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よどたま




音が多い空間は、苦手だった。
楽しげな声。ばたばたとした足音、止まって靴が鳴って、また歩き出した靴。皿が当たる音。カップを机に置いた音。悲鳴に似た叫び声は、追いかけられて逃げている子ども。顔を見ればきっと笑っているだろう。椅子を引く音。遠いテレビの笑い声。手で耳を塞ぐと、血が流れる音がする。身体を動かせば、服が擦れる音がする。一度気になり出すと止まらなくて、全ての音が聞こえてしまって仕方がなかった。うちにいると、いろんな音がする。静まり返るはずの夜でさえ、誰かの泣き声がしたり、先生が歩く音が響いてくる。音が苦手だと言うだけで、楽しげな雰囲気が嫌いなわけじゃない。だからなんとかなっていたのかもしれないけれど。
「……ただいま」
「おかえり!」
「淀くんおかえりー」
人の声。恐らく、一般的な家庭よりは多いんだろう。向かいから小さいのが二人走ってきたので、狭い廊下を擦れ違う時に、鞄が当たらないように高く上げて避けた。これは、いつものこと。当たり前のこと。一番広い部屋に顔を出して、ただいまの挨拶をすれば、またてんでんばらばらのおかえりが返ってきた。
「淀くん、高校どうだった?」
「……人が。たくさんいた」
「そうよねえ。中学よりクラス数多いもんね」
「うん……」
「疲れたんじゃない?ご飯になったら呼ぶから、部屋にいたら」
「うん」
頷いて歩き出せば、廊下に出てから、これあげる!と肩を叩かれた。チョコは好きだから嬉しい。人差し指を口元に立てて戻って行った先生に、つられて同じポーズを返して、なんだろうと首を傾げる。ああ、黙っておいて、ってことか。ちっちゃいのにバレたら、確かにうるさそうだ。おやつの時間じゃないのにお菓子食べてる、って。だって「うち」には、自分以外に、父親と母親じゃない大人がたくさんと、兄でも姉でも妹でも弟でもない子どもが、たくさんいる。そういうものだから仕方がない。それが嫌とか、困るとか、そういうわけじゃなくて。ただ単純に、音が多いのだ。それが少し、煩わしい時がある。
もっと幼い時の話だ。ピアノの音がずれているのが気持ちが悪くて、あれは壊れていると指差して教えたら笑われたが、その一週間後が調律の日だった。人の多い雑踏では、時折我慢できなくて耳を塞ぎたくなった。自転車のブレーキが響く音のような、甲高い軋む音は耳に刺さるようで嫌いだった。聴覚が過敏で、扱いにくい子どもだったと思う。人に混ざるのも好きではなくて、部屋の隅に一人でいることや、先生の後ろに隠れていることの方が多かった。けれどいつだか、遠くで救急車のサイレンが鳴ったのを口に出したら、他には誰も聞こえなくて、耳がいいと驚かれた。音楽は好きで、それを知った先生にいろんな音を聴かせてもらって、少し体が大きくなってきた頃にお古のギターをもらって、ピアノにも自由に触っていいと鍵をもらった。新しいものを用意してあげられなくてごめんね、と謝られたけれど、自分にはそれで充分すぎるほどだった。部屋の扉を閉めて、自分で音を出せば、外の音は気にならなくなったから。楽譜通りに弾くよりも自分で適当にする方が楽しかったから、そうやってピアノの鍵盤に指を滑らせることも多くて、なんの曲?と自分より小さい子たちに聞かれると、少し返事に困った。ここまでできるなんて才能がある、淀にしかできないすごいことだよ、とたくさん褒めてくれた先生に、歌も上手なんだから歌えばいいのに、と言われて、弾きながら歌うことも少し好きになった。それでようやく、ずっと、小さい頃からなんのイメージも湧かなかった「将来の夢」に、楽器を弾く人、と書けるようになった。みんなのおかげだと思う。俺には何もないけど、チビたちが喜ぶから、先生が褒めてくれるから、みんなが聴いてくれるから。きっかけなんて、そんなものだった。
「よどー!ごはん!」
「あっ淀の部屋はトントンしろって言ってるだろ!」
「ごめんなさーい!」
どたどた。小さい足音に、一人の部屋で少し笑った。

ということでめでたく高校生になったが、一人が好きだし、うるさいのは苦手なままだ。教室は人が多い。休み時間の度に外に出るのも面倒なので、基本的にはぼんやりと時間を潰しているが、昼休みみたいな長い休み時間までそうしていると、自分の体の調子が悪い時には頭が痛くなる。それは困るので、入学してから一週間経つ今日まで、出来る限り静かな場所を探しているのだけれど、なかなかないもので。空いている教室とか、勝手に入っていいのか分からないし。図書室は静かだったけれど、お昼ご飯食べれないし。お弁当片手にふらふらと歩き回って、中がダメなら外に行けばいいのか、と思い至った。試しに適当なガラス扉からベランダに出てみると、中の喧騒からは遠ざかって、思わず一息吐く。今日はそんなに寒くないし、天気の良い日にはいいかもしれない。壁に寄りかかるように小さく座って、お弁当の包みを開けた。いただきます。
「……ん」
食べ終わった頃だった。がちゃん、と、さっき出てきた窓のような扉から音がして、見上げると鍵が閉まっていた。困った。外に出てる人がいると思わずに、風が吹き込んで寒かったとかで閉めてしまったんだろうか。腕時計を見たらもう予鈴が鳴る時間だったので、他のところから入れないかと一周見て回ったが、どこも開いてなかった。なんならカーテンが閉まっていたり、カーテンが開いている教室には人がいなかったりもして、誰かに開けてもらうのもどうやら望み薄っぽかった。ほんとに困ったな。これじゃ授業に出れないし、サボってることになってしまう。どうしようかと考えているうちにチャイムが聞こえて、もうしょうがないかと座り込んだ。日が当たってるところ、あったかくて眠いし。一回ぐらい仕方ない。先生には正直に説明して、これからは一人でベランダには出ないようにしよう。どこかのクラスの体育が始まったらしい声が聞こえてきて、膝を抱えたまま目を閉じた。
「……………」
「……い……生きてる……?」
「……………」
「……あのー……?」
「……、はい……」
「あっ、生きてた、よかったー」
「……?、っうわ」
声が聞こえて目を覚ませば、顔を覗き込まれていた。おはよう、と笑顔を向けられて、思わず飛び退いて崩れた体勢のまま、とりあえず頷きはしたけれど。星川くんだよね?と聞かれて、目の前に突然いた見知らぬ男をじろじろと見てしまった。校章の色が同じだから多分同じ学年なのだろう、というかむしろ同じクラスかもしれない。名前知ってるし、こっちはあっちのことを知らないけれど。ぱちぱちと瞬いた目が、人懐こく細められた。
「先生がね、探してたよ」
「……そ……そう、ですか……」
「サボり?」
「……お昼ご飯食べてたら、鍵閉められちゃって、入れなくて……」
「あー、俺鍵開けて出たもん。じゃあそうやって先生に言お。言ったげるね」
「……………」
「ん?」
「……ありがとう……」
「んーん!黒いもさもさがあったから猫とかかと思って開けたら人間が丸まってたからすげーびっくりしただけだから!」
にっこりと手を差し出されて、ぼんやりとそれを見てしまったが、取れということだろうかと思って自分も手を出せば、ぎゅっと握られた。立川環生、と自己紹介した男はやっぱり同じクラスだったけれど、全く身に覚えもないし、申し訳ないことに見覚えもない。親切な人だな、とは思った。

「淀!体操着!」
「嫌だ。3時間目に体育あるから」
「お願いお願いお願い」
「嫌」
「英語の宿題やってあげるから!」
「……ダメ」
「じゃあ今度俺んち1時間貸し切りしてあげるから!」
「……………」
「ちゃんと俺出てくよ?1時間何してもいいんだよ?何してた?って聞かないから一人でしかできないことしていいよ。人に言えないこととか」
「……言い方が嫌だから嫌」
「あと一押しじゃん淀のバカ!ケチ!」
「たまの方がバカ」
「ゔゔゔ貸してくださいお願いします!」
「いいよ」
「いいの!?やったー!」
出会った最初は、本当に、こんなことになるとは思わなかったんだけどなあ。

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