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さみしいと口に出せたら




二月のことだった。小野寺の家にしょっちゅう行くようになって、しばらく。今日の晩飯はシチューだった。小野寺母の飯はうまいと思う。家の中はいつだってあったかいし、ごろごろしてれば誰かしらが俺の世話焼いてくれるし。デザートにいちごが出てきて、風呂に入ってる小野寺の分まで食べていると、小野寺母がエプロンを外しながらやってきた。
「伏見くん、いちご好きなの?」
「うーん。これはおいしい」
「そう!じゃあ、今度おばあちゃんの家に行くから、いちごたくさんもらって帰ってくるわ」
「おばあちゃんちどこなの」
「栃木。来週行くから、おみやげ楽しみにしててね」
「泊まり?」
「そうねえ。三連休だから、二泊三日になるかしら」
「あ、いちごだ。俺のは?」
「もう食べた」
「え!?」
風呂上がりの小野寺が、愕然とした声を上げてタオルを落とした。ほんとだわ、残念、とあまり残念そうでない声で言った小野寺母にあったかいお茶をもらって、小野寺の部屋に引っ込んで。さっきの旅行の話、ほんと?と本人に聞けば、こくりと頷かれた。一年に一度、家族全員のタイミングを合わせておばあちゃんに会いに行くんだと。お母さんのお母さんらしく、おじいちゃんは数年前に亡くなっているそうだ。一人だし、と付け足した小野寺に、家族仲がよろしいことで、と内心で思った。口に出さなかったのは、偏に面倒だったからだ。
「だから伏見にはごめんだけど、うち来ても誰もいなくなっちゃうんだよね」
「別に」
「……家に帰るの、久しぶりだよね?」
「あー。そうかも」
適当な生返事。小野寺が何処と無く眉を下げて申し訳なさそうな顔をしているのは、俺に対して罪悪感があるせいだろう。俺がこの家に入り浸ってることをよく分かってるから。この家に入り浸れなくなると、自分の家に帰らなければならないから。俺が、基本的に誰もいなくて寒々しく冷え切った自分の家を嫌っていることを知っていて、そこに帰したくないと思っていて、でも家族旅行もそれはそれで大事だから、俺のことは置いていく。帰したくないと思っている時点でとんだエゴイズムだし、そう思いながらも自分のことを優先するんだから、そっちがそうなら別に俺がどうしようと結局は俺の勝手じゃないか。好意からの善意だと分かっていても、けれど小野寺からのそれは、何処かに憐憫を含んでいるような気がして、素直に不快だった。可哀想だと思われることは嫌いだ。無駄話の間に冷めかけたお茶を啜って、携帯をいじる。別に、自分の家に帰ることなんて普通じゃないか。人様の家で食事まで出してもらって寝泊まりしまくっていることよりも、全然真っ当だ。
「あ。いちご、別に好きじゃないから」
「そうなの?」
「そう。でも今日のは美味しかった」
「おんなじ種類のならおいしいかなあ」
お土産たくさん買ってくる、と取り繕うようににこにこされたので、背中を向けて布団にくるまった。頼んでない。

小野寺家は明日から二泊三日の家族旅行だ。準備だ何だで諸々大変だろうと、今日は行くのをやめた。小野寺が捨てられた犬みたいな顔をしてたのが面白かったから、とも言う。
三連休は三連休、祝日込みの休みなので、学校は閉まっていて部活ができない。それは地味に痛かった。3日目の月曜日だけ、クラスの友達に誘われたので遊びに行くけれど、それ以外は暇だ。久し振りに、近所の道場に入り浸るとしようか。幸いなことに、宿題もないし。
見慣れた自宅への道。大通りからは、人通りの少ない細道を抜けると近いのだが、幼い頃は母から固く禁止されていた。危ないから、と。俺になにかが起こることが怖いから、というよりは、それによって降りかかる迷惑と自分にとって無駄な時間を過ごす羽目になることが困るからなのだ、と気づいたのは、小学校高学年の頃だった。仕方ない。あの人は、というか、あの家族は、そういう人間の集まりなのだ。両親はいつも朝早くに家を出て夜遅くに帰ってきて、まともに顔も見ていない。それが当たり前。息子がテストで100点を取っても、大会で優勝しても、一緒に喜んだりしない。小野寺のお母さんなら、全部俺よりも喜んでくれるのに。
「ただいま」
一応、挨拶。誰もいないことは分かりきってるんだけど。それこそ、小野寺の家に行くようになるまでは、家に帰ってきたところでただいまなんて言わなかった。あの家にはいつも大概誰かがいて、誰かが俺の挨拶に返事をしてくれるから、挨拶をする。当たり前のことが習慣付いて、だから一人で空っぽのこの家は、酷くがらんとして、余計に寒々しく見えた。
暗いリビングに着くまでの道のり、廊下も階段も全部の電気をつけてみたけれど、特に気は晴れなかった。案の定誰もいない。台所には、冷蔵庫の中に夕ご飯が入っています、と書き置きがあって、これが無いことはあるのだろうか、と他人事に思う。俺が小野寺の家に泊まっている時、家に帰ってきていないことに、母は気づいているのだろうか。もしかしたら、知らないのかもしれない。小野寺家でご飯をいただくたびに、ここに置き去りにされた手付かずの夜ご飯はどうなっているんだろう。明日の朝にでも母が食べるのだろうか。だったら作らなければいいのに。帰ってきていないことは知らなかったとしても、毎日のように冷蔵庫に残っていることぐらいは、分かっているはずだし。
今日は、もう今から外に出るのも面倒なので、久しぶりに冷蔵庫の作り置きを食べることにしよう。メニューは、鶏肉のトマト煮込みと、ご飯と、コンソメスープと、コールスローサラダだった。サラダは嫌いなので残した。特に好きなメニューでもなければ、美味しいわけでもなく、胃に食べ物を入れるためだけの食事。コンビニの飯と何が違うんだろう。テレビをつけてみたものの、雑多な笑い声に無味乾燥な気持ちになって、やめた。お皿を水につけて、部屋に引っ込む。眠たくもないのに、やることがないので、目を閉じた。

次の日。朝から雨。最悪。天気予報なんて気にしていなかった。栃木も雨だろうか。家に居るのもどうせすることもなくてつまらないので、弓に防水カバーをかけて、背負って行くことにした。いつ誰が帰ってきたのかなんて知らないけれど、水につけておいたお皿は洗われていたし、昨日は「冷蔵庫に入っています」だったメモ書きが「今日の夜ご飯は豚肉と大根の煮物です」に変わっていた。なんでこの家にはいつだって誰もいないのに、誰かがいる痕跡だけが残るのか、不思議でならない。
寒い。意地張って無理をした、と若干の後悔を背負いながら弓道場につくと、顔馴染みの受付のおじちゃんに、目を丸くされた。久し振りに来たのは嬉しいけれど、濡れ鼠でわざわざ来なくても、と。小銭をちゃりちゃりと手渡して、生返事。図星だからだ。ロッカーの鍵を受け取ると、今なら貸切だ、と付け足された。この天気だし、誰もいないのにも納得はいく。もともと混雑するような場所でもないし。着替えをして道場に入ると、確かに誰もいなかった。雨の勢いは、少し弱まっている。さっき調べた天気予報では、明け方から降り続けて、夕方には止むらしい。雨が止んだら帰ろう、と弽を締めながら思う。あと五時間ぐらいあるけど。
お昼過ぎになって、道場から出てロビーで昼ご飯を食べていると、何人か来た。軽く会釈してコンビニのおにぎりを頬張っていたら、管理してるおじさんがまた来て、差し入れだとおにぎりをくれた。おにぎり祭りかよ。貰ったおにぎりは鮭だった。買ってきたのはシーチキンと炊き込みご飯なので、被ってないだけいいか。道場に戻って弓の準備をしていると、声をかけられた。
「……明日ですか?」
「そう、明日。欠員がいるわけでもないし、予定があるならいいんだけど。朝からいるって受付で聞いたし、君の大会成績も見たことがあるから」
3時までは自分もいるからもし出られるようならまた声をかけて、と言い置いて自分の立ちに戻った女の人に、はあ、と声を返す。明日、この弓道場で、軽い地区大会のようなものがあるらしい。それに参加してみないか、とのお誘いで。どうせ暇だし、明日もここには来るつもりでいた。大会に出られるのならば、願ったり叶ったりだ。というか、大会の成績を見たって、あの女の人、何かの先生とかなんだろうか。嫌に綺麗な、綺麗すぎて角がある射形の人だ。タイミングを見計らって、出場したい旨を告げれば、特に嬉しそうでもなければ、喜ぶわけでもなく、了承された。本当にどっちでも良さそうだ。
雨が止んだのは、もうすっかり日も暮れた頃。再び俺一人で貸切になった弓道場に、まだいるのか、とおじさんが目を剥いて、お前は昔からそうだ、と中学時代を懐かしまれたので、面倒になってきて帰ることにした。明日は頑張れと声をかけられて、頷きとお辞儀を返す。行きにも寄ったコンビニに再び入って、用もなくうろうろ。特に買いたいものがあったわけでもない。とりあえず。目に付いたスナック菓子と炭酸飲料を買って、家への道を辿る。吹き抜けた北風に、ぐすりと鼻が鳴って、マフラーに首を埋めた。

次の日。手早く支度を済ませて、弓を背負って家を出ようとしたところ、上の部屋の扉が開く音がした。姉だろうか。誰でもいいけど。家を出て鍵を閉めてから、行ってきますを言っていないことに気づいた。うちではどうでもいい。けれど小野寺家では、行ってきますとただいまの挨拶を重視するので、最初は当然「お邪魔します」だったはずの俺もいつしかそれを強要され、「ただいま」を言わないと小野寺母と小野寺兄にあからさまに拗ねられるようになった。ちなみに、小野寺父にただいまを言ったことは今の所ない。おかえりなさいならあるけれど。
到着。昨日よりは人が多い。学生はちらほらとしかいなくて、近所の名門私立の鞄を背負った女子グループがこっちを見て、持っていた名簿に目を落として。高校生ならこの前の大会のこととか知ってるよなあ、なんならその前も全部、とぼんやり思いながら、愛想笑いを浮かべる。花が咲くような笑顔と会釈と、ついでに軽く手を振られて、知り合いでもないのに手を振り返した。なにやってんだか。よく見ると昨日の女の人がその女子グループと一緒にいた。あの学校の顧問なのか。納得が行った。
大会は、可もなく不可もなく終わった。全体三位、未成年の部だと優勝。人数と経験の換算からしてそんなもんだろ、って感じ。特に賞品があるわけでもなく、一応形ばかりの表彰状をもらった。未成年の参加者は、数で言えば全体の三分の一程はいたのだけれど、高校生が件の女子たちしかいなかったということもあり、しょっちゅう話しかけられては構われたのは少し面倒だった。大会で見ましたとか、中学の時から知ってますとか。分かった分かった、と返したいのを呑み込んで愛想良く喜んでは会話をするのも、そりゃあ慣れっこだけれど、面倒は面倒なわけで。私服に着替えて、二枚の表彰状を手持ち無沙汰に丸める。急ぐ用事もないので、出入り口に人が少なくなるまで待とうとぼおっとロビーに座っていると、また人に話しかけられた。みんな暇なのか。もうほっといてくれ。
嫌に荒んだ気分で家に帰った。大会の結果は連休明け顧問に言うとして、勝てて嬉しいはずなのになんでこんなにかりかりした気分にならなくちゃいけないんだ。おめでとうと持て囃されて、愛想を振りまくのに疲れたんだろうか。よく考えたら、連休なのに一日もゆっくり休んでないし。携帯を見たら、明日遊びに行く約束をしている友達から、待ち合わせの時間と場所の連絡が来ていた。女の子三人、俺含め男四人、総勢七人のグループは、オッケー、楽しみ、みたいな内容で埋め尽くされていて、同じような内容を重ねて送って、携帯を放り投げた。
飯を食べるのも面倒になって、そのまま寝てしまった。目が覚めたのは深夜2時で、腹が減って起きた。お風呂にも入り損なった。リビングに降りるとダウンライトがついていて、母親がいた。驚くわけでもなく、平坦におかえりを言った母の横を通り過ぎて、食べ損ねた晩飯を温める。なにやら仕事をしているのか、パソコンに向かっている彼女の邪魔をしたくて、口を開く。
「……今日、大会があった。弓道の」
「そう」
「俺、優勝した。全体は三位だったけど」
「……おめでとう。これからも頑張ってね」
こっちを向きさえしなかった。全く気持ちのこもっていない言葉に、電子レンジのタイマー音が被って、返事も出来なかった。すごいじゃない、おめでとう、明日の夜ご飯はお祝いにしましょう、伏見くんの好きな食べ物なんでも言ってね、と俺より喜ぶ小野寺母の姿が脳裏に浮かんで、笑えてきた。きっと、俺が帰りたいのはもう、この家じゃないんだ。

次の日。連休最終日。昨日連絡が来た通りに待ち合わせ場所について、一人ぐらいは遅刻するやつがいて、何の生産性もない上に特別楽しくもないけれど、友達と遊んだ。楽しそうに見えているのなら何よりだ。することがないから付き合ってやっているだけなのに。
もう家に帰るのも嫌だった。誰かの家にでもそのまま遊びに行けたら良かったのに、それを誘うのも面倒で、解散してからただ意味もなく繁華街をうろつく。ファーストフード店で適当な夜ご飯を済ませて、もういい加減行く当てもなくなって、仕方なく家に帰ったのは夜10時だった。シャワーだけ浴びて、布団に飛び込む。横たわったまま携帯に手を伸ばせば、通知が溜まっていた。今日遊んだメンバーから写真その他が送られてきていて、手早く返事をする。どうでもいい内容は読み飛ばしながら履歴を遡っていくと、小野寺からも数件連絡が来ていた。気づかなかった。というか、意図的に気づかないふりをしていた。だって、昨日も一昨日もなんか送られてきてたのは知ってたから。既読すらつけなかったのは、ただの意地悪心からだ。
明日おみやげ渡すね、うち来るでしょ?とにこにこした絵文字付きの言葉に、ばかしね、と意味なく罵倒を送ってみた。1分足らずで返ってきたのは、泣き顔のスタンプ。追随して来たのは、
「……は」
俺はさみしかったのに、と、ご丁寧に犬が泣いている顔文字付きで。つい鼻で笑って、返事を考えてやるのも癪だったので、そのまま携帯を置いて寝た。

次の日。
「おはよ」
「……馬鹿じゃないの」
「ええ!?なんで!?」
小野寺家から学校へ行くのとは逆方向にある我が家までわざわざ迎えに来た小野寺のことは、自転車の後ろに乗せてもらったことで許した。朝練に間に合うようにちゃんと時間を逆算して来たのか、こいつ。馬鹿だ。もうちょっと別の方向に頭を使って欲しい。
旅行の思い出話を楽しそうに語るので腹が立って、日曜日の大会のことを話すと、その衝撃に上書きされたのか、わあわあ騒いでうるさいことこの上なかった。顧問に報告も一応して、放課後部活に出る前に、小野寺が笑顔で携帯を見せて来た。
「伏見!今日はからあげパーティーしてくれるって!」
「誰が」
「母!」
予想通りといえば予想通りの展開に、可笑しくなる。部活が終わってから、そのまま小野寺の家に行って、ただいまを言って、夜ご飯を食べて。お土産のいちごは、おいしかった。小野寺が買って来た変なストラップは全然かわいくなかったので、小野寺の自転車の鍵に勝手につけた。創さんが買って来てくれたいちご味のポテトチップスは、すごく微妙な味だったけれど、嬉しそうに渡されたので断り切れなかった。おいしい?と笑顔で聞かれたので、そこは素直に「おいしくはないです」と答えたけれど。
「伏見ー、なんかリビングで兄ちゃんが反省してんだけど」
「……次からは試食するように言っといて」
「うーん、わかったー」


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