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38.7度




「きゃああああ」
「たまちゃん!?」
思わず出た感じの悲鳴と、食器棚が思い切りがちゃがちゃ鳴ってなんなら皿が割れた音まで聞こえてきて、リビングでタオルを畳んでいたのを放り出して血相変えて台所へ駆け込んだ。洗い物をしていたはずのたまちゃんは、扉の開いた食器棚にもたれかかるようにぐったりしていて、足元にはお皿が散らばって割れていた。シンクは綺麗なので、洗い物は終わっているらしい。虫でも出たんだろうか、それとも体調が悪いとか、と急いでたまちゃんを抱き起こした。
「たっ、たまちゃん、大丈夫!?」
「だ……だいじょぶじゃない……やばい……」
「どうしたの!?あっ、危ないよ、お皿割れてるよ!」
「えっ、あ、ごめん……」
「いいから、俺やるよ、あっちで座ってて?立てる?」
「うん」
会話が普通に通じることに安心して、とりあえずリビングのソファーに座ったのを見届けてから、割れてしまったお皿の掃除をする。どうしたんだろう。ふらふらしてた。たまちゃんが苦手なタイプの虫が出た時は、もっとなんていうか、大騒ぎして俺に押し付けて自分は部屋から逃げ出すので、多分違うと思う。体調が悪いわけでもなさそうだった。じゃあなんかびっくりすることがあったのかな。大きい破片を集めてガムテープで小さい破片も取って、念のため掃除機もかけて、一通り床を手で触ってみたけれど、多分大丈夫だと思う。たまちゃんが怪我したら大変だから。お待たせ、とリビングを覗けば、ソファーの上でたまちゃんが倒れていた。
「たまちゃん!?」
「はっ。な、なに、要」
「どうしたの、えっ、大丈夫?!」
「だ、だから大丈夫じゃないってば」
「へ、」
ぐ、と突き出されたスマホは、近すぎて何が表示されているのか見えなかった。目をしぱしぱさせていると、感情を押し殺すような低い声。
「当たった。ライブ」

最初に動画を見せてもらった時は、まだそんなに有名じゃなかったんだと思う。たまちゃんは昔から、自分が好きなものは周りにも積極的に勧めて、共有したがる。例えばそれは、お菓子だったり、漫画だったり、音楽だったり。見てこれ、と教えてもらった動画は曲のMVで、次に見せてもらったのは彼らの自己紹介動画だった。続けて見たそれに、落差がありすぎてがくっときたのは覚えている。かっこいい。それはもう、たまちゃんに確認されずとも自分から先に「かっこいいね」と口に出してしまったくらいには。ただその後に見た彼らの日常に寄せた映像は、かっこいいとはむしろ程遠く、それが逆に親近感を抱かせて、おもしろいな、と思ったのだ。彼女が気にいるのも分からなくもないな、とも。都築のことも、「顔がとにかくかっこいい」「見てて幸せになる」「でも意外と喋ると抜けてて可愛い」「一生推す」と語られたので、それにちょっと被った。ちなみにその話の時は、聞いているこっちとしては悲しくも嫉妬のあまり、その話が終わって1時間後に我慢できず都築本人に電話をかけてねちねち文句を言ってしまったが、都築も「かっこよくてごめんね」と悪びれていなかった。くそう。まあそれはそれとして。
彼らは少しずつ有名になっていったようで、たまちゃんは嬉しそうに録画予約をしていたり、俺をソファーの隣に引きずってきて一緒に音楽番組を見たり、「おっきいとこでライブやるんだって」と若干寂しそうな顔でスマホを見ながら言っていたり、した。なぜ寂しそうなのかというと、会場が遠いからだ。行きたければ行けばいいと俺は思うのだけれど、それはちょっと気が引けてしまうらしい。場所見知り、というか。意外とそういうところがあるのだ。それでもって、満を辞しての全国ツアー。やっと近場に来てくれる、行ったことのある場所でやってくれる、とわくわくしていたたまちゃんだったが、全国ツアーをやるレベルになると、チケット倍率もそれ相応のものになるのだ。前回のライブではファンクラブ先行でも結構落ちてる人がいた、一般なんてもってのほか、と調べれば調べるほど肩を落としていくたまちゃんに、どうしたものかと悩んだのだ。こればっかりは運でしかない。なにか特別にできることがあるわけでもない。だから二人で「どうか当たりますように」と近所の神社にお参りに行った。結局神頼みが一番強いのかもしれない。
チケットがとれてからしばらく「どうしよう。夢?全然大丈夫じゃない」と珍しくおろおろしていたたまちゃんだったが、一晩寝たらすっきりしたのか、「まさかね、本当に生で見れるとは…」と次の日の朝にはパンを食べながら一人噛み締めていた。ちょっとおもしろかった。それからしばらく経って、明日がそのライブの日なのである。グッズもたくさん買うんだー!と一週間ぐらい前からニコニコ楽しそうに準備をしていた。備えすぎて山登るみたいな荷物の量になっていたので、一昨日くらいに減らさせたっけ。
「……あ、の」
「はっ。はじめてでいらっしゃいますか?」
「は、ん″んっ、はい」
「それではこちらにご記入お願いします。処方箋お預かりしますね」
そんなことを考えながらぼおっとしてたから、カウンターの前に人が来たのに気付くのが遅れた。仕事中だった。あまり忙しくないから忘れてたけど。
バインダーとボールペンを渡して、処方箋を受け取る。辛そうに眉を寄せているお客さんの顔を見て、処方箋に目を落として、顔を上げた。
ん?
「……………」
「……………」
「……………」
「……?」
あんま見たら失礼だよな。不思議そうな顔を向けられて、目を逸らす。でもなんか、なんていうか。すごくすごく、ここ最近で見覚えのある感じがするのだ。さも用事があるように取り繕いながらカウンターの下に隠れて、こそこそスマホをいじる。たまちゃんが送ってくれたURLを開いて、ちらちらと確認した。これこれ。この人。たまちゃんが好きなバンドのベースの人にめっちゃ似てる。似てるだけかもしれないけど、あそこまで似てたら本人と間違われすぎて困ると思う。だから多分本人だ。でもこんなとこになんで、と思って、処方箋を再び見下ろした。これを見る限り、めっちゃくちゃ風邪引いてる。ライブ明日なんじゃないのかな。大丈夫だろうか。そう考えている間にバインダーを返してもらって、名前の欄を改めて見た。いや本人じゃん!ていうかこういうのって芸名とかじゃないんだ。保険証もらったし、確実に本名なんだろうけど。ていうか保険証もらっちゃったよ!住所とか分かっちゃうよ!いや別にだからといってどうというわけでもないしどうもしないんだけど、なんかすごい見ちゃいけないもの的な罪悪感がある。プライベートを暴くのってご法度なんじゃないのかな。ごめんなさい。すぐ返します。
どうにも辛そうに座っているので、出来るだけ急いで準備した。食後の薬と、頓服薬。熱が高い時に飲むものだけど、できればすぐに服用した方がいいんじゃないかと思う。どう見ても熱高そうだし。説明も終わって、普通ならそれでおしまいのところを、我慢しようと思ったんだけどどうしても我慢できなくて、口が滑った。
「あのう、私事なので無視してくれても全く構わないんですけど、あの……テレビで、見たことがある、と思うんですけど……ま、っ間違いだったらすみません、ええと、よ、違う、宮本さん……」
「ぁ、え、はい、ありがとうございます……」
「っで、ですよね!あ、あの、妻が明日ライブに行きます!」
「へっ?あ、はい……」
「養生なさってください、えと、でもご無理なさらずに……あ!写真撮ってもいいですか?あゃ、だめかな、そういうのは……」
「……えと……」
「ぼ、僕入らないんで、妻に見せてあげたいだけなんで、あ!ダメだったらいいです!すいません!突然こんなこと言って迷惑ですよね、しかも体調も良くないのに、ひ、引き止めてすいません」
「あ、や、へいきです」
「ほんとですよねごめんなさいえっ!?」
口が滑るにも程があった。テンパると言わないでもいいことまで言ってしまう癖を直せとたまちゃんにも言われていたのに。親切にも許可してくれたので、焦ってスマホを取り落としそうになりながらカメラを向けた。なんていい人なんだろう。お辛いだろうに。たまちゃんにいろいろ動画を見せてもらっているうちに、この人はなんだかいつも画面の隅の方にいたがっていて、あまり喋るのが得意ではなさそうで、でも一生懸命頑張っているのは伝わってきて、でもパフォーマンスは格好良くて、けどやっぱりどこか顔を青くしていたり困ったように眉を寄せていたりするのを見て、なんとなく肩入れしてしまっていた。頑張ってほしいと思う。俺にそう思われたところで何が起こるわけでもないけれど、応援したいなと思ったのだ。多分そういう人が多いんだろう、コメント欄にも同じようなことが書いてあったから。
引き止めるのが申し訳なくて、急いでシャッターを切ってスマホをしまった。たくさん謝ったついでにまた口を滑らせてたまちゃんのことを話してしまったけど、嫌な顔せずに眉を下げたまま聞いてくれたので、余計に申し訳なくなった。最後に、頓服薬は早く飲んだ方がいいと教えたくて、また余計なことを言ったので、もう恥ずかしくてたまらなくなったけれど。
「……あ、」
扉が閉まってから、思い出した。
頑張ってください、応援してます、次は自分もライブに行きたいと思ってるんです、って言うの忘れた。

「あ。おかえり」
「ただいまあ」
「ねえ明日起きれるかな?不安なんだけど、明日もし寝坊したら蹴っていいから起こして」
「や、やだよ、蹴れないよ……あ、そうだ、たまちゃん。見て」
「なに?ねこ?」
「ううん。今日ね、職場に」
「あ″っ!?!?」
「あっ……耳やばい音した……」
結局たまちゃんから質問責めにあった挙句、興奮しきりの彼女は寝られず、もちろん俺も寝られず、ほぼ気絶の勢いで寝落ちたので朝は起きれなかったし何故かめちゃくちゃ怒られた。具合悪そうだったけどライブは中止になったりしないかな、と一応聞いたら、鼻息も荒く眉を寄せたたまちゃんが口を尖らせた。
「そのぐらいでやめちゃう人たちだったら、こんなに追っかけてなあい」
「……そう?」
「そう。絶対ステージには立つし、風邪引いてるとか分かんないと思う。そのぐらいのプライドあるでしょ。あるから好きなんだよ」
「そっか。そんなもんかな」
「そういう人たちなのー。あ!やばい、もう行かなきゃ」
「帰り迎えに行くよ」
「うん!行ってきます!」
「いってらっ」
「あ!昨日の写真送って欲しいっていうか昨日言おうと思って忘れてたけどなんでちょっとぶれてんの!?これからは一眼レフ職場に常備して!じゃあね!」
「しゃ……」
嵐のような勢いだったので何も言えなかった。はい。


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