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インタールード



春の夜だった。昼間の生暖かい風がまだ残っていて、どこか気持ちが悪かった。
そういえば、面と向かって正面から拒否されたのは、生まれて初めてかもしれない。



「ねー、りっちゃん。スープいる?」
「いらない」
「そー。朝マグとかCMやってるじゃん、健康にいいのかなー」
「いいんじゃねえの」
「そっかー」
何きっかけだか知らないが、彼女に渾名で呼ばれている。よくあるんだろうか。知ったことではないけど。
肩に届かないくらいの髪を染めている彼女は、楽器屋でバイトをしていた。そもそもその楽器屋は自分がよく行くところで、ただ店を利用していただけなのに突然「好きです付き合ってください!」とか言われたから、とりあえず了承しただけの付き合いだ。あっちからしたらそうではないのだろうが。今朝だって、俺が泊まったから朝飯をいそいそと準備しているだけで、同棲しているわけでもない。
「どーぞ」
「いただきます」
特に美味しくなくても、美味しい?と聞かれたら頷いておけば、大抵のことは済む。美味しくない、と答えてしまうと揉めることはわかっているので、もう関係が切れても構わない相手にしか本音は言わない。正直面倒だからだ。下手に出て相手の機嫌をとって関係を取り持つなんて、冗談じゃない。
彼女の家から大学までは、自宅の最寄りを経由する形になる。なんて無駄な、と思いつつ電車に揺られる。扉の前で膝上丈のスカートを揺らす女子高生が二人。端の席に座って仕切り板に頭を預けて寝こけているおっさん。スマホに目を落とす子ども連れの母親。こっちを見て、目が合って、ばつが悪そうに視線を逸らす女。携帯ゲームをしている若い男。どいつもこいつも、普通に生きてるのが当然みたいな顔だった。
大学で講義を受けて研究室に顔を出して昼飯を食べて、図書室へ。課題があるから、いくつか本を借りる。全部買ってたら家が本まみれになって床が抜けてしまうので、一度しか必要じゃない本は借りるしかない。鞄を肩にかけ直して外に出れば、人にぶつかりかけた。随分と急いでいるらしい人に早口で謝られて、軽くお辞儀して返す。もっとしっかり謝れよ、と内心で思いながら、階段を降りて。今日のバイトは夕方からだから、時間が空いてしまった。どうしようかな。



「ねー聞いてよかきたんー、りっちゃんがね」
「んー」
「見て、りっちゃん寝る時うつ伏せで寝るから前髪がびよーってなっちゃうの、かわいーしょや、見てこれ」
「んー……」
「見て!」
「はい」
ミコトさんはバイトの先輩で、よく彼氏の話をしてくる。「りっちゃん」。どうやらこの店のお客さんだったらしいのだけれど、ミコトさんが告白したらオッケーされたんだとか。そんでもって、恐らくドラムをやってるらしくって、ヨシズミさんが「じゃありっちゃんだな」って言って、りっちゃんになった。確かそう。違ったっけ。なので、本名は知らない。ぶっちゃけ顔も知らない。惚気大好きなミコトさんがちょくちょく写真を見せてくれたりもするけど、よく覚えてない。
昨日お泊まりして朝ご飯一緒に食べてくれたって話にうんうん適当な相槌を打ちながら聞いていると、ミコトさんがポケットからスマホを取り出した。バイト中だけどお客さんもいなければチーフもいないので、特に気にすることもなく軽くそれを操作して、もしもしー?と。電話だったみたいだ。
「えー、いるよ今、んー、そお、もうすぐあがり。わかったー。うん、待ってんねー」
「バイト中に電話しちゃいけないんだ」
「りっちゃん来るって」
「え、俺見たことない」
「かきたんよりでっかいよ」
「やべー」
「レジおねがーい」
「あっずるい、ミコトさんそれずるくない?ねえ」
「いいじゃん、かきたんだってこないだ品出しサボってギター勝手に弾いてたの知ってんだかんね
「む」
言い返せなかった。ミコトさんが普通に奥に引っ込んでしまったので、レジにいるしかない。ちょっと経って戻ってきたら、顔と髪の毛ちゃんと直してきてたし。もー。
しばらくして、ミコトさんがぴゃっといなくなったので、レジから見える範囲で首を伸ばしたら、確かにでかい男がいた。ミコトさんがちびっこいから、全然比較にならない。俺よりでっかいというのを信じるしかないだろう。多分そうなんじゃないかなあ。顔もちらっと見えたけど、そういえば言われてみると写真で見た覚えあるかも、ってぐらいだった。実際関わんないと人の顔なんて覚えらんない。ミコトさんの嬉しそうな声が店の中に響くので、なに話してるかは筒抜けだ。店内がそう広くないのと、ミコトさんの声がでかいの、両方である。特に聞き耳を立てるつもりもないので、眠たくなってきて、ぺたりと伏せた。
「……ひまだ」



「おー。久しぶりだな」
「……大学、課題あったんで」
「おつかれさん」
「はあ」
定期的に訪れている貸しスタジオ。受付に座っている男は知り合いで、ここのオーナーの関さんという。面倒見のいい性格らしく、顔を覚えた辺りからよく話しかけてくるけれど、一定の距離よりも近づいて来ようとはしないので、助かる。部屋を借りていると、スタッフルームから知らない男が出てきた。でかいダンボールを抱えている。
「関さん、これはどこですか」
「ああうん、倉庫の棚の、ちょっと待ってな。んじゃ、はいこれ」
「はい」
「こいつ、新しいバイト。よろしくな」
「……はい」
なにをよろしくされたのだろう。一応返事はしたものの、別に仲良くするつもりとか、ないんだけど。借りた部屋に向かいながら、ぼんやり思う。年が近いとか、もしくはあっちのが年下で、かつ俺がよくここを利用するからとか、そういう理由だろうな。知ったこっちゃない。
それからしばらく、スタジオに行く度にちょこちょこ、新しいバイトには会った。慣れてないからすっとろいのかと思っていたのだが、数ヶ月経ってもとろくさいので、そういう奴なんだと思うことにした。関さんのように、あちらから世間話を振ってくることもないし。なんかどっかで見たことある顔のように思えたけれど、思い出せないので考えるのをやめた。
それは、梅雨の時期だった。借りたスタジオの一室は、電気のところに換気扇が壊れかけだと張り紙がしてあった。特に気にしていなかったけれど、外の雨のせいなのか、若干でも濡れた人間が使っているとそうなるのか、たしかに湿っぽい気がする。この時期は、バイトしている古本屋でも店主が本に悪いと愚痴るので、面倒でそっちを避けているのだけれど、こっちにまで弊害が来るとは。時計を見やって、まだ時間まで少しある、とぼんやり思う。休憩。煙草に火をつけて何の気無しにスマホを見ていると、扉が開いた音がした、気がした。時間にはまだ早いし、隣の部屋の扉の音か気のせいだろうと無視して、何か物を置く音で顔を上げた。
「……………」
「……………」
「……………」
今、目合わなかったか。あのぼんやりしたバイトが、掃除用具を持ったまま部屋の入り口に立ってて、数秒間を置いたものの普通に入ってきた。何でだよ。特に言うことも思いつかずに絶句しているこっちは置き去りに、ぱちぽちと電気のスイッチを弄りはじめた。やめろ。全部つけるな、明るい。そりゃあ掃除をするなら明るい方がいいかもしれないが。
こいつまさか見えてないのか、かけてる眼鏡は壊れてるのか、と訝しくなるくらい清々しくこっちを無視したバイトが特に丁寧でもない手付きでざっくり掃き掃除をして、ようやくこっちを向いた。声をかけなかった俺も俺かもしれないけれど、借りてる部屋に突然店員が入ってきて無言で掃除を始めたら声なんか出ない。やっと目が合って、ということは部屋の入り口では俺のことはやっぱり見えていなかったんだろうか、と他人事のような感想が頭を過ぎる。目があったまま二秒ぐらい経過して、ようやくそいつが口を開いた。
「あ、すいません」
「……はあ……」
「そこ掃除するんで」
「……はあ……?」
「……あ?」
疑問形で返したことで違和感を覚えたらしい。遅い。眉根を寄せたバイトが、そこ、と指した俺の足元から指を泳がせて、わあ、と平坦な声を発した。なんでお前が驚くんだよ。もうそもそも、驚いてるんで合ってるんだろうか。それすら分からない。最終的にこいつの人差し指は俺の顔に辿り着いた。
「りっちゃんだ」
「……は?」
「あー、間違えました。ごめんなさい」
「……いや、はあ?おい、待て」
出てったんだけど。間違えって、なにを間違えたんだ。間違ってることが多すぎる。呼ばれた名前は合ってるのが腹立たしくなるレベルだ。掃除を始めたことも間違ってるし、彼女に呼ばれてるあだ名を知ってることも間違ってるし、待てと言われて待たずにさっさと掃除用具をまとめて出て行ったのも間違えてる。なんだったんだ。
バイトは受付にいたので、帰る時に突然顔を合わせたものの、「さっきは間違えちゃってごめんなさい」で終わりだった。掃除のタイミングを間違えたことに対してはそれで正解だと思うけど、そうじゃないところに間違いが残っているのでもやもやする。一方的に知られてんの、気持ち悪すぎるんだけど。



「こないだ、りっちゃん見た」
「えーどこで!なに!」
「いたい。バイトしてるスタジオで」
「やー!なにそれ!写真撮った?」
「いきなり写真撮ったら不審でしょ……」
ミコトさんに肩パンされた。ジャンピングパンチだったのでそれなりに痛い。
間違えて掃除しに入っちゃったところに、どっかで見たことがある顔がいたので、結構頑張って思い出したのだ。りっちゃん、って言ったら面食らってたから、多分合ってると思う。違う人だったら怪訝な顔程度のはずだし。いいないいなとミコトさんがしつこいので、付き合ってるんだから好きなだけ会えるだろうと言えば、満足げににんまりしていた。よかった。
それから数日して、ミコトさんがいなくて、代わりにヨシズミさんがいる日だった。客も来なくて暇なので、レジで二人でくっちゃべっていたのだ。
「お前寝間着でどこまで行ける?俺コンビニ」
「えー。ディズニーランド」
「馬鹿じゃないの……」
「子どもの時に連れてかれたんすよ」
「そういう話じゃねーよ!も、ばっ、お前と話すの疲れる!」
「もば?」
「裏にいるから来んなよ!」
「俺が行ったらレジの人いなくなっちゃうじゃないすか」
「うるせえ知ってるよ!もやしっ子!バカ!」
ストレートな悪口を最後にヨシズミさんが裏に引っ込んでしまった。なにをそんなに怒ることがあったんだ。お腹でも痛いんだろうか。
それからしばらく暇で、眠くなってきた頃だった。人が来たので、お客さんかな、と思ってレジ台に突っ伏していた体を一応起こすと、こないだ見た顔がいた。
「あ」
「……………」
「……おー……」
りっちゃんだった。でも、すげえ顔された。ニガムシを噛みつぶした顔ってやつだと思う。ニガムシって何だか知らないけど。目が合って、一瞬嫌そうな顔をして、すぐ後ろを向いて、いなくなってしまった。ミコトさんがいるかと思ったんだろうか。いませんよーって教えてあげれば良かったかな。



あの、スタジオにいたぼんやりしたバイトに、楽器屋でも会った。はっとした顔で見られたので、とりあえず踵を返してしまった。一方的に知られてるのが嫌すぎたので。しかし考えてみれば、あの店にいたということは、知り合いの知り合いである可能性が高い。とりあえず聞いてみるか。むしろ、だから呼び名を知られていたのかもしれない、と遅れて思った。無駄にぞっとしてしまった。
「琴華。お前のとこのバイト、なんていうの」
「んー?誰のこと?」
「誰って。名前知らないから聞いてんだろ」
「でかいの?ちっちゃいの?」
「……でかい寄り」
「頭黒い?」
「黒い」
「黒いかー、んー、うち黒いのしかいなかったわ」
「……眼鏡」
「あー!かきたんじゃん!」
「本名は?」
「なんだっけな。シフト見てくんね」
これ、と教えられた名前は、あだ名と全く関係のないものだった。じゃあかきたんってなんなんだ。名前にまつわるあだ名なのかと思ったのに。ちょっとぐらいは掛けろよ。
後日。スタジオに行ったら、また出くわした。あ、とでも言いたげな顔をするので、出会うたびにいちいち再発見されるのは面倒だな、と思った。なので。
「横峯」
「……えっ、なんで、俺の名前知ってんの……?」
「お前のが先にこっちのこと知ってただろ」
「あ、そっか。そうだった」
引くなよ。腹立つな。体ごと引いたくせに、とっとと納得して戻ってきた。一応、琴華に聞いた、と経緯を端的に伝えれば、不思議そうな顔をされた。認識されてないのかよ、あいつ。
それから、名前を知ったことで距離が縮まってしまったのか、ちょくちょく話しかけられるようになり、好きな音楽の話題とかになったりもして、主にスタジオの受付や楽器屋の中で、顔を合わせればそれなりに会話が続くようになった。仲良くなったなー、と関さんには言われたけれど、そうだろうか。まあ、全く知らない奴から、知り合いくらいにはなったとは思う。

それからしばらくして。
「りっちゃん、ミコトさんと喧嘩したでしょ」
「誰」
「あー、彼女のことそうやって。ひでー」
「喧嘩っていうか。別れた」
「うそ」
「なんで嘘つかなきゃなんないんだ」
「だってミコトさん、りっちゃんの話ばっかしてるよ。今までは惚気だったのが悪口になったけど」
「あっそ」
「早く仲直りしなよー」
仲直りは永遠にしないと思う。言ってるこいつも、いまいち真剣に話してはいないので、本気で取り合ってもないだろう。本当に仲直りして欲しい人間は話しながら雑誌を読まない。
前述の通り、琴華とは別れた。喧嘩別れをするつもりは特に無かったのだけれど、しっかりブチ切れられたし、物を投げつけられた挙句に家を追い出された。とんだ暴力女だった。いろいろ投げられたが怪我はしなかったし、直で殴られなかっただけマシか。横峯にはまだ何か言っているらしいけれど、俺に直接連絡が来たわけでもないので、しばらくしたら飽きるだろう。
「りっちゃんさー、今度の土曜暇」
「……なんで」
「フチタさんが行かれないって。一枚余った」
行く?と差し出されたチケットを、とりあえず受け取った。一応予定はないし、暇と言われれば暇だけど。金は?と問い掛ければ、そもそも自分も貰ったものだそうで。巡り巡ってここまで来たんだろうが、誰が出したんだ、このチケット代。

土曜日。どうせ暇だし譲られたものを無視するのも、と来たはいいけれど、下手くそばっかりだ。そんなに経ってないけど、飽きてきた。なんでこんなんで大勢に聞いてもらえると思ったんだ、と内心で思いながら突っ立ってはいたものの。
「りっちゃん何してんの」
「……………」
「めっちゃしかめっつらじゃん」
あまりに突然話しかけられたもんだから、言葉が出なかった。今どこから出てきたんだ、こいつ。背中は壁なので、横以外にはあり得ないのだけれど、いつのまに横に立たれていたのか。全く気づかないことなど有り得るだろうか。無視されていると思ったのか、ねえー、と前に回り込まれてようやく喉が動いた。
「……うるさい」
「寝てんのかと思った」
「目ぇ開いてたろ……」
「楽しくないの」
「楽しくない」
「あー、ね」
同意が返ってくるとは、思わなかった。そんなことないでしょー、と最近聞き慣れてしまった鈍い声で言われるものだと思っていたので。横に戻っていくのを目で追えば、目線も合わないままに吐き捨てられる。
「だって、あれなら俺のが上手だよ」
「……へー」
「りっちゃんも自分のが上手と思うでしょ」
「……………」
なんて答えにくい質問をしやがる。そりゃそう思うかもしれないけれど、それを口に出すのはハードルが高くないか。しかも、当の「あれ」に値するバンドがステージの上で演奏してる最中に。とりあえず黙ると、あーあ、ずるだ、と文句を言われた。文句の割には楽しそうだが。
自信家には見えなかったけれど、と思って、取り消した。実力を自慢したいから言っている風でもない。恥ずかしがる様子も、取り繕う言葉もない。ということは恐らく、ただの事実として、自分の方が上手だと口に出したのだろう。一定以上の時間を費やした努力の裏打ちが無ければ言えないだろうし、そもそも普通は自慢でもないのにそんなことは言わない。やっぱり変なやつだ。
しばらく隣同士で見ていたのだけれど、次第に本気で時間の無駄になってきたので、いよいよ帰ろうと思った。スマホで帰りの電車を検索していると、俺も帰ろ、と伸びをされる。でかい欠伸を三連発ぐらいしてた辺りでなんとなく察したけれど。腹が減った、とぼんやり思いながら乗り換え案内のトップに出てきたお知らせをタップして。
「……帰れなくなった」
「ん?家燃えた?」
「電車止まってる。今」
「えー。あ、ほんとだ。俺の方はまだ無事」
「あっそ。よかったな」
「ご飯食べる?」
「……は?」
「俺、お腹減ったから。りっちゃんもお腹空いたかなって」
「別にいいけど……」
「そんでまだ電車ダメだったら、最悪うち来たらいいよ」
「はあ」
「屋根あるから寝れるしょ」
人身事故、遅延どころか運転見合わせ、再開時刻不明、と並んだ文字に嫌な気分になったのだけれど、それを補って余りある疑問に頭が埋めつくされた。なんで俺を誘うんだ、そんな仲良くもないだろうに。優しくしといて恩を売ろうとか、そういうわけでもなさそうだった。というか、なにも考えていなさそうだ。変なやつ。

飯を食ったが電車は死んだままだったので、混雑しているものの動いている路線で横峯宅へ向かった。彼女の家に行くことはあれども、男の家に行くことは滅多にない。それに気づいたのは、殺風景な部屋を見てからだった。
「なんもないな」
「えー、布団あるじゃん。テーブルも」
「それは無かったら暮らせないだろ」
「ギターもあるよ。じゃーん」
「ああ……」
「反応薄」
それは演奏する側の人間だということをついさっき知ったからである。なんだと思ってたの、と言われても、別に何だとも思ってなかった、としか返答のしようがない。こうも何もないと座るところに迷うな、と思ったところで、横峯が何もないところに座ったので、もうそれに倣うことにした。
隣の部屋に入居者はいないらしいが、一応もう夜なので弾くのはやめます、だそうだ。そういう分別はあるらしい。夜というか、深夜に近いわけだし。明日が日曜で良かった、急いで帰らなくて済む、とシャワーを借りながら思う。いつもと違う匂いが自分からするのがどうにも気持ち悪かったが、仕方ない。
「俺明日バイトだから、それまでには出てってね」
「ああ。それ何時」
「お昼」
「昼まで寝こけねえよ……」
「ええ!?」



こないだりっちゃんがうちに泊まったのだけれど、あの日から、こないだサヤがうちに来た時置いてったなんかキラキラしたイヤリングがない。ない気がする。多分ない。そもそもいつからあったかも微妙なんだけど、多分サヤが来た後だと思う、はず。家の中を探し回ったけどなかったってことは、りっちゃんが持ってっちゃったのではないか。しまっておけばいいんだけど、しまっておくとその度にサヤが次来たときに渡すの忘れるし、めんどくさいので、机の上に出しっぱなしにしといたのがいけなかった。ティッシュの横が置き場所になってたから、なんかの拍子に落っこちてりっちゃんの鞄とかポケットとかに入っちゃったのかも。
でも、持ってるかどうか聞こうにも、りっちゃんの連絡先を知らない。どうしよう。ミコトさんに教えてくれないかって頼んでみたけど、あんな奴の連絡先消したったわ!と蹴っ飛ばされた。なんで蹴られたんだ。スタジオのバイトは毎日入ってるわけではないし、入ってる時にりっちゃんが来るとも限らない。どうしよ。お願いだから来てくれ。念じておこう。りっちゃん来い来ーい。
「……なにしてんの、お前」
「はっ、来た、すげ」
「はあ」
祈りが通じたみたいだ。来い来いと手を合わせてなむなむしてたら、りっちゃんが来た。すごい怪訝そうな顔だけど、まあいい。しかも、手渡されたのは、きらきらの石みたいなのが連なったイヤリングで。
「これ、俺のじゃない」
「あー!ありがとー」
「悪かった」
「いーよ、なくしちゃったかと思ってたから」
「……探してたのか」
「うん。よかったよかった」
「そっか」
悪い、ともう一度言われた。見つかったから、ほんとに全然気にしてないんだけど。こういうことがもうないように、ライン教えてもらえばいっか。連絡先交換して、なんとなくしばらく喋ってたら、関さんが来て、りっちゃんが行っちゃった。そういえば、りっちゃんがドラム叩いてるとこ見たことないや。りっちゃんは、俺がギター弾いてるとこ見たことないし。あとで覗きに行ってみようか、でもここに人がいなくなるのも、とぼんやり考えて。
「仲良くなったのか。やー、よかったわ、なんか。あいつも同じ年くらいの相手と喋れんのな」
「あ、りっちゃんです?」
「そう。同じぐらいだろ」
「さあ?」
「……知らねえの?」
「はい」
「おお……」
そういうとこあるよな、と若干呆れ気味に言われた。



「そいえば、最近スタジオ来なかったね」
「論文まとめてたから忙しくて」
「ろんぶん」
「大学の」
「はー」
某バンドのライブのDVDが見たいと言われて、持ってるから貸してやろうかと思ったら、家に再生できるものがない、と。なので、仕方無しに、ノートパソコンごと来てやった。家の場所は覚えたが、礼をどうせびろうか。あまり金は無さそうだけど。
そういえばそもそも、こいつは何者なんだろうか。特に必要とも思わないけれど、全くの未知だとそれはそれで気持ちが悪い。大学、論文、には完全に他人事だったので、通っていないのだろうか。流石に高校生ではないよな。面倒くさい。聞こう。
「お前いくつなの」
「俺?19」
「……未成年じゃん」
「そおだよ」
「こないだ関さんたちの飲み会いたろ」
「いただけだよ」
「嘘こけ」
「ほんとほんと。りっちゃんは26」
「ふざけんな。21だ」
「はずれた」
「当てる気ないだろ……」
「ちょっとあった。ちょっとだけ」
大学は行ってない、バイトして暮らしてる、というところまで聞き出せたところで、いいから早くそれ見せて、ってやかましくなってきたので諦めた。未知の物体から、フリーターにランクアップした感じだ。
それからというもの。ちょこちょこ家に行くようになった。大概の場合、きっかけらしいきっかけはほぼない。あれがあるから、これをしたいから、という感じではなく、なんとなく、楽だから、だ。そういう関係性は今まであったことがないので、少し物珍しかったのもある。側から見たらそりゃ「仲良し」に見えるのだろうと、自分でも思った。
「あ、りっちゃん、こないだうちでレシート落としてったでしょ」
「覚えてねえよ」
「落としてったよ、俺めっちゃびびったんだから、あんなクソ高い買い物してないのに」
「なんのレシートだ……」
「わかんない」
「は?」
「13600円だった」
「覚えてない」
「返す?」
「いらねえよ」
「よかったー、捨てちゃったよ」
「なんで返すか聞いたんだよ、無理だろ」
「これ食べていい?」
「どーぞ」
この前通りかかったファーストフード店で、近日発売!とか書いてあった、肉が2つ挟まってるハンバーガー。食べたいってうるさく言ってたから買ってきたのだけれど、頬張る前に金を払って欲しい。おごるつもりはないんだけど。まあいいか。ポテトをつまみながら横目で見ると、何を思ったのか、にんまりされた。なんなんだ。
「そういえばこないだ、フチタさんに付き合ってくださいって言われたよ」
「良かったな」
「えー、男だよ」
「……良かったな」
「なに半笑ってんのさ」
「モテモテじゃん」
「だー!」
「やめろ、叩くな」
「ハンバーガーで叩かなかっただけいいでしょおが!」
ハンバーガーで叩かれたらもっとキレるわ。びっくりして断っちゃった、ともごもご頬張りながら言われて、はあ、と頷く。食べてるところを見てると腹が減ってくる。俺が食い終わるのと、先に食べてたはずの横峯が食い終わるのがほぼ同時で、のろのろ食べてんじゃねえよ、と思った。思っただけで言わなかったのに、りっちゃん食うの早すぎない?と指を舐めながら見上げてこられて、首を傾げる。
「そうでもない」
「嘘だ。四口で食べ終わった」
「話盛るなよ」
「じゃあ五口」
「そんなわけないだろ」
「ジュースとって」
「ん」
ポテトも空になって、啜ってたジュースも無くなった頃。未練がましくストローをずごずご鳴らしてた横峯が、でもねえ、と口を開いた。この家にはクッションとか座布団とかいうものはないので、床に直座りだ。冬場寒くないのだろうか。
「とりあえず断っちゃったけど、女の子だったらとりあえずオッケーしてんよね」
「そりゃな」
「難しー。ね」
「ね、って言われても」
「試したら意外といけんのかな」
「知らねえよ」
「えー、知らないの。知っててよ」
「知るかよ……」
「大人なんだから知っててよー」
と、言われても、男と付き合ったことなんてないわけだし。知らないのかよー、つかえねー、と足をばたばたされて、若干いらっときた。勝手にお試ししてくりゃいいじゃないか。相手のなんとかさんが誰だか知らないけど。ばたばたし疲れたのか、横峯が床に転がってぶーぶー言い出した。
「なんだよー、教えてよ」
「自分で試せよ」
「一人じゃ試せないだろー、お付き合いなんだから」
「そもそもまず女と付き合えば?」
「女の子と付き合ったことぐらいあるもん」
ああ言えばこう言う。そんなに試したいならやることやってやろうか。付き合いがどうたらこうたらは知らないけれど、構造的になにをどうしたらいいのかぐらいは知ってる。俺だって試したことなんかないけれど。というかそもそもこいつ、なんで教えてもらえるだろうとこっちに全投げしてるんだ。俺のことをなんだと思ってやがる。だんだん腹が立ってきた。とりあえず手を洗ってから、押し入れに向かう。来る回数が増えたので、この狭くて物の少ない家のどこになにがあるかはもう知っている。布団を引っ張り出して敷けば、眠いの?と聞かれた。そんなわけあるか。なんで人の家で人の布団で突然寝なくちゃいけないんだ。
「りっちゃんなにしてんの、いた、痛い、蹴らないでよ」
「あっち行け」
「なに、俺眠くないよ」
「いつも眠いだろ」
「今眠くないんだってば、ねえー」
足の甲で布団の方へと追いやれば、蹴飛ばされるのは嫌だったようで、ちゃんと追いやられてくれた。普通嫌だよな、蹴られるの。されるがままじゃなくて良かった。布団の上に到着した横峯が、なんなんだよお、と手足を投げ出している。布団を敷いてやっただけありがたく思って欲しい。
「ねえ。眠たくないってば」
「試すんだろ?」
「え?」
「あ、おい、その手で触んな」
「……洗ってこようか?」
「うん」
ハンバーガーとポテトを食べさしの手は嫌だったのでそう告げれば、大人しく手を洗いに行った。戻ってくるだろうか、俺だったらそのまま逃げる、とぼんやり思っていたら、何故かしっかりちゃんと布団まで戻ってきた。こいつは馬鹿なのか、もしくは理解能力がないのか、なにも考えてないのか。
「なんだっけ」
「試してみたいんだろ」
「うん。あ、いや、そんな本気じゃない」
「どっちだよ……」
「あ、じゃあ、お試しのお試ししよ。無理かったらおしまいね」
「なんだそれ」
「ちゃんとおしまいしてね」
「はいはい」
「聞いてる?目合わないんだけど」

「りっちゃんのクソバカ……」
失礼なんだけど。ようやく起きて口を開いたかと思ったらそれか。身体中が痛いと文句を言われたけれど、それはもう仕方がないと思う。日頃からもっと柔軟とかしといたら良かったんじゃないか。
「なんでこんなことのために体やらかくしとかなきゃなんないの……」
「煙草吸いたいんだけど」
「りっちゃん全然俺の話聞かないじゃん。途中でやめないし」
「煙草」
「もー、やだー、あっち行って」
追い払われた。普通に考えて、そりゃまあ、機嫌は良くないだろう。再び丸くなった横峯を見ながらそう思う。こいつにも、機嫌が良くない時とか存在するんだな。しばらくほっといたのだけれど、けふけふ咳込みはじめて哀れだったので、一応世話を焼いてやった。文句をだらだらと言われたけれど、元はと言えば自分のせいだろうに。
そんなことがあったにも関わらず、その後も家に行くと普通に上がれるし、なんなら「お試し」が続いている。あれからしばらく経っているにも関わらず、だ。馬鹿なのか、理解能力がないのか、なにも考えてないのか、の三択は、恐らく最後が正解なのだと思う。何も生み出さない代わりに何処にも進まない無駄な関係性。なにも考えていないから、成り立っているだけで。
「ひどくない?なにこれ」
「痛そう」
「りっちゃんが噛むんでしょうが」
「かわいそう」
「もおー」
これ、と服をめくり上げて見せられた脇腹にはくっきり歯形が残っていた。そんなことした覚えないんだけど、枕を投げられたということは俺がやったんだろう。あまり美味しそうな見た目ではないのに、何故齧ってしまったのだろうか。謎だ。お風呂でびっくりしたんだかんね、とまだ頭から湯気を立てている悠のぺたんこの腹に手を当てる。
「おう、なに」
「……薄……」
「お腹空いてるかんね」
「……細……」
「……なしてそんな嫌そうな顔……」
「……なんか……ほんとかわいそうだな、お前って……」
「なんなの!」

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