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「12月31日、夜6時半からなんだけど」
おお、と声を上げた。ボーカルくんの知り合いのライブに前座で出してもらえるらしい。仕事ある人ー、と挙手を募ったボーカルくんに、隣にいたベースくんを指差しながら口を開く。こないだ聞いたから知ってるんだけど。
「ない。ベースくんもない」
「ぇあ、な、ないけど」
「俺も30日からお休み」
「帰省する人!」
「しない」
「ぅ、俺もしない」
痞えながら言ったベースくんに、はたと気がついたようにギターくんが顔を上げた。帰省、とかいうタイプじゃないと思うんだけど。今年は母親と会うんだった、なんてギターくんの言葉に、じゃあ出れん、とボーカルくんが仰け反った。平気平気ってギターくんは言ってるけど、その言葉にベースくんは眉を下げている。平気なもんは平気なんだろ、気にすんなよ。
「今年は、ってことは滅多に会わねんだ」
「んー。母は忙しい。姉はよく会うけど」
「ぎたちゃんお姉ちゃんいるんだー」
姉、ねえ。兄弟姉妹、どれもいない身としては「ふうん」としか思えない。どんなもんなんだろうか、姉。こう、フィクションでよくあるように、薄着で家の中をふらふらしたり、弟のことをこき使ったりするんだろうか。性癖が歪みそうだ。はたして、姉がいる男は年上の女を恋愛対象にする時に引っかかりを覚えないんだろうか、とかぼんやり思ってたら、話を振られていた。妹がいるんだろうと聞かれて、適当に答える。いることになってるんだったっけ。ボーカルくんが、へらへらと笑いながら話す。
「俺も妹いるんだー、あと兄ちゃん。べーやんは?」
「俺は、兄さんが」
「へー、みんな意外と兄弟いんのな」
「少子化社会の中でなあ」
「じゃあ、みんな平気ってことで返事しちゃっていい?」
「おー」
「なにやる?」
「どんぐらい時間もらえんのかな」
「三曲分ぐらい?」
「えー、聞いてみるよ、どんぐらいやらしてくれるか」

秋唯仁、という名前が俺にはあるのだが、バンド内の奴らは誰もその名前で呼ばない。その方が気楽でいいと思う。一定以上に近しい相手から呼ばれる名前程、重いものはないから。
俺を産んだ母親は、顔も覚えていないぐらい昔に死んだ。病気だったらしい。写真でしか見たことがないけれど、あんまり俺に似ていない人だと思った。笑った顔がくしゃっとした人。遺品の中に指輪を見つけたことがある。とんでもなく細くて、到底俺の指なんて入らなかった。
残されたのは俺と父の二人。父は仕事ばかりの人だった。別にエリートだったわけじゃない。寧ろあの忙しさからすると、地位はあまり高い方ではなかったのではないかとすら思う。家に帰って、父が既に帰宅していたことなんて一度もない。だから、祖母が俺の世話をしてくれていた。けれど、授業参観とか運動会とか、そういうのには必ず顔を出した。らしくもなく髪の毛を固めて、いつもはよれているスーツをしゃんと着て、お母さん達の中に混ざる男が一人。背が高いので、余計に目立った。恥ずかしくないと言えば嘘になる。あっちも恥ずかしかったようで、参観日にはあまり目は合わなかった。運動会の親子競技は、周りも父親ばかりというのもあってなのか、少し呼吸がしやすそうだった。運動が得意ではなかった父さんは、二人三脚で俺の足を引っ張りまくったけれど、その時ばかりは楽しかった。
だからか、関係ないのかは、知らないけれど。俺が10歳の時に、父は再婚した。新しいお母さんだと言われても、そもそものお母さんとやらを覚えていないので、はあ、そうなんですか、はじめまして、としか思えなかった。新しいお母さんという人は、あまり笑わない人だった。怒らないし、笑わない。感情が無いわけじゃないけど、表情が薄い人だった。いつもどこかぼんやりしていた。家の中に若い女の人がずっといることが新鮮で、俺もしばらくはその人に引っ付いて観察していたけれど、すぐ飽きた。つまらないのだ、新しいお母さんは。
俺が小学校を卒業する時のことだった。祖母がお祝いの席を設けてくれて、いつになく嬉しそうだった父は、その日の晩ずいぶんと酒を飲んで、にこにこしていた。そんなに浴びるように酒を飲んでいる父を、今まで見たこともなかった。いつか唯仁とも酒を飲みたい、男同士積もる話をしよう、とか。嫌に嬉しそうだった父につられて、俺も嬉しかった。大きな手で頭を撫でられて。大きくなったと褒められて。唯仁が大きくなったら、結婚したら、仕事をするようになったら、歳を取ったら、と途方もない先の話をされて。次の節目で、父にまた喜んでもらえたらいいと、本気で思った。
だから、父の亡骸を見た時の感想は「嘘つき」だった。交通事故だった。信号無視して突っ込んできた車に、撥ねられた。俺が15歳の時のことだった。俺に話した未来の希望ってやつを、父は全部根こそぎ捨て去ったのだ。夢もへったくれもあったもんじゃない。とんだ嘘つきだ。なにが、いつか一緒に酒でも、だ。悲しみよりも先に怒りが立った。父に対して怒りを感じてしまうと、悲しいなんて思っているような暇はなかった。父の遺品を整理していたら、昔に見つけたものと揃いの指輪と、幼い俺と父と母で写っている写真があった。くすんだ色の、たった一枚の写真。これを見える場所に飾らなかったのは、父なりに新しい母親を気遣ったからなのだろう。写真の中の自分は、楽しそうだった。父も、死んだ母も笑っていた。だからといってなにを思うわけでもなく、それをどうするか俺は母親に聞いた。欲しいのかと問われたので、別にいらないと答えた。複雑そうな顔でそれを受け取った母親は、数日後にそれを、父の遺影や花と共に飾っていた。一体どこから見つけたのか、細くて俺の指には入らなかった方の指輪と一緒に。それを見て、残されるのは二度目なんだと、ふと思った。俺はまた置いていかれたのか、とも。
母と二人の生活は、特に不自由でもなければ、苦労もなかった。女手一人で、とはよく聞くものの、案外なんとかなるものなのだなあ、と他人事のように感じた。それと同時に、俺のことを名前で呼ぶこの母親が、他に男を作ってまた結婚したならば、今度はこの女が死ぬのだろうなと思った。俺の周りはきっとそうできているのだ。自分のことを「唯仁」と呼ぶ程に近しい相手は、順繰りに死んでいく。厄介な鬼ごっこみたいだ。そんなことなら、俺を産んでくれた母親の代わりに、最初から俺がいなければよかったのに。そうしたら、くしゃっと笑う母も不器用で一生懸命な父も、きっと今も元気なままだった。もしかしたら、子どもがいたかもしれない。女の子だったかも。新しい母親に据えられた表情の薄い女にも、もっと違う人生があって、花が咲くように笑えていたかもしれない。俺がいなければ。でも、俺はここにいちゃってるもんだから、仕方ない。かもしれない、をうだうだ言ったところで、何にもならないのだから。
恋愛好きな女の子と適当に付き合って、それなりに勉強して、普通に混じって、なんとなく送る日々。彼女との関係も真面目なふりも、長く続いたものなんて一つだってなかったけれど、ふと気づくと隣にあるのはドラムだった。それだけは、続いたというか、続けたというか、いつの間にか続いてしまったというか。続いているうちに、手放すのも勿体無くなった。褒めてもらいたい人に褒めてもらったことなんて、ただの一度もないけれど、唯一あの世で自慢できそうなことだから、まだもう少し続けてみようと思う。褒めてもらいたいからじゃない。自慢して、悔しがらせてやりたいからだ。こんなことならもう少し生きてみれば良かったと、吠え面をかかせてやりたい。それを見て、きっと俺はようやく、胸が空く気持ちになれるはずだから。

大晦日。ライブの直前、袖から客側を見ていたら、ベースくんに似た顔を見つけた。本人に確認したものの、おどおどしていて話にならなかった。へこへこ頭下げて、いつも怯えているような顔のこいつでも、楽器を構えて人の前に立つと背中が伸びるんだから、不思議だ。ベースくんだけではなく、ボーカルくんとギターくんまで探し出したが、全く見つからないらしい。勿体ない。血縁関係者じゃなかったらドッペルゲンガーだ。
「見えない」
「べーやん見える?」
「……全然……」
「はー?使えねー目だな、マイクで呼び出してやろうか」
「えっ、ぃ、いい、困る」
「べーやんたまにはMCやんなよー」
「い、嫌だ、無理だから、無理」
「今日振っていい?」
「無理っ、ほんとに無理、ごめんなさい」
「そうかなー」
「あ。俺喋りたいことあるよ。昨日の夜、久しぶりに目玉焼き作ったら、双子だった」
「すげー!」
「ギターくんなんで目玉焼きなんか作ったの」
「ココイチでカレー買ったけど卵トッピング忘れたから」
「逆にめんどくさくね?それ」
「俺、ほうれん草トッピング派」
「ボーカルくんの金持ち……りっちゃんは?」
「あんま行かねーからなあ。でも卵かも」
「ベースくんは?」
「ぇあ、ぃ、行ったことない」
「えー!」
「ひっ」
「今度行こ!ね!今日の帰りとか!」
「きょ、今日の帰り?あ、はい、うん」
こんなくだらない話をして盛り上がれるような相手は、今までいなかった。学生時代は、友達らしい友達すらいなかったし。どれもこれもみんな、ステージからの景色と歓声に頭をやられて、抜け出せなくなった共犯者だから。あの場所は嫌に暑くて、眩しくて、目が眩んで、心臓が鳴り響く。やばい薬を脳髄にぶち込んでいる気分になる。だから、共犯者なのだ。
こいつらには、名前を教えないでおこうと、なんとなく思う。

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