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ゆうとかおる おまけ




「榎本薫です。分からないことがあったら何でも聞いてくださいね」
先輩と最初に出会った時はまだ俺が新人で、先輩は指導役だった。いつも背中が伸びていて、はきはきと物を言い、上司からの信頼も厚い。理性的でしっかりしていて、かといって冷たいわけではなく、面倒見もいい。取引先との商談で、あちらが求めている条件とこちらが提示したものが違った時なんかにも、うまく折衷案を探して、相手に嫌な思いをさせず、こちらにもきちんと利を得る。素直に、すごいと思った。今までこのかた人を尊敬したことなんてなかったけれど、榎本先輩のことは信用できたし、尊敬に値すると思った。
付き合いが長くなるにつれて、榎本先輩のことが少しずつ分かってきた。しっかりしているように見えて、仕事のスイッチが切れるとのんびりしているところもあって、ギャップが面白かった。他部署の牧田さんと仲が良くて、よく話している。動物が好きだというのは本人から聞いた。あと、血が苦手らしい。俺が派手に転んだ時、救急箱こそ持ってきてはくれたけれど、真っ青になっていた。
俺から彼女への恋愛感情というよりは、先輩が誰かに取られるのが嫌だった。もしも先輩が誰かのことを好きになってしまったら、そんな姿を見たら、俺自身の憧れが壊れてしまうと思ったから。他人様からしたら、それも立派な執着で、恋愛感情なのだと言われると思う。し、俺もそう思う。そうとは認めたくないだけだ。生まれついての負けず嫌いなもので。
だから、気に食わなかったのだ。兎角、突然出てきて、俺の憧れをぶち壊した男が。
「おい」
「はい?」
3ヶ月の上海出張。先輩と二人で任された大仕事に、自分の利をアピールするつもりでいた。榎本先輩曰く、頼りにしている、なんて口では言われるものの、きっと本心ではないだろうから。その出発直前、この男が突然現れて、先輩の様子がおかしくなって、俺はその場から追っ払われて、フィクションみたいないちゃつきを見せつけられて、様子がおかしいままの先輩が戻ってきた。なんなんだ。ふざけるな。と、腹が立ったので、その旨をぶちまけに来た次第である。俺よりも背が高いその男は、へらへらと笑いながら視線をこっちに向けた。ということは、今の今までこいつは、先輩しか目に映っていなかったということである。俺が目の前から歩いてこっちに向かってきているのに。それも腹立たしい。なんなんだ、こいつは。
「なんなんだ、お前。仕事の邪魔をしないでくれるか」
「あー、すいません。お見送りに来ただけです」
「は?さっきの感じからしてお前、呼ばれてもなかっただろ。迷惑なんだよ」
「あんた、薫さんのこと好きでしょ」
「……は?」
「俺とおんなじ目で薫さんのこと見てるから」
「……あぁ!?」
「薫さんにはお仕事がんばってきてほしいけど、あんたみたいのと一緒に行かしたくはないなあ」
一瞬、髪の隙間から見えた目が笑ってなくて、ぞっとした。先輩、騙されてるんじゃないか。
俺は別に榎本先輩に向かってそんなこと思ってない、と言い返したかったが、この男に乗るのも癪だった。そうであると自白しているようなものだ。腹立たしい。なにもかもこいつの思い通りに回っているようで、苛々する。しかし搭乗手続きの時間は迫っている。深く考える間もなく、啖呵を切るように吐き捨てた。
「俺だって先輩にお世話されっぱなしってわけにはいかないんだよ。3ヶ月で用済みにしてやる」
「へー。俺がいないとこで、薫さんのこともっと長く独り占めしなくていいんだ」
「……………」
「そんなあからさまにぶち切れんの、分かりやすくって駄目だと思うよ」
軽薄な笑顔を浮かべた男に、嘲笑されている気になって、踵を返した。なんなんだこいつ、先輩のことなんだと思ってるんだ、絶対騙されてる。足音を踏み鳴らして榎本先輩の元に戻ると、きょとんとした顔をしていた。ああ、この顔に絆されてしまいそうになる自分にも、どうしようもなく苛立ちを感じる。
「もういいです。行きましょ」
「……横峯さん、なんか言ってた……?」
「3ヶ月で先輩は日本に帰します」
「えっ、いや、そうじゃなくて」
「疑われんの嫌なんで。未練がましいと思われんのも嫌なんで、俺。とっとと行きますよ」
「なに、なんで、なんで怒ってるの」
「手荷物検査通りますよ、いいんですか!」
苛立ちのままに荒く言い放てば、先輩はあの男に向かって行ってきますを言っていた。返ってくる、行ってらっしゃい。俺に向けた暗い敵意が嘘のように、ふわふわを手を振っている男。
どう見ても、騙されてるだろ。榎本先輩。

自分でも、自分がどうしてここまで苛々し続けているのか、もう分からなかった。先輩に対する失望なのかもしれないし、あの男に対する怒りなのかもしれないし、全てが遅かった自分に対しての苛立ちなのかもしれなかった。3ヶ月はあっという間で、先輩は実地報告のために日本に帰国し、そのまま本社勤務となった。こちらとあちらの橋渡しを受け持つ形になる。それでいい、と思った。あの男に、俺が榎本先輩に未練があって引き止めていると思われるのもごめんだし、そもそも俺が仕事の中心に立つには先輩は邪魔だ。だから帰ってもらった。簡単な話だ。
「三月くん、それじゃあよろしくね」
「はい。予算案の組み換え、ちゃんと頼んどいてくださいね」
「任せてくださいっ」
さようなら、と言いかけた喉が詰まって、言葉が掠れて消えた。恐らく、先輩の耳には届いていない。俺なんて多分、そんなもんだったんだろう。腹の奥に溜まっていた怒りが、やっと収まったような気がした。
それは怒りじゃなくて、悲しみだったのかもしれなかった。



「そういえばこないだ、口喧嘩した」
「えっ!?ぎたちゃん喧嘩とかすんの!?」
「十年ぶりぐらいにした」
「へー、勝った?」
「頭の中のりっちゃんにやなこと言わせたら勝った」
「強そー!」
「風評被害なんだけど」


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