒太がどーしようもなかった話、誰にもできなくなっちゃうの嫌なんで。あなたたちなら、聞いてくれそうだなって」
「……そ、ですね」
「みなさんからも諒太のしょーもない話してください。もし諒太に聞かれたらぎゃーぎゃー騒ぎそうな話がいいです」
「はは、わかりました。二人にも、言っておきます」
「あの世で吠え面かかせてやりましょ」
「吠え面……」
最初の取り繕った笑顔じゃなくて、可笑しそうに破顔した彼は、手早く連絡先を交換したら急ぎ足で戻っていった。本当に会ってくれるかどうかは別として、会って話せるとなった時にどんな思い出を伝えようか、今から考えておかないと。


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