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言の葉に恋する証明



数日後。
「小金井くん、おっかえりい」
「……びっ……くりした……」
溝口についての報告書で全てにおいて嘘をついて「何もありませんでした」と書いたところ、普通に疑われてしこたま追求され、抱き合わせで上がってきた溝口の医師診断票のせいで、俺に薬を飲ませていた数日間をカモフラージュするために本人が薬を飲んでいなかったことが危うくバレかけ、無理やり暴論で逃げ切って終電で帰ってきて、身の回りのものを片付けてようやく座れたところで、がちゃん!と急に玄関の鍵が開いたら、自己防衛本能が働いても何ら異常ではないと思う。止まりかけた呼吸を再開すれば、靴を脱ぎ散らかした溝口が、見てえ、とビニール袋を振った。
「アイス買って来たんだー」
「冷凍庫に入れろ」
「早く食べよ?」
「……今何時だと思ってるんだ」
「にじ」
「深夜のな」
こんな時間からアイスは食べないし早く帰って寝て欲しい、と事実を告げれば、せっかく買ってきたのに…とショックを受けられた。そんな目で見られても食べないものは食べない。先に一人で食べればいいだろ。
「一緒がいい……」
「俺はさっき帰ってきて一刻も早く寝たい」
「俺もここで寝る」
「帰れ」
「やー」
「身の危険を感じるから帰れ」
「俺のことなんだと思ってるのー」
「睡眠薬を他人に飲ませ剰え性的に襲う人間」
「あはは」
全然面白くない。さっきと同じく事実でも、今度は既成された事実しか言ってないし。けたけたと楽しそうな溝口が、じゃあアイスは置いていくよ、と冷凍庫に袋の中から出したものを入れて、ぺたぺたと寄ってきた。だから帰れってば。
先日のあの一件から、一緒にいるのが気まずいとか嫌とかではないけれど、こいつの前で気を抜けなくなってしまった。在らぬ処を見られている羞恥で落ち着かないんだろうな、と自分でも客観的に思う。そも、「そういうことは好きな相手とやれ」と言ったくせして、「そういうこと」を自分がしたいと思ったことは一度たりともない。なんというか、他人とそこまで密接に関わるのは、気持ちが悪くて。それを溝口に言ったことはない。今まで適当に、体裁を取り繕うためだけに、相手に流されてお付き合いした彼女とは、そういう関係になったけれど、全く能動的になれなかった。他人に対して抱く感情が基本的に無なんだから、今更。座ったままの俺に近づいてきた裸足の足音に、今日は本当に疲れたし構いたくない、とはっきり言おうと溝口を見上げて。
「ん」
「……は?」
「ふふ。おつかれさまー」
頰に落ちた柔らかい感覚と、暖かな手。おやすみなさい、と言い残して、あっさり玄関の方へ戻った溝口に、喉が詰まって声が出なかった。ざり、と音を立てて、上り口でサンダルを履いた溝口が、茫然と動けない俺に、困ったみたいに笑った。笑う時に眉が下がって、なんとなく泣きそうな、下手くそに笑顔を浮かべるのを、何度も何度も見てきた。
「ちゅーしちゃった。おやすみなさい」
そう、扉が閉まって、階段を降りる音が聞こえなくなって、はじめて、キスされた頰に手を当てた。宇宙人。常識知らず。自分勝手で我儘。何も考えていない彼の手のひらの上で、踊り狂わされる自分が鮮明に思い浮かぶ。こんなことなら、やっぱり、好きだと思わなければよかった。それさえ自覚しなければ、何を馬鹿なことを、と無視して切り捨てられたのに。
足掛け十数年間。ようやく正常な形で動き出した歯車のせいで、この先の人生、きっと、ぐちゃぐちゃになる。お先真っ暗な想像は、閉じきった部屋の窓を開け放つような、もうどこまでも行けるような、そんな気にさせた。
「……あー。アイス」
熱くなった首筋に、赤面癖がつきそうだ、と思いながら、冷凍庫を開ける。二人で食べようと思っていたからなのか、それともただの気分なのか、二本で一つの割って食べるアイスが一袋入っていて、その上に見慣れない赤い袋。ざらりと中で音を立てたそれを持ち上げると、裏についていたらしい付箋がひらひらと落ちた。付箋て。もうちょっとなんかなかったのか。おたんじょうびおめでとう、ほんとのほんとにこのためにがんばったんだからね、こがねいくんのばか、なんて、平仮名100%で書かれた付箋。赤い袋の中を開ければ、随分と懐かしいものが入っていた。
「……こんなん欲しかったの、中学生の時だって……」
つい、笑った。自分が笑ったことにびっくりして、でも、もう笑い出したら止まらなくて、くつくつ、げらげら、一人で声を上げて笑う。何年振りだろう。こんなに笑ったのは、もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。
溝口からのお誕生日プレゼントは、チェーンのネックレスだった。中学生の時に、確かに流行ったのだ。重たげな鎖のこれを、ちゃらちゃらさせてる奴がいっぱいいた。けれど、その当時の俺は、父親から暴力を振るわれていて、そんなものに手を出せる余裕なんか一切なかった。欲しいと思わなかったわけじゃないけれど、そりゃあ少しくらいはみんなと同じようにかっこつけてみたかったけれど、そんなの無理だと諦めていた。そもそも、誰も俺と関わろうとしてくれなかった。溝口だって、家の事情もあるにせよ、そういうタイプじゃなかった。けど、彼の中では、未だにこれがかっこいいもので在り続けていて、三十手前の男に送るプレゼントとして相応しいものなわけだ。今時こんなんじゃらじゃらさせてる奴、なかなかいない。笑いすぎて、涙が出てきた。ああ。なんだかなあ、もう。
やっぱり、どうしても、どうしたって、溝口の中で失われた数多の年月を、取り戻したい。やりたいことを目一杯やって、はしゃいで、美味しいものを食べて、遊び疲れたらたくさん休んで、そんな普通のことを、普通に楽しめるように。好きだという気持ちに嘘はつきたくない。好きなものは好きだと、大切にしたい。けれどその気持ちすらも、もし彼の幸せの糧になることができるなら、それはどれだけ素晴らしいことだろう。変なところで我慢して、達観して、自分はおかしいからと諦めるくせに、子どもっぽくて、いろんな物事を知らなくて、幼くて、真っさらな彼。
好きだ。好きだから、どうか、お願いだからどうか、誰よりも幸せになってくれ。神様なんて信じてない。だから、その祈りは、声にもならなかった。

ちなみに。
落ちた付箋の、裏。溝口の癖のある字で書かれた「ばか」の、裏。付箋の隅の隅に書かれている文字に、その時の俺は気がつかなかった。「俺も小金井くんのこと大事にするから、小金井くんも、俺のこと、ずっと好きでいてね。」小さく書かれたその言葉に気づいたのは、拾い上げた付箋を適当に冷蔵庫に貼り直してしまったがために、粘着力がいい加減弱まって、再びそれがひらひらと床に落ちた、真冬のことだった。



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