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おはなし



「あ」
「あっ」
二つ声が重なって、顔を上げる。蓋を開けたプリンの容器からどろんと何かが手に溢れてきた感触があって見下ろすと、つい2秒前まで容器の中に収まっていたプリンが何故か俺の手と机と服に飛び散っていた。
「おっ……」
「それ入れ物めっちゃやらかいからぎゅって持たないでって言ってた」
「これ使えば?」
「言えや……」
「言う前にりっちゃんが勝手に取って勝手に食べようとして勝手にこぼしたんじゃんー」
「これなんて言うんだっけ」
「……コップ」
「絶対違うくない?」
プリンまみれになっている俺を放って別の話に移行しないでほしい。構われても邪魔だけど。そして恐らく言いたいのはインサートカップかなにかだろう。ボーカルくんとギターくんの語彙の中にあるとは思えない。わからんね!と最終的に二人で笑っているのを無視しながら机と手を拭いて綺麗にしたが、服はどうにもならなかった。座っていたので腹が汚れた。多少は取れたけど、まあいいか。しょうがない。打ち合わせ先とかマネージャーとかになんか言われたら、正直にプリンをこぼしたって言おう。こぼしたけど三分の一は残っているので、ボーカルくんが持っているインサートカップを奪ってそれに設置する。スプーンですくって食べようと思ったけど、そもそもプリンがゆるすぎて無理だった。から一気に飲んだら、引いた目で見られた。なんでだよ。
「ぎたちゃんプリン飲める?俺は無理」
「一気は無理」
「甘くて喉が焼ける」
「やかましい。7かける8」
「えっと」
「ええと」
最近覚えた馬鹿を黙らせる方法だが、使う度に悲しい気持ちになる。ギターくんは金勘定ができるのに九九が咄嗟に出ないのは異常だと思うが、突然振られるのはやめて欲しいらしい。ボーカルくんはいつなにを振っても数字と漢字と英語に関しては全部ダメだからもういい。
プリンがついた腹をごしごししていたら、呆れ顔のボーカルくんが覗きにきた。あーあ、と言われたが、もうこうなっちゃったものは仕方がない。
「事務所戻ったら冷やして、そしたら固まるって言ってたでしょ」
「なんで冷やしてないプリンがこんなところにあるんだよ」
「さっきもらったばっかだもん」
「ベースくん戻ってこないね」
「そだね。どこ行ったの?」
「知らん」
「もうそれ以上ごしごししても絶対落ちないと思うよ」
それはそう。俺が挨拶回りに行ってる間にプリンの袋が差し入れられてベースくんもいなくなってたから、プリンを冷やしてないのも知らなかったしベースくんがどこに行ったのかも知らない。まあしばらくしたら戻ってくるだろう。置きっぱなしだったペットボトルを、中を空にして捨ててから移動したいな、と思って傾けたら、変なとこに入って咽せた。
「え″ほっ、ゔ、げほげほ、っ」
「だいじょぶ?」
「げっほ、ゔぇ、っし、死ぬ」
「どらちゃん今日ダメだね」
「……ダメかもしれない……」
「多分運勢最悪だよ。何座だっけ」
「……双子座」
「ふたござー。あれ?三位だ」
最下位は蠍座だって!とスマホの画面を見せられて、よかったー、と平坦な声で返した。蠍座ですけど。ボーカルくんは一位らしい。占いとかは全く信じていないが、今回の不運を「まあ最下位だしな」と思えるのは責任逃れができて便利なので、そう思うことにしよう。突然咳が出たので喉が痛い。
「……死んだ」
「咳で?」
「余韻で生きてる」
「ラッキー!」
ぐっ!と力を込めてボーカルくんにガッツポーズをされた。ラッキーだろうか。考えようにもよる。
しばらくすると、ベースくんが戻ってきた。お腹が痛いらしい。いつものことだ。車の鍵をマネージャーさんからもらったので、と手渡されて、言外に「先に乗ってろ」ということだろうなと受け取る。「先に行ってろ」ではないだろう。あの人、運転席取られるの嫌がるしな。部屋を出るにも、持ってきた荷物が少ないので、せいぜい貴重品をポケットに突っ込むぐらいのものだ。ギターくんなんか財布も「あ。ない」って言ってた。スマホで払える時代でよかったな。
今が記事インタビュー。事務所に戻ってツアーの打ち合わせ、夜が音楽番組の収録。夜が長いんだよなあ、と思いながら鍵を回して廊下を歩いていると、大きい窓の外、すごい近くに大きい鳥が飛んでた。なんだあれ。鷲とか?鳶ならまだしも、野生に生息してるんだろうか。山とかならわかるけど、ド都会だけど。そんなことを考えながら歩いていたので、全く気づかなかった。
「うわ!」
「ん」
「あっごめんなさうわあああ最悪!」
「熱い」
「すいませんでした!それじゃあ!」
「待て」
「謝りました!それじゃ!」
前を見ていなかった俺もよくなかったかもしれないが、曲がり角をコーヒー持って走ってきたお前も悪いんだから、もう少し誠意を込めて謝れ。の意を込めて足で行く道を塞げば、めちゃくちゃ嫌そうな顔で睨まれた。俺被害者だと思うんだけど。思いっきりコーヒーかかったし。プリンの次はコーヒーとか、最悪はこっちのセリフだ。ギターくんが、あーサイトウくん、と指をさした。すごくバツが悪そうに、両手に自販で買ったらしいコーヒーを持っている斎藤が、もごもご言った。缶じゃなくてカップのやつだったから、走ってぶつかればそりゃ飛び散る。そしてこぼした分は俺の服が吸収したから、幸か不幸か床には一滴もこぼれていなかった。
「……クリーニング代をお支払いします」
「ごめんなさいは?」
「もう謝りました……」
「どらちゃん今日マジで運ないね」
「着替えに帰りたい」
「いんじゃない?事務所に着替えないの?」
「ない。事務所着いたら車貸してもらう」
「……………」
「そっと逃げようとするな」
「ひい……」
俺とボーカルくんが話しているのをいいことに無言で去ろうとした斎藤の頭を掴めば、すごく怯えた目で見られた。なんで俺が加害者側みたいなことになってるんだ。ていうかなんでこんなところにいるんだ。同じ編集社の取材か撮影でも受けにきてたのかもしれない。知らないけど。全然平気だよー、と逃がそうとするギターくんを黙らせていると、後ろからでかい声が響いた。
「あ!嫌なもん見た!」
「せっ、先輩助けて!」
「ヒノキ帰ろ。ナナセの尊い犠牲は忘れないし焼肉ランチ終わっちゃうから早く」
「せんぱあい!」
「……ああ。ななせがご迷惑をお掛けして」
「帰ろってば!瞬時に状況把握すんな!しかも謝んなくていんだよそんなのはどうせ自分が悪くてナナセなんの関係もないし生きてること自体がもう地球に悪いんだから」
「そうですっ」
「そうじゃないです」
「ななせにコーヒー買いに行かせたのはいづるだろ」
「だからなんだよ。えっ?こればっかりは本当にわからない。だからなんなの?その理論で言ったら世界平和が訪れない理由も地球温暖化が止まるところを知らない理由も俺のせいにならない?」
「コーヒーをぶちまけられたんですけど」
「すみませんでした。そういえば新曲なんですけど」
「長い長い長くなる!無理!ヒノキ俺腹減って死にそうなんだけど!」
「ギターが前奏だけ早いのはアレンジですか?それともそもそも作曲の時にそうし」
「焼肉ァ!!!!!」
「たんですか?揃ってる時に聞きたくて。あとあの曲披露する場所ないですか?見たいんですけど」
「あー……」
「あるっけ?」
「今日やるよね」
「放送いつ?」
「生でしょ?」
ボーカルくんとギターくんが日野の相手をしてくれるので、細かなことに応える必要がなくなった。ベースくんに小声で、早くしないと落ちなくなっちゃうんじゃ、と聞かれて自分の服を見下ろす。腹はプリン付きだし、胸元はコーヒー付きだ。どうせなら一緒に食べたかった。めんどくさい、が先に立ってしまって、うん、と頷くのと溜息をつくのの隙間を吐いた。とりあえず一番話の通じそうな日野に、これ、と一応指をさせば、ボーカルくんとギターくんの話に耳が奪われたままだからこっちを見もせずに、財布から適当に札を抜いてぽいと渡された。別に本当に金が欲しかったわけではないので、受け取ったけれど斎藤に返した。めちゃくちゃ驚かれたけれど、誰も金払えなんて言ってないだろ。要求を叫んだけど誰にも聞いてもらえなかった岸が、ぎゃんぎゃん跳ね始めた。うるさい。
「なにコーヒー引っ被って突っ立ってんだよそういう性癖なんですかァ!?」
「もう汚れたからこれは捨てる」
「は!?それ一着七万、俺が着る寄越せ!服がかわいそう!」
「オーダーだから着れないだろ」
「先輩から服が可哀想とか聞いたことないんですけど……」
「可哀想だろが!お前の手に渡って捨てられるよりは俺がなんとかした方がこの子の為なんです脱げ今すぐにここで!」
「おい白髪頭、根元黒いぞ」
「最近忙しんだよ!ここ三日のんびり飯食う暇もないんだぞクソ、こんなとこで喋ってる余裕あったら焼肉食べに行きたかったのに!ランチセットが1000円だったのに!おめーのせいだバーカ!」
「8かける8」
「64つーか新曲あれ気でも違えたんですか?ドラマ続投だからってアンサーソングとか巷で騒がれてますけどほんとにそれでいいんですかぁ!?」
「9かける7」
「それなら63もうちょい曲の構成被せるとかしないと今のあれじゃ色味バラバラで気持ち悪いし、それかそうじゃないなら匂わせるのも違和感あるからやめたほうがいいんじゃないかと思うんですけどあっ人間のそういう情緒とか分かんない感じでしたねすいませえんお前的には燃えればいいんですよね後は下々の人間たちが」
「同レベル扱いして悪かった」
「は?」
九九言ったら黙るかと思ったのに、喋りながら器用に返事をしてくるので、若干申し訳なくなった。こいつは見た目ほど馬鹿ではないんだった。あと髪の毛の付け根が黒いのが本当に気になる。上から見下ろしているからだろうか。白のポスカとか借りてきてやろうかな。呆然とした顔でこっちを見られて、数秒経ってようやく顔が歪んだ。どうやらあっちの話もなんとなく済んだらしいから、切り上げよう。
「きっっ……」
「濡れて気持ち悪いから早く帰りたい」
「どしたの?」
「もうちょっと記憶容量どうにかなんないのか?」
「ありがとうございました」
「ううん。じゃあまたね」
「気持ち悪い!バーカ!死んだ目しやがってなに人のこと上から目線で評価してんだ一拍置く癖やめろ歌いにくいんだよ!」
「えっ?そうなの?俺歌いやすい」
「ボーカルくんに合わせて書いてるから……」
「やーいお前の書いた曲全部同じに聞こえるー!」
それは耳が悪い。

「家にですか」
「……はい……」
「ちょっと難しいかもしれないですね。渋滞してたので」
「……………」
「まあその服で打ち合わせも、ふ、難しいかもしれませんけど」
「今笑いました?」
「いえ。なにかしらあると思うので持ってきますね」
「笑いましたよね?」
「マネージャーさんに八つ当たりしてるー」
「してるー」
「黙れ」
「ぎゃん!」
「いたい!」
「ヒッ、なんで俺まで」
「笑ってたから」
「わ、笑ってないです……」
笑っていた。ニヤニヤしていた。ボーカルくんギターくん、と順繰りに叩いてからそのままの流れで手を振り上げれば、ベースくんには頭を庇われた。笑ってただろうが。
運の、悪いことに。事務所まで戻る時に、渋滞に巻き込まれた。なんだったか、どこだかで事故があったとか何とか、ラジオで流れていた。幸い打ち合わせまではかなり時間があったのでそれには余裕を持って到着できたのだが、本当なら家で服を着替えて戻ってくるくらいあったゆとりは消え失せた。なので俺はまだプリンとコーヒー付き。もう腹減ってきたな。すぐに戻ってきたマネージャーは、言葉通り手に服を持っていた。
「とりあえずシャツありましたけど、僕のなんで小さいと思います。はい」
「……無理ですね」
「でしょうね。あとは泊まり込みの時に着る用のがあります。あ、洗濯はしてありますよ」
「えー……」
「あと横峯さんが前に忘れていった半袖ならありました」
「え?なにそれ」
「忘れたことも忘れてるから取りに来なかったんですね……今返しますか?」
「ううん。今度もらう」
「じゃあこの半袖はもう二度と事務所から出れないということで」
「かわいそう」
「他に服置いてる人いないの」
「ううん」
「お、置いてない……」
「チッ」
当ててみたシャツは合わなかったので、消去法で手渡されたのはただのトレーナーみたいなのだった。練習の日とかライブ前日とかでがっつりリハがある日ならまだしも、普通の日に着替えなんて持ってないし、汚れたままよりはマシか。次からは事務所に置いとこう。他には一応ツアーグッズ系ならありますけど、と言われたので答えを返す前に嫌な顔をしたら、だと思ったので、って話を終わらされた。嫌すぎる。恥ずかしい。
「お腹空いたよ」
「飯食い行こ。俺中華」
「チャーハン食べたい!」
「……時間のかからないものがいい」
「え、あ、俺、お昼いいや……」
「解散!あとでね!ぎたちゃん行こ」
「あとオムライスも食べたい」
「どっちかにしてよお」
「……………」
「……………」
ギターくんとボーカルくんがさっさと行ってしまったので、ベースくんと二人で取り残されてしまった。どんだけ腹減ってんだ。まあ、食べたいものが被らなかった時は譲り合ってみんなで行くとかいうことはせずバラバラに解散するのが割と常なので、特に困りもしないけど。この時間までに戻ってきてくださいね、と声だけかけたマネージャーが、ちらとこっちを見た。
「……一応、このあと長いんで、できればご飯食べてもらえます?」
「ぁえ、はい……」
「キッチンカー来てますよ。駅に向かう広場のところ」
「あー……見に行きます」
「それじゃ後で」
頭を下げたマネージャーが去っていったので、ベースくんを連れて飯を食えと言うことだろうな、と判断して歩き出せば、一向についてこなかったので戻って胸ぐらを掴んでもう一度歩いた。やめてください、とひいひい謝られて手を離したらようやく自分で歩いてくれた。最初からそうして欲しい。
「着替える。ここにいろ」
「俺、あの、お腹痛いから、ご飯……」
「黙れ」
「ヒッ、はいっ」
「脚長。少女漫画?」
まだぐじぐじうるさいベースくんが逃げようとしたので壁を蹴っ飛ばして止めたら、通りすがりのボーカルくんに、あんまいじめないであげなよお、と口を挟まれた。さっき行ったはずなのになんでまだ居るのか聞いたら、財布持ってくの忘れた、だそうだ。ギターくんが貸せるほど金を持っているわけがないので、まあ取りに来るしかないか。
「どこ食い行くの」
「こないだみんなでラーメン食べたじゃん。あそこ」
「あん時クーポンもらった。あげる」
「やったー!どらちゃんも来る?」
「行かない。中華じゃない」
「ありがとー」
ボーカルくんを見送ってから着替えて荷物と一緒に汚れた服を置いて戻ってきたけど、ベースくんはちゃんとその場にいた。無駄におろおろしてたけど、まあ良しとしよう。倒れられたら困るので、ウイダーでも何でもいいから胃に流し込んで欲しい。ついてくるのを確認して事務所から出る。なんとなく他人の匂いがするのが落ち着かない。
「あ、っ」
「ん」
「ぁえ、と……その、あめ、雨降りそう、だなあと思って……」
「ああ」
ベースくんが声を漏らしたので立ち止まったけれど、なんだそんなことか、と思って生返事をした。確かに今にも降り出しそうだ。けどまあ目的地は徒歩5分圏内レベルのすぐそこだし、さっさと買って持って帰ってきて事務所で食べればいい。のろのろ歩いていて降り出したら洒落にならないので、早くしろ、とベースくんの後ろに回れば、びくびくしながら歩かれた。そういえば。
「帽子とか被んなくていいの」
「えっ、あ、あっ!わ、忘れた」
「囲まれたら置いていくからな」
「ど、ドラムくんも声、かけられるでしょ」
「俺はかけられない。今スーツ着てないから」
「そんな……」
絶望的な顔をしているところ悪いが、そんなもんだ。見た目のイメージが固まっているから、冬場とか上着着てると気づかれにくかったり、夏場は夏場でTシャツとか薄着してると素通りされたりもする。勿論気付くやつは気付くが。その点ベースくんは頭が黄色いからすぐバレるし、本人が突っぱねないから餌に群がる魚のように寄ってこられる。今日は雨が降りそうで急いでいるので、絡まれた場合は即座に見捨てて俺は飯を調達しに行く。仕方ない。尊い犠牲というやつだ。普通に頭を隠すのを忘れたらしいベースくんが、おろおろしながらとりあえずパーカーのフードを被った。それはそれで目立つけどな。ベースくんを急かしながら目的地に着くまでは、一応誰にも話しかけられたりはしなかった。みんな雨降りそうだから急いでるんだな。多分。到着したキッチンカーの周りにも、誰もいなかった。ラッキー。
「サンドイッチだ」
「……うん」
「どれにする」
「えっ、え、俺、いいって……」
「じゃあこれで」
「えっそ、待っ、無理!無理です、え、選びます、自分で」
「早く」
俺が指差しためちゃくちゃ分厚い肉が挟まってるやつに首もげそうなぐらい横に振ったベースくんが、うんうん悩んでいる。マネージャーからも食えって言われて来てんだから、最初からなんかしら食べるようになることは分かってたはずだ。早くして欲しい。俺はもう決めた。
注文して、少々お待ちくださいと番号札を渡されて、横にずれてぼんやり待つ。いい匂いがする。ベースくんも選び終わったらしく、隣に来た。特に話すこともないのでぼおっと待っていたら、ぱたりと水音がした。
「あ」
「……あっ」
雨。降り出しそう、だったのが、ついに限界を迎えたらしい。これならサンドイッチ持って帰れるかな、くらいの雨はみるみるうちに強くなり、お待たせしましたー、と呼ばれた頃には道行く人もちらほらと傘を差し始めていた。もう少し早くできなかったのか、と思わなくもないが、店員は申し訳なさそうだし、ただのビニール袋しかないんですけど…と心許ない紙に包まれたサンドイッチを直で袋に突っ込むテイクアウトを絞り出されたので、大人しく食べて帰ることにした。張り出した屋根みたいなところの下で、雨が避けられるだけマシか。
「……………」
「あ、う、おれ、俺のことは置いてって……」
「……………」
頼んだのが遅かったからなのか、そもそも食べるのが遅いからなのか、俺が頬張るのとベースくんがちまちま食べ進めるスピードが全く合わずに、普通に先に食べ終わった。そんなに急いでもないし、下手に急がれて喉に詰まらせて死なれたらそっちのが困る。別に、と零してスマホを弄っていたら、もごもごしながらベースくんがレジカウンターの方に行った。喉でも乾いたんだろうか。天気予報の雨雲レーダーを確認したら、この雨はしばらく止まないらしい。濡れて帰る覚悟をしたほうがいいか。もう最悪、夜の収録は衣装あるからそれでどうにかなるとして。
「は、はいっ」
「……は?」
「飲み、よ、あの、良かったら飲んで、ドラムくん、待たせるの申し訳ないし……」
「……なんで?」
「なんっ……た、そんなすぐに食べ切れる、自信がない……から……?」
「はは」
自分のことなのに疑問形で終わった言葉が面白くてつい笑ったら、何故かぺこぺこ謝られた。詫びる前に急げよ。手渡されたのはタピオカミルクティーで、何故これを、と思わなくもなかったが、甘いものはありがたいのでもらう。あと、カーテンがかかってるキッチンカーの窓から店員が覗いてるから、もらう。は?いらない急げ馬鹿食いながらでもいいから走ってついてこい、と突っぱねるのも面倒なので。
もうどうせ、雨も止まない。ベースくんが飲み込めない量を頬張ってそれを喉に詰まらせて死ぬのも見たくないし、時間を潰すことにした。またしても運のないことに、ここ煙草吸えないし。戻ってこいと指定された時間まではまだ余裕がある、要は打ち合わせに間に合えばいいのだ。なんだかもう急ぐ気力もなくなってしまった。服もないからどうでもいい。
「なんか喋って」
「……な……なんっ、や、食べてるから……」
「つまんなくていいから喋ってよ」
「……………」
「あー……じゃあ、あと13分で食べ切れ。でもその間俺は暇だからベースくんがなんか喋って場を持たせろ。以上。なにか分からないことはありますか」
「……全部……?」
「あっそう。じゃあ俺が喋る。死ぬまでに一度やりたいことの一つなんだけど、蛙とか鶏の解剖を一昔前はしていたらしいから、それみたいに人間の中身も一度生で見てみたいとずっと思っ」
「お、あの、俺、血とかダメ」
「知ってる」
「なん、ですけど……」
「この前鳥が轢かれ死んでて」
「……………」
「おい。早く食えよ」
「……はい……」
「内臓?骨?が飛び散ってたんだけど。羽根はすぐ飛んで行っちゃうから、そういうものだけ残るんだなと思って。そうなると鳥かどうかの判断材料って嘴くらいのものなんだよな」
「………………」
「早く食えっつってんだろ」
「……………」
「あ?」
「……なんでもないです……」
「あっそ。じゃあ焼き鳥の肉って別に鶏肉じゃなくても気づかないんじゃないか?豚や牛ならすぐに分かるかもしれないけど、それこそ人間の肉が一口大に切られて味付けされて焼かれてたら気づけないわけだろ」
「……………」
「でも、羆が人肉の味を覚えるとか言うから、人の肉にはそれなりの味がついてるのかもしれん。焼き鳥にはならないくらいの」
「あ!ボーカルくん!」
「話の逸らし方が下手すぎるだろ」
「ほ、ほんとだよ、ほら!」
「人体模型って温かみがないから本当にあれが皮剥がした人間の中身なのかどうかの実感がない」
「助けて!」
「人聞きの悪い……」
「なにしてんの?」
「おしゃべり」
「美味しそうなの持ってんね」
「ベースくんが買ってくれた」
「一口ちょうだいよ」
「嫌だ。今飲み終わる」
「いじわる!目の前で飲み干さなくてもいいじゃん!」
「ボーカルくん何しにきたの?」
「傘持ってお迎え。どらちゃんなにしてたの?」
「ベースくんが食べる気なさそうだから、どうせなら完膚なきまでに食べれなくしてやろうかと思って」
「ひ、ひどい」
「なんでそうゆうことするの。傘入れてあげませんよ」
「ごめんね」
「ぃ、いいよ……」
いいんだ。普通良くないだろ。いいけど。
傘をさして向こうからてろてろ歩いてきたボーカルくんに、なんでこの場所が分かったのが聞けば、「マネージャーさんが迎えに来ようとしてるとこに出入り口で会ったから代わったげたの」だそうだ。ギターくんはじゃんけんに勝ったから事務所にいるらしい。ということは、二人は雨が降る前に帰れたのだろうか。
「ううん。帰り道で降り出したから走った」
「間に合ったわけじゃないんだな」
「そう。ぎたちゃんが折りたたみ傘持ってたんだけど、開けたら壊れたから使えなかったし」
「何のために持ってたんだよ……」
「だからこれは事務所にあった傘。三人で入れるように大きいの持ってきたよ!」
「それは無理」
「そう。俺も厳しいなって思ってる。予想より二人がおっきかったから」
でも三人で入るしかない、具体的に言うと誰かが誰かをおんぶするとかして、と全く具体的でない提案をされたので、全然食べ終わらなかったベースくんに店員からもらった袋を渡した。きょとんとした顔で受け取られたので、使い方を説明してあげる。
「お前これ被って帰れ」
「はい……」
「あ!またそうやっていじめる!三人で仲良く入ればいいでしょ!」
「だから無理なんだよ。どう頑張っても三人入るには小さいんだよ」
「なんとかなる!」
「ならねえよ」
結局濡れながら帰ったし、走る気にならなかったので俺たちが到着したのと打ち合わせの開始時間がほぼ同時だった。雨のせいでーす、とすっとぼけて入ろうとしたら、ちょうど出てきたマネージャーと鉢合わせになって。
「あ。先方が渋滞に巻き込まれて遅れてます。ご飯食べました?」
「食べました」
「……ちょっとだけ……」
「おかえりー」
「ただいま!ねえどらちゃんがね!べーやんのこといじめるからべーやん食べれなかったんだよ!俺見た」
「黙ってろ、バレないんだから」
「しょうもな。タオルあげますから風邪引かないでくださいね」
「ひっ、くしょい!」
「ぎたちゃんが風邪ひいてるよ」
「ひいてないよー、花粉症だよ」
こんな雨降ってる時にまで花粉は飛散するだろうか。花粉症じゃないから分からん。ギターくんも別に花粉症じゃないと思うんだけど。
食べないの、もったいないよー、なんて会話が聞こえたので振り向いた時には、ベースくんの食べ残しをギターくんが齧っていた。よく人の食いかけ、しかも雨の中持って帰ってきたやつを食えるな。捨てるよりいいかもしれないが、俺だったら絶対に嫌だ。まあ土砂降りだったわけではないし、タオルで拭けば何とかなるくらいの雨だから、いいのかもしれないが。そんなに濡れなかったな、と思いながら体を拭いていると、どたばたと俄に騒がしくなった。
「すみません!すぐ資料配ります!」
「飲み物いりますか?」
「いる」
「俺取りに行くー」
「ぇ、う、俺も、自分で行きます……」
「どらちゃんなにがいい?」
「コーヒー」
「わかったあ」
「ぎ、ギターくんは……?」
「ん?なんでもいーよ。つめたいのがいい」
「うん……」
ベースくんとボーカルくんが飲み物を取りに行った。マネージャーが持ってくるかと思って端的に答えたのだが、どうも忙しいらしい。手伝ってくれとは言われていないので、特に手伝わない。ギターくんもぼおっとしてるし。と思っていたら、がくんと首が折れたので、眠いだけだった。絶対、食ったら寝る癖がついてる。どうせ誰も使い物にならないから、ともらった資料を見ていたら、二人が戻ってきた。
「コーヒーなかった!」
「そんなことある?」
「ないものはないの!はいジュース」
「……冷たい……」
「チンする?」
「しない」
それで、打ち合わせが始まって、元々船を漕いでいたギターくんはほぼ寝っぱなしだし、ベースくんはずっと机のすみっこ見てるし、ボーカルくんはなんかちまちま書いてる。暇潰しだろ、それ。特に意見を求められる場面でもないので話をぼんやり聞いているけれど、確かに暇だ。ボーカルくんが書いてるのを見てる方が面白い。いつも通り、資料にある平仮名に点在する丸の中を塗りつぶしているのだけれど、それにもいよいよ飽きたらしく、表題になってる大きめの丸に角と手足が生えて、バイキンみたいなのができている。あ、誰かやっつけにきた。マントついてる人。恐らくはバイキンをパンチしているそれの下の方に、「すてき!」「かっこいい!」と吹き出しで書かれた動物らしきものがいる。ボーカルくんの絵はわかりやすくていいな。ギターくんじゃこうはいかない。
「……………」
「……………」
めっちゃ真剣に書いてるけど、全部落書きだもんな。これ授業中にやられたら、教師もがっかりだと思う。うさぎらしいものの下に矢印を書いたボーカルくんが、くるくるとペンを回してしばらく考えた挙句に、木を書いた。こいつ。一人で絵しりとりやりだしやがった。しかも「ぎ」から「き」じゃ何も変わってない。次にきりんを書いたボーカルくんが、数秒考えてからぐちゃぐちゃ消したので、本当にバカだなと思った。
「ど、どらむく、あの、ドラムくん」
「なに」
「よっ、呼ばれてる、話……」
「あ?」
「ひい……」
ベースくんに声をかけられたけれど、いまいち意味がわからなかった。呼ばれてるとは、と顔を上げれば、後日でいいです、とマネージャーから先に振ってきて、じゃあいいかと顔を戻した。聞いてなかったんだからしょうがない。今日はダメな日だから。運勢最悪だから。
ボーカルくんの絵しりとりは、きりんがぐちゃぐちゃ消された後しばらく途切れていたが、ふと思い付いたのか嘴が長い鳥が書かれた。多分啄木鳥だと思うのだが、「き」から「き」に一人で繋いでもなんの意味もない。ちょっと経ってからそれに気づいたらしく、がっくりしていた。嘘だろ。他にもあるだろ、きが付くもの。狐とか。猫、鯉、鼬鼠、チーター、蟻、栗鼠、雀、メダカ、亀、面蛸、コアラ、どうせなら漢字が分かる動物で縛りたかったな。つらつらと紙の片隅に書いていたら、ベースくんに見られていた。こいつは読めるだろうから意味がわかるだろうな。駱駝、狸、雉、と書いてから紙をベースくんの方へ押しやれば、めちゃくちゃちっちゃい文字で、鹿、と書かれて戻ってきた。やっぱりしりとりは人とやった方が面白いな。紙をやり取りしていることはしっかりバレているらしく、マネージャーに「もっと隠れてサボってください」とメモを見せられた。確かに。
「あ。どらちゃんとべーやんサボってる!」
「ボーカルくんにだけは言われたくない」

「待ち時間が長いと困ること」
「お腹空いちゃう」
「煙草吸いたい」
「緊張する」
「お前生まれてからこの方緊張なんかしたことないだろ」
「あるよお」
「腹は減る」
「今日差し入れなかったね」
「ご自由にどうぞの日なんじゃないの」
「どこにあんのかな」
「探してくれば」
「えー、めんどくさい」
「コンビニ行った方が早い」
「飲み物もあんのかもね。買っちゃったけど」
と、だらだら話しながらロビーで暇を潰している。音楽番組のリハが終わって楽屋に通されたはいいが、出演までが長すぎて時間を持て余すのだ。ボーカルくんとベースくんを置いてきたので、なにかあったら連絡が来るだろう。あちあち、と自販で買ったココアをいつまでも飲めずに手の中で転がしているギターくんに、そういえば、と口を開いた。
「お前この前また俺のジャケット巻き込んで寝た。もうやらないって言ったのに」
「記憶にない……俺じゃないんじゃない……?」
「寝てたから覚えてないんだろ、ぐしゃぐしゃの服で帰る気持ちにもなれ」
「覚えてないぐらいちゃんと寝てたんだから多めに見てよ」
「もうしないって約束はどこに消えたんだよ」
「えー、覚えてない」
「脳洗ってこい」
「もうしないから」
「絶対嘘……」
「でもりっちゃんもこないだ俺のバッグ踏んで座ってた」
「お前の鞄なんか何も入ってないだろうがよ」
「入ってるよ!ハンカチとか」
「使ったことあんの?それ」
「ない」
「ほら」
「でも正直バッグいらん。スマホと財布がポケットに入ってればいい」
「傘は壊れてるしな」
「なんで知ってんのお?」
「ボーカルくんに聞いた」
衣装だろうか、なかなかに露出の激しい格好の若い女が数人できゃいきゃいとエレベーターの方に向かったので、会話しながら普通に目で追いかけていたら、ギターくんに「こらー」と平坦に咎められた。そういうとこだぞ、と言われたけれど、なにがどういうところなのかが全くわからない。俺だって人間なんだから、目の前を通った胸の谷間ぐらい見る。
「役得だろ」
「ガン見はだめでしょ」
「胸しか見てない」
「だからそれがだめでしょ?」
「なんで?」
「いやだから……なんでって……見て欲しくてあの衣装なわけじゃないんだから……」
「声かけて呼び止めたらもっとゆっくり見れるかもしれん。俺が声かけたら止まると思う」
「なんでそゆことにしか有名税使えないの?」
「もし気が向いたら顔も見る」
「干されると迷惑だから早く使いもんになんなくなってくんないかなってマネージャーさんも言ってたよ」
「あいつそんな酷いこと言うの?マネージャーなのに?」
「りっちゃんがよく燃えるからでしょ……」
呆れた声で言われたが、別に炎上しているつもりはない。支障が出るほど騒ぎになってることもないし、構わないだろう。そんな話をしているうちに、エレベーターが来てしまったし。あーあ、ラッキーが遠ざかった。
「そろそろ帰ろ」
「まだ胸が通るかもしれない」
「せめて女の子って言いなよ……」
「女が通るかもって待ってたらそれは不審者だろ」
「そうじゃないの?」
楽屋に戻る道すがら、でもあれは見るだろ、そりゃ見るかもしんないけどじろじろ眺め倒すのは流石にちょっと、でも文句言われなかった、りっちゃん自分の見た目分かってないの?とまた懲りずにだらだら話していたから、全く気づかなかった。
「ただいまー」
「あ。おかえり」
「あっ!秋さん!」
「さようなら」
「わぶっ」
「待ってたんです!おつかれさまです!」
「いたあい」
姿が見えたかどうかで扉を閉めたが間に合わずあっちから開けられた。ストーカーめ。「あっ!」の時点で閉めたのに。我ながら、今のはなかなか良い反射神経してたと思う。ギターくんには急に止まるなって文句言われるし。わさわさ動いているのを無視していたら勝手に喋り出した。許可してない。
「あのあのあの」
「うるさい。黙れ」
「はい!」
「鼻ぶつけたんですけどお」
「元々低いから気になんない」
「折れた」
「それは嘘」
「でもぎたちゃん鼻赤くなってるよ」
「あーあ。せっかくテレビ出るのに。りっちゃんのせいだぞ」
「今日ギターくん機嫌悪いな……」
「いやぶつかられたからでしょ……」
「ううん、機嫌悪い。なんか寒い」
「かぜひいた?」
心配しているボーカルくんには悪いが、雨に濡れたからではないかと思う。自分の傘が壊れていて濡れて帰ってきた不機嫌を人にぶつけないでほしい。どの口が?と言われそうなので、声には出さないでおく。
「あのお」
「ベースくん!」
「ヒッ」
「急におっきい声出す……」
「来い。チェンジ」
「うう……」
「俺の身代わりになれ」
「さっきまで宮本さんはいっぱい喋ってくれたんですよ。ねっ」
「う、はい……」
「そうだよ。べーやんとヨシカタくんはもういっぱいおしゃべりしたんだよ」
「俺は別に喋りたくない。だから本当は嫌だけどベースくんに譲ってあげようと思う。今回だけ特別に」
「ヨシカタくん、りっちゃん今ムシのいどころ悪いよ。女の子が足りなくて」
「どういうことですか?」
「女の子の体を眺めたかったのに女の子がどっか行っちゃったから」
「俺じゃダメですか?」
「なんでお前自分でも良いと思ったの?」
「もしかしたらいいかなって……」
「胸がないからダメ」
「ヨシカタくんタオルあるよタオル!」
「詰めます」
「ノータイムで矜持捨てるなや」
でも女の子の格好した俺けっこう評判良かったんですよお、とストーカーがスマホをいじって見せてきた。まあ確かに、ブスではない。が、別に女の子ではない。あーこの回見たー!とボーカルくんが騒いでいる。どうしたってガタイが男なので、顔とか髪とかでいくらカバーしてても、あんまり女らしくは見えないのだ。評判がいい、というのは一体どこの誰情報なんだろうか。
「ヨシカタくんかわいいよ」
「でしょ。こういうのは御幸の役割だけど、俺も案外いけるなって思ったんです」
「自分の楽屋帰れば?」
「えー、あっほんとだ、やべスタイリストさんに怒られる……最後によく見てもいいですか」
「嫌です」
「いいよ」
「ありがとうございます!」
「俺の人権は?」
「はあ……あっかっこい……本番楽しみにしてます……」
「早くどっか行って。変態」
「なんでそんなひどいことばっか言うのさ」
「気持ちが悪いからだよ」

収録は無事終了した。直前になってボーカルくんが「歯が痛い気がする」とか訳分からんこと言い出したり、いつものようにベースくんの顔色が青とか白を通り越して黒かったり、ここ最近癖になってるのかギターくんが演奏中だんだん早くなったりはしたが、まあ滞りなく終わった。あとは着替えて帰るだけだ。といっても、スーツは衣装で貸してもらってるだけなので、汚して借りた服に戻ることになる。嫌だ。このまま買い取れないだろうか。楽屋を出て駐車場へ向かう。
「明日何時だっけ」
「9時」
「起きれる気しない」
「ぎたちゃん寝坊しないように俺電話したげよっか」
「ううん。電話じゃ起きれない」
「じゃあ俺どうしたらいい?」
「……うーん……祈ってて。俺が遅刻しないように」
「分かった。出来る限りのことはする」
「ありがとう」
「起きればいいだけの話だろ」
「りっちゃんには朝眠たくてお布団から出たくない気持ち分かんないでしょ」
「分かるけど普通はその誘惑を跳ね除けて起きてんだよ」
「俺には無理。まだ寒いし」
「ねー。こないだちょっとあったかかったじゃん?もっかい寒くなんのやめてほしいよね」
「いつあったかお布団片付けたらいいのか分かん、あっりっちゃん」
「ん?だっ」
「あー……」
「あーあ……」
「っ……」
痛い。ものすごく痛い。ごん、というよりは、がつん、に近い鈍い音がした。何にぶつかったんだかは分からないが、何か硬いものに正面からぶち当たった。額と鼻を押さえて蹲っていると、だいじょぶー?とのんびりした声が頭の上から降ってきた。大丈夫だったら突然座り込んだらしない。
「どらちゃん今ガラスに突っ込んでったよ」
「扉かと思ったの?」
「……ほんとうに……いたい……」
「鼻血出たかな」
「見して。んー、出てないんじゃん?」
「でてる……」
「出てないよ」
「おでこは赤いけど」
今日は運が悪いから、で済まされないぐらい痛い。俺の不注意じゃなくて、突然俺の目の前にガラスが出現したとしか思えない。ベースくんが、何もないよりはマシかもしれないからとハンドタオルを濡らして持ってきた。何の足しにもならない。
「もう嫌だ。明日休む」
「どらちゃんの心が折れちゃった」
「耐えきれない」
「痛みに弱いなー」
「ふらふらしてるとまた転んじゃうよ」


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