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インタールード




今日はバイトの間に薫さんとも話せたし、そんなに忙しくなかったし、店長にお弁当持って帰っていいって言われたし、いい日だった。シャワー浴びたし、そろそろ寝よ。と思ってから布団の上でスマホをいじってだらだらしてしまって、もうすぐ日付も変わるぐらいの時間だ。久しぶりにログインしたゲームが意外とおもしろかったのがいけない。あと五分だけにしよう。スタートボタンを押したのと、玄関のチャイムが鳴るのが、ほぼ同時だった。誰だろ、こんな時間に。
「はあい」
「……ゆう」
「あ、え?りっちゃん?」
「んー……」
来るって言ってたっけ。うちに来る時は必ず、今日行く、って連絡くれるはずなんだけど。多分連絡は来てない、さっきまで俺スマホいじってたんだし。いつもそうだから、そうしてくれるのが当たり前だと思ってた。りっちゃんでも忘れちゃうことぐらいあるか。俺が突っ立っているので入れないらしく、珍しくどけとも邪魔とも言わずに玄関先で待ってる。ちょっとびっくりして、固まっちゃって、でも突っ立たせてるままなのも悪いので、どーぞ、と引けば、鍵を閉めて靴を脱いで入ってきた。普段より2割増ぐらいで口角が上がってる。なんかいいことあって、機嫌良いのかな。
「ん」
「なにこれ」
「みやげ」
「はあ」
「食え」
「うーん、今度ね」
「今」
「……どしたの?」
ぐいぐい押しつけられたコンビニのビニール袋の中には、白玉ぜんざいと、間に生クリームとあんこが挟まってるどら焼きみたいなやつと、クレープのアイスと、じゃがりこが入ってた。最後の以外甘いもんばっかだな。りっちゃんが食べたかったんだろうか。俺のことはほっといて食べていいよ、甘いものの気分じゃないし、そんなにお腹空いてないし、と袋を返せば、手を後ろに回して受け取ってもらえなかった。ほんとにどしたの。まだにまにましてるし。
「うっさい、食べろ」
「なんで。毒でも入ってんの」
「入ってない」
「どしたの。やなことでもあったの」
「どうもしない……」
にやにやしてる人が、やなことあったわけないと思ったけど、一応。変なの。とりあえず貰ったものを冷蔵庫にしまってから戻ってくると、床に丸まっていた。眠いの?と聞けば、もそもそと仰向けになった。
「……ねむくない……」
「なにしにきたのさー」
「……おみやげ……」
「……マジでこれ渡しにきただけなの?」
「……………」
「りっちゃん?」
「……う」
今寝てた。どうにも様子がおかしいと思ってはいたけれど、機嫌がいいのは良いことがあったからとかじゃなくて、もしかして。しゃがみこんで顔を覗くと、ぼんやりした目と視線が合った。うん。
「りっちゃん、酔っぱらってんの」
「……ぱらってない」
「ぱらってる。飲んできたでしょ」
「うん……」
「珍しいね、そんなんなんの」
「……んー……」
「ん、こら、くすぐったい」
「……ゆう」
「なーに」
「……………」
にまにましてる。ふにゃふにゃと伸びてきた手が、俺の頬に当たって、首筋と耳をなぞっては戻るので、捕まえて下ろさせた。りっちゃんチューする前それやるから、まさかそういうことしたいのかと思ったけど、眠そうだし笑ってるから、そうじゃないっぽい。拒否って笑ってるとかありえないでしょ。だから多分、ただ触りたかっただけ、とか。ペット扱いされてる気がする。うーん。
りっちゃんがお酒飲んでるとこは何度か見たことあるけど、こうやってちゃんと酔っぱらってるところは見たことなかった。別に強いわけじゃないって、言ってたっけ。眠たげに細まった目が、しぱしぱしてはまた開く。なんでうち来たんだろ。飲んだとこがうちの近くだったのかな、そんで家帰るのめんどくさくなったとか。時間も時間だし、たらたらしてたら電車なくなっちゃったとか。俺ももう寝るつもりだったから布団敷いてあるのに、床に直接転がってるのがちょっとおもしろい。まあいいか、どうせりっちゃんだし。いつもだったらなんか文句言って怒りそうだけど、酔っぱらいりっちゃんはどうやらいつもと沸点が変わるらしい。いつもの五倍ぐらいふにゃふにゃしてるし。
「寝んの?」
「ゆう」
「ん?」
「買ってきたの、食べないの」
「明日にすんね」
「あれ、うまいから……」
「おいしそうだったねえ」
「……うまいから」
「うん。聞こえてる。ねー、寝ないの」
「アイス……溶けるから……」
バグってる。うける。ふらふら立ち上がったりっちゃんが、冷蔵庫まで蛇行しながらたどり着いて、冷蔵庫の方を開けて固まっている。そっちにはないよ、アイスなんだから。食べたいんだろうか、と思って出してあげたら、ぺりぺり包み紙を剥がして、差し出された。えっ、俺が食べるの。食べるけどさ。
「おいし」
「……………」
「すげーにやけてんじゃん。りっちゃん食べなよ」
「……ゆう」
「うん、うぐ、たべ、食べるから」
「うまい?」
「おいしい」
「……いいな」
「だから食べなって」
「うん」
素直に食べてる。口でっか。秒でなくなっちゃったよ。口の端にチョコが付いてたので、ついてるよ、と教えてあげれば、ついてない、と逆切れされた。なんでだ。チョコついてるよ。まあいっか。
それからしばらく、寝たかと思えば「ゆう」と呼ばれ、構ってあげてる内にまたうとうとしだして、ほっとくとまた呼ばれ、りっちゃんがいつもと同じうつ伏せの寝るかっこになった頃には深夜二時になっていた。結局床に突っ伏したままだし。明日の朝になって記憶はあるんだろうか、とちょっと考えたけれど、りっちゃんがちゃんと酔っぱらってるところを見るのはそもそも今日が初めてだったので、分かるはずもなかった。俺もそんな記憶なくすまで酔っぱらったこととかないし。
電気を消す直前、床に直で顔はさすがに痛そうだな、と気づいた。けど、布団も枕も二セットもないし、どうしようか。ちょっと考えて、タオルでも挟んだけよっかな、と思いついた。我ながら頭いい。頭を持ち上げてタオルを敷いたけど、りっちゃんは起きなかった。ぴくりともしないと逆に怖いな。息してるから平気だろうけど。
「おやすみー」



「今日行く」の連絡に「かぜひいた」と返事が来た。就職先が決まって、研修やら色々で忙しくしている間は顔を合わせていなかったから、しばらくぶりだと思ったらこれだ。お大事に、と送信しようと思って、あのなにもない部屋が脳裏に浮かぶ。まあ、薬飲んで寝てれば風邪程度すぐに治るだろうけど。何か欲しいものがあるかと一応聞けば、返事はなかった。寝てるんだろうか。
もし既にあったとしても増えたところで困らないだろうと思って、飲み物だけコンビニで買ってから向かう。申し訳程度に鳴るチャイムを押したものの、返事はなかった。頼むから中で死んでるのだけは勘弁してくれ、と思ってドアノブに手をかけると、開いた。開くなよ。
「……悠?」
声をかけたが、中は静かだ。電気もついていない。いないのに鍵を開けておくほど不用心ではないと思うのだけれど、いや、中に人がいても鍵を開けておくのは不用心なんだけど。もう既に殺人事件犯行後だったら嫌だな、と他人事に思いながら、電気のスイッチを入れる。ぱちぱちと数回点滅してから部屋は明るくなって、奥に布団まんじゅうがいた。
「おい」
「……まってた……」
「鍵開けとくなよ。泥棒入るぞ」
「りっちゃんとどろぼー、どっちがはやかった……?」
「頭大丈夫か」
ぐじゅ、と鼻を啜った音がして、覗いた布団の中は熱気でじめじめしていた。薬は、医者は、と聞いたものの、かぜひいた、としか答えが返ってこなかった。これは駄目そうだ。とりあえず買ってきたペットボトルを持たせようと手に押し付けてみたものの、何か握っていて持たなかったので、無理矢理手を開かせた。こんな時までピックを握るな、安心毛布か。それともお守りか何かのつもりだったんだろうか。どっちにしろ今装備するものとしては間違ってる。汗でべたついたそれを枕元のスマホの隣に置いてから、改めてペットボトルを押し付けた。
「風邪薬買ってくるから寝てろ。これ飲め」
「なに……さけ……?」
「死ぬぞ」
「あぇ……しにたくない……」
「なになら食える?」
「……おなか……おなかすいてない……」
「……嘘つけ」
「たべれない……」
「……………」
布団の中に丸まり直した悠を見ながら、思っていたより深刻かもしれん、と内心で思う。いつもいいだけ食べて、むしろ無駄に腹を空かせてるこいつが、お腹空いてない、と。飯食いに行った後にコンビニでおにぎりを買って帰り道に食べるような奴から食欲を無くさせるような病は、風邪薬で効くだろうか。結局自分で持たなかったペットボトルを、とにかく飲んでろと布団まんじゅうの中に突っ込んでから家を出る。鍵はちゃんと閉めた。
食べられるものが何か分からなかったので、そもそもいつから食べていないのかすら微妙なので、ウイダーとレトルトのおかゆと冷凍のうどんと、飲み物と風邪薬と冷えピタと、変な菌だったら嫌なので自分用にマスクも買った。完全に病人の看病セットだ。ドラッグストアに行って帰ってくるまで30分程度だったと思うが、その間にどうにかなっていないといいけど。今度は特にチャイムも押さずに鍵を開ける。電気はつけて行ったので明るいままだが、無音は変わらずだった。布団まんじゅうの皮を引っぺがして中身を出す。ぐたんとしていてぼんやり虚ろな目だけど、会話はできるので何とかなにかしら胃に入れて欲しい。
「ほら。食わないと薬飲めないだろ」
「……おなかへってない……」
「吐きそうとか?」
「……はきそくない……」
「じゃあなんで腹減ってないんだよ」
「……なんでだろ……?」
今の状況でへらへらされると逆に怖い。ウイダーを持たせたけど全然やる気がなかったので、飲み口を開けて口に突っ込んだ。のろのろ吸っている悠を横目に、一応空になっているペットボトルを拾う。なんとかゼリーを飲み切ったあたりで風邪薬と水を渡せば、もう既に丸くなろうとしていた。ので、飲んでから寝ろ、と叩き起こした。
薬を飲んでからしばらく放っておいたら、布団をかぶって丸くなったまま、寝ているようだった。よく耳を澄ませると寝息が聞こえる。布団のせいなのか鼻が詰まっているのかは分からないが、ちょっと苦しそうだ。顔のところだけ空気穴として布団を剥いでやったけれど、あまり変わらなさそうだった。一息ついたけれど、これを置いて帰るのも、どうにも心苦しい。別の奴だったら放って帰るし、そもそもにして風邪を引いている人間のところに来たりしないのだけれど、さっきの様子を見るにこのまま帰るのは悪手な気がする。またぶっ倒れられても困るし。最後にこの部屋を訪れた人、とか言って事情聴取されるのも嫌だし。家主が寝てしまうとやることもないので、鞄から本を出した。明るいと寝づらいかと思って、豆電球だけに調節して自分の手元だけ携帯のライトで明るくした。なんでここまで気を使ってやってるんだ、と途中で思ったけれど。
暇潰しをはじめて当分経った。本は読み終わってしまったのだが、悠はずっと寝ている。けれど、寝始めた時より少しは寝息が安らかになったかもしれない。薬が効いてきたんだろうか。腹が減ったので、さっき買ってきた冷凍のうどんを作ることにした。コンビニにでも買い出しに行っても良いのだけれど、もう面倒になってしまったので。作るのも面倒だけど、まあ我慢しよう。台所の電気をつけて準備をする。使ってなさそうな鍋だな。くつくつと煮ていると、匂いで腹が減ってきた。適当な皿はないかと棚をあさって、これまたあまり使ってなさそうな丼があった。
「うどんだ」
「お、っぶ、ね」
「お腹空いた」
「……あぶね……」
落とすところだった。ぎりぎりのところで受け止めて振り向くと、背中を丸めて鍋を覗き込まれて、すれ違った。起きても平気なのか、と問い掛ければ、元気になった、と。というか。
「……腹減ったの?」
「うん。お腹空いた」
「……………」
どんな生命力だ。まだ鼻はぐじゅぐじゅしているが、それ以外は通常運転に見える。匂いに触発されたのか、ぐうう、と鳴った腹に手を当てた悠が、一玉分のうどんと、一つしか出されていない丼と、俺の顔を順番に見て、黙った。なんか言えよ。寄越せとでも、なんなら作ってくれてありがとうでも、言えばいいじゃないか。目が合ったまま数秒固まって、俺がなんとか言ったのは、「食う?」だった。なんで自分から譲ってやらなきゃならないんだ。
「いっただっきまーす」
「……普通に食えんのな……」
「うまい」
丼が一つしかなかったので、譲ったら自分の分がなくなった。半分ずつにしたいなら、鍋で食べるしかない。そうする気力もないので、とりあえず普段通りに見える悠がうどんを啜るのを見ている次第である。本当に薬が効いたからなのか、腹になにも入っていなかったのがウイダーを流し込んだことでエネルギー補充されたのかはちょっと分からないが、まあ回復したようでよかった。ぺろりとうどんを食いきった悠が、手を合わせて。
「ごちそーさまでした」
「……コンビニ行ってくる」
「帰んないの?」
「もともと泊まるつもりだったし……もう電車ないだろ」
「ほんとだ」
「……はー……」
「てゆか泊まるつもりだったんだ、りっちゃんのすけべー」
「……………」
呆れて物も言えない。きゃっきゃしながら寝転んだ悠に、食べたいものは、と一応聞いたところ、レジ横にあるチキン、と返ってきた。病人がそんな濃いもん食べたがんなよ。まさかとは思うが、熱が下がったなんてことはないだろうな。それは流石に人智を超えてる。薬の効きがいいとかそういうレベルじゃない。いつもよりテンションが若干おかしいが、滅多に飲まない風邪薬のせいでイカれてる、とかではないといいのだけれど。床に転がっている悠に近づいてしゃがみ込むと、きょとんとした目で見上げられた。おでこ、から頬、首筋にかけてをなぞるように触る。熱い。どうも、回復したのは食欲と態度だけで、熱は下がっていないみたいだ。きちんと寝かさないと駄目だろうな、と思いながら首に当てた指先を軽く動かすと、手首を掴まれた。くすぐったかったんだろうか。
「なんだよ」
「……りっちゃんのすけべ……」
「さっきも聞いた」
「……ケダモノ……」
「は?コンビニ行ってくるから寝てろ」
「えっ」
「腹減ったんだよ」
「……ほんとに飯買いに行くの?」
「それ以外に何買、あ。ああ、成る程」
「う、ぅぶ」
「すけべはどっちだ、クソガキ」
むぎゅ、っと潰した頬を離して、いいからちゃんと寝てろ、と言い置いて家を出る。熱のせいでハイになってるんだろうか。あからさまな病人に手を出す趣味はないし、菌が移るのを覚悟でそんなリスクの高い接触はこっちから願い下げだ。馬鹿なんだろうか。まあ、これを貸しとするなら、後日しっかり返してもらいたいところではあるけれど。
適当に見繕った食料を買って戻ったら、言われた通りに寝ていた。布団をしっかりかけて、就寝以外の何物でもない完璧な寝入り方だった。ここで例えば狸寝入りをしているとか、眠れなくて起きて待ってるとか、そういう細やかなところはこいつには一切無い。一周回って安心する。今度は飯の匂いに釣られて起きることもなく、さっきよりも格段に安らかな寝息を立てて眠っていて、この調子なら朝まで目覚めなさそうだ。早く熱が下がればいいのだけれど。

「昨日はあんがとね」
「……うん」
「りっちゃん?」
「……聞こえてる」
「そお?」
首が痛い。昨日飯を食ってシャワーを借りてから気づいたのだけれど、俺が寝る場所がなかったのだ。布団には病人、あとは床、なので仕方なくほぼ寝ずに暇を潰して、座ったまま仮眠だけとった。早く家に帰りたい。体温計なんてものはこの家にはないので手で測っただけだけれど、恐らく熱は下がったようだった。鼻のぐずぐずが居残っていて、昨日買った薬を朝飯の後飲ませた。世話が焼ける。なんでここまでしてやらなきゃいけないんだ。
「コンビニの日じゃなくてよかったー。すっぽかしちゃうとこだった」
「バイト?」
「うん。スタジオの日だった、あ!スタジオの日だった!やべ!」
「……関さんに言っといてやるから」
「うわ、連絡来てるし無視しちゃった、りっちゃんも謝って」
「なんでだよ。謝んねえよ」
「言っとくって言った!」
「家でぶっ倒れてたって言っとくだけだから」
「はくじょーもの!」
「あの人そんな怒んねえだろ」
「うん。心配してくれてる」
ほら、と見せられた画面は、何度か着信が入った後に、大丈夫?何かあったのなら連絡ください、お休みにしておくから、と綴られていた。関さんらしいと言えばらしい。きちんと事情を説明すれば、納得してくれそうなところも含めて。ただしこいつに説明させるといまいち的を得ない可能性があるので、関さんが無駄に混乱しないためにも、事実の説明ぐらいは必要だろう。
「ポテト食べたい」
「食えば」
「りっちゃん買ってきて」
「やだ」
「熱あんもん、買ってきて」
「もうない」
「食べたいー、食べたーい」
「うるさい。俺は帰る」
「もー、りっちゃんなにしにきたのさー」
「……………」
本当、何しに来たんだろうな。流石にそう本人には聞けなかったけれど。



「あ!ギター!ギターの人!おい!」
「……ん?」
関さんから紹介されて、お手伝いしたバンドのライブ。ステージが終わって、今日はありがとうなんて言われて、次はないのかな、まあお手伝いだしなー、と思っていたら、声の大きい人に肩を掴まれた。知らない人だ。と、思う、多分。もし知ってる人だったら覚えてなくて申し訳ないんだけど。走ってきたらしく、勢いづいて掴まれたので、数歩よろめいた。あぶねえ!と引っ張ってくれたので、いい人だ。体勢を立て直して。
「ごめんなー」
「んーん、いいよ。お腹空いてるだけだから」
「じゃあいんだけど。あのさー、お前さっき演奏してたべ」
「うん」
「でもヘルプなんでしょ?」
「うん。なんで知ってんの?」
「聞いたから。な、バンドやる気ないの」
「そっかあ。やる気、んー、やりたいなーとは思ってるけど」
「思ってんの!よかった!」
「おうっ」
が、と再び肩を掴まれて、ぐわんって頭が揺れた。俺より少し背が低いはずなのに、勢いがすごい。基本ダウナーな人しか周りにいないっていうか、要はこういうノリの人いないわけで、ものすごい押されている。高校生の時とかにクラスにいた運動部の人とか体育祭でこんな感じだったなー、とぼんやり思い返して現実逃避をしてみて、なんとなくペースを取り戻した気になった。というか、現実に引き戻されたという方が正しいのかもしれないけど。
「バンドやろ!一緒に!」
「……ん?」
「お前ギターだろ?俺ボーカルで、あとベースの人がいて、まだそれしかいないから、ギターやって!」
「あー、手え足んないの」
「そう!」
「ピンチヒッター慣れてんよ」
「違う違う、メンバー!」
「……おー」
「あ、駄目?やっぱ無理?」
「やー、平気、いいんだけど」
「だけど?」
「……んーん、だいじょぶ」
いいんだけど、なんかこう、今までこうやってちゃんと誘ってもらったこと、なかったから。スタジオやライブハウスで知り合った人に頼まれるのはヘルプがせいぜいで、それはそれで楽しかったけれど、元々あるところに入っていくのには、当然回数制限があった。学生時代の友達と組んでるとか、なにかしらのきっかけがあって繋がってる人たちのことを、いいなあ、と思わなかったわけではないし、かといって自分からなにかやりはじめることもできなかったから、今までなんとなく過ごしてきたけれど。きょとんとされて、大丈夫、ともう一度重ねてみて、少し考えて言い直した。
「やりたいな」
「マジで!やったー、よかったー!あっ今日ベースの人もいるんだけど、あー……」
「どしたの?」
「さっき置いてきちゃって、どっか行ったみたい」
「はぐれてんじゃん、うけんね」
「会える会える。俺、我妻諒太。よろしくな」
「よろしくー。横峯悠です」
「あとドラムなんだよなー。ドラム、誰かいい人知らない?ギターの人」
「ドラムかあ、……あ」
「あ?」

「て感じで、りっちゃんのこと紹介した」
「……………」
「うはは、ものすげえ顔」
「……なんで勝手にそういうことすんの?」
「ドラムの人いないかって言われたから」
「意味分かんない」
「連絡先、LINEで送っとくねー」
「話聞けよ」
「りっちゃんだって俺の話聞かない、いつもそう、俺かわいそう、とても」
「片言になるな」
眉間と鼻の上あたりまでぐちゃってして嫌そうな顔をしたりっちゃんが、ため息をついて、俺の上から退いた。やめんの、じゃあスマホとって、とお願いしたら、無視された。しょうがない、忘れなかったら後で連絡先を送っとこう。忘れそうだけど。布団に転がったまま、座ってるりっちゃんがぷんすかぶつくさ言ってるのを見上げる。ちょっとおもしろい。
「なんで聞かずにそういうことするんだ」
「怒ってんの?」
「怒ってない」
「やなの?」
「どうせ揉めるだろ、そういうのは」
「そいえばりっちゃん、バンド組んだことあんの?」
「……なんで」
「無理そうだなって」
「うるせえな」
だって無理そうじゃん、下手くそ嫌いだし。俺も下手くそは嫌だけど、俺は努力してる下手くそならいいと思う。りっちゃんは努力途中の下手くそにすらイライラするので、俺とは違う。だって、りっちゃんのがタチ悪くない?
紹介しちゃったんだから一緒にやろうよ、としつこくしてみたら、嫌だとは言ってない、と後ろ向きな了承を得られた。あんまり乗り気ではないけど、会ってもらうしかないか。俺もあのボーカルの人と親しいつもりはないけれど、つーかよく考えたら初対面だし、でもなんか楽しそうだったし、いいかなって思ったから、りっちゃんが一緒だったらもっといいかなーって。でも、りっちゃんが見てすっぱり切るようだったら、あんまり先がないような気もするけど。そんなことをぼんやり考えているうちに、りっちゃんがこっちを見てるのに気づいた。
「ん?」
「……話終わった?」
「話?」
「バンドの」
「うん」
「……すげー萎えた」
「え?なんで?」
「なんでって、逆になんで今にもってとこで知らん奴に俺のこと紹介した話始めんだよ……」
「思い出したから」
「タイミング考えて」
「じゃーもうしない。はいっ」
「……………」
雰囲気をぶち壊してしまったようなので、大の字になって「どうぞご自由に」をアピールしてみたのだけれど、ぷいってされた。ご機嫌斜めだなあ。そもそも雰囲気なんて今まであったことないじゃんかさ。りっちゃんのバカ。
「バカはお前だ」
「テレパシーしないで」
「口に出てる」
「む……」
「肝心なこと喋んねえくせに、どうでもいいことばっか言いやがって」
「自己紹介?」
「そういうとこだよ」
「いった、暴力反対、わー服伸びる」
「うるさい」



「だから夏だって」
「違う、10月って俺聞いた覚えあんもん」
「どらちゃんは10月生まれの顔じゃない」
「夏生まれっぽくもないしょや」
「べーやん!べーやんはいつと思う!」
「えっ……えっ、あっ、ふ、冬……?」
「冬!新しい選択肢!」
「10月だってば。ほんとだよ、信じてよ」
「夏と冬の真ん中取るんじゃないよ」
「別にそういうわけじゃないってー」
「……あ、あの、ほら、本人に、聞けばいいんじゃ……」
「は?なんの話?」
「あ!どらちゃん!」
「りっちゃん!りっちゃんは10月生まれだよね!」
「違うよな!ぎたちゃんが間違って覚えてるだけだよな!夏生まれだよな!」
「は?」
ちょっと挨拶回りに行ってる間に、ボーカルくんがわあわあ騒いでると思った。また一人で騒いでるのかと思ったら、一人じゃなかった。説明を求めなくても勝手に教えてくれたところによると、誕生日について予測を立てていたらしい。しかも俺の。なんでだよ。どうだっていいだろ、俺の誕生日。いつなの、誰が正解なの、と二人から詰め寄られて、面倒になったので。
「5月」
「ほーらぎたちゃん違うじゃんー!」
「ボーカルくんも違ったじゃん」
「5月はギリ夏みたいなもんだし」
「は?春だし」
「暑いし。夏だし」
「春だよね、りっちゃん」
「違いますー!夏ですー!最近の5月はめちゃ暑いですー!」
「うるさい。騒ぐな」

「ていう話したじゃん?」
「おー」
「りっちゃんほんとに5月生まれだっけ?」
「10月」
「嘘つき……俺のこと庇ってくんなかったじゃん……」
「めんどくさかったから」
「ばか。もう嫌い」
「いて、蹴るな」
捨て台詞と共に俺を蹴った悠は、拗ねたのか布団を被って丸くなってしまった。そういえば、悠はなんで俺の誕生日が10月だって知ってたんだろう。教えたっけ。そんな覚えはないけど。
布団の中に服が巻き込まれてしまったので、一応引っ張ったものの、全然返してくれなかった。3月半ばの夜に下着姿は、流石に寒いんだけど。交換条件にここに来る途中で買ったお菓子をちらつかせたら、すぐ懐柔できた。ちょろい。返してもらった服を着ていると、寝転がりながら見上げてきた。
「どうせりっちゃん寝るとき服着ないのに」
「今は着る」
「服着て来て服脱いでまた服着て服脱いで寝んの?」
「あー、そうだな」
「途中服着なくていくない?」
「しつこい」
「あっ返して、俺の」
「元は俺のだろ」
「もう貰った」
食べたいから買ったわけでもないから、どうせどっちでもいいし、構わないんだけど。どちらかというと、いつも腹が減った腹が減ったとやかましい悠のために、何かしらの食料を買ってきている節はあるわけで。
疲れただのだるいだの言いながらお菓子をつまんでいる悠が、食べる?と袋の口を差し向けてきた。一つもらったけれど、二つはいらない。シャワーを浴びたからか、いつも跳ね返ってる寝癖のない髪を見下ろしながらそう思っていると、目が合った。
「10月何日?」
「31」
「おー、ハロウィンだね」
「……だからなんだ」
「あ。そうやって言われんの嫌なんでしょ」
「分かっててなんで言うんだよ」
「言った後に思いついた」
「あっそ……」
そういえば、こいつの誕生日を知らない。無駄な時間と行為は続けてきたくせに、悠についてのことを俺はいまいち知らないのだ。バンド組むまで、ギターをまともに演奏してるとこも見たことなかったし。しかし、こっちから聞くのもなんだか癪だ。俺からうっかり言ってしまったのも微妙に嫌だ。なんとなく言ってくれないだろうか。馬鹿だし、乗せられてくれるんじゃないか。
「お前いくつだっけ」
「22ー」
「……前も22じゃなかった?」
「だって誕生日もうじきだし」
「ふうん……」
「りっちゃんは28」
「25だ馬鹿」
「あれ?そうだっけ」
「人の歳でサバ読むな」
とか話してるうちに、聞けなかった。いや、もっと上手く聞き出せば良かったのかもしれないけれど、ていうかこいつが言わないのがいけない。なんで俺から聞かなくちゃいけないんだ。もうすぐ、という情報しか得られなかった。別にいいんだけど、もやもやする。しかし直接聞くのは癪にも程がある。それに、あれから数日経ってしまったので、誕生日の話を振り返すのも気にしてるみたいで嫌だ。すげー聞きたくない。とにかく直接本人には絶対聞きたくない。
なので財布を勝手に見ることにした。勿論、本人がいない隙に、である。ぺらっぺらだな。小銭はいくらか入ってる。とっとと目当ての免許証を抜けば、3月29日、と書いてあった。まあ、確かにもうすぐだ。笑ってんだか真顔になりたいんだか中途半端な顔の証明写真がちょっと笑えた。泥棒扱いされるのも嫌だし、戻しておこう。りっちゃんのドロボー!とわあわあ言う姿が目に浮かぶので。
誕生日を無事知ってもやもやを解消できたところで、もうすぐ、というところが気になった。祝ってやろうか、たまには。たまにはっていうか、知ったのがついさっきなので、あれなんだけど。そもそも、悠は祝ってほしいと思うんだろうか。そういうのいいよー、と面倒がられるのも想像がつくし、やったやったと手放しに喜ぶのも想像がつく。あいつの考えていることは理解不能なので、こればっかりは直接聞くしかない。しょうがないな。家に来てやったのに、今いいとこだから、とスマホゲームに夢中になっている悠の首根っこを引っ掴んだ。膝抱えて座ってるところを襟首掴み上げたので、驚いたらしい。変な声を上げられた。
「おい」
「うひい、なにさ」
「なんか欲しいものある?」
「……売春?」
「誕生日」
「ああ……びっくりした……」
「お前のこと買ったことないだろ」
「生まれて初めて買われるかと思った」
そいえばお祝いしてくれたことなかったじゃんか、と今更言われて、誕生日を知ったのがつい最近なんだから当たり前だと返した。いつの間に知ったのか突っ込まれたら面倒だと思ったけれど、そこは気にしなかったらしい。そういうところは適当なのだ、こいつは。
「んー、ほしいものかー。今あんまないな」
「じゃあ無しで」
「えっやだ、待って、考えるから」
「なんでもいいけど」
「じゃー、そだな。おいしいお酒とつまみがいいかな」
「……いつ持ってくればいいの」
「29日は予定あるから、28……はバイトだから、30日ならだいじょぶ」
「あー。夜なら」
「やったー、楽しみにしてるからね」
「ん」
「お腹空かせてるからねっ」
それは勘弁してほしい。底無しに食うじゃないか。腹は満たしておいてくれ。
というか、喜ぶ方の予測が正解だったらしい。当日は予定があるというのは意外だったけれど、家族でもなんでも、祝ってくれる人がいるんだろう。自分はそういう相手が希薄だから、いまいちぴんと来ないけれど。どこかに食べに行くかと聞いたものの、買ってきてくれたらうちでいい、と言われた。そっちのがプレゼントぽい、だそうだ。奢りの方が良くないか。よく分からん。まあこっちとしては、どっかの店で奢りをプレゼントしようものなら制限無しにばかすか食べられそうなので、助かったけれど。

30日。夜。仕事帰りにプレゼントを買った。酒とつまみ、という指定しかなかったので何にしようか多少迷ったけれど、ワインとサラミにした。おいしいの、と言われていたので、ちょっといいやつ。一応包装してもらって、それを待ってる間にケーキ屋を見つけた。悠は甘いものとか好きなんだろうか。なんでもよく食べることしか知らない。まあ誕生日だし、いらないなら自分で食べるからいいや。モンブランが美味しそうだったけど、ワインだからチーズケーキにした。なにが食べたかったか今日聞いてみよう。それでもし好きなのがあれば、また買ってってやればいいか。
夕ご飯時には少し遅いぐらいの時間になってしまったけれど、到着。最近三回に一回ぐらい鳴らないことがあるチャイムを押し込むと、とたとたと近づいてくる音がした。頭の中に思い浮かんだ映像は主人の帰りを待つ犬だった。よく動物番組とかであるやつ。
「はあい」
「買ってきた」
「わー、あ、んー?なに?」
「はい」
「ありがとー。包んであると中身全然分かんないね」
「開ければ?」
「リボンとかついてる。うける、写真撮ろ」
ケーキはとりあえず一旦冷蔵庫行きになった。チーズケーキは特に嫌いではないらしい。というか、好きな種類はあるのかと聞いたものの、「別においしければなんでも」とあっさり返されたので、参考にならなかった。逆にまずいケーキってなんだよ。失敗した手作りとかだろうか。
ワインの箱に一頻り喜んだ後、包み紙はしっかりびりびりにして開けられた。最初ちまちまテープを剥がして開けようとしてたのは見てたんだけど、一瞬目を離した隙に「あ。もうめんどくせ」って声が聞こえて、ばりばりに破かれた。ついさっき丁寧に包装してくれた店員の顔が思い起こされたが、まあプレゼントなんてそんなもんなんだろう。
「ワインだ。あんま飲まん」
「だろうな」
「えー。じゃあめっちゃ飲む」
「今更嘘つくな」
「ワイングラスとかないよ、うち」
「なんでもいいだろ」
「りっちゃんも飲む?」
「飲む」
「これなに?あ!干からびた肉!」
言い方。パッケージを回し眺めて、英語で書いてあるから分からん、と渡された。英語じゃないわ。その区別もつかないのか。
適当なグラスに注いで、形だけでも乾杯する。が、普通に一気飲みされた。お前この野郎。無言で見ていたら、さすがに察したらしく、違うよ、おいしかったからだよ、と目線をあっちこっちさせながら言われた。どう見てもあからさまに嘘だが、もういい。誕生日プレゼントをどう扱おうが、プレゼントされた側の勝手だろうし。どばどば手酌で注いでは飲んでいる姿を見ると、その辺のスーパーで398円とかのワインでもさして変わらないんじゃないかとは思うけど。
「うまー」
「そりゃよかったな」
「あ。信じてないでしょ。どうせ俺には分かんないと思ってんでしょ」
「分かんないだろ」
「これがおいしいってことぐらいは分かる」
「……………」
「疑いの顔!」
「……ケーキ食べたい」
「いーよ。ん?りっちゃんもう飲まないの?」
「お前のだろ。一杯でいいよ」
「でもりっちゃん買ってきたんじゃん」
「目の前でガブ飲みされたからもういらない」
「こーんなにおいしーのになー」
ケーキを冷蔵庫から出したら、ろうそくはないのかと聞かれた。ホールケーキならまだしも、ピースを二つ買ってきただけだから、ろうそくもないしプレートもない。それを正直に言ったら、めちゃくちゃ拗ねられた。今日めんどくさいな、お前。
「げえー、誕生日なのにー。りっちゃんどんかーん」
「ライターならあるけど」
「なに吹き消せってゆうんだよー」
「なんか燃やせるもの探せよ」
「えー。家とか?」
「誕生日祝いで住むとこなくなっていいなら」
「あ!いいものあるの思い出した!」
悠が持ってきたのはポッキーだった。燃やせないじゃん。と思ったけど、刺す方を代用することにしたらしい。自分の分のチーズケーキをポッキーで串刺しにした悠が、早く歌って、と空になった箱をマイク代わりに差し出してきた。ていうかそもそもお前の誕生日昨日なんだろ。そう微かな抵抗をしてみたものの、うっさい!の一言で一蹴された。一人分のハッピーバースデーの歌と、ポッキーを吹き消す真似。なんてさみしいんだ。かわいそうに。
「いただきまーす」
「……………」
「うまーい」
前から思っていたがこいつ、一口目に躊躇や遠慮が欠片もないよな。既に穴だらけのチーズケーキではあるけれど、三分の一ぐらいを思いっきりフォークで突き刺して一口に食う姿を見ると、一応はお祝いだからといいものを用意した自分が間違っていた気になってきた。質より量の方が喜ばれたのではなかろうか。コストコとかのバカでかいケーキだったら踊り狂って喜んでいたかもしれない。
買ってきたものはほとんど全て悠が平らげて、ワインの瓶を抱えたまま満足そうに転がっている。床に転がるなよ。痛くないのか。というか、まさか今日だけで全部なくなるとは思わなかった。このザル、ワインぐらい取っとけばいいのに。
「はー。おいしかった」
「あっそ」
「あ。りっちゃんのお誕生日はなにほしい?」
「貧乏人に求めるほど飢えてない」
「言い方……」
「……じゃあもっと近くなったら言う」
「考えといてねっ」
「ん」
瓶のラベルを見ながら、読もうとしてもごもご言っている悠の頭の上に手をつけば、目が合った。口を開くのはほぼ同時で、声を出すのがあっちのが一瞬早かった。いつもはすっとろいくせに、そういう時だけ。
「りっちゃん」
「……ん?」
「もうだめ」
「あっそ」
「んー。どーいて」
瓶の底でぐりぐり肩を押されて体を引いた。上半身を起こした悠が、こっちを見て、いつも通りにへらへら笑う。もうすぐ電車なくなるんじゃない、と言われて携帯を見れば、確かにそんな時間だった。走るのは面倒だし嫌だし、もう出ないと。
「おいわいってくれてあんがとね」
「もうしないからな」
「えー。来年も祝ってよ」
「二度とやらない」
「次は日本酒がいいなー」
「……………」
日本酒なんてほとんど飲まない。それを知ってて言ってるんだから、性格が悪いと思う。嫌な顔をしたのはちゃんと見えていたらしく、げらげら笑われた。そんじゃまたね、と手を振られて、ぬるい風が吹いた。今日は昼間、暑かったから。
「もうだめ」の中の、なにがとか、どうしてとか、そういう説明は特に無く、それでも「もうだめ」なことだけははっきり分かった。関係性がだめになったわけじゃない。行けば奴は俺を家に上げるだろうし、来年の3月になったら誕生日プレゼントの話を振り返してくるだろう。それが当たり前で、普通で、今までが歪んでいた。ただそれだけで、なにも無くしたわけじゃないのに、ついさっきまでぴんと張り巡らせていた糸が全部いっぺんに手当たり次第に鋏で切られたみたいな気分だった。別に重要な糸でもないから、新しく張る必要もない。切れたら切れたで、あーあ。それでおしまい。
ただ。思い通りになっていたはずのことを真正面から他人に否定されたのは、覚えている限り初めてだったので、少し虚をつかれただけだ。



りっちゃんは、みんなが言うほどすごくない。ダメなやつである。証拠ならここにある。今現在進行形で、俺の足元に落ちている。
「……………」
「……………」
「……ゆうー……」
「……なあに」
「……………」
無言でにやにやしたりっちゃんが、再び沈黙した。さっきから五分ぐらい置きに、確認のように人の名前を呼んではにやにやしてからまた五分黙っているんだけど、多分黙ってる間は寝ている。そのまま寝ればいいのに。一応返事はしているけれど、返事をしなくなったらどうなるのかは知らない。にやにやしなくなるんだろうか。それとも、そのまま寝るんだろうか。
長い手足を惜しげもなく投げ出してくれているので、俺の狭い部屋のほとんどがりっちゃんで埋め尽くされてしまっている。家主のはずの俺が壁に背中をくっつけてちっちゃくなって座っているのに、りっちゃんが大の字で寝ている。何故。もうちょっとしたらお風呂入ってお布団敷きたいんだけど、蹴飛ばしたら起きるだろうか。起きなそうだ。酔っ払ってうちに来る時にはパターンがあって、おみやげ持ってる時はふにゃふにゃながらに意識があって、起きてることが多いのだ。持ってない時には相当酔っ払ってるし起きない。今は後者である。あーあ、もう。
そもそも、りっちゃんがこうやってうちに来るのはとっても久しぶりなのだ。俺の誕生日をお祝いして、それっきりぱったりうちに来なくなった。バンドの練習もあるから会わなくなったわけじゃないし、飯とかは一緒に食べるし、喋るし、普通にふざけたら怒られるし、それ以外に今までと変わったことはないんだけど、唯一うちに来なくなった。それはイコールで、りっちゃんが俺にこう、しばらくの間かけ続けていたちょっかいをかけなくなったということなんだけど、それも別に弊害があるわけじゃない。どうしたんだろう、と思わなくもないけれど、どうしたのか聞くのを毎回忘れてしまって、今に至る。その間にりっちゃんにつけられまくった噛み跡も、全部治った。一番やばかった、病院行った二の腕のとこのやつだけは残ったけど、もうそれは治るとも思ってないからノーカン。
もうじき夏も終わって、秋になる。りっちゃんのお誕生日お祝いするって約束したしなあ、とか思ってた矢先の今日だ。突然壊れかけのチャイムが連打されて、扉開けたらふにゃふにゃのりっちゃんがいた。驚くより先に、なんかよく分かんないうちに上がり込まれて大の字に寝られて名前を呼ばれている。今のりっちゃんにどうしたのか聞いても訳分かんないだろうし、そもそもどうしてうちに来なくなったのかは、聞く必要がない気もする。りっちゃんが決めたことだし。俺にはきっと、なんでなのかなんて分かんないし。
「ゆう」
「うお、はいっ」
「……………」
「……寝てるし……」
嫌にはっきり呼ばれたから、起きたのかと。そういえばりっちゃんに「ゆう」って呼ばれんのも久しぶりな気がする。気がするだけで、呼ばれてたらごめん。
りっちゃんはだめなやつだ。確かにそりゃ頭はいいし、俺の五億倍はしっかりしてると思う。けど、人のこと馬鹿にしくさってるし、それを隠しもしないし、文句とかはいっぱい言ってすぐ怒るくせにほんとに思ってることはなんも言わないし、やな顔ばっかするし、女癖悪いし、あと、まあ、だめなとこを上げてったらキリがない。でもみんなにだめなやつ扱いされない。すげーって思われてる。いやそりゃ、まあ、すげーんだろうけどさ。そんなすげーやつだったら、一緒にいないって、そう思うのだ。なんか思うとこがあって二度とうちに来ないつもりでいたんだろうけど、酔っ払った勢いで訳分からんくなって結局なあなあに来ちゃって、人の名前呼びながら幸せそーににやにやして転がってるようなだめなやつだから。
「りっちゃん。起きて。おい、起きろ」
「……う……」
「服着てる間はどうせ暑くて寝れないでしょ。ねー、誕生日プレゼントなに欲しいの」
「……んん……」
「いらないの?」
首を横に振られた。だからいらないのかと思ったら、また首を横に振られた。いらないがいらないってこと?意味わからん。どっちにしろ起きてほしいので、質問の体を取りながら揺すっていると、一応目が開いた。
「おーい。りっちゃーん」
「……ゆ……」
「あー、寝るなー。目ぇ開けて、ほーら」
「……………」
「やべーブス」
目蓋こじ開けたけど九割ぐらい寝てる。だめそうだ。せめて端っこに行ってくれとぼこすか押したら、移動はしてくれた。いつもお布団敷いてる辺りに丸まったので、それは覚えているらしい。でもうちに2組も布団はないぞ。
「ねえ、帰んなくていいの」
「……ゆう」
「なーに。りっちゃんもううち来ないんだと思ってたよ」
「………………」
「ん?」
「……、」
なんか言ったのかと思った、けど。全然聞こえなかった。うつ伏せになって動かなくなったので、多分もう起きないと思う。お風呂入って出てきても、微動だにしてなかったから、完全に寝た。
明日の朝起きて、うちにいることに気づいたら、りっちゃんどんな顔すんだろ。それを想像すると、ちょっと笑えた。

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