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ゆうとかおる



それは突然だった。
「榎本。パスポート持ってるか」
「持ってますけど……」
「上海で新規のプロジェクトが立ち上がるんだけどな。スターティングスタッフで、行ってくれないか」
「え、っ」
「ああ、まだ先の話だから大丈夫だ。来月に顔合わせがあるから、また予定はその後組むことになる」
難しいようだったら言ってくれ、お前ともう一人うちの部署からは出すことになりそうだ、と上司に言われ、はい、とあまり身の入らない返事をした。上海。てことは、海外か。随分前にヨーロッパに旅行に行ったことがあるけれど、それっきりだ。一応、簡単な英語なら話せる。足しになるかは分からないけれど。
その日の夜は横峯さんに会える日だったから、黙っておくことができなくて、ついぽろっと言ってしまった。隠すことでもないかと思って。
「おー、すげー。海外出張」
「みたいです」
「すぐ帰ってくるんですか?」
「はい、とりあえずは」
「そっか。なにで行くんですか?」
「海外行くのは基本飛行機なんじゃないですか……?」
「俺行ったことないからなー」
「お土産買ってきますね」
それから1ヶ月。上海への出張も終わって、本格的に新しいプロジェクトが始まることになって。同行してくれたのは三月くんだった。忙しくはなったものの、やりがいはある。ある、んだけど。
横峯さんは、お土産は喜んでくれた。飛行機の話とか上海での話とかも、嬉しそうに聴いてくれた。至って普通で、それが当たり前だから、こっちがもどかしくなってしまうのだ。それは勝手な感情だと思う。寂しがってほしい、なんてこと、少しでも押し付けがましく思ってしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。好きになっておいて、しかも自分の希望した想いを相手に押しつけて、失望したような気になって。酷い話だ。だから、それからも何度かあった短期出張のことを、どんどん彼に言えなくなっていった。会えない日が続いても、お仕事忙しいんですね、と横峯さんは納得してくれる。なんなら、すごいですね、と笑ってくれる。それは嬉しいことのはずなのに、そこで必ず心のどこかで、会えないなんて寂しいと思ってほしい、と思う自分が、すごく醜く思えた。そもそも、私と横峯さんはそんな深い関係じゃないのに。ただ以前よりちょっと喋るようになっただけの、友人。私が彼のことを好きだってことを彼は知らないんだから、当たり前。そんなこと、分かってるのに。
だから、言えなかった。
「榎本。三月のこと、よろしく頼むな」
「はい」
「俺、そんなに半人前ですかね?」
「せいぜい先輩の背中を見て勉強するんだな、三月」
「はーい。榎本先輩、お願いしまーす」
「……三月くんのことは頼りにしてるから。ね?」
「ですって」
「調子に乗るんじゃない」
3ヶ月。最短で、3ヶ月の出張。うまくプロジェクトが軌道に乗れば、一度こちらに帰ってきたとしてもまたすぐにあちらでの仕事に戻ることになるのだろう。キャリアを積むためだ、上司も私の昇進をかけるために箔をつけようとしてくれているのはよく分かる。断れるわけもなかった。だって、理由がない。もやもやと蟠った気持ちは、海外への栄転を蹴る理由には到底ならない。
横峯さんに、言えないままだ。出発の日はだんだんと近づいてくるのに、3ヶ月間の出張を、伝えられない。寂しがってもらえないのが、怖かった。行ってらっしゃい、と手を離されてしまうのが嫌だった。今日はやめよう、明日にしよう、次こそ言おう、と毎回そう思って、日だけが過ぎ去っていく。冬が終わって、3月になって、日差しが暖かな日が増えた。横峯さんと話すようになってから、もうすぐ三年近くが経つ。
「最近ゴミ捨て行くとおんなじ猫がいるんですよ。野良なのかなーって」
「……この辺、野良猫いるんですか?」
「ねー。かわいーんですよ」
「へえ……」
「薫さんにも見せてあげたいなーって、でも捕まえようと思ったけど逃げられちゃって」
「捕まえようとしたんですか!?」
「はい。ガッて」
「無理でしょう……」
「やー、意外と行けますよ」
がっ、と空を掴む素振りを見せた横峯さんが、こっちを向いてふにゃりと笑った。春が似合う人だと思う。この人のことを好きでいる自分のことは、なんとなく好きだ。好きでいることで生まれる汚い感情は、嫌いだ。だから、ちゃんと決めなくちゃいけない。彼のことを、綺麗な気持ちのまま、好きでいられるために。楽しい思い出として、たくさんのことを貰って、それをみんな大切に取っておけるように。
「横峯さん。今度、お出かけしませんか」
「へ?」
「お誕生日のお祝い、してもいいですか?」
「わー。やったー、嬉しいです」
自分から横峯さんのことを誘ったのは、はじめてだった。最初で、最後。これでもう、終わりにしよう。やわらかな笑顔を好きでいた思い出を、綺麗なまま抱えていけるように、区切りをつけようと思った。
どうせなら、いつもと違う場所に出かけてみたかった。まるで本当のデートみたいに、二人だけで過ごしてみたい。私だけに向けられた、嬉しそうな顔が見たい。最後だと分かってしまえば、尽きない欲はとどまるところを知らなかった。どこにしましょうか、と聞かれたので、水族館はどうかと聞いてみた。ちょっと憧れだったんだ、好きな人と行く水族館。あっさりした肯定の返事に、そういえば横峯さんにお断りされたことは一度もなかったな、と思い返す。きっと、優しい人だから。誕生日当日がちょうどお互いに予定が合ったので、その日に出かけることにして、待ち合わせの時間は午後1時。きっと横峯さんは自転車で来るので、そこから一緒に電車に乗って、二人で出かけるのだ。半日だけでいい、彼を独り占めさせてほしい。もう二度と、こんな我儘は言わない。気持ちを伝えて、最後にするから。
横峯さんのお誕生日は、私が出発する前日だった。

「薫さん」
「あ。こんにちは」
「お待たせしました」
「いえ、今来たところですよ」
「いつもそう言います」
「や、だって、ほんとのことですよ……」
早めについてはいるけれど、ちゃんと暇潰しもしているので、本当のことである。横峯さんはちょっと不満そうだけど。
暖かい日で良かった。おろしたての、真っ白なシャツワンピース。裾がフレアになってて、ふわふわしているところがお気に入りだ。前でリボンを結んであるので、ちょっと歳不相応にかわいすぎるかもしれないけど、でも、いいじゃないか、今日ぐらい。ウッドヒールのパンプスも、がま口のハンドバッグも、横峯さんに見てほしいから、選んできたのだ。いつもより丁寧に巻いて下ろしてきた髪も、流行りの色を新しく買ったリップも、普段はあまり気にかけないネイルも、みんなみんな。せめて少しだけでもいいから彼の思い出に残りたいっていう、未練がましい爪痕。改札をくぐってホームに出て、電車が到着した時に、風が吹き抜けてスカートと髪を揺らした。いつもよりも少し背の高い彼が、私が見上げているのに気がついてこっちを見て、笑った。
「薫さん、いつもよりなんか、あれですね」
「……あれ……とは……」
「んー。ちいさい?」
「へ、変とか、そういう」
「いや、うーん。白い?」
「服のせいじゃないですか……?」
「うまく言えないですけど。だって、俺みたいのにかわいいって言われんのは、あ」
横峯さんの言葉は尻切れとんぼで、私も返事をする前に、電車の扉が開いてしまって、声が出なかった。乗り込んだ車内は、それなりに混んでいて、さっきの言葉にまともな返事が出来るような余裕は私にはなくて。ちょうど扉の目の前で、横峯さんが私の背中側にいて、私は扉に向かって立っているから、きっと真っ赤になっている顔を見られていないことだけが救いだった。だって、ああ、今日で死んじゃうかもしれない。
電車内はあまり空かなかったので、目的の駅に降りる頃には顔の赤みも引いていた。とりあえず、よかった。水族館なんて何年ぶりですかねえ、と横峯さんが看板を見上げている。お友だちと一緒に遊びに来たり、しなかったんだろうか。かくいう私も、そういうこととは無縁だったけれど。
「おー、魚だ」
「水族館ですからね」
「あんまりおいしくなさそうですね」
「……この辺の魚は食べる魚じゃないんじゃないですか?」
「そっか。小さいですもんね」
そういうことではなく。しかしなんとなく彼らしかったので、特に突っ込まなかったけれど。色とりどりの小さな魚が、水槽の中を泳いでいる。ゆっくり歩みを進めて、振り返ったら横峯さんがいなくなってた。あれ。暗いし、そう遠くには行ってないと思うけれど、少しはぐれてしまったんだろうか。そんなに混雑もしていないし、背が高いから見つけられないことはないと思うのだけれど、と足を止めて探す。横峯さん、黒っぽい服着てたから、ちょっと分かりにくいかも。背伸びした辺りで、背後から声がした。
「薫さん」
「わあ!」
「進まないんですか?」
「……横峯さんを探してたんです」
「はは、俺ずっとここにいましたよ」
「えっ、嘘でしょう」
「いましたって。薫さんが立ち止まってきょろきょろしてたんでしょ」
「な、なんで言ってくれないんですか」
「だから呼んだじゃないですか。今日の薫さん、白くて見やすいから、はぐれたりしませんよ」
「……見つけてくれるんですか?」
「そうですねえ」
「……そうですか……」
ちょっと嬉しくなってしまったので、もう良しとしよう。隣を通り過ぎたカップルが、しっかり手を繋いでいたのを見てしまって、ああしたらはぐれることもないな、とつい思ってしまったことも、恥ずかしいし。
いろんな水槽があって、いろんな魚がいる。イロブダイという魚は、幼魚の頃から成長し、一度メスになってから、最後にはオスの姿になるらしい。解説を読んで二人して、へええ、と感嘆の声を上げてしまった。あれがそうじゃないですか、なんて水の中を指差しながら探して、進んでいく。揺蕩う水の中のような照明で、まるで時間がゆっくり流れているみたいだった。横峯さんが興味を持つものはなぜか基本的に食べられるか否かに偏っているらしく、薫さん、タコですよ!タコ!と嬉しそうに呼ばれたりもした。お腹が空いているんだろうか。そんなことをしている間にクラゲのコーナーまで到着した。
「綺麗ですね」
「クラゲって何考えてるんですかね」
「ええ……頭あるんですかね?」
「脳みそはなさそうじゃないですか。あんな透明なのに脳みそあったらスケスケになっちゃうじゃないですか」
「えっ、怖……」
「脳みそないんですかね?」
「スケスケよりは無い方がいいです」
「口はどこなんでしょう」
「あ、あそこにクラゲについてのこと書いてありますよ」
「おお」
横峯さんがクラゲの説明を真剣な顔で読んでいる。真剣な顔、……真剣な顔だろうか。口開いてるけど。なんかちょっと、ふわふわしてるあたりとかが、クラゲに似てるかも。しばらくそこにいた横峯さんを見ていたのだけれど、ひと段落したようで、ようやくこっちに来た。
「どうでした?」
「よく分かんなかったすね」
「……ふ……」
「あ、笑ったー」
「だって……あんなに真剣に見て……分かんないって……」
「難しかったんですよ、薫さんも読んでくださいよ」
読んだけれど、横峯さんが気になってたクラゲの脳みそとか口とかの話は書いてなかった。残念。イルカショーも、ちょっと待てば見れそうだったので、手前のペンギンコーナーで待っていることにした。すいすい泳いでるのと、岩の上でぺたぺた歩いてるのと、岩の上にいるけど寝てるのがいる。他のペンギンより早くせかせか歩いてる一匹を見て、あれちょっと薫さんに似てますね、って横峯さんが言うので、横になって完全に寝てるやつを指差して、あれは横峯さんです、って返しておいた。ちょっとかわいいので、どっちもどっちだ。
イルカショーは面白かった。おやつどきも通り過ぎて小腹も減って来たので、ショーを見ながらあざらしの形のパンを食べたのだけれど、横峯さんがあざらしを頭からいったので、ちょっとかわいそうだった。本人は全く気にしてなかったみたいだけど。
「楽しかったですね」
「ねー。可愛かったですね」
「夜ご飯までちょっと時間あるんですけど……どうしますか?」
「薫さんの行きたいところ行きましょ。ないですか?」
「んー……」
「あ!猫!あれなんですかね!」
「え?」
横峯さんが発見した看板は、ペットショップだった。もしかして、動物好きなんだろうか。この前も野良猫の話してたし。特に行きたい場所もなかったので、そこに行ってみることにしよう。エレベーターで上がって店に入れば、一番奥がペットコーナーだった。手前はいろんな、おもちゃとかご飯とかが置いてあるみたい。そこは特に用もないので素通りして、猫とか犬とかがいるところまで進む。
「……猫って高いんすね」
「血統書つきの猫ですからね」
「うわ、犬も高い……」
「こういうところで売ってるペットは高価なんじゃないですか?」
「俺よりいい飯食ってますよ、きっと」
「そんなことないでしょ……」
「鳥もいますね。おー、うるせ」
「横峯さん、動物好きなんですか?」
「え?全然」
「……そうなんですか?」
「はい。かわいいなーとは思いますけど」
かわいいと思うなら、嫌いではない、のかな。横峯さんはいつも通りににこにこしているのでいまいち真意が読めないけれど。小さい犬がちょこまかして可愛かったのでしゃがみ込んで見ていると、隣に横峯さんがしゃがんでくれた。黒くてちっちゃい犬。ミニチュアダックス、だっけ。人懐こいのか私たちの目の前でぐるぐる回って、構ってオーラ全開だった。かわいい。
「薫さんは、犬好きなんですか」
「犬……動物は好きですよ」
「人間もですか?」
「……人間って、動物に含めます?」
「りっちゃんは含めてたんで、含まれるのかなーって」
「ええ……私は含めないです……」
「ペット飼ってたことあります?俺なくて」
「小さい頃に、ハムスターとかなら」
「ああ、あのネズミ」
「ネズミって言わないでくださいよお……」
「そういえば、関さんは家に犬がいるらしいですよ」
「なんか似合いますね」
「あ、関さんとお付き合いしてんの、薫さんの同僚の人じゃなかったです?」
「そうです」
「結婚するんですよね」
「そ……え!?」
「え?」
「そっ、えっ、私聞いてないんですけど!」
「あれ、そうなんですか?こないだ関さんが言ってましたよ、プロポーズするんだーって」
「……する?」
「はい」
「……した、ではなく?」
「はい」
「そ、……そうですか……」
危ない。危うくフライングで麻陽ちゃんに聞いてしまうところだった。恐らくは、まだプロポーズしていないのだろう。直前、といったところか。まあ、麻陽ちゃんが断るはずもないと思うけど。こないだご飯行った時も、そろそろ結婚がどうとか、もう何年付き合ってると思ってるんだとか、ぶつくさ言ってたし。
ペットショップにいる間にそろそろいい時間になってきたので、夜ご飯のお店に行くことにした。予約はもう既にしてあるので、行けばいいだけだ。こっちこっち、と先導して歩けば、ついてきていた横峯さんが立ち止まった。
「……薫さん?」
「はい?」
「ここですか?」
「はい。そうですよ」
「こ……ここ、あの、ドレスコードとかいうやつがないと、入っちゃいけないとこなんじゃないですか?」
「いえ、大丈夫ですよ」
エレベーターを最上階まで上がって、足元はふかふかの絨毯で、受付はボーイさんがしてくれるような、レストラン。予約もきちんとしてあるので、大丈夫だ。横峯さんの足が一瞬止まったけれど、もういっそ背中を押して進んだ。ちょっと、待って、聞いてない、と言っているけど、聞こえないふりをした。予約した通りに窓際の席に通してもらって、窓の外には一面の夜景。席についてから改めて横峯さんを見ると、固まっていた。緊張しているんだろうか。珍しい光景だなあ、と思いながら見ていると、ぎぎぎ、と彼が顔を上げた。
「……ど……どういうことです……?」
「お祝いなので、豪華にしようと」
「せめて先に言ってくださいよ……」
「サプライズがしたくって」
「こんなとこ来たことないですよ、俺」
何故か小声でぼそぼそ話しかけてくる横峯さんに、大丈夫ですから、私が来たかったのもありますから、美味しいもの食べてお祝いしましょう、と言葉を重ねる。最後に、今そんなお金持ってません、と正直に言われたので、お祝いなのでお支払いの心配はしなくていい旨を伝えると、複雑そうな顔をされた。だって、勝手に予約とかしたのも、彼をここに連れてきたのも、こっちだし。
「苦手なものとかないって伺ってたので、コースも勝手に決めさせてもらいました。お酒も飲めるんですよね」
「だいじょぶです」
「飲み放題なので、お好きなの頼んでくださいね」
「はい」
「……夜景綺麗ですねっ、窓際の席が取れてよかったです」
「……………」
「……あの、やっぱり、嫌でした?」
「え、あー、や、違くて。嫌とかじゃなくて、びっくりしてるだけで」
前菜の盛り合わせが来て、まだいつもよりかちかちしている横峯さんが、私の見様見真似でフォークを構えた。フォークの持ち方は普通でいいんですよ。けれど、食べてると少しずつ緊張は解けていくらしく、「あ、お魚ですね」「これはお肉でした」と嬉しそうに顔が綻びはじめた。少ししかないからなのか、めちゃくちゃ時間をかけて食べようと思っているらしく、ちみちみと食べ進めていくので、これは前菜なのでまだこの後たくさん来ることを教えると、一瞬きょとんとして、がぶりと頬張った。うん、いつも通りの方がいい。
「おいしいですか?」
「んむ、おいしいです、すげーおいしい、やばい」
「よかったー」
「これなんですか?」
「フォアグラです」
「テレビでやってた……」
「横峯さんには、もしかしたら足りないかもしれませんけど、量少ないし」
「大丈夫です、よく噛むんで!」
横峯さんは、結構ちゃんと飲む人だった。スパークリングワインに始まり、ウエイターさんに薦められるがまま、グラスを空けていく。私はそれこそ緊張もあってあんまりお酒が進まないので。それから、スープが来て、魚料理の海老が来て、メインのお肉が来た。分厚いお肉が来た途端の、横峯さんの目の輝き具合ときたら。おいしいおいしいと食べるので、私の分もあげたかったけれど、それは流石に遠慮された。フルコースって、来るのゆっくりだから、途中でお腹いっぱいになっちゃうんだもんな。
そろそろ最後のデザートだ。美味しかっただけに、名残惜しい。横峯さんも、おいしかったですねえ、とお腹をさすっている。満足してもらえたならよかった。最後のサプライズが、残っているのだけれど。
「あ。ケーキだー」
「お誕生日おめでとう、です」
「ほんとだ、わー、すげー。すげー!」
思ったより、喜んでくれてる、かも。苺のケーキの上には、ハッピーバースデーのプレート。周りには、飴細工の飾りと、色とりどりのアイス。二人で取り分ける用だから、少し大きめのお皿に乗っているそれは、頼んだ仕掛け人なはずの私も驚くぐらいで。知らなかったけれど、どうやらサービスで記念写真を撮ってくれるらしく、ウエイターさんに携帯を渡した。ちょっと緊張する。二人で写真なんて、撮ったことないから。
「はんぶんこしましょ」
「私、半分もケーキ食べられないから、横峯さん大きめでいいですよ」
「だめですよ!そういうのは!」
「ほんとにお腹いっぱいなんですって」
「薫さんがもし残しちゃったら食べてあげますから!」
それじゃ私の食べかけを横峯さんにあげることになっちゃうじゃないか。それは困る。ので、半ば無理やり押し切って、ワンホールをはんぶんこじゃなくて、三分の一個にしてもらった。小さいホールとはいえ、三分の一個でも大きいくらいだ。すごくおいしかったけれど。ケーキもアイスもぺろりと食べ切った横峯さんは、ちゃんとプレートも平らげて、これも食べれるんですかね?と気になっていたらしい飴細工までしっかり食べてた。お花の飴細工だっただけに横峯さんが花びらを食べてるみたいで、食いしんぼっぽくて、ちょっとかわいかった。
「はー、おいしかった。ありがとうございました」
「いえいえ。喜んでもらえたのならそれで」
「次の薫さんのお誕生日、すっごいお祝いしますからね」
「……分かりました」
楽しみにしていますとも、待っていますとも、言えなかった。だって、嘘をつくことになってしまうから。来月には、私はいないんだから。
駅までの帰り道。ちゃんと言わなきゃ、と思うのに、未練がましい私は、ほんのちょっとでもいいからと、先延ばしにしようとしてしまう。行きにも通ってきた少しひらけた広場に噴水があって、きらきらとライトアップされていて、綺麗だった。横峯さんが、夜はこんなんなるんですね、とそっちに寄って行って、それについていって。大通りから逸れた広場で、周りに人はいなくて、もうきっとここを逃したら、意気地なしの私は駅までの間なにも言えずに歩いていくのだろうと思った。だから、ここで言わなきゃ。ちゃんと、終わりにしなくちゃ。
「……横峯さん」
「はい?」
「あの……あの、最初、会った時のこと、覚えてます?」
「覚えてますよー。薫さんがスーツでライブ見に来てた時でしょ」
「違うんです。ほんとは、もっと前に、横峯さんがあのコンビニでバイトを始めた時に、私、会ってるんです」
おにぎりとチョコを温めるか聞かれたこと。からあげの割引券を、すごいって言ってくれたこと。ステージの上できらきらしている姿をはじめて見たこと。お喋りするようになって、楽器屋さんに連れていってもらったこと。名前を覚えていてもらったことが、すごく嬉しかったこと。体調が悪かった時に助けてもらったこと。一緒にラーメンを食べたり、焼肉を食べたり、オムライスを食べたり、毎年お互いにお誕生日のお祝いをしたこと。バンドのはじめてのステージを見にいったこと。どれもこれも、横峯さんと過ごしている間、幸せじゃなかった時間は1秒だってなかった。私なんかには分不相応なくらい、横峯さんはいつも優しくて、楽しそうで、日だまりみたいなやわらかい笑顔を向けてくれた。だから、私は、ずっと。
「……一目惚れ、だったんです……」
「……え、」
「好きなんです、好きだったんです、ずっと、最初から、ずっと。付き合いたいとか、そういうんじゃなくて、ただ、横峯さんといるのが楽しくて、それで……」
「……薫さん、あの」
「いいんです、答えとか、聞きたいわけじゃなかったから。ごめんなさい、困りますよね、最後にこんなこと言われたって」
「さいご」
「私、明日から上海に行くんです。だから、最後に、伝えたくって」
「……上海……?」
ああ、もう、顔は見られそうにない。けれど、泣き顔だけは見せたくなかった。横峯さんは優しいから、きっと気にしてしまうから。下を向いて一歩下がると、彼が距離を詰めるように同じく一歩近づいてきたのが見えた。こっちに来ちゃ駄目です、来ないでください、せめて最後だけは、言い逃げさせてください。そう、はっきりと言葉になっていたかどうかは分からないけれど、横峯さんは足を止めてくれた。狡いやり方だと思う。こうすれば、横峯さんなら追いかけて来ないだろうし、何も言わないだろうと知っていて、こうするんだから。言葉を途切れさせると、噴水の水の音が響いて、それを掻き消すように早口で重ねていく。支離滅裂なのもわかっていて、それでも、彼が口を挟めないように。
「ごめんなさい。今日、すっごく楽しかったです。好きな人とこうやって出かけるの、夢だったから……だから、もう大丈夫です。夢を見るのは、おしまいにしますから」
「……………」
「また、会えた時には、ちゃんとお友だちとして仲良くしてくださいね」
「……っ、あの」
「それじゃ、私、帰るので!お気をつけてくださいね!」
「薫さん!」
呼び止める声は、無理やり振り切った。言いたいことは言えた、と思う。笑えなかったけれど、泣くのも我慢できなかったけれど、ちゃんと顔を上げて。最後に見る横峯さんの顔は、できれば笑顔が良かったけれど、そんな我儘は言えない。
「……大好きでした。さようなら」

「おはようございます」
「おはよう、三月くん」
「榎本先輩早いですね」
「……心配症で、待ち合わせの時間にはいっつも早くついちゃうの」
「あー、なんからしいっすわ」
とは言う彼も、待ち合わせをしている時間より10分近く早く着いてくれているのだけれど。私が早すぎたのだ。
昨日は昨日、今日は今日。切り替えないとやっていられない。昨晩散々泣いたので、一周回ってすっきりしたというところもある。あまり深く思い出すとまた泣きそうになるけど、思い出さなければいいのだ。仕事のことを考えて過ごせば、大丈夫。そもそも慣れない海外で、忙しくなるわけだし。
手続きを済ませるために、手荷物検査場へ向かう。一応チケットの時間とゲートも、三月くんと二人で確認して、間違いがないことを確かめてある。一人じゃないとこういうところが安心できていい。麻陽ちゃんがお見送りに来たいって言ってたけど、朝早くなっちゃうし、普通に仕事があるはずなので私事でお休みを取ってもらわなきゃいけなくなっちゃうので、断ったのだ。とりあえずは3ヶ月だし、あっという間だろう。キャリーバッグを引っ張りながら、案内表示盤を見上げて歩く。この先左、と目線を下げて、足が止まった。
「……………」
「ぶわ、なに、先輩、なんで止まるんですか」
「……………」
「先輩?」
「……………」
「あ。薫さん、見っけた」
「……………」
「話の途中で帰んないでくださいよ、もー。言いっぱなしはずるいでしょ」
「……な……はっ……え……?」
「先輩、知り合いすか?」
「し……えっ……?」
なんで、横峯さんがここにいるんだ。柱にもたれかかっていた彼が、いつも通りにふわふわと歩いてくる。訝しげな声の三月くんが、警戒してなのか私の前に立ちはだかりかけて、咄嗟に彼を押し除けた。大丈夫だから、知り合いだから、ちょっと待ってて、あっちで待ってて、と三月くんの背中を思いっきり力任せに叩けば、疑問が詰まった感じではあったけれど、不思議そうながらもどうにかこうにか、この場から離れてくれた。よかった。というか、だから、なんで。
「ねえ、薫さん」
「なんっ、で、横峯さん、こんなところにいるんですか!」
「なんでって、聞いたからですよ。そうじゃなくて、昨日」
「誰に聞いたんですか!もう私、会うつもりなんて、それに」
「あーもー、うるさいうるさーい」
「わぷ、っ」
「話が途中だったでしょーがって言ってるんですよ」
「っ……、っ!?」
声が、近い。私の肩に横峯さんの手が回っていて、目の前に彼の鎖骨が見えて、あったかかった。抱きしめられて、引き寄せられている、と気づくまでに数秒を要して、その数秒は横峯さんにとっては、私を動けなくするのに十分な時間だった。ぎゅ、と力を込めなおされて、耳元で声が響く。
「もう逃げないでください」
「ひ、っは、はいっ」
「薫さんは、俺のこと好きだって言って逃げましたけど、俺だって薫さんのことが好きです」
「……は、ぇ?」
「昨日なんか変なんなって話聞いてくんなかったから、ここまで言いに来たんです。薫さんが好きって言ってくれて嬉しかったです、俺も同じだったから。わかります?」
「……わ、わかり、ません……」
「ばかですか」
「ば、っばかじゃないです」
「こういうことです」
「あっ待っ、わああ!」
「ぶ」
「あああわああ、どっ、だっ、どこだと思ってるんですかここ!空港ですよ!まっ、周りに、人がいっぱいいるんですよ!」
「声でっか……」
「離してくださいっ、はずかし、むり、恥ずかしいです!」
「あっはは、いつもの薫さんに戻りましたね」
私に顔を押さえられたままの横峯さんが、笑った。ぽんぽん、と背中を叩かれて、離れる。顔に顔が近づいてきたからびっくりして無理やり手を挟んでしまったけれど、要するに、今さっき、私、キスされそうになってたってことで、いいんだろうか。今更かっと顔が熱くなって、横峯さんを見上げれば、ふんにゃりした笑顔のまま首を傾げられた。
「はー。ちゃんと言えて良かったです。すっきりしました」
「……は……そ、それは、よかったです……」
「薫さん、上海行くんですよね。がんばってくださいね、待ってるんで」
「あ、ああ、はい」
「行ってらっしゃい。ねっ」
「……いって……きます……?」
はい、とキャリーバッグの取っ手を握らされて、背中を押される。押されるがままに数歩進んで振り返れば、ふにゃふにゃと手を振られた。つられて振り返す。行ってきます、で、いいんだろうか。何度も振り返りながら歩いていくと、三月くんがおずおずと合流してきた。
「……なに、なんなんすか、先輩」
「……わ、わかんない、わかんない……」
「告られてましたよね」
「……こく……そ、そう……?やっぱりそう見えた……?」
「ハグされてましたよね」
「そ……そう……そう見えた、よね……」
「付き合うんすか?」
「……つきあう……?」
「おーい。しっかりしてくださいよ。榎本先輩ー」
一応後ろを向いてみたら、まだ横峯さんはいてくれて、ぱっと笑顔になって手を振ってきたので、つられ笑顔で振り返した。それを見た三月くんが、ちょっと二分待ってて下さい、とキャリーバッグを置いて足音も荒く横峯さんの方へ行ってしまって、取り残される。なにやら話しているらしい二人を茫然と見ていると、すぐに三月くんは帰ってきた。仏頂面で。
「もういいです。行きましょ」
「……横峯さん、なんか言ってた……?」
「3ヶ月で先輩は日本に帰します」
「えっ、いや、そうじゃなくて」
「疑われんの嫌なんで。未練がましいと思われんのも嫌なんで、俺。とっとと行きますよ」
「なに、なんで、なんで怒ってるの」
「手荷物検査通りますよ、いいんですか!」
「あっはいっ、あう」
荒い語気で言い放たれて、振り向かされる。横峯さんはまだそこにいて、待っていてくれている。もう会わないつもりだったのに。好きだと伝えてさようならを言って、最後にするつもりだったのに。勝手に追いかけてきて、自分も好きだとか宣って、それっきりあっさり、じゃあがんばってきてください、とか言っちゃって。
「……い、っ行ってきます!」
「いってらっしゃーい!」





季節は夏。日本に帰ってきたのが、昨日のことだ。会社に経過報告をすることになっていて、私はそのまま本社勤務に戻る運びとなった。上海での仕事は三月くんのバックアップを受けて進めるはずが、なにやら怒りに突き動かされていた彼が、何故か私と立場を交換する勢いで仕事に取り組み、元来やりくり上手なところもあって、途中から私はただのサポート側になり、それすらもついにいらなくなった。「3ヶ月で帰すって言ったじゃないですか」と不遜に言ってのけられたけれど、まさか本気だったとは。
夜になっても、暑いものは暑い。連絡はほとんど取れていなかった。一度繋がってしまうと、彼の優しさに甘えてしまう気がしたのだ。今日帰ることも伝えていなかったので、これはほとんど賭けである。でも、あれだけしつこく運命ってやつが私と彼を何度も出会わせてきたのだから、今回もきっと。
「あ、」
レジの向こうには、少し背中を丸めた長身。やわらかな笑顔が綻んで、緩んで。ゆったりした声で、名前を呼ばれた。かおるさん、って。
「おかえりなさい」
「……ただいま、もど、り」
「あーあー、泣かないでください、ね。ほら、がんばったがんばった」
「うう、う、あ、あいたか、った、です」
「うんうん。俺もです」


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