このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

ゆうとかおる




先日、30歳のお誕生日を迎えました。仕事の役職は上がったけれど、忙しさがその分加算されたので、あまり嬉しくはない。悲しいことに、お給料の使い道がない、というか。
「榎本さん、一つお願いがあるんだけど」
「どうしたの、麻陽ちゃん」
「榎本さん」
「……はい?牧田さん」
同い年の同期が、意を決した顔で申し出てくるので、思わずスプーンを止める。今日のランチはスープカレーである。わざわざ苗字で呼ばれるということは、仕事の話だろうか。お昼ご飯とか飲みに行ったりする時は、お互い付き合いも長いから名前で呼んでるし。
「彼氏がバンドを組んでて。チケットをもらったんだけど、二枚あるのね」
「はあ」
「友達と行くつもりだったんだけど、今短期出張中なのよ」
「……はあ」
「だからね、一枚余らせちゃうのも申し訳なくて、他の友達とかにも声はかけたんだけどみんな駄目で、もしも榎本さんが良かったらなんだけど、一緒にどうかなーって」
前置きが長いけれど、要するにライブのお誘いである。あんまりそういうのには行ったことがない。経験がないので、うーん、と少し考えると、テーブルに置いていた手をがっしり掴まれる。突然なもんで、勢いよく驚いてしまった。
「ひっ」
「薫ちゃん!一人は嫌なの!お願い!」
「い、そんなに嫌なら行かなければいいんじゃあ、」
「チケットもらっちゃったんだもん!無駄にしたくないじゃない!」
「まあ、まあまあ、落ち着いて麻陽ちゃん、声が大きいから」
「みんな断るんだもん、どうしたらいいのよお!」
というわけで、結局行くことになった。仕事終わりで向かうことにはなるが、開演の時間には間に合わないけれど、麻陽ちゃんの彼がやる時間には間に合うらしい。彼氏さんの話はよく聞いていたし、見たくないといえば嘘になる。けれど、突然すぎやしないかとも思うわけで。まあいいのだけれど。
途中から入っても大丈夫だから!とは言われたけれど、そういうもんなんだろうか。ホールとかやるようなコンサートとか、一人一つ席が用意してあるライブしか行ったことがないから、勝手がわからない。しかし。
「……ねえ、スーツで行くものではないんじゃない?」
「しょうがないじゃない、着替えてらんないんだからっ」
「でもほら、周りの子みんな若い子ばっかりだし……」
「薫ちゃんは端っこにいてくれればいいから!あたしが来たかっただけだから!」
あれよあれよと言う間に、人混みの中へ。しかし彼女曰く、今日はガラガラ、らしい。そうは見えないけれど。耳を劈く音に、カウンターで飲み物だけチケットと交換してもらって、そっと端っこに寄る。それじゃ!と素早く去っていった麻陽ちゃんに完全に置いていかれた。変な目だけは引かないようにこそこそしていよう。麻陽ちゃんの彼がやっているというバンドの名前だけでも聞いておけばよかった。
しかしまあ、当然だけれど、若い子ばかりだ。前の方で跳ねているのも若い子。後ろの方で分かった感じで立っている子も若い子。ステージで楽器を持っているのも若い子。スーツ姿の30歳は他にはいない。いや、麻陽ちゃんはいるけれど、彼女はどちらかというときゃぴきゃぴしていて若い方なので、あの中に混じっても違和感はないだろう。目をひきたくない一心でだんだん暗がりへと引っ込んでいく。もうすっかり麻陽ちゃんの背中すらも見えなくなってしまったので、一人で耐えるしかない。きらきらと眩しいスポットライトの下に、テレビでも見ているような気分でぼんやりと目を向けて。
「………………」
横峯さんがいる。
まさか。そんなはずはない。見間違いだ。自分にコンビニ禁止令を課してからもう随分と長いこと経ってるし、そのおかげできちんとお弁当を自炊するようになって健康的にはとってもいい、じゃなくて。絶対に見間違いだ。目の錯覚に違いない。うっかり握り潰しかけた飲み物を持ち直して、目を凝らす。
「……………」
いや、横峯さんがいる。どう見てもそうだ。見間違えるはずがない。だってあれから夢にもまた何度か出てきたし、違う、今そんなこと思い出すべき時じゃない。でもなんでこんなところに。なんでって、そりゃ、ステージに立ってるんだから、ライブをするためなんだろうけど。
こういう場所に無知な私でも、楽器の名前くらいは知っている。ギターと、ベースと、ドラムと、キーボード。前者二つの見分けはいまいちつかないけれど、横峯さんが持ってるのはどっちかだ。弾けるような音が聞こえる。背中を押されるみたいな音だった。気付いたらただ呆然と、聞き入って、見入っていた。上手とか下手とか、そういうのは分からないけれど、ただ、かっこいいと思った。好きなことを好きなだけしているんだと、まっすぐに伝えられた気になって、それはすごく羨ましくて眩しかった。気づいた時には曲が終わっていて、真ん中に立っている人が口を開く。からからに喉が渇いていて、心臓がばくばく鳴っていた。全力疾走した後みたい。少し喋った後に、また曲が始まる。なにを言っていたのかも、歌詞がどんなものなのかも、いまいち覚えちゃいなかった。ただ、楽しそうにみんなの前に立つ姿を見ているだけで、精一杯で。
「薫ちゃん、おーい」
「は」
「魂抜けてたよ。やっぱきつかった?」
「あ、や、大丈夫……」
「無理やり連れてきてごめんね」
気づいた時には、麻陽ちゃんが隣に戻ってきていて、ステージに立っている人たちは総入れ替えしていた。横峯さんもいなくなっていた。ちょっと間の抜けた気分で言葉を失っていると、麻陽ちゃんが口を開く。
「もうちょっとしたら、ちょっとだけ会えるって。薫ちゃんどうする?」
「……一人でここにいるのはちょっと」
「だよねえ。じゃー、一緒に行こうか」
「邪魔じゃない?」
「平気平気。薫ちゃんのことも話してあるし」
「そっか。それで、麻陽ちゃん」
「ん?」
「……なんで着替えてるの?」
「その辺でちゃちゃっと」
裏切り者め。いつのまにかTシャツにスキニーパンツ姿になっている彼女に、そういってやりたくてたまらなかった。一人だけスーツ姿のおばさんが余計に目立つじゃないか。
知った顔で、入ってきたのとは違う扉から出た麻陽ちゃんについて歩く。細い廊下にはいろんなものがごちゃごちゃと置いてあって、少し薄暗くて、表の喧騒がぼんやりと聞こえて来る。正しく「裏方」といった感じだった。忙しそうに歩く若い子に、彼はスタッフだろうか、それともこれからステージに出るのだろうか、と思いつつすれ違うと、目があってしまった。なんだこの人?と思われているに違いない。目を逸らし気味に頭を下げる。
「晴彦ー」
「お、麻陽。おつかれさん」
「かっこよかったよ。前で見てたよっ」
「こっちからも見えてたよ」
「あっ、ほら、薫ちゃん。パーフェクトお仕事できるウーマン」
「え?あ、はじめまして。榎本薫です」
「どうも。関晴彦です。麻陽からよく話は聞いてます。今日はなんか無理やり来て貰っちゃったみたいで、すいませんね」
「いえ、あまり経験したことがない場だったので、楽しかったです」
「せっかくのチケットが無駄になるのも寂しいので、来てくれて嬉しいです。ありがとうございました」
バンドを組んでるとか聞いてたので、もっと若いのかと思ったら、そうでもない。同い年か、見ようによっては上に見える。人は見かけによらないので、分からないけれど。なんとなく挨拶を交わし合って、はたと気づいたように関さんが麻陽ちゃんの方を見る。
「そうだ、鍵。今朝間違えて、俺持ってきちゃったんだ」
「えー、今日何時に帰って来るの?」
「明日の朝」
「鍵ちょうだいよ!」
「分かった分かった。取ってくる」
「あー、いたいた。関さーん」
「おお、横峯。ちょっと待っててな」
「あたしも行くー」
「えっ、待っ、わ、私は」
「薫ちゃんちょっと待ってて!」
関さんと麻陽ちゃんが連れ立って行ってしまって、どうやら関さんに用事があったらしい人と私だけで残されてしまった。用事があったらしい人は関さんの正面から、要するに私の後ろから声をかけてきたので、まだ顔は見えない。聞き間違いじゃなければ「横峯」と聞こえたのですが、果たして。待ってて、に対する返事なのか、はあい、とのんびりした声が背後から聞こえてくる。どうしたら。むしろ、どうしろと、今の私に。
「……………」
「……………」
「……………」
とりあえずなにもできずに黙って固まっているのだけれど、気まずい。振り返るぐらいはしてもいい気がする。そもそも、あっちだってきっと、当分会ってない客なんて覚えてるはずがないわけだし、私の夢がどうこうとか、そういうのだってテレパシーでもない限りは伝わるはずがないのだ。だから大丈夫。平静を装うことだけしっかりできれば、なんの問題もない。
「あ。スーツの人」
「えっ」
「あー。ほんとにいたんですね、スーツの人。俺見えなくて、うそだーって言っちゃった」
思わず咄嗟に振り返ってしまった。やっぱり目立ってんじゃん、スーツの人って。邪魔になったりとか、楽しんでいるところに水をさすようなことだけは嫌だったのだけれど。にこにこしている横峯さんに、恐る恐る尋ねる。焦らないように、丁寧に。取引先との連絡だと思えば、できるはず。
「……こういうところに来るのが、はじめてなもので。お邪魔でしたでしょうか」
「うーん。そういうんじゃなくて、かっこいいスーツの人がいるーって、裏で話してる人たちがいたんですよ」
「……端で立ってるだけだと、やっぱり目立ちましたか?」
「や?そういう人もいますし。スーツの人はあんまりいないけど」
「う……雰囲気を害したなら、すみません」
「そんなことないですよー」
気を遣っている、とかいう感じでもなさそうだけれど。卑屈になりすぎるのも追求しすぎるのも、横峯さんにとって迷惑だろう。平気だと彼が言うならそれを信じようと割り切って、一人内心で頷く。先に口を開いたのは、あっちだった。
「来るのはじめてだったんですか?」
「はい。友人に連れてきていただいて」
「へー。おもしろかったすか?」
「おもしろ……」
「あ、じゃあ、楽しかったですか?」
言い淀んだ私に、聞き方を変えてくれた。面白い、と言うと、なんだか馬鹿にしているように思ってしまったのだ。そうは見えなかった。むしろ、素敵だと思った。自分には逆立ちしたってできないから憧れた。そう、言葉には上手くできなくて、頷く。横峯さんがそれを見て、ぱっと嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そっか、よかった。お姉さんみたいなきれーな人は、うるさいって思うかと思って、そしたらなんか、つまんなかっただろうなーって」
「そんなことはなかったです、楽しかったです!確かにその、どうしていいかは分からなかったけど、みんなきらきらしてて、こう、すごいなあって!私にはできないっていうか、あっ嫌な意味じゃなくて!そうじゃなくて、堂々としてるっていうか、好きなことしてるっていうか、あの……」
「へ」
「……あのぅ……」
目の前で突然興奮しはじめたスーツの30歳に、若い男子が引いている。落ち着けってあれだけ言ったじゃないか、もう忘れたのか、馬鹿。絶対変な人だと思われている。もっと整理して上手く感想を伝えられたら良かったかもしれないけど、時既に遅し。演奏技術がどうとかそういうのは分からないし、何がどう良かったかとかも言葉にできそうにないから、頷きの返答を選んだはずだったのに。二の句が継げなくなってとりあえず黙った。なんで横峯さんの前だとこうなってしまうんだろう。どうして上手くいかないんだろう。かっこよかったって、伝えたいだけなのに。
「……なんか上手く言えないけどすげーってなったってことですか?」
「……え」
「そしたらちょっと気持ち分かるなーって。わけわかんないけど、こう、わーって。すげーって。違ったらすいません」
「そ、そうです、それです、多分……」
ぱたぱたと手を動かしながら説明してくれた横峯さんが、またにんまりする。助けてもらってばかりな気がする。イメージでは、こう、大人のお姉さんらしく応対できているはずだったのだけれど。そっか、うんうん、と頷いた横峯さんが、じゃあ、と一歩近づいてきた。
「お姉さん、また来てくださいね」
「だ、駄目ですよ、なんにも分からないのに」
「わーってなって楽しかったならいいじゃないですか。ねっ」
どうやら横峯さんの「わーってなる」は手を上げてぱたぱたすることらしい。二回見てやっと分かった。そんなことはどうでも良くて。見に来るなら、横峯さんがいる時がいい、とつい思った。顔に出ていたのか、ただの偶然なのか、でも、と彼が続ける。
「俺は、今日は関さんのお手伝いにきただけなんですよ。だからいつか俺がバンド組んだら、また見に来てくださいね」
「あ、はい、来ます、きっと」
「やったー。スーツ着てきてくださいね、今度は見つけますから」
「いやですよっ」
「あはは」
「薫ちゃーん!お待たせー!」
「あ……」
「悪い横峯、なんだって?」
「関さん呼んでこいって言われたんですよ。お金の勘定するからって、山内さんに」
「お前それは早く言えよ!」
「呼んだのにどっか行っちゃったんじゃないですかー」
「薫ちゃん?」
「……あ、はい」
「ぼーっとしてるよ。疲れちゃった?」
「や、平気……」
麻陽ちゃんが帰ってきて、関さんと横峯さんが行ってしまった。角を曲がる直前、横峯さんと目が合った。ふにゃっと崩れた笑みを向けられて、思わず固まる。ちゃんと笑い返せていただろうか。
ていうか、聞き間違いじゃなければ、お姉さんみたいな綺麗な人、って。

寝覚めが最悪である。ばっちり悶々として眠れなかった。嬉しそうな笑顔と柔らかな態度と、私に向けられた言葉が何度もリフレインして、夜中止まらなくて。今日が休みでよかった。
顔を洗って、いつも通りにぱちぱちと化粧水と乳液を叩き込みながら、ぼんやり思う。私のことを、きっと横峯さんは覚えていなかった。そもそも認識もされていなかったかもしれない。けれど、昨日の一件で完全に「ライブハウスにスーツで来ていた人」としてキャラクターが立ってしまった。しかも、結構がっつり会話をしてしまった。プラス、また来てくださいね、なんてお誘いまでもらって。しかしながら当然、私はあっちからしたら名前も歳も全てが不明の人間なわけで、連絡なんて取りようもない。その場限りの気遣いだったのかな、と普通なら考えるけれど、あのにんまりした笑顔はただのお世辞には見えなかった。どうしたものか。麻陽ちゃんに相談してみようか。
「……や……だめだな……」
独りごちる。そんなことしたら、横峯さんのことを特別視しているように思われてしまうかもしれない。そうなったら困る。恥ずかしいなんてもんじゃない。けれど一人で考えるにはちょっと、考えがまとまるまでに何回悶えることになるか分からないし、そもそもどうしていいかが分からない。じゃあいっそ、何も知らない人に。
そして次の次のお休みの日。
「久しぶりー、薫」
「祐美。里菜、ちょっと遅れるって」
「もうママだもんねー、しょうがないよね」
頼れる友人である、祐美と里菜を召喚させてもらった。二人には、何度かいろいろ相談したこともある。これなら横峯さんのことも知らないし、念のため友人の体で相談させてもらおう。二年前に結婚した里菜には一歳の息子がいて、遅れるとは言ったものの五分もしないうちに合流できた。
「お待たせー」
「わーかわいー」
「かわいー……」
「可愛いでしょう」
「目ぇぱっちり」
子どもがいてもくつろげるカフェはきちんと調べてきたし、予約済みだ。私が呼んだんだからそれぐらいしないと。そこまでしなくて良いって言われたけど。
これは私の友達の話で、先日相談されたのだけれど、と前置きして説明をはじめる。出会ったのは二年前で、まだその時はあっちから自分は認識されていなくて、ある事件があってちょっと顔を合わせにくくなって会うのをやめて、でもつい最近再会する機会があって、しかもがっつり話もしてしまって、次に会う機会も得られそうなのだけれど、こちらは連絡先も知らないわけで。しかし最初に会ったコンビニに行けば会えるのかもしれない、なので私はそうすべきか、でもまだ踏ん切りがつかないので顔を合わせて恥ずかしくなるぐらいなら知人伝いに顔を合わせないで連絡を取った方がいいのか、というところで相談を受けたんですよ。ちなみに、「ある事件」の内容については伏せたのに根掘り葉掘り聞かれてその先が話せなかったので、件の彼が出てくる夢を見た、とだけ話した。なるほどなるほど、と話を聞いてくれた里菜が挙手して。
「その前に、薫はその人のことが好きなんだよね?」
「すっ!?はっ!?」
「里菜、薫の話じゃないんだって」
「ああ。はいはい。じゃあその友達とかいう人は、その人のことが好きなんだよね?」
「そっ、す、っそういう話はしてないんじゃないかな!?」
「してるよねえ」
「してるねえ」
「してない!」
「してます。それに、薫がそういう話をするときは薫のことです」
「私のことじゃない!」
「はいはい、わかったわかった」
「違う違う」
なんか思ってたのと違う。相談に対しての答えじゃない感じで納得されている。あぶー、とおもちゃをもぐもぐして遊んでいる息子のよだれを拭いた里菜が、じゃあもうそういうことでいいけど、と呆れ顔を浮かべる。
「別に、会いに行ったらいいじゃん。好きじゃないならそっちの方がよっぽど手っ取り早いでしょ」
「ていうかそもそも、2年も前にコンビニでバイトしてた人が、今もまだいるかすらわかんないしね」
「あー、まーね。それに、わざわざ人伝いにするよりはねえ」
「で、でも、また変なふうになるかもしれないし」
「好きじゃんね」
「もうめっちゃ好きじゃんね」
「違う!」
「だからじゃあ会いに行きなって」
全然参考にならなかった。好きとか、そういう話じゃないし。だって、すごい若いし、横峯さん。私みたいなのじゃ釣り合わないし、そもそもだから好きとかそういう話じゃないし、連絡をどう取ったらいいかという話だし!
ちゃんと会いに行くんだよー、その後の報告待ってるよー、と二人から手を振り見送られて、帰路に着く。会いに行くかどうかを精査したかっただけで、好きとかそういう話ではなかったはずなんだけど、どうも違う方向に行ってしまった気がする。そう、私が横峯さんを好きとかそういう話ではないのだ。そのはず。多分。そうだよね、私。
「……………」
家について、特にやることもなくなってしまったので、野菜がごろごろ入ったコンソメスープを作った。じゃがいもと、にんじんと、玉ねぎと、角切りベーコンと、ブロッコリーと、キャベツ。みんな切れ端だけど。パンを焼いて、一緒に食べる。たまにはデザートが欲しい。あと明日もお休みだからお酒も飲んじゃおうかな。ワインの瓶を出してみた。うん、食べ終わってまだお腹空いてたら甘いものでも買いに行っちゃおう。たまにはたまには、とDVDレコーダーの電源をつける。映画見ちゃお。
主人公は高校生の男の子。ある日出会った年上のお姉さんは、声が出ない心の病気を抱えていた。不器用な彼と、人間関係を深めることが怖い彼女。けれど二人は少しずつ惹かれていって、最後には彼が彼女に告白する。主題歌が終わって、大人になった彼は笑顔で「おはよう」を言う。挨拶の相手は、彼女だった。泣いちゃう。何回見ても。あっという間に2時間ちょっとが過ぎて、ここまで来たらちょっとコンビニ行くのも面倒になってしまった。ずびずびと鼻をすすりつつティッシュで顔を拭きながら、クッションを抱える。好き、かあ。
とりあえず、会いにいってみようかな。勇気を出して。変にならないように、お姉さんでいられるように、ちょっとだけがんばって。

「いらっしゃいませー」
い、いた。一昨日は一人で酔っ払った勢いで行くぞーとか決めちゃったけど、いざほんとにレジの向こう側に横峯さんがいるのを見ると、ちょっと固まる。久しぶりにこのコンビニに来たけれど、コンビニなんてどこも変わらないので、迷うとかそういうことはない。ちなみにここのコンビニを使わなかった間は、家からお弁当を持ってくるか、駅前の別のコンビニまで行っておにぎりとチョコ買ってた。買うものはいつも一緒だから。今日は鮭とタラコのおにぎりとホワイトチョコにしよう。二つのレジには、男の人と横峯さんが一人ずつ立ってて、若干うろうろしながら横峯さんの方に商品を出した。怪しまれてないよね。変に思われてたらどうしよう。いや、大丈夫なはず。やっぱりちょっと動揺してうろうろはしちゃったけどさ。
「ポイントカードはお持ちですかー」
「あ、いえ……」
あれ。全然気付かれてない。こっちから声かけないと駄目かな。いやでも、なんかアピール激し過ぎて変な人に思われるかもしんないし、そしたらやだな。ちゃりちゃりと小銭を出しながら、ちらちらと顔を窺う。どう見ても横峯さんだよな。名札にもちゃんと「横峯」って書いてあるもんな。別に、知り合いにはなったわけだから、話しかけても変ではないと思うけど、でも突然お客さんから話しかけられたらびっくりしちゃうだろうし、迷惑をかけたいわけではないし。
「ありがとうございましたー」
「……………」
終わってしまった。嘘でしょ。終わってしまったよ、お会計。半ば茫然としながら、袋を手に引っ掛ける。もういっそ声をかけてみようか。でももし横峯さんが私のこととか全然覚えてなかったら?そしたら声をかけたところで「え?誰ですかあなた?」ってなっちゃうじゃない。それはちょっと傷つく。そしたら声かけない方がいいんだけど、声をかけないと連絡先もなにもない。なんとかして声を、でもなんて呼びかけたらいいんだろう、そもそも多分私名前とか直接聞いてないから、横峯さん!とか突然言ったら完全に不審者だし、
「先輩?なにしてんですか」
「はっ、あっ、ご、ごめんね三月くん、並んでたよね」
「いや、誰も並んでませんでしたけど……」
「そ、そう……」
お弁当とカップラーメンとペットボトルの炭酸と、追加で肉まんを頼んだ三月くんが、先輩なんか困りごとですか?と聞いてくる。困りごとというか、君が来たおかげで尚更レジの向こうの横峯さんに話しかけにくくなったというか。さらりとお会計を終わらせてしまった三月くんが、私も一緒に職場に戻るのが当然、と言った顔で出口へと向かう。そりゃ当たり前だ。店員さんに用事があるなんて、余程の事がなければ思い付かないだろう。
「ありがとうございましたー」
「あ。そういえばさっき田幡が決算書見て欲しいって言ってましたよ」
「ああ、はい、見ます……」
もう今日は諦めよう。今日諦めたら、明日も明後日も勇気が出ない気がするけど、なんかもうだめだ。横峯さんの演奏、もう一回見たかったなあ。チャイムに合わせて自動ドアが開いて、外に出る。扉が閉まるのに合わせて小さくなった音が、もう一度鳴った。
「スーツのお姉さん。忘れものですよ」
「……ぁ、え?私?」
「はい。どーぞ」
「あ、はい……」
どうぞ、と、横峯さんから手渡されたのは、四角いチョコレートだった。一つ二十円ぐらいのやつ。あとこれも、とチョコレートに重ねられた、四つ折りにされた紙。瞬いた私に、目を細めた横峯さんが、小声で言う。
「俺、バイト中なんで。無駄口叩くと怖いセンパイに怒られちゃうんですよ、だからこれ、あとで見てください」
「……よ、」
「それじゃ!」
「……こ、みねさん……」
唖然と見送る。お昼ご飯時で、確かにレジは空けられないだろう。私が話しかけるのも、迷惑だったかもしれない。手の中に残ったメモを開くと、少し左下がりの文字がぽつぽつと書かれていた。『今週の金曜と土曜は夜います。その時なら抜けれます』。
「……ナンパすか」
「うわ!」
「榎本先輩。ナンパされてんすか」
「ち、違います、もともと知り合いですっ」
「へー」
後ろからばっちり見ていたらしい三月くんに白い目を向けられて、本当にもともと知り合いだったんです、疑いたいなら牧田さんにも確認を取ってからにしてください、と突っぱねれば、そんなに怒ることないじゃないですか、なんて不思議がられた。確かに。そうなんだけど。
「榎本先輩、真っ赤ですよ」
「……風邪です」
ああ。もしかしたら本当に、私は彼のことを好きなのかもしれない。こんな小さな紙切れ一枚で、次に話せる想像だけで、胸の鼓動が止まらなかった。



2/6ページ