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おはなし



兄には友達がたくさんいた。俺は同学年にあまり仲良くできる相手がいなくて、それは兄の周りの人とばかり遊んでいたからなのかもしれないけれど、今となってはどっちが先なのかいまいちわからない。小学校を卒業するまでくらいは特に、兄の友達に混ぜてもらうことが多かった。6歳離れていたので、俺が小学校高学年の時点で兄やその友達は高校生だったと思うんだけど、一応その場にはいさせてくれた。そも、高校生の兄は家を継ぐつもりだったので、家では遊んでいる姿は見なかったし、本当に稀に、どこかへ行く時気まぐれに連れて行ってくれる程度のものだったけれど。
「風磨!置いてくぞ!」
「えっ、えう、まっ、まって」
「待たない!急げ!」
兄の周りにはとにかく人がたくさんいて、楽しそうだった。自分はそこに混ざってはいたけれど、年下だからといって容赦されるわけでもなく、ゲームならボロクソに負けていたし、みんなが何か買って食べていても自分はお金を持っていないのでただ見ているだけだった。優しい誰かが手を貸してくれたり物を分けてくれたりはしたけれど、兄は絶対にそういうことはしてくれなかった。置いてくぞ、と言われたらぶっちゃけ本当に置いていかれた。泣きながら迷子になったことが数回ある。だからといって、それは俺に対して特別に冷たいわけではなくて、別に俺が兄のことを嫌いだとかいうわけでもなくて。
「風磨くん、大丈夫?」
「ぅ、うん、へ、へいき、だいじょぶ」
「一緒に休憩してよっか」
「う……」
ぼんやりと覚えている、小学校低学年の頃の思い出。兄について遊びにくるのは、大概の場合公園だった。今日は鬼ごっこの日で、とはいってもただの鬼ごっこじゃなくてルールがたくさんあって、しかも都合が良いようにそのルールは目まぐるしく変わっていくので、体力的にも頭脳的にもついていけるはずもなく、中盤で置いて行かれることがほとんどだった。確かこの時も思い切り転んで、どっか擦りむいて、一緒に休もうと持ちかけてくれた女の子が手当てしてくれたんだっけ。傷口を水で洗ってからしばらく木陰で座って、みんなが走ってるのを見てた。擦り傷はじくじく傷んで、こうなる度に毎回なんでついてきちゃったんだろうって思うんだけど、兄に遊びに行くぞと言われると、つい後をついて行ってしまうのだ。血が出てる、と今更気づいて、そっちをぼおっと見てたから、女の子に話しかけられて顔を上げた。
「あ、お兄ちゃん捕まっちゃったね」
「……うん」
「浬くん早いのにね、あ、こっち来た」
ずかずかと近づいてきた兄が、周りの友達に声をかけられて、休憩だ休憩!と吠えていた。鬼にされたことに腹を立てているらしい。そういう遊びなのに、無茶苦茶だ。どかりと隣に座られて思わず飛び退くと、鼻息も荒く横目を向けられた。
「なにしてんだよ」
「こ、ころんじゃったから、休んでる……」
「ふーん。見して」
「いた、いったいぃ」
「こんなん痛くない」
「あっ、そうだ、あたしばんそうこう持ってるよ。使う?」
「ばんそこ貼ったら走れるよな」
「う、うん、はしれる」
「じゃあふう鬼な」
「うん」
「えー、浬くん、風磨くん小さいのにかわいそうだよ」
「じゃあお前手伝ってやれよ」
「んー……」
結局、女の子に手を引かれながら走って鬼ごっこに参加したけれど、手を引っ張ってもらって走るのは逆にやりにくいな、という知見を得ることができた。彼女は俺のことを思って手伝ってくれたので、悪い人は誰もいないわけで。そして後から知った話だけれど、彼女は兄のことが気になっていて、俺に優しくすることでポイント稼ぎをしていたようだった。誰から聞いたかというと、彼女本人から聞いた。お兄ちゃんって好きな人とかいるのかな?と照れながら聞かれたのを、覚えているので。
思い返せば、兄は女子によく好かれた。俺が兄の友達に混ぜてもらうことが多かったせいもあって、バレンタインに家まで届けにきてくれた女の子に「お兄ちゃんに渡して」とチョコを預けられることもあった。俺はもらったことがないので、兄ちゃんはいいなあ、と思ったり、思わなかったり。
俺が中学一年生になった頃には、もう流石にあまり兄に引っ付いて遊びに行くことも少なくなっていた。というか、兄も家のことで忙しくなって、外に遊びに出ることも減った。遊びに行ったとしても、俺をわざわざ連れて行く義理もないわけだし。
「風磨。花火しに行くぞ」
「……えっ」
「花火。好きだろ、花火」
「う、うん」
だから、昔のように誘ってもらえたことが、少し嬉しかったのだ。本当についていっていいのか、俺がいて邪魔じゃないのか、と出発までに何度か聞いたけれど、他にも弟妹を連れてくる友達がいるとのことだった。高校の時の友達と同窓会も兼ねて会う、らしい。ここだと教えられた場所は近所の河川敷で、果たしてそこは花火をやっていい場所なのかどうか知らないけれど、誰も注意されなかったからまあ良かったのだろう。花火は楽しみだったし、そもそも夜出かけることが今までほとんど無かったから、ちょっとわくわくした。日が落ちかけてから自転車を漕ぎ出して、集合場所へ向かう。もう既に数人が集まっていて、兄と同い年らしいお兄さんとお姉さんばかりだった。
「あー、弟くんほんとに連れてきた」
「こんばんはー。中学生だっけ」
「浬よりちびっこくてかわいいね」
「こ、こんばんは」
「かわいー」
「中学生めっちゃかわいいー」
「お前も妹連れてくるって言ってたじゃん。どこ」
「俺の妹は今お前の弟を可愛がってるだろ」
「えっ、でか!思ってたんと違う!」
「高校三年だからな」
「風磨と同じぐらいかと思ってた」
「うち年子だから」
その後すぐに全員が集まったのだけれど、中学生は俺だけで、弟妹がいるといっても一番歳が近い人でも高校二年生で、当たり前ながら全然話は弾まなかった。高校三年の女の子と、二年の男の子二人だったので、どちらかというと三人は三人で過ごしていて、俺は結局兄の友達のお姉さんに世話を焼かれたり、みんなが騒いでいるときには普通にほっとかれて一人で端っこにいたりした。けど、花火も数本できたし、暗い中でみんながわあわあやってるのを見るのも新鮮で楽しかった。だって、たった半年前までランドセルを背負っていたのだ。あからさまにはしゃぐタイプではなかったので一緒に騒ぎたてこそしなかったけれど、内心ではちゃんと自分も混ざってる気分になってた。解散になったので自転車に乗って帰ろうとしたら、兄に「お前一人で帰れ」と突然言われたのだけは面食らったけれど。
「え、えっ、なんで」
「俺こいつ送ってくから。ちゃんと後から帰るから」
「……わかった……」
「えー、風磨くんかわいそうだよ。お姉ちゃんが一緒に帰ってあげよっか」
「うわやらし」
「やらしい女よ」
「心配してあげてんのー」
「だ、大丈夫です、ひとりで帰れます」
「そう?」
「風磨だって男なんだから平気だろ。な」
「うん、平気」
結論から言うとあまり平気ではなかった。中学生が夜遅くに一人だったので、パトロール中だった警察官に呼び止められたのだ。別にこっちも悪いことはしていないし、あっちも善意から声をかけているのだけれど、お巡りさんに話しかけられたことに破茶滅茶びびった俺は、猛スピードで逃げた。逃げたので、追われた。結局無理やり振り切って、遠回りを繰り返したせいで倍以上の時間をかけて家まで辿り着き、玄関前で兄と鉢合わせして変な顔をされた。帰ってきたのが同じタイミングだったので、母さんも兄と俺は一緒に帰ってきたもんだと思ったと思う。
兄は割と我儘で、あまり周りのことを考えずに自分の思った通りに突き進む人間だ。少なくとも16年間は一緒の家で弟として過ごして、そんなことは分かっている。最後なんか家飛び出したぐらいだし。傍若無人にも程がある。だけどそんな兄を恨んでいるわけでも嫌っているわけでもない、と繰り返して言うとなんだか嘘っぽいけれど、本当のことだ。ただ純粋に、そういう人間なんだと思う。俺は、逆立ちしたってそうはなれないわけだし。
そんな兄の挙動が分かっているから、困っているのだ。
「……………」
「なぅ」
「ゔ、ご、ごめん」
床に転がっていたのが邪魔だったらしい。猫に踏まれた。一声鳴いただけでこっちを見もせずに、俺が転がっていた場所に丸くなったクロにもう一度謝ってから、さっきからずっとにらめっこしている葉書に再び目を落とした。
年賀状が届いたのだ。他でもない兄から。十年以上前、俺が高校一年生の時に実家を飛び出した、兄から。先日やったカウントダウンライブを見たとか、母さんからここの住所を聞いたとか、書いてあることは何度見ても変わらない。話をしたいからまた連絡する、というところも含めて。連絡、されても、困るのだけれど。そもそも話ってなんだ。そんな今更、とかいう問題ではなく、突然連絡されてもテンパって会話にならないと思う。だから年賀状が届いてからずっと心の準備をしているんだけど、全く音沙汰がない。というかよく考えたら、どう連絡をとってくるつもりなんだろう。俺の携帯の電話番号を、また母に聞くつもりなんだろうか。一応、そういう必要最低限の連絡手段だけは、伝えてあるのだ。実際連絡をしたことは、家を出てからほとんどない。年賀状の住所欄に、兄の今現在の住所なら書いてあるけれど、手紙を出したいわけでもないし。ていうかだからそもそも、連絡します、って書いてあるわけだから。一人で年賀状とにらめっこしていても、考えは堂々巡りするばかりで、ため息混じりに葉書を置いた。電話が来たら、ちゃんと出ればいいか。
それから数日。毎日のように、例えば夜寝る前とか、ちょっと時間が空くたびに年賀状とにらめっこしていたのだけれど、仕事が終わってスマホを見たら、見知らぬ番号から不在着信があった。普段だったら、相手が分からない番号は怖くてかけ直さないのだけれど、今回ばかりは兄かもしれない。もし兄じゃなかったらすぐに切ろう、と自分に言い聞かせながら、スマホを耳に当てる。というか、もし兄だったなら、留守電入れてくれよ。そしたらこんなハラハラしながらかけ直さなくてもいいのに。そう思いながらしばらくコール音を待ったものの、出る気配がない。これ、切っていいんだろうか。せめて留守録サービスに回してくれたら、メッセージを吹き込めるのに。いや、それはそれで緊張するけど、留守電にメッセージを残すのって苦手なことトップ5くらいには入りそうなくらいなもんだけど。このまま永遠にコール音を待ち続けるのもちょっと、いやでも切るのもそれはそれで、と当分迷って、あと一分待って出なかったら切ろう、を二回繰り返してからようやく通話を切った。我ながら意志が弱い。どうして一回で決めることができないんだ。俺はいつもそう、と若干項垂れながらスマホをポケットに突っ込んで、途端に震えだしたそれを引っ張り出す。見知らぬ番号、と思った途端に通話ボタンを押してしまった。押してしまった以上、出るしかない。心の準備はどこに消えたんだ。裏返りかけた声が出て、全身に一瞬で汗をかいたのがわかった。
「はいっ」
『……風磨?』
「そ、あっ、はい、そう、あの、に、えっと、兄ちゃん……?」
『あ?聞こえない』
「ごっ、ごめんなさい……」
『ここ電波わりいや』
ぼそぼそ喋んなハキハキしろ、ってことかと思った。ざかざかと数秒間雑音が響いて、もしもし?と再び聞こえた時には、確かにノイズが消えていた。もしもし、と小さく返したら、聞こえねえ、もっとでかい声で喋れ、と言われた。やっぱり言われんじゃないか。
『元気?あー、元気なのはこないだ見たわ』
「うん、元気……に、兄ちゃんは、元気?」
『普通』
「ふ、ふつう……」
『お前楽器なんかできたんだな。ていうかなんで実家にいねえの?』
「ぁえ、っ」
『ああ、そういや母ちゃんに昔聞いたか。親父がキツかったんだっけ』
「……………」
『おーい。聞いてんのか』
「……きっ、聞いてる」
なんで実家にいないのか、と単刀直入にトラウマを根こそぎ掘り返されて、喉に言葉が引っ掛かった。そうだった。人の気持ちを考えるという思想が、兄にはないんだった。おめーのせいだよ、と言えるものなら言っていたけれど。
ぽつりぽつりと、言葉を交わす。十年以上一言も話していないはずなのに、兄ちゃんはまるで昨日ぶりみたいな態度だった。あっけらかんと笑う声と、遠慮のない言葉。それに引っ張られて、いつもよりは、言葉が痞えずに話せた気がする。気がするだけで、多分何度も言い澱んでは吃っているし、その度に「あ?」と聞き返す大変ガラの悪い兄の声が響いた。懐かしいというか、聴き慣れた声だ。いつまでも飽きず懲りずに兄の後ろをついて行っていた、昔に戻ったみたいな。
『今度飯でも食いに行くか』
「え、えっ、いいよ……時間、とれるか分かんないし……」
『はー?しょうがねえなー、奢ってやるから』
「おご、っそうじゃなくて、仕事が突然入ったりするし」
『見栄張るなって。金がないんだろ』
「兄ちゃん、あの、違くて」
『じゃあなんだよ?頭が金ピカだからか?』
「き、な、なんでそれ、関係ないでしょっ」
『今度東京行く用事あるし。お前と会うのなんかついでだから、顔ぐらい見せろよ』
「でも、その」
『仕事あるったって、夜なら平気だろ』
「夜……でも遅くなるから、無理かもしれないから、いいよ……」
『無理とかないから、あー切るわ。来月の最初の土日で東京行くから土曜の夜空けとけよ。じゃ』
「えっ兄ちゃん、嘘、まっ、え……ほんとに切った……」
指定された土曜日。どこに待ち合わせとか何時に来いとか、そういうことは全く言われなかったけれど、でも一応空けとけと言われたので、空けてはある。まあそもそも予定とかあったことないんだけど、ははは。悲しくなるのでやめよう。しかしながら兄にも言った通り、仕事が突然入るというか、急な残業はいつものことというか、年末年始ぐらいしっかり休めと上司から会社に来ることを禁じられるくらいには、仕事が溜まっているのだ。週休二日で土日は休みだろうって?うるさい。日曜が休みなら御の字だ。そんなこと分かっているので、前日の夕方にクライアントから仕様変更が来た時点で、やっぱりこうなるか、と納得したぐらいだった。なにもなく無事に土曜を迎えられるとは最初から思っていない。
「……………」
今現在、土曜夜、なのだけれど。夜というにも遅いぐらいだ。終電間近である。一応スマホを気にしつつ仕事を片付けてはいたのだけれど、兄から連絡が来ることはなかった。忘れているのだろうか。ちゃらんぽらんなようで、人と会う系の約束は守る人だったので、それはそれで珍しいような気がする。忙しかったのかもしれない、用事があってこっちに来ると言っていたし、と自分で自分を納得させながら歩く。どこかで夜ご飯を食べてくる余力もなく、コンビニでお弁当を買った。時間が時間だったからか、棚自体がスカスカだったので、選ぶのには手間取らなくてよかった。自分の夕飯の前に、飯をねだる猫にキャットフードをあげる辺り、優先順位と立場を思い知らされた気がする。レンジにお弁当を入れて、数分を待つために一度テーブルの前に腰を下ろしたら、立つのが億劫になってしまった。座らなきゃ良かった。けど、明日は休みだし。寝るまでなんとか頑張れば、明日は休みなんだし。
「……えっ……」
電話来たんだけど。自分でも絶望に溢れた声が出てしまった。どう考えても兄だ。画面を見なくてもわかる。俺には電話をかけてくるような知り合いなんて片手で数えるくらいしかいないというのと、今日予定があったはずなのは兄だという二つから、確信を持つ。もうスマホの画面を見なくても分かる。分かるから見なくてもいいだろうか。ここで出なかったら兄に殺される未来しか見えないけれど、もう眠いし疲れたので無視したい気持ちでいっぱいなのだ。怒られるのが怖くて兄を無視したことなんてないけれど、最初の一回をここで使ってしまおうか。
「……はい……」
『あ。お前どこにいんの』
「……今帰ってきたところ……」
『あっそ?ちょうどいいじゃん。今から行くわ』
無視なんてできるわけがなかった。うん分かった、と弱々しい自分の声を他人事のように聞きながら、スマホをタップして通話を切った。そもそも夜空けとけって、夜ご飯がどうとかじゃなくて、マジでガチの夜の話を兄はしていたわけだ。時間を考えろ。常識ないのか。思い返してみれば確かに「顔ぐらい見せろ」だったし、遅くなると言っても「夜なら平気」「無理とかはない」だった。そりゃ待ち合わせの場所も時間も伝わらないはずだ。飯がどうのこうのというのは、また別日の話だったのだろうか。どんな思考回路だ。俺が兄ちゃんの言うことならなんでも聞くとでも思っているのか。確かに、逆らえたことなんて今まで生きてきて、一度もないけれど。
今から行くって家に来るんだろうか、手紙来たから住所は知ってると思うけど、と思いながらお弁当を食べながらしばらく待ってたら、また電話が来た。曰く、近くまで来たけど大まかな場所しか分からないから出て来い、と。でしょうね。立地がいいとは特に言えないし、目印があるわけじゃないから。
「じゃあ、えっと……駅で待っててくれたら、行くから……」
『ファミレスあった。ここにいんな』
「ど、どこのファミレス……!?」
『腹減ってきた』
自由か。店名と周りの建物を聞いてようやく当たりをつける。普段通りだったらシャワー浴びて寝るはずなので、もう既に布団でスタンバイしていたクロが、お前どうしたんだ、どこ行くんだ、と言った様子で寄ってくる。玄関前までついてきたものの、外に出ると分かった途端、興味を失ったのかふいと戻ってしまった。滅多にしないお見送り、してくれるのかと思ったのに。猫にまで愛想を尽かされてしまった。
兄がいる場所が分かったのはいいけれど、会っても、なにを話せばいいんだろう。直接顔を合わせてまで、俺からなにか伝えたいことがあるかと言われたら、疑問が残る。ていうか、電話の方がまだ上手く話せると思う。目的のファミレスが見えてきたけれど、いやに緊張して、足が止まりそうだった。し、実際、止まった。店の前で、場所を確認するように立ち止まって、時間を見るふうにスマホの画面に目を落としたら、足は動きそうになかった。今更会ったところでなににもならないし、下手を打って怒らせるくらいだったら会わない方がいいんじゃないか。だって電話でなら、話はできるし。やっぱり行けないって、体調が悪いとでもなんでも嘘をついて、家から出られなかったふりをすれば。
「なにしてんの?」
「ひっ」
「風磨だろ?店入れよ」
「……に……」
背後からかかった声に、ゆっくり振り向く。最後に見た兄は、まだ22歳だった。それよりは歳を取った、と思う。けれど、胡乱げな目と、ついてくるのが当然と言いたげな態度に、この人はどうしようもなく自分の兄なのだと、分からされて。顎で店の方を指されて、言葉で詰まった喉のまま、なんとか肯く。なんで店の中にいないんだ、まさか俺が来るかどうか見張ってたんじゃ、と思ったものの言葉にはならなかった。聞けなかったけれど、兄が自分から口を開いた。
「窓から来たとこ見えてた。入ってこないから来たんだけど、お前なんか食う?」
「……や」
「なんだ。とりあえず来いよ」
「うん……」
「ふう頭目立つから」
さらりと昔呼ばれていた名前で呼ばれて、黙ったまま首を縦に振った。なにに対する了承だったのかは、自分でもわからない。店員には断って店を出たらしい、鞄もお皿もそのままの席に戻る兄の後についていく。なんとなくいい匂いが残っていて、手持ち無沙汰にメニューを開いた。
「食うの?」
「……夜ご飯食べてきた」
「なんだ。奢ってやろうと思ったのに」
明るい店内で改めて見た兄は、昔とあまり変わっていないようで、十年以上の年月は確実に蓄積していて、どこがどう変わったとは言葉では言えないけれど、兄ちゃんを見ているはずなのにそうでないような、不思議な気分だった。メニューを開いたままぼおっとしていると、じろじろ見るな、と手が伸びてきて頭を叩かれた。ぱかすか蹴られ叩かれては泣かされていた幼い頃がフラッシュバックして、なんとなく下を向く。嫌とか怖いとかじゃなくて、懐かしいような嬉しいような、およそ頭を叩かれた人間らしくない感情ばかりが浮かんでは消える。
「お前背伸びたんだな」
「……兄ちゃんが出てった時、俺まだ高一だったから」
「そうだっけ?もうちょっとチビじゃなかったっけか」
「違うよ……」
「ふうん。あ、バンドってこんな夜遅くまで練習すんだな。俺よく知らんけど」
「し、仕事だってば」
「へー。これうまかった、食う?」
「……お腹いっぱいだからいい……」
「食え」
「い、いらない」
「うるさい。俺もいらない」
「う……」
もらった、もとい押し付けられたフライドポテトをつつきながら、いまいち仕事をしていることを兄に信用されていないらしいので、ぽつぽつと弁解する。こういう仕事をしているんだと説明しているのに、俺の言葉はほとんど聞いていないらしい兄が、スマホをいじりながら生返事を繰り返した後に、机に貼ってある期間限定のメニューを指先でなぞって暇つぶしを始めたので、もうやめた。多分続けたところで意味がない。俺が言葉を切ったのに気づいた兄が、自分の左手に一瞬目を落として、口を開いた。
「彼女は?同棲中とか?」
「……いない」
「は?なんで。その年にもなって」
「なんでって、な、だって、い、いないもんはいないんだ」
「そんな頭だからじゃねえの」
「だ、そ、それは関係ないってば」
「口答えすんな」
「いたっ」
また叩かれた。この年にもなって、なんでこんなにひっぱたかれなきゃいけないんだ。兄の言うことにイエスと返さなかった自分が悪いのだろうか。というか、6つも年上なのにいまだにこれだけ手が出る兄の方が問題だと思う。叩かれたこっちよりも残念そうに、盛大な溜息をついた兄が、不満げな目を向けてきた。
「彼女の一人もいないとはなー、兄ちゃんはがっかりだ。風磨は女の子とお付き合いしたこともないなんて」
「い、いたことはある」
「……………」
「……あの、嘘じゃないよ……」
「嘘だ。嘘つく時の顔した」
嘘じゃないし、そんな顔はしていない。ものすごくあからさまな疑いの目で見られて、視線をそらしてしまった。仕事の話も信じてくれない上に、彼女がいたことあるかどうかすら疑われている。兄の中で俺ってなんなんだ。
それから、兄の妻と子どもの写真を見せてもらった。俺は一度も、顔どころか存在すら見たことが無かったけれど、もう子どもは中学生になっているらしい。そりゃあ兄も老けるはずだ。小さい頃から泣いた時の顔がお前にそっくりだった、と言われて、そういえば兄と自分も基本の顔の作りはそっくりだとよく言われたことを思い出した。表情のせいで、全く似ていない扱いを受けることが殆どだったけれど。
「駅どっち?」
「こっち……どうやって帰るの」
「タクシー拾う。お前がこんなに帰り遅いせいで電車がないから」
「だ、だから、無理って言ったのに」
「どっかで無理でも捕まえないと一生俺から逃げると思って」
「に……」
「まあ、明日帰るから。今日はホテルだし」
見送りに来てくれてもいい、と当然のように言われて首を横に振ったら、蹴飛ばされた。ノーと伝えるたびに暴力が飛んでくる。なんというか、せめてもと、今は駅のタクシー乗り場まで一緒に行くことにした。見送りって、今じゃなくて明日なんだけど、と少し呆れたような兄の声と、間を置いてから低く笑う音。俺が勘違いをしたと思って笑われている。分かってるよ、明日の見送りの話をされたなんてことぐらい。歩く人はほとんどいない、車も数台しか走っていない道を駅へと向かう。なあ、と声をかけられて、顔を上げた。
「ふう、実家帰ったことある?」
「……ない」
「だよなあ。俺も流石にねえわ」
「……か、あの、母さんは、元気……?」
「は?お前な、電話ぐらいしてやれよ。元気だよ、元気。こないだちょっと入院して」
「えっ、なっ、なんでっ」
「検査入院だよ、検査!長めの健康診断!そんでなんともなかったっての!自分で連絡ぐらい取れって!」
「……や……うん……」
「はー。もう、そろそろ帰るか」
「……うん?」
「あ?お前も見つかったし、そろそろ帰るかって」
「……家に?」
「実家」
「……えっ……」
「親父には殺されるかもしんねえけど」
「……む、……いや、無理……ほんと、そ、それは、兄ちゃんのいうことでも、いや、ていうか、き、聞けないっていうか……」
「一人よりいいだろ」
「そ……そういう問題じゃあ……」
「親父が殴りかかってきても二人いれば返り討ちにできる」
「……ほんとにそういう問題じゃなくない?」
「あいつのグーパン異様に痛えんだぞ。殴られたことあるだろ」
「……………」
「実家に帰れないって、お前の母ちゃんのこと認めてもらえなかったからでかい喧嘩して家飛び出したって、ガキに説明すんのも億劫なんだよ」
それは、そうなのかも、知らないけれど。肯定も否定もできないうちに駅について、また近いうちに電話する、と次を約束して、兄はタクシーに乗りこんだ。最後の最後に、頭じゃなくて背中を叩かれて、背筋を伸ばされて、行ってしまった。嵐のような人だと思う。冷めてしなしなしたフライドポテトが好きだったのは、小さかった子どもの頃の話なのに。
家へと帰る道で、いつもよりも少しだけ、下を向かずに歩けた気がした。


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