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ゆうとかおる



金曜の夜を迎えるまでの間の数日間、ばっちりしっかり寝不足である。これにはちゃんと理由があるのだ。横峯さんと話せるとなった途端、こう、どう話したらいいんだろうとか、なに話したらいいんだろうとか、考え出したら止まらなくなってしまって。もやもやしながら布団に入るとまあ寝つきは悪いし、寝たはいいけど変な夢ばかり見るし。夢の中では、横峯さんと自分は大概同い年なのだ。別に二人でなにをしているというわけでもない、普通に喋ってたり、出かけてたり、何か食べてたりする。しかも所詮は夢なので、自分が若返っていようと、見た目に変化のない横峯さんが私と同い年だろうと、なにも気にせず世界は進んでいく。だからこそ、目が覚めた時のショックが大きいというか。
「……うーん……」
現在、金曜、朝。家を出る準備は完璧なので、ちょっとぐらい唸る時間はある。昨日から輪を掛けて全く眠れなかったので、とりあえず喋れそうなことを書き出してみたのだ。覚えていてくださってありがとうございます、というのは伝えたいと思う。だって、私からしたら横峯さんがあそこでバイトしていることはもう既に知っていたことだけど、彼からしたら私が突然自分のバイト先に現れたことは当然だったはずだ。そこから、どっかで見た顔だなーって、あの時の約束を思い出してくれたんだろう。それは嬉しい。他にはなにを話したらいいか悩んだけれど、やっぱり横峯さんの好きなことの話が一番話しやすいと思うので、あのライブハウスの話から、そういったことにつなげていけたらいい。私の個人的な好き嫌いを聞かれても、ぱっと答えられないし。彼のことを正直なにも知らないので、あんまり突っ込んで聞いて引かれるのも嫌だ。
もらった紙は、手帳の中に挟んである。好きか嫌いか、と聞かれたら、きっと私は横峯さんのことが好きだ。その好きは、ただの憧れなのかもしれない。あの日、ステージの上できらきらした彼を見てしまったから。もしかしたら、ただの勘違いなのかもしれない。それは恐らく2年前に変な夢を見たもんだから。けれど、どちらにせよ、仲良くしてみたいのは事実で、その気持ちに嘘はつけない。鬱陶しがられたくないし、嫌われたくない。せっかく話せるなら、楽しい話がしたい。できれば、この先も、もう一回くらい。
そして、金曜夜。夜、というのがどの程度の時間か分からなかったけれど、結局残業になってしまったので、結果オーライだ。社員証を首から外して鞄を持つ。一応お手洗いに寄って身だしなみを整えたら、麻灯ちゃんにばったり会って、「デート?」と聞かれた。違う、デートじゃない。麻灯ちゃんはこれから関さんとディナーだろうだ。どうりでるんるんだと思った。
「いらっしゃいませー。あ」
「……こ、んばんわ」
「こんばんわ」
ふにゃ、って笑った横峯さんが、レジの奥に向かって声をかける。てんちょー、と間延びした声で呼ばれて男の人が出てきて、横峯さんはこっちに来る。
「いきましょ」
「あ、えっ?い、いいんですか」
「店長がいいって。ね」
「いいですよー。なんかあったら叫ぶからね」
「はーい」
自動ドアから出て、コンビニの横。寒くないです?と聞かれて、首を横に振った。お店の中にいなくて大丈夫なのだろうか。店長さんが平気だというなら平気なのかもしれないけれど、お客さんとか。
「夜は暇なんですよ、昼間の方が混んでて。あと、店長がレジに立ってると人来ないんで」
「えっ、なんでですか」
「んー。ジンクス?みたいな。それに今日はハルコさんいないんで、外出てても誰も怒んないんで」
ポケットに指を引っ掛けてふわふわと立っている横峯さんが、わすれないうちにー、とスマホを取り出した。連絡先を交換する、ということなんだろうけど、ちょっとまごついた。仕事以外で連絡先の交換なんて滅多にしないし、横峯さんは若いから手慣れてるし。まごまごしているのを分かってくれた横峯さんが、ここをこうですよ、と横から教えてくれる。画面に表示された、よこみねゆう、って文字に、ちょっとニヤついてしまったのはバレていないといい。
「それで、あ、そうです。完了ー」
「ありがとうございます……」
「えーと、……?」
「はっ、榎本薫です、自己紹介もせずに」
「エノモトカオルさん」
読めない、と顔に書いてあった。ちょっとわかりやすくてかわいい。お返しのように、よこみねゆうです、と頭を下げられる。横峯、までは名札で知っているけれど、ゆう、はどうやって書くのだろう。ていうか、そもそも。
「横峯さん、お若く見えますよね」
「俺、こないだ二十歳になったんですよ」
「はたっ……」
「いえーい」
十歳違う。じゅう。若いだろうとは思っていたけれどリアルに知ると衝撃がすごい。私はもうすぐ31になるというのに。榎本さんは?と聞かれなくて良かった。言うの嫌すぎる。
スマホをポケットにしまった横峯さんが、「名刺交換とかするんです?」とそわそわしていたので、名刺を渡した。にこにこと嬉しそうに受け取られて、こっちまでにこにこしてしまう。スーツ着てる人ははじめましての時に名刺交換するんですよね!と言われたけれど、それはそうでもない気がする。しかしながら純粋でかわいいので、特に訂正はしなかった。交換と言うからにはお返しがあるのだろうか、と思ったがそんなこともなく、じゃあ次までに名刺を作っておきますね、手書きでよければ、と。いや、それはちょっと、迷惑をかけてしまうとわかっていても、嬉しい。
「この辺の会社でお仕事してるんですか」
「はい。あそこです」
「すげー」
「いえ、そんな」
「すごいすねー」
そうだ、覚えていてくれたことへの感謝を伝えないと。横峯さんは、私が渡した名刺をぴらぴらさせている。私が口を開いたのと彼が口を開いたのはほぼ同時で、私は喋り出しを引っ込めた。
「でも、あの時会った人が近くで働いてて、こんなとこで会えるなんて、すごい偶然ですね」
「……、はい」
偶然。横峯さんからしたら、すごい偶然なのかもしれない。けど、私からしたら、2年前に研修生だった横峯さんを見た時から、ライブハウスで会ったのも、今こうして話ができているのも、偶然にしては出来すぎている。偶然、というよりは、運命。目で追いかけてしまうのも、憧れてしまうのも、意識してしまうのも、好きになってしまったのも。
好きだという気持ちが、やっと腑に落ちた。喉につっかえていたものが、お腹に落ちていく感覚。そっか、私、好きだったんだ。少し背中を丸めてふわふわと笑っている、好きなことに一生懸命になれて、きらきらしていて、10歳も年下の男の子。好きじゃないって、そういうんじゃないって、あんまりにも差がありすぎてそう思いたくなくて、どうしたって目を逸らしたかったけれど、気づいてしまった。憧れも込みで、私は彼のことが好きだ。仲良くなりたい。付き合いたいなんて、烏滸がましい事は言わないから。もう少し、話していたい。楽しそうな彼を、見ていたい。
「……ありがとう、ございます」
「へ?」
「私のこと、覚えていてくれるとは思わなくって。声もかけてもらえるとは、思ってなくて」
「あー。俺も会うと思ってなかったんで、びっくりしましたよ」
「また演奏聞かせてくださいね」
「もちろんですよー」
ぐうう。横峯さんの言葉の最後にくっついたその音に、一瞬時が止まった。自分のお腹に手を当てた横峯さんが、至極真面目な顔で小さく挙手する。いや、横峯さんのお腹の音だってことはわかってるけれども。
「……なにか差し入れましょうか?お仕事、大変でしょうし……」
「えっ、いいですよー、お腹すぐ空くんで」
「肉まんとか、」
「にくまん!」
「……買いますよ?」

それから。レジや店内でばったり横峯さんと会う時に話ができる割合は、七割、といったところだった。彼曰く、「今日はハルコさんがいるから」。それが以前も言っていた怖いセンパイとやらなのだろう。その時ちょうどレジにいた同世代ぐらいの女の人の名札をそれとなく見たけれど、苗字は違った。ということは名前。名前で呼ばれるの、いいなあ。なんて、不謹慎にも思ったりして。
話ができる時には、なんでもない事をなんとなく話した。いつもふわふわとしている彼は、それでいて距離感を掴むのが上手かった。「面白かった」を「楽しかった」に言い換えた時もそう。最初は気を遣われているのかと思ったけれど、特に意識せずとも、相手の気持ちを汲み取ることができるのだろう。それは、すごく素敵な事だと思う。
「……横峯さんって、背高いですよね」
「えー、そうですか?」
「自覚ないんですか……」
「俺よりでかい人が周りにいるもんで」
私の身長は、平均より少し上ぐらい。それに足してヒールの分で、会社でも割と男の人に見下ろされることはない。けれど、横峯さんといると、ふとした時に見下ろされるのだ。彼も姿勢があまり良くないものだから、稀に、時々、と言った感じではあるけれど。うーん、と背中を伸ばした横峯さんが、私を見て首を傾げる。
「また伸びたのかなあ。あんま気にしてませんでした」
「いくつあるんですか?」
「えー……覚えてないんですよね……」
「170ちょっととか……んー……」
「背伸びしても届きませんよー」
「……届きますよっ」
にんまり笑われて、つられて笑ってしまう。少しずつ、少しずつ仲良くなる度に、好きだという気持ちも大きくなっていく。けれど、これぐらいがきっとちょうどいいのだ。話をして、笑って、ああ楽しかったって終われるくらいで、満足だと思う。きっと彼には、もっと相応しい人がいるんだろうし。コンビニのバイト仲間ですら名前で呼んでいるんだから、十も年上の女がどうこうなろうなんて、考えちゃいけない。そう分かっていて、本心からそう思っているはずなのに、なんとなくどこかが軋む音がした。
だからなのだろうか。神様がくれた、一度きりのチャンス。もしくは、もうこれで諦めろという手切金。
なんの話の途中だったか、流れはいつもあってないようなものなので、割愛して。
「じゃあ一緒に行きますか?」
「……え?」
「ギター。見てみたいんでしょ?」
要するに、楽器屋さんに一緒に行こうかと誘われた。わあ嬉しいです、そうですか、いいですよ、じゃあまた日付とか待ち合わせとか連絡します、と別れて帰路につき、家について冷静になってから考えると。
これはもしかして、デートでは。いや、カップルでもあるまいに、これは断じてデートではない。それならばしかし、まさかとは思うが、もしかしなくても、二人きりなのでは。我に帰ったのが家で良かった。待ち合わせの話が出た時点で気がつかなくて本当に良かった。わあ嬉しいです、と平坦に返せた自分を褒めたい。恐らく脳がついていかなかっただけだ。そもそも横峯さんと大した連絡したことないのに、いきなり待ち合わせとかハードル高いことをこなさなければならないのだけれど、待ち合わせをした暁には二人で会うことが確定するので、しのごの言っていられない。どうしよう。コンビニでちょっと会うので満足してたのに、一緒にお出かけって。待ち合わせって。二人きりって。
それから二日後ぐらいに「いつにしますか?」って連絡が来た。返すのにしばらく悩んで、しかし既読をつけてしまったのでほっとくわけにもいかず、とりあえず一番近いお休みの日を伝えた。予定があったら別の日でもいいし、あんまりにも予定が合わなかったら最悪無しでも、と一人で考えていると、とてもあっさり「その日にしましょー」と。待ち合わせ時間もさくさく決まって。
「……………」
その待ち合わせは、明日の昼過ぎ。お風呂にも入って、あとは寝るだけだ。今日の今までずっと悩み続けているのだけれど、一向に答えが出ない。なににって、明日の服装である。
前提として、横峯さんと私の関係性は、良くて友達、最近よく話すようになった相手、がせいぜいだ。気張った格好なんてしていけないし、だからといっていつも通りのスーツで行くわけにもいかない。休みの日にまでスーツを着ている人だとは思われたくない。だから、きちんとした格好をどこまで崩していいのやら、悩みどころなのである。ゴールデンウィークも終わって最近はだいぶ暖かいし、薄手の羽織りものくらいでいいかな、というところより先は決まっていない。ベッドの上には、白のスタンドカラーのブラウスと、ピスタチオカラーのワンピースと、淡いブラウンのロングシャツと、黒の薄手のカーディガンが、今のところ散らかっている。上だけ決めてもどうにもならないので、ハンガーラックの方には下も散らかっている。パンツで行くかスカートで行くかも決まっていないのだ。服が決まったなら靴も決めなきゃいけないし。若い子の好みの服なんて分かんない、と思いかけて、好みの服を探そうとしている自分にかぶりを振った。好かれようとか、そういうおこがましいこと、思っちゃいけないんだって。

グレージュのロングワンピースに、グリーン系のワイドパンツに、Vネックのプルオーバー。バレエシューズと、トートバッグ。メイクはいつもよりほんのちょっと、一ミリか二ミリだけ明るくした。はしゃいでない、決してそうは見えない、はず。髪型は家を出る直前、最後まで悩んだけれど、いつも会う時とあまりに変えて気付いてもらえなかったら悲しいので、仕事してる時と同じローポニーテールにした。ヘアアクセだけ、ちょっとリボンにしてみたけど、それぐらいは許してほしい。そして余裕を持って家を出たら、余裕を持ちすぎてものすごく早く到着してしまった。そわそわしないように、時計をちらちら気にしすぎないように、意識して駅の改札の方を見る。横峯さんがどこに住んでるのかとか知らないけど、そっちを見てれば見落とすことはないだろう。出てくる人はそれなりに多いけれど、ちゃんとよく見てれば平気なはず。だって横峯さん背高いし、大丈夫大丈夫。
「お待たせしましたー」
「うひっ、!?」
「?」
「……こ、こんにちは……」
「こんにちはー」
なんで背後から声をかけられたんだ。変な声が出てしまった。固まりながら横峯さんの方を向くと、彼の横には自転車があった。思考停止しそうになりながらしばらく考えて、成る程。
「……お家、近くなんですね」
「や?近くはないです。電車賃もったいないんで、基本チャリで」
「へえ……?」
「乗っていきます?あー、二人乗り捕まっちゃうんだっけ」
「そ、や、だっ、そうですね」
「置いてきまーす」
そうなんですか、いや、大丈夫ですよ、を飲み込んで「そうですね」を絞り出した。いや、二人乗り、ちょっとしたかったんだけど。捕まっちゃうなら仕方ない。駅の駐輪場に自転車を置いてきた横峯さんが戻ってきて、改めてこっちを見て。
「いつもよりちっちゃいですね」
「……………」
「あ。怒った」
「……怒ってません……」
にやけないように必死で真顔になっただけである。だって、気づいてもらえるとは思っていなかったから。しかも真顔になりきれなくて口ぎゅっとするしかなかったし。怒ってないし。
道すがら話を聞けば、行こうとしてる楽器屋さんもどうやら横峯さんのバイト先らしい。コンビニと、楽器屋さんと、貸しスタジオ。忙しそうだ。今日は何にもないお休みの日なのかと思ったら、コンビニの夜番だった、と。疲れてるかな。寝てたかったかも。こんな日に誘ってしまって申し訳ない。私がごめんなさいを吐く前に、横峯さんが口を開いた。
「夜の方が時給いいんですよー。いつも夜入ってる人の代わりで、ラッキーでした」
「……眠くありません?」
「ぜんぜん」
「ほんとですか?」
「……眠くなくはないですけど」
「ほらあ」
「基本眠いんで、あんま変わんないすね」
「……無理してません?」
「ちゃんと寝てきましたってば、ね」
この話はこれでおしまい、とばかりに笑われてしまって、二の句が継げなかった。横峯さんがいいって言ってるから、良いのかな。迷惑はかけたくないのに。なんだか、甘えてしまっている気がする。年上なんだし、頼ってもらえる方がいいのに。
「ここです」
「……楽器屋さん来るのはじめてです」
「おー。よかったですね」
通路が狭いので気をつけて、と横峯さんが前を行ってくれた。確かに、棚と棚の間が狭い。そもそも楽器屋さんに来たことがないから分からないけど、こんなもんなのかな。私の中には、電気屋さんのキーボードコーナーぐらいしか、楽器を売っているイメージがない。棚の中には所狭しと、何に使うのかよくわからない機械とか、何かの楽器のどこかにつけるんであろうものとかが、たくさん置いてある。奥にある本は楽譜類なのだろうか。一直線に店の奥まで行った横峯さんが、レジの奥にいた店員さんに声を掛ける。バイト先だって言ってたから、そりゃ顔見知ってて当たり前か。
「こんちわー」
「あ?お前今日入ってたっけ」
「入ってたら店の入り口から来ないでしょ。遊びに来ました」
「なんで?しかも女連れ」
「チーフどこです?」
「なあ、彼女?」
「ちょっとそこどいて」
「おい。聞けよ、こらクソガキ」
短髪の男の人に呼び止められてるのに無視してレジの奥に侵入して、スタッフオンリーっぽいところに顔を突っ込んだ横峯さんが、おーいチーフ、俺来ましたけど、と呼んでいる。横峯さんを呼び止めることに失敗した男の人が完全にこっちを見ている。いや、彼女じゃありませんよ。こんなおばさん、そんなわけないじゃないですか。そう言えたら疑いの目は晴れるかもしれないけれど、さすがにここで口を開く勇気はない。
「あれ?いないのかな」
「いないと思う」
「先に言ってくださいよ、そういうことはー」
「あたし代わったげたからチーフいないよ」
「なーんだ」
「いらっしゃいませえ」
「あ、う、はいっ」
棚の影から女の子が出てきた。小柄なショートカットの子。戻ってきた横峯さんが、来たら言えって言ったのチーフの方なのになあ、とぼやいていた。忘れたんだろ馬鹿だから、そんなの覚えてられないでしょ馬鹿だから、と店員さん二人から間髪入れずに突っ込まれる。語尾にそう付ける決まりでもあるんだろうか。
「じゃあ勝手に見よ。こっちです」
「……えと……」
「ミコトさん、ついてこないで」
「えっ、でも店内で不純異性交遊があっちゃいけないと思って」
「ないからあっち行って」
「でも防犯カメラに隠れてチューするかもしれないじゃんかさ!」
「しないから。もー」
「わあああ頭押さえんなバカ!足もげろ!」
私に隠れて後ろをついてきていた女の人が横峯さんに追っ払われた。同じくらいの年頃だろうか。楽しそうだ。レジの方から結構な声量で、なんでちゃんと見張らないんだ、だってかきたんが上から押さえつけてくるから、いいからしっかりやれバカこの、じゃあ次は遠目から見てくるから!と覗きの計画ががんがん垂れ流されてくる。もおー、とのんびり文句じみた息を漏らした横峯さんがこっちを向く。
「うるさくてごめんなさいね」
「……かきたん……」
「はい?」
「あ、いえ……」
なんの因果があってそのあだ名なのか気にならないわけではなかったけれど、まあよし。
ここがギター売り場です、と案内されたところには、たくさんのギターがあった。当たり前だけど。でもイメージしてるギターはこう、茶色くて丸っこくて、って感じだったんだけど、想像してたよりもいろんな色がある。形も、基本は決まってるみたいだけど、それぞれに細かく違うみたいだった。値段も含めて。ピンキリなんだなあ、と他人事に思っていると、横峯さんにギターを手渡された。
「このへんとか。はい」
「……?」
「はい。どうぞ」
「売り物……」
「持つぐらい平気ですよ。試し弾きとかもあるし」
濃い茶色のギターを渡されて、受け取る。思ったよりかは、重たいかも。抱っこするように持ってたから、こうですよ、こう、と手の場所やら持ち方やらを整えられて、近い、近い近い。固まりながら顔をあげたら、棚の隙間からさっきの女の子が見てるのと目が合った。
「よ、横峯さん、店員さんが、あの」
「ん?あー。しっしっ」
「……………」
バレたからなのか、静かにいなくなった。さっきまであれだけ筒抜けで騒いでいたのに、嫌に静かなので、聞き耳を立てられている感がすごい。気にしすぎなのかもしれないけど。
「このへんは初心者向けですよ」
「へえ……安いのと高いのがありますけど、違いはなんなんですか?」
「音ですかねえ。一番安いのなんかめっちゃ軽いですよ。ほら」
「うわ、ほんとですね」
「どれにするかは自分で決めた方がいいと思いますけど、このへんがおすすめかなーって」
「……?」
どれにするかは、と今聞こえたんだけれど。待って。そもそも、なんで楽器屋さんに来ることになったんだっけ。二人で出かけることの衝撃で忘れていたけど、なんでなんだっけ。私、何言ったんだっけ。脳内でぐるぐるするその疑問に答えを出すように、横峯さんがあっけらかんと言った。
「まあどれでも一緒なんで。弾き方は教えますから」
「……私にですか?」
「そうですねえ」
「……私ギター弾きたいんでしたっけ?」
「そんなようなこと言ってませんでした?」
まずい。全然記憶にない。ギターが弾きたいなんて言ったんだろうか、過去の私。しかし横峯さんに教えてもらえるのは大きい。ぜひ教えてほしい。別に大した下心なんてないけど、もうちょっと仲良くなりたいとは思ってたし、ちょうどいい機会なのではなかろうか。例えばこの辺を押さえて、こっちの手はこの辺、と言われるがまま構えてみたのだけれど、なんか違う。すごい持ちにくい。こうですよお、って横峯さんが別の売り物のやつを持って見せてくれたけど、なんか違う。あたふたしていると、背後から声がした。
「かきたんの教え方めっちゃ感覚的だから習うの無理と思いますよ」
「わあ!」
「あっ。あっち行ってって言ったのに」
「お姉さん。あの男、あんな大口叩いてますけど、まともに習ったことも、人に教えたこともないんですよ。その点ここがやってるギター教室はお手頃価格」
「はあ……」
「なに二人揃ってこっち来ちゃってるのさ。レジは」
「客いないから平気」
「ヨシズミが平気って言ったから平気」
「人のせいにするな」
いつのまにか店員さん二人が後ろから覗いていたらしい。男の人の方にさらりとチラシを手渡されて、横峯さんがそれを奪い取った。勧誘禁止、だそうで。
「お前一人で儲けようったってそうはいかないからな」
「えー、かきたんお金取んの。ケチくせ」
「とんないよ」
「金以外の方法でお礼してもらうんだってよ」
「かきたん……」
「あ、あの、私、ギターはちょっと、できそうにないっていうか、申し訳ないんですけど」
「ほら。変な目で見られたからお姉さんも嫌だって」
「見てないんですけど」
誤解を生んだなら申し訳ないが、今から楽器を始められる気がしない。でも本物のギターを見れたのは楽しかった。弾いているのを見るのは好きだが、しかし自分が演奏するとなると話が変わってくるのである。訥々と言い訳を重ねると、そうですかあ、と横峯さんが少し肩を落とした。うう。罪悪感。
「もしかしてあたしたち邪魔じゃね?」
「場の雰囲気を和ませに来たつもりだったのにな」
「なー。邪魔ぽいわ」
「……最初からあっち行ってって言ってるでしょおが……」
「はーい」
「はいはい」
見られるのが嫌ならそもそも自分のバイト先に私を連れてこなければよかったのでは、とふと思ったが、もしかしたらこう、売り上げ成績みたいなのがあるのかも知れない。音楽業界には詳しくないので分からないが、もしや横峯さんは私にギターを買って欲しかったのだろうか。営業成績が大事なことは百も承知である。けれどギターを弾かない私が持っていても宝の持ち腐れになってしまうので、じゃあ、横峯さんにプレゼントという形ならどうだろう。けどなんていうか、お友達同士のプレゼントにしてはちょっと高価かもしれないけれど。一応聞いてみよう。
「あの、横峯さんが欲しいのとかはあるんですか?」
「俺ですか?あれです」
「……そ、そう、ですか……」
プレゼント撤回。とりあえず今すぐには撤回。見間違えか書き間違えじゃなければ、50万って書いてある。おそらくは相当いいやつなのだろう。あれは買えませんねえ、と目を泳がせていると、軽く笑った横峯さんが歩き出した。こっちもありますよ、と。
「この辺はベースです。違いわかります?」
「全然」
「ですよねえ。俺が持ってるのはギターです」
「そ、それは覚えましたっ」
「どうかなー」
違うんですよ、と少しだけ音を出してくれた。確かに。そんなことを意識して音楽を聴いたことがなかったけれど、どれが欠けても足りないんだろうなあ、とか。これはあんま弾けないんで、なんてあっさりベースを元に戻した横峯さんが、棚の方へ入っていく。どうやら、ギターで使う道具のコーナーらしい。三角の板みたいなのがたくさんある。
「それはピックです」
「ぴっく」
「指じゃなくてこれで弾くんです。使わない時もあるけど」
「へえ……」
「どれがいいですか?」
「どれって、ギター持ってませんよ、私」
「俺が買うんです」
「え、じゃあ、それは、私じゃなくて自分で選んだ方がいいんじゃ」
「いいからいいから」
半ば強引に選ばされて、かわいかったから、黒地にちっちゃい猫が書いてあるやつにした。横峯さんは自分で使うんだから自分で買うと言って聞かなかったけれど、私が選んだのを買わせるのも変な話なので、私が買った。レジで店員さんが二人でしっかり待ってて、会話もみんな聞かれていたらしく、買ってもらったんだな、ヒモめ、とニヤニヤ言われて拗ねていた。100円切ってるものでヒモもなにもないと思うんだけど。
「ありがとうございましたー」
「また来てくださいねー」
「もう連れてこない」
「お前には言ってない、お姉さんに言ってるんだ」
「かきたん早くこないだ貸したタオル返せよ」
「借りたっけ……」
「……仲良しなんですね」
「んー。楽しいですよ」
来た道を駅まで戻って、横峯さんは自転車なので、待ち合わせした場所で別れた。なんかちょっと、彼の生活のひとかけらでも知れたような気がして、嬉しくて。また、ギターを弾いてるところが見られたらいいなあ、とか。


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