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おはなし




社会人になって、もう片手の指の本数よりも長い年数が経つと、満員電車で他人に押し潰されながら揺られることにも慣れてしまうし、特に自分が悪くもないのに頭を下げてへらへら取り繕うことも当たり前になってしまうし、ちょっとした体調不良じゃそうそう休めないのも日常と化してしまう。職種によって、スーツを着ているとか着ていないとか、出勤の時間とかシフト制だとか休みの日程とか上司部下の関係がどうとか手取りとか残業の可否とか、その他諸々色々雑多に差異はあるけれど、共通しているのは、働いていることだ。俺たちはみんな働いている。毎日飽きずに同じ職場へと向かって、汗水垂らして時には血反吐吐きながら、働いている。
だから、趣味ってやつを大事にしなくてはいけないと思うのだ。息抜きできる楽しい時間がないと、人間の心なんてきっと簡単に壊れてしまう。なにが楽しいかは人それぞれなんだろうけど、自分にとっての『楽しい』は、確実にたった一つだった。
半年前に別れた彼女は、猫を置いていった。捨てられていた子猫を拾ったのは彼女なのに、当の彼女に懐かず、俺に懐いてしまったから。だって世話をしていたのは俺だ。動物が大好きとか言うわけでもないけれど、愛着が湧いているのは確かで、所々黒いからクロと名付けた。黒と白が入り混じっているので、彼女はシロって呼んでたっけ。そういうところで気が合わなかったから別れる羽目になったのだと、今更思う。くたびれたクッションの上で丸くなっているクロに、いってきますを告げて、玄関を出る。
今日は休みだ。久しぶりの休み。周りの尻拭いをして休日出勤ばかりが嵩んで、けれどもさして特に高所得なわけでもなく、得られる評価としては精々「良い人」。いつも俺はそんな感じだった。自分ではあまり好きでない、自分の評価。駅までの道を歩く最中の坂道、ふと背中を押された気がした。だけど俺にはこれがいる。学生時代に出会って、それから抜け出せない、無個性な自分の唯一の趣味。背負うこれさえいてくれれば、何もかもを跳ね除けられる強さを手に入れたような気になれる。さして新しくもない。とびきり上手なわけでもない。自信なんか全く無い。けれど、手放せない。これだけは胸を張って言おう。俺はベースが好きだ。俺にとって唯一無二の救いと呼んでもいい。このために生きてる?大袈裟なんかじゃ無い。過言でもない。全くもってその通りだ。
今日の休みをずっと楽しみに待っていた。なんでかって、久し振りに練習が出来るから。発表の場所があるわけでも無いけれど、一月に一度、下手したら半年に一度の時期もあるか、とにかく定期的に集まっては練習するメンバーがいる。なに繋がりだったかは忘れた。俺とドラムくんは高校が一緒だったけれど話したことは無かったし、ボーカルくんとはなんかのライブの打ち上げで酔っ払いながら気づいたら連絡先を交換してたし、ギターくんがどこから連れてこられた何者なのか俺は知らない。けれど、なぜか意気投合して、なぜかバンドを結成した。全員別に職種を持っていて、バンドに専念してる奴は一人もいないけれど、なんとなく長く続いている。
電車に揺られて数駅。乗り換えて更に数駅。バスに乗って十数分。大通りから一歩入ったところの細い入り口の奥。数年来の付き合いになる練習場のスタジオがある場所だ。予約したはいいけど、まだ誰も来ていないかもしれない。あのメンバーに時間を守るという概念があるのかどうかがそもそも不明である。と思いながら借りた部屋の扉を開ける。
「お」
「あっ」
「遅い!遅刻!」
太陽のような笑顔、とはこのことを言うのだろうか。まっすぐに人差し指を突きつけられながら、クソでかい声で宣言され、遅刻はしていない、むしろ早く着いている、と言い返すタイミングを失った。もう多分そのタイミングは二度と帰ってこない。さようなら。こいつがボーカルくんである。彼が一番とは珍しい。
「いやね、うちの時計壊れてて、3時間前についたんだよね」
「……スマホの待ち受け見るとかしなかったの?」
「んー、昨日風呂に落として壊れた」
壊れてるのはてめーの脳みそだ。と言いたいのを飲み込んで、それは大変だ、と我ながら薄い声で返す。同僚はもちろんのこと、友人はおろか、家族にも言えない心の内の本音は、いつも割と腹の奥に溜まっていくばかりで。
ボーカルくんは、両頬に「元気」と書いてあるのが透けて見えそうな、要するに俺とは全く違うタイプである。何故彼と連絡先が交換されていたのかは未だに全く分からないし、俺みたいなのと連んでくれることの意味も分からない。声がひたすらにデカくて、言いたいことはなんでも言えて、大口開けて笑えて、お腹が空いたら食べて眠たくなったら寝るような、人間。子どもみたいだ、と思ったことは何度もある。一度マイクを握らせて口を開かせれば、そんなこと考えられなくなるけれど。
「きーてよべーやんー、ねー、ねーえー」
「うん」
背負ってきたケースを開けて準備をしていることは気にならないらしく、べったりと背中に引っ付いて、ああだこうだと話しているボーカルくんに、曖昧な相槌を打つ。俺のことをべーやんなんて珍妙な渾名で呼ぶのはこの男だけだ。学生時代の友人にもそんな名前で呼ばれたことはないし、そもそも本名との関連性がなくていっそ怖い。
俺は心配性なので、待ち合わせをすると大概時間を多く見積もりすぎて早く着く。勿体無い時間の使い方だ、と自分でも思う。このメンバーで集まると、俺が大概一番に着いて、時点でドラムくん、遅刻気味にボーカルくん、いつのまにかいるギターくん、という感じになる。だから恐らく、今扉の外でオーナーと話しているのはドラムくんだ。ボーカルくんが「声がうるさい」だとしたら、ドラムくんは「動きがうるさい」ので、防音の磨りガラス越しでもよく分かる。
「お。おっひさー」
「遅い!遅刻!」
「道の途中で迷子のおばあちゃん500人に出会っちゃったから」
俺の背中から一瞬で離れたボーカルくんが、ドラムくんに体当たりした。じゃれるなじゃれるな、と何故かボーカルくんに足払いをかましてその場に転がしたドラムくんが、彼を跨いで部屋の中に入ってくる。久しぶりー、と声を上げられて、返事代わりに片手を上げれば、
「わ″っ!」
「ひっ」
「あ″はははは!っははははは!ぶふーっ!」
いきなり距離を詰められて両手を上げながら大声をあげて襲いかかってきたので、思わず頭を抱えて身を守ってしまった。凄まじく笑われている。泣くほど笑われている。腹立つ。
ドラムくんはこういう人だ。常に冗談を纏って生きている。あと嘘ばっかりつく。仲良くなるにつれて知った生年月日や自宅の最寄駅すら嘘だったので、もうそういう病気なのかもしれない。ドラムくんのの言葉を信じると、彼は既婚者で、かつモデルと美容師とアパレル店員に三股をかけていて、妹が少なく見積もっても五人はいて、道端には迷子のおばあちゃんが溢れかえっていることになる。そんな世界は嫌だ。基本装備がスーツだが、よく脱ぐ。放っておくと洒落にならないレベルまで脱いでしまうので、止める。ちなみに俺しか止めない。全員狂ってるのか?
転ばされたことに関しては何も感じないのか、地面に座り込んだままぽけっとこっちを見上げているボーカルくんが、ぎたちゃんは?とアホみたいな顔で言った。どう見ても来てないだろう。怯えた俺を大笑いした勢いで壁とお友達になったドラムくんが、涙をぬぐいぬぐい口を開く。
「はー。ギターくんはほっとこ。いつか来る」
「……………」
「お?なんだ?言いたいことあるなら言え?」
「……別にないよ」
「難儀な奴だなー」
無言で恨みを込めて見ていたのは、ばればれだったらしい。がしがしと頭を乱雑に撫でられて逃げれば、撫で足りなかったのかボーカルくんを撫で直していた。何故かされるがままのボーカルくん。髪の毛がっちゃがちゃだけど。そういえば、ドラムくんの家には犬がいるとか。動物が好きだとか言ってたけれど、それもほんとだかどうだか分かったもんじゃない。動物が好き、の動物の中に、彼の場合は人間全般も含まれていそうで嫌だ。
この場に居ないが、居るようなものなので、ギターくんについて。ギターくんは神出鬼没なので、いつのまにかいるし、いつのまにか帰る。こっちの話は基本全然聞いてない。というか、ぼーっとしている。1時間ぐらい余裕でぼーっとできるんじゃなかろうか。生きている気配が無いので、演奏技術はあるけれど、ステージを降りると全くの無になってしまう。本人は自覚があるらしく、口数も少ないので、突然背後に立って人を驚かせたりする。にやにやされると非常に腹が立つ。言うまでもなく、にまにましている表情で固定なのだけれど。口角が常に上がっているし目尻が下がっている。良い人そうなのに話を全く聞いていないので、全然良い人じゃない。
ちなみに俺は今気づいたけれど、アンプの前にしゃがみこんでいるボーカルくんの背後にギターくんがいる。いつ入ってきたんだ、と見ていると、目があって、へらりと笑われた。微妙な笑顔で笑い返して手を上げれば、ドラムくんが気づいた。
「あ!いんじゃん!」
「え?うわ!いるなら言ってよー!」
「……りっちゃんと一緒に入ってきた」
「言えよー」
どす、とドラムくんがギターくんを叩いたけれど、ギターくんがにこにこしながら叩き返した力の方が強かったらしく、ドラムくんが咳き込んでいる。りっちゃん、とドラムくんのことを呼ぶのはギターくんだけだ。どうもそこ二人は昔から交流があったらしい。ドラムくん情報だと信用ならないが、ギターくん本人が言っていたので、本当だ。
「じゃー、みんな来たしやるかー」
「あ!」
「あ?」
「家の鍵閉めてくるの忘れた!」
「ボーカルくんちなんか泥棒入んねえよ」
「……おれ、閉めてきてあげようか」
「えー!悪いなー!」
「家の場所……」
「あー、地図アプリで送っ、あ!携帯壊れてんだった!」
ボーカルくん、家の鍵を渡すな。ギターくんも冗談なんだか本気なんだか分からないことを言うな。ドラムくんが背後で、まだひと叩きもしてないのに暑い暑いと脱ぎ出した。
まともな練習がしたい。

「べーやんは三杯までな」
「……なんでさ」
「なんでって……」
「なんでってなあ……」
「……体に悪いからだよ」
練習、後。夜も更けて、二軒目である。といっても一軒目は飯メインだったので、飲み直しという感じだけれど。
顔を見合わせてなんとも言い難い表情を浮かべたボーカルくんとドラムくんに、乾杯から五秒で一気飲みしたギターくんが被せた。すごく言われたくない。子どもでもあるまいし、なんで男友達から健康に気を遣われなきゃならないんだ。有難い話ではあるけれど。
しばらくして、そういえば、とギターくんが一枚のチラシを出してきた。ライブのチラシだった。出させてもらえるって、知り合いがいて、チケットノルマあるけど、どうする?なんてぽつぽつ言われて、断る理由もなく。
「なー、どらちゃん曲作って」
「やだ、お前文句言うから」
「言わないからー!」
「頑張って考えた歌詞に文句つけてまともに歌わないから嫌だ」
「だって難しい言葉ばっかだから意味わかんないんだもんー!」
「辞書読め」
手をパーにして机の上に置いているボーカルくんの指の間をドラムくんが箸でとんとんしている。いつか刺しそうではらはらする。しかも結構早いし。ドラムくんそういうとこ遠慮しないし。指の間をとんとんするやつにはゲームとして名称があるのだろうか、とか俺が余計なことを考えているうちに、次の練習の日取りを決める話になった。新しいことをしたいなら、たくさん練習しなくっちゃ。ちょっと気分がいい。空になったグラスに気づいてメニューに手を伸ばす。
「ベースくん」
「ん?」
「ベースくん、お水いる?」
「……いらないけど……」
「そう?疲れてるみたいだから控えめにした方が良いかと」
「そ、そう、かな」
「うん」
ドラムくんにそう言われると、まあ確かに、疲れていないわけではない。連日仕事に追われているのは確かだし、たまの休みは寝て過ごしたいのも事実だ。珍しくおふざけ抜きで言ってくれているようなので、素直に受け取ろう。でももうちょっとぐらい飲んでもいいはず。ギターくんなんかいつのまにかまたジョッキ変わってるし。飲み放題じゃないんだぞ。
次の練習は、二週間とちょっと後になった。全員の仕事のこととか各自の予定とかを鑑みて、それでも早かった方だ。ボーカルくんがドラムくんに最後まで新曲を強請っていたけれど、どうだか。





「じゃーねー」
「ばいばーい」
「今日はべーやんキレなくて良かったね!」
「……あいつ自分が酔っ払うとどうなるか全く分かってなくて怖えよな……」
「ぎたちゃんは?」
「知らね。金置いてあったから、帰ったんじゃね」
「どらちゃんは?」
「帰る」
「えー!カラオケ行きたいー!」
「明日仕事だし」
「……俺も明日仕事だった……」
「我に帰ると声ちっちゃくなんのリアルだからやめろな」


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