このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

おはなし



「うみ、やきゅうせんしゅになる」
「……うーん……」
「ほーむらんをうつ。かきーんて、こう。こうして、こう!」
にんまりしながらバットを振る真似をしているところ悪いけれど、全く様になっていない。そもそも海は運動神経が悪いのだ。そんな海がなんで突然野球選手になりたがっているのかというと、数日前に遡る。
きっかけは簡単な話で、航介に昔買ってやったという子ども用のバットとグローブと野球ボールが倉庫から出てきた、と、みわこがそれら一式を海に譲ってくれたのだ。ほとんど使った形跡がないので、やらなかったの?と航介に聞けば、野球をやった記憶はない、と。確かに、運動できないこともないのに、野球のイメージはない。だからといってサッカーもバスケも想像はできないんだけど。まあ、航介に丸かった時期があると知っている身からすると、やらなかったんだろうなあ、と納得するしかない。友だちと一緒なら、と言ったところで、一番身近にいたはずの幼馴染みがあの当也だ。野球なんて絶対にやらない。よって、バットもグローブもボールも新品同然なのである。しょうがない。
新しいおもちゃをもらった海は、使い方がいまいち分からないなりに、なんとか遊ぼうとしていた。ボールは壁に向かって投げてみたものの跳ね返ってきたやつが頭に当たってたし、バットは杖みたいにして「おじいさんみたいでしょお」とヨボヨボ歩いてたし、グローブは被ってた。そうじゃない、と一応やり方を教えたけれど、いかんせん俺も航介も野球なんてやったことがないので、いまいち様にならず、海も特に興味は示さなかった。それから数日で海の中のブームも去って、危うく部屋の片隅で忘れ去られるところだったところで。
「なにしてるのー」
「……テレビを見てる」
「なにこれー」
「野球だよ」
「ふーん」
実家に遊びに来て、大好きな友梨音がまだ帰ってきていなくて、暇な海はお父さんに絡み始めた。珍しい。絡まれた側も驚いたのか、若干間が空いていたのがちょっと面白い。なにしてるの?どっちが勝ちなの?今どうなったの?と海の質問攻めにあいながら、訥々とそれに答えていく。海のために、ルールを簡単に噛み砕いて説明してくれているんだろうな、ってのが伝わってくる喋り方だ。俺も野球には詳しくないから、なるほど、と聞きながら一人頷く。
「あ!うったよ!」
「ヒットだな」
「いってん?」
「ううん、まだ一点じゃない」
「こうたい?」
「まだ」
なんてしてるうちに、海が少しずつルールを理解しはじめた。教え方がうまかったのか、意外と飲み込みが早い。どっちのチームを応援しているとかそういうのは無いらしく、点が入ったら喜んでいた。交代の時にCMを挟んで、その間に海がはっと思い出したように顔をこっちに向ける。
「さくちゃん、うみのバット」
「え?ないよ、家に置いてきちゃったもん」
「なんでえ」
「家の中でバット振らないかと思って……」
「じーじ、うみバットもらったの。ボールも、あとあの、この、てにつけるやつも」
「グローブ」
「そう!それ!」
「そうか。野球、楽しい?」
「うん!たのしい!」
えっ、海、野球楽しかったの?秒で興味失ってたじゃん。俺が投げたボールに見向きもしなかったのも、航介がバットを振って見せてるのに足元のアリに夢中だったのも、夢だろうか。グローブなんて、帽子だと思ってたじゃないか。しかしながら、方便で言ってるとは思えない。そこまで賢くない。てことは、野球中継を見てるうちに、自分もあのぐらいできるように思えてきて、楽しくなってきたんだろうか。いやいやいや。実際やってみて、現実とのギャップに泣き叫ぶ未来しか見えない。そうかそうか、と嬉しそうな父さんと、にこにこしながら下手くそにバットを振る真似をしている海には悪いけれど。
そしてしばらくして友梨音が帰ってきて、野球を見ていたことも勿論ばっちり見られて、大興奮の海は「うみ、やきゅーせんしゅになるんだー!」と友梨音に啖呵を切ったのであった。それが数日前で、それからずっと、海の野球ブームは続いている。
「さくちゃん、やきうやろ」
「いいよ」
「うみ、うつひとね」
「じゃあ投げるからね」
「こーい!」
外に出て、海に向かってボールを投げる。ここ数日で何度かやっているので、俺もそれなりに上手くなってきたと思う。山なりにゆるやかに飛んでいったボールは、ちょうど海が構えたバットの前に。あとはタイミングよくバットを振れば、という、
「だやー!」
「おうっ」
「ああー!さくちゃん!いたかったね!ごめんねえ!」
……はずなのだけれど、海の手からバットがすっぽ抜けて、俺の腹に吸い込まれた。大焦りですっ飛んできた海が、いたかったねえ!と俺に縋り付いている。大丈夫だけど。そりゃ痛かったけど。
この調子で、海の野球ブームは、奇跡的な偶然の重なりで何故か「別に海は下手くそじゃないし」「バットが飛んでっちゃったりするだけだし」「さくちゃんが投げるのへたっぴだからだし」という感じで勘違いされているわけだ。想像では出来るはずなのに現実では出来ないー!と泣き叫ばれても困るので、そうならなくて良かったけれど。この勘違いがいつまで続くか、もとい、いつ気づいて打ちひしがれるか、が問題なのである。
そしてまた数日後。土曜日で、今日は友梨音が遊んでくれる約束をしている日だった。おべんとおべんと、と海がわきわき踊っていて、航介がおにぎりを作っている。航介のおにぎり、みわこのと一緒で、食べても食べてもなくならないんだよね。米が凝縮されている。お弁当、といっても、おにぎりとおやつのおかしと水筒ぐらいのもんだ。友梨音が、たまごやき練習したから持ってきてくれるって。
「さくちゃんバット!」
「持った持った」
「ぼーし!」
「はい」
「ちがーう!ちがう!やきうのやつ!」
「はいはい」
今までキャップをあまり被ろうとしなかった海なのだけれど、あの日野球中継を見てから憧れが強いのか、被りたがるようになった。ちょっと大きいので斜めになっているけれど、気にしないらしい。
航介は注文書のまとめがあるので、玄関で別れて市場へ向かった。月末だもんね。俺と海で、友梨音との待ち合わせ場所へ行く。遊びに行く先は、ただ広いだけでなんにも遊具とかない原っぱなんだけど、野球ブーム真っ盛りの海にとってはそれがいいのだろう。バットをぶん回しながら歩くのだけはやめさせた。危ないでしょうが。
「ゆりねちゃん!みててね!うみ、やきゅうせんしゅみたいだかんね!」
「見てるよー」
「うひー!さくちゃん!なげて!」
「うん」
超テンション上がってんじゃん。地団駄踏んで喜びを発散してからバットを構えた海に向かって、ボールを投げる。かっこいいとこ見せたげよう!って感じだけど、海が打てるとは思わないんだよなあ。案の定、いつも通りバットの上を通過したボールに、ふすー、と鼻息で呆れられた。全くもうさくちゃんったら、って感じでこっち見てっけど。おい。
「もー、もっかいなげてー」
「うんー」
「ゔやー!」
「ぅあっぶね!」
「あー、ばっとがー!」
またバットがすっ飛んできた。あわわー、とそれを取りに来た海が、さすがに一回も打てないのはかっこ悪いと思ったのか、いつもはこんなんじゃないんだ的なことを友梨音に言い訳している。にこにこしながらそれを聞いている友梨音が、こっちに来る。代わってくれるのかな。
「お兄ちゃん、バット貸して」
「ん?うん」
「よーし。海ちゃん、見ててね」
「ゆりねちゃんもやきゅーせんひゅ、すっ、せんしゅ、なるの?」
「やったことないけど。うん、お兄ちゃん、投げて」
「お、おう」
「がんばるぞー」
数度バットを軽く振った友梨音が、構える。いや、様になってんな。よく考えたら友梨音、スポーツ苦手ではないんだっけ。昔からあんまり自信はなさそうだったけど、足もそれなりに早いし、運動神経は良い方だと思う。打つだろうな、と思いながら投げると、友梨音は案の定ばっちりのタイミングでバットを振り抜いて、ボールは俺の遥か彼方後ろへと飛んでいった。どっか遠くの方で、草むらの中にボールが落ちた音がする。子ども用の軽いボールだったってのもあるし、単純に当たりどころが良くて飛距離が伸びたんだろう。自分でも予想外だったのか目を丸くした友梨音が、あわあわしながらバットを海に渡す。
「あっ、あ、ごめん!さ、探してくる!」
「わー!ゆりねちゃんすごーい!すごいすごいすごーい!やきうせんしゅ!」
「……友梨音、ちゃんとスポーツやったほうがいいと思うよ」
「い、いいよ、私、そんな得意じゃないし」
「すごいすごいー!うみ、いっかいもかきーんしたことない!」
きゃっきゃと喜んでいた海が、自分の言葉に我に返ったのか、ああ!うみ、いっかいもない!と愕然としている。今気づいたのか。友梨音が恐らくこの辺りに落ちたはず、と言う付近でボールを探していると、おろおろしている海が話しかけてきた。一応友梨音にはバレたくないのか、こそこそしている。
「さくちゃん?」
「どした」
「う、うみ、いっかいもかきーんしたことないね?」
「ないねえ」
「やきゅーせんしゅは、かきーんてしたことなくても、なれるかね?」
「なれないんじゃないかなあ……」
「そ、そうよねえ、そうわね」
なんでちょっと女の子入ってるんだ。いやだわね、と頬に手を当てている海が、それはともあれボールを探さなければと思ったのか、がさがさ草をかき分けて進んでいく。体が小さいから進みやすいのか、しばらくすると、あった!と声がした。よかったよかった。
「海ちゃん、ごめんね……」
「んーん、たんけんみたいでたのしかったー」
「もうお姉ちゃん野球しないから。海ちゃんがしてるの見てるから、ねっ」
「えっ」
「今度はうまくいくよっ」
普段はできる、なんて海の言葉を信じている友梨音の、全く裏のない言葉に、うっかり嘘をついてしまった海が罪悪感に苛まれている。あからさまにもぞもぞしていて、ちょっとおもしろい。助けを求めるように見上げられて、しょうがないなあ。
「先におやつにする?」
「あっ、おやつ、おやつにしよ!うみ、おなかすいちゃったなーあ!」
「そう?」

「それで?誤魔化し切れた?」
「海が運動神経悪いことなんて友梨音も知ってるし……」
「ああ……」
残念そうな顔。ごもっともです。
それから、おやつを食べて元気を取り戻したものの、元気になったところで今まで一度も打てなかった海が突然さっきの友梨音みたいなホームランボールをかませるかというと、そりゃまあ無理なわけで。すかっ、という擬音が正しく当てはまる見事な空振りを数回かまして、振る勢いに耐え切れずバットを手放して俺に向かって暴投するいつものやつもやったところで、正直者の海が友梨音の期待の目に耐えられなくなって、白状した。いつもこんなです!普段はできるとかそういうんじゃないんです!と泣き打ちひしがれながら友梨音にすがって、ひとしきり慰めてもらって。
『でも海ちゃん、きっとすぐに上手になるよ』
『ゔ、うっ、ぅ、うみ、へたっぴだから、やきうせんしゅなれない、ぅう』
『野球選手だって、きっとみんな最初から出来たわけじゃないんじゃないかなあ。海ちゃんみたいに、たくさん練習して頑張ったから、野球選手になれたんだよ』
『……ほんと?』
『うん。きっとそうだよ』
『そ……そうかなあ……?』
かくて、友梨音に弱い海は、あっという間に絆されて、にやにやしながら「じゃあこれからも練習しちゃおっかな」という体を取り戻したのであった。という一連の流れを航介に説明すると、まあとっとと飽きるよりはいいか、と返された。そうね。そもそも運動苦手だから、ああやって自分からスポーツ的なことしてる海なんて、レア中のレアなわけだし。
「しばらく持つといいな」
「ねー。いいじゃんね、将来の夢が野球選手って」
「甲子園とか出ちゃったりして」
「あー!いいねえ!ていうか航介そういえば甲子園は見るよね、なんで?」
「なんでって……なんで……?」
「プロ野球見ないじゃん」
「見ない」
「なんで高校野球だけ?」
「……なんでなんだろうな?」
「いや知らんけど」
とか話してから一週間もしないうちに、今度はみわこからサッカーボールをもらい、実家に遊びに行ったらお父さんがサッカーを見ていたので、将来の夢はあっという間に「うみサッカーせんしゅになるー!」になったのでした。染まりやすすぎて心配になるわ。


31/47ページ