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おはなし



*中3ぐらい



「ただいま」
「おかえりー」
「あ、こら、足拭くぞ」
隣んちの犬をほぼ毎日のように散歩している、と朔太郎に知られた時には「え?なんで?」と素直に不思議そうな顔をされた。深く考えたことなかったけど、そりゃ「なんで?」だよな。よく考えたらおかしい。別に俺がやらなきゃいけないわけでもないし、俺がやらなければ当也がやるんだけど。家に着いたのが早い方がししまるを連れ出すのがお決まりになって、中三になってからは俺が当也より早く家に着いていることが多いというだけだ。その家っていうのも自分の家じゃなくて隣んちなんだけど。そもそも当也の方が遅く帰ってくる理由も、朔太郎の家に寄って友梨音に勉強教えてたりするからなんだけど。それらの経緯を知らない友達には、説明するのが若干面倒くさい。
散歩終わりのししまるがそのまま家に入りたがったので、足の裏を綺麗にしてやって、後をついていく。おやつ食べる?と台所から顔を出したやちよに適当な返事をしてリビングに向かうと、今日は朔太郎だけがいた。この家に住んでる人間はどうした。
「当也?うちにいる」
「あっそ」
「ホットケーキ食べてる。俺はもう食べてきたけど」
「……………」
「こーちゃん、残念だったわね。今日のうちのおやつはあんぱんよ」
「……あんぱんっておやつ?」
「安かったんだからしょうがないじゃない。文句言うならあげなーい」
「別にいい」
「あ!そういうこと言う!やっちゃんは悲しいわ、とーちゃんだけじゃなくこーちゃんまでそうやって。冷たくするのがかっこいいと思ってるのね」
「分かった分かったよ!食べるよ!」
ふんす、とししまるが呆れたような息を吐いた。

「……ん、お、なんだよ」
今日も今日とてししまるの散歩である。いつもと同じ道、いつも通りに川沿いの土手を歩いてたら、ししまるが急に立ち止まった。足を止めてなにかを見つめたかと思うと、わふわふと俺を引っ張るように方向転換するので、何度か抵抗したけど結局は引かれるがままについていった。珍しい。ししまるはあんまりそういうことしないし、こうなるってことは余程の何かがあるってことだ。坂を下って河川敷へ降りる。あまり人の立ち入らないそこには膝下くらいまで葉っぱが茂っていて、ししまるがそれを掻き分けながら歩いて、少し広いところへ出た。
「……え、」
人とか倒れてたら怖いなあと思ったんだけど。ししまるが寄って行ったのは、汚れた段ボールだった。ふんふんと匂いを嗅ぐように周りを回っている。何が入っているのかと恐る恐る覗き込めば、灰色のふわふわがいた。最初はなんか、汚れたぬいぐるみか何かかと思って近づいて、ししまるが小さく鳴いたのに合わせて震えたそれを見て、ようやく手を伸ばした。
「……いぬ」
葉っぱが背中に乗っている。小さく丸まっていた灰色の子犬は、ししまるにびっくりしたのか俺にびっくりしたのか、きゅうきゅう鼻を鳴らして箱の隅に縮こまった。そおっと葉っぱを退けてやって、一応あたりを見回す。飼い犬、じゃない、んだよな。多分。捨てられているんだと思う。小さいふわふわの周りをうろうろしたししまるが、箱ごと鼻先で押そうとするので、リードを引っ張った。
「だ、ダメだって、連れては帰れないって、さすがに……」
言葉に出すと、それが嫌にリアルで。連れて帰れないってことは、この小さくて弱っちそうな生き物のことはこの場所に置いていかなければいけないということだと、知らしめられるようで。俺じゃない誰かが拾うかもしれないし、明日になったらいないかもしれないし、だって昨日まではいなかったんだから。そう、誰に言うでもない言い訳をたっぷり重ねてから、踵を返した。拾って帰ること自体は、そう難しいことではないのだ。ただ、この先この犬の面倒を見る、飼うとなった時に、親を説得する自信がない。そもそも自分は隣んちに面倒見てもらってる立場なわけだし、それはよく分かってるつもりだし、そこに追加で犬って。絶対怒られる。弁財天家は「いいよ〜」とかのんびり言いそうだけど、うちは100%叱られる。そうなることが分かっていて、初対面の犬を連れて帰る勇気はない。
明日もしもまだあの箱の中に犬がいたら、食べ物を持ってきてあげよう。

「……いた」
ほっとしたのと、ぞっとしたのと。どっちが勝っていたんだろう。
食べ物の匂いに釣られたのか、昨日より人懐こく箱の中を走り回って寄ってきた。ししまるのおやつを拝借してきたので、大人しく俺の隣にいたししまるが「それあげるの?」とでも言いたげに見上げてきたけれど、特に文句はないらしく、奪ったり嫌がられたりはされなかった。どう見てもお腹が空いていたらしい、がっついて食べている子犬をそっと指の背で撫でると、毛がごわごわしていた。俺以外で、この犬がここに捨てられていることを知っている人、誰か面倒を見ようと思っている人は、いないんだろうか。
明日も来るから、と言い置いて、今日もまた犬を置き去りにした。寝る前に、今どうしてるかな、誰かが拾ってくれたかな、と不安でたまらなくなった。そう思うくらいなら、面倒を見る覚悟を決めたらいいのに。

次の日。小雨が降っている。傘をさすかささないか迷う程度の雨じゃししまるはへこたれないので、変わらず散歩に行く。昨日と同じくししまるのおやつを拝借して、家を出る。拾って帰ったらどうなるかのシミュレーションは、何度もした。まず、やちよが「あらあら〜」ってなるだろ。それで、弁財天家で飼うのかうちで飼うのかの話になる。弁財天家に犬がもう一匹増えるだけならなんの問題もない。責任持ってうちで飼う、となった時が厄介だ。隣の家に倣ってうちもペットが飼いたいと駄々をこねるたびに一刀両断された思い出が蘇る。絶対まず反対されるんだよな。それをどう、元の場所に戻してらっしゃい、とならないように話を持っていくかが上手く思いつかない。じゃあそもそも弁財天家で飼うように話を持っていけばいいんじゃないのかとも思ったが、それはそれで無責任な気もした。見つけたのは俺だし。ししまるのおやつを勝手にあげてる時点で、若干の罪悪感がないわけじゃないし。
「あ。箱、壊れちゃったのか」
昨日と一昨日と同じように草だらけの土手を下っていくと、よれよれだった段ボールはついに限界を迎えたらしく、一辺が扉のように開いてしまっていた。そのおかげで自由に外に出られるようになった灰色のちびっちゃい犬は、俺が食べ物をくれるということを早くもインプットしたのか、きゃんきゃんと飛び出してきた。人懐こい。俺以外にも飯をくれる人間がいてもおかしくはない。確かに人目につきにくい場所とはいえ、全く人通りがないわけではないから。けど、だからって見ないふりをして、言い方を悪くすれば見捨てて、無かったことにするのはなあ。がつがつ食べてる子犬のごわごわした毛を指先でくすぐりながら、どうしたもんかな、とぼんやり考える。本当に、どうしたものだろう。素直に親に相談するのが一番いい手だなんてのは、分かっちゃいるんだけど。
「あ!航介!なにしてんの?」
「げ、え」
「ししまるの散歩ー?」
ほんの1時間ぐらい前に学校で別れた声が土手に響き渡って、咄嗟に灰色の犬を隠すように立ち上がった。宿題やってから行く、って言ってたから、まだかかると思ってた。朔太郎の家からうちに来るまでの道のりにこの川沿いは含まれていないのに、じゃあなんでわざわざここにいるんだ、気づかないで通り過ぎてくれ。ざかざかと土手を滑り降りてきた朔太郎が、草をかき分けながらずんずん進んできて、俺に逃げ場はなかったので、距離が近くなったところで普通に気づかれた。
「あれ?わんちゃん?」
「……違う」
「違くないでしょ。ちびっちゃいねー」
「ぬ、ぬいぐるみだから」
「あー、もしかして秘密だった?ごめえん」
「……秘密ってわけじゃ……」
「お。怖がらせてしまった。ごめんねえ」
「え?」
下を向けば、手を出した朔太郎に威嚇するように、灰色の子犬は牙を剥いてぐるぐる唸っていた。ししまるに嗜められるように頭を擦り付けられて手を引っ込めさせられた朔太郎が、捨て犬なの?と首を傾げたので、恐らくそうだと頷く。確証はないけれど、ほぼ確定でそうだとは思う。
「そっかー。よしよし」
「……一人なのか」
「んーん?当也もいるよ」
「は?どこに」
「なんで階段から降りないの?」
「うわ!」
「だってこっちのが早かったから」
「ししまる。おいで」
背後から急に声がしたので、飛び退いてしまった。心臓がだくだく鳴ってる。当也と朔太郎の会話を聞くに、俺とししまるを見つけたのはいいけれど朔太郎が土手を足で滑って降りてしまったので、転ぶのも汚れるのも嫌な当也は少し離れたところにある階段で降りてきた、ようだった。だから時間差があったのか。本物のご主人の登場に、満足げな顔で当也に体を擦り付けたししまるが、灰色の犬の家である段ボールをずいずいとこちらに押した。
「いつからご飯あげてたの」
「……一昨日」
「ちびっちゃいのかわいいねえ、ししまるも赤ちゃんの時こんぐらいだった?」
「ししまるはもう少し大きかったよ」
「なんで?」
「なんでって……犬種が違うとか?」
「今日の夜台風来るの知ってる?」
「知らない」
「雨降るの?」
「すごい降る。すごいでかい台風が来るって天気予報で言ってた。だから」
よいしょ、っと。そう掛け声をかけた当也が、段ボール箱を持ち上げた。そして当然のように。
「連れて帰るよ」

「あらあらあら」
「とりあえず台風はしのがないといけないと思って。いいでしょ」
「構わないけど、うーん、ずっとは飼えないかもしれないわ」
「分かってる。ししまるいるし」
「かわいいわねえ。まだ小さいのに、がんばったのね」
「あ!この子怪我してるよ!ここ!」
「どこ?」
「ほんとだ。病院?」
「雨風が酷くならないうちに帰って来れるかしら」
やちよは予想通りの「あらあら」だった。普段からは想像できないほどてきぱきと動いた当也が、子犬の段ボールを持ち帰り、俺の腕の中で威嚇してぎゃうぎゃう吠えているのを不用意に怯えさせないようにタオルで包んで、朔太郎が子犬の左足に血の滲んだ跡のようなものを見つけて、気づいたら車に乗って動物病院にいた。全方位に威嚇し疲れたのか、丸くなって寝てしまった子犬をお医者さんに診せる。すぐ飛び起きて、可哀想なぐらい怯えて吠えるので、もうやめてもらおうかと思った。けどお医者さんは慣れっこって感じでのんびり子犬の体を見て、はいはい、とタオルに包み直して俺に抱っこさせた。そしたら落ち着いて、きゅう、と小さく鳴いたきり静かになった。
「うん。足は大丈夫。あんまり食べられてなかったみたいだけど、元気は元気。お薬出しておきますからね」
「ありがとうございます……」
「嫌がるかもしれないけど、ちょっと綺麗にしてあげて。虫とか、ばい菌が体についてるかもしれないからね」
「はい」
「あとは、うーん、ししまるくんがいるから大丈夫とは思うけど、ご飯も気にしてあげてね。食べにくそうだったら、少しふやかしてあげるといいかもしれないね」
「はいっ」
しっかり話を聞いて全部きちんと返事をして、動物病院を出てから、俺が飼うわけじゃないのにな、と思った。またぴすぴす鼻を鳴らしながら、抱っこされたまま寝てしまった犬を見下ろしていると、隣に座っていた朔太郎が口を開いた。
「さちえに聞いてみるよ。飼えないかなーって」
「……俺も聞く」
「みーちゃんはねえ。あんまり期待できないかもしれないけど」
「最悪うちで飼う」
「うちは無理よお、ししまるいるじゃない」
「最悪の場合。最終手段として。万が一」
「とーちゃん!」
「分かってるよ……」
「みわこ犬嫌いなの?」
「ううん、動物は好きよ。でも、家にいる時間が短いでしょう?だから飼うのは難しいって思ってるのよ」
「……………」
「こーちゃんが一番分かってるかもしれないけど……」
分かってる。分かってるけど、なんにもせずにほっとくわけにはいかなかった。車の外は土砂降りで、家に着いた頃にはうちの電気もついていた。とりあえずご飯にしようと、自分の家ではなく当也の家にただいまを言って入る。お医者さんに言われた通りに灰色の子犬をお風呂場で洗ってやっている間に、夜ご飯ができた。
「いただきます」
「いっただっきまーす!」
「さくちゃん、さちえちゃんに連絡しとくわね」
「うん」
「航介、宿題は」
「ああ帰ったらや、……」
「犬拾ったんだって?」
「……………」
こんな心臓に悪い登場の仕方あるか。一瞬で口の中に入ってるおかずの味がしなくなった。自分の分を取り分けながら、ん?と不思議そうにこっちを見た母親に、無理やり飲み込んで喉に詰まりかけた。いつからいたんだ。そう聞く前に隣に座ってる当也から「航介がお風呂場にいる間に来たよ」と小さく告げられて、聞いてるんだか聞いてないんだか微妙なタイミングで首を縦に振った。もうちょっと心の準備をさせてほしかったんだけど。仕方ない。ここまできたら頼むしかない。飯も食い終わって薬も飲まされて、ししまるに構ってもらっていた子犬が、飽きたのか腹が減ったのかこっちにダッシュしてきて俺の足にじゃれだしたので、我に帰った。
「あ、のっ、これ、こいつ拾って、うちで飼いたい」
「無理」
「……世話はする!」
「世話してもらってる立場で他の世話できるわけないでしょうが。自分のことが全部できてから言いなさい」
「じゃ、じゃあ、これからは飯とか、全部自分ちでする、それで、こいつの面倒も」
「本当に出来ると思ってる?」
「……できる……」
「もうちょっと頭冷やして、よく考えなさい。しばらく預かるのは構わないから」

「あ、のっ、クソババア……」
「ねー、さっきからぜーんぜんこっち来てくれないけどあの子俺のことやっぱ嫌いなのかな」
「そうかもね」
「傷つく。当也、癒やして」
「嫌」
どこにも当たれない苛立ちを乗せて枕を叩くたびに、どすどすと重くこもった音がした。ちゃかちゃかと俺の頭を掘っている子犬が、遊んでもらっているのと勘違いしてちょこまかしている。伸びた爪が当たって少し痛い。雨が酷くなったので帰れなくなった朔太郎は当也のパジャマを着て床に溶けているし、この部屋の持ち主の当也はししまるに埋まっている。俺は母親に「もう帰るよ」と言われたので「嫌です」と拒否って、子犬を抱っこしたままこの部屋に逃げ込んだのである。晩飯が途中だったので腹が減ったが、もう食わずに朝まで過ごしてやると意地を張った。それからしばらくして子犬が寝てしまった頃にやちよが来て、取り分けた夕食を持っていて、「みーちゃんは帰ったわよ」と教えてくれた。これはプレゼント、と自室の机の上に放り出してあったはずの教科書とノートと筆箱を渡されて、引ったくるようにそれを受け取って、やらないまま今に至る。当也と朔太郎はもう順繰りに風呂に入れられたらしい。二人が帰ってきた音で子犬は目覚めて、構え構えとばかりに俺に飛びついてくる。ていうかさあ、と朔太郎が声を上げた。
「そのチビちゃん、ほんとにどうするの?うちでも聞いてもみるけど、さちえが良いって言うかはわかんないよ」
「……動物病院で、飼い主募集を出してもらうとか。そしたらもしかしたら、見つかるかも」
「航介にしか懐いてないのに?」
「新しい飼い主がいたらそっちに懐くかもしれないでしょ」
「そっか。んー、まあそんなもんなのか」
「そんなもんじゃない」
知らないけど、とずっとししまるに埋まっていた当也が顔を上げて、こっちを見た。目が合って、何か言いたげな顔をされたけど、逸らされた。
多分、嫌に重く蟠っている沈黙は、「本当にできると思ってる?」が、全員に突き刺さった結果だった。まだまだ小さい子犬の世話を完璧にしようとするなら、誰かの手を借りなきゃならない。世話はする、面倒は見る、みんな一人でやるから飼わせてくれ、と頼んだところで、その事実は変わらないのだ。それは根本的に考えたら、命を預かる意味だとか、そういう道徳的な話になる。みんな一人でやる、なんて到底出来っこない現実。だってまだ中学生だし。なんなら、動物病院でやちよがお会計してるのを見て目を剥いたぐらいだ。お小遣いが足りない。
「……さちえに電話してくる!」
「んー……」
「寝ないでよね!先に!」
居ても立っても居られなくなったらしい朔太郎が、どたばたとリビングへ降りていった。子機を借りたようで、話し声が上がってくる。うんうんそう、それでねちびちゃくてかわいいんだけどね、と扉の前まで明るかった声が、一瞬で曇った。
「んん……あー、そう?ううん、俺知らなかったし……あ!違う!お父さんには言わないで、うん、多分なんか、あれだし……うん。わかった、おやすみなさあい」
「……なに?」
「お父さん、犬苦手なんだって……」
「……………」
「……………」
「お父さんが犬苦手なのを除けば、うちは平気だって」
「……じゃあ無しだな」
「そうだね……」
「え、俺、お父さんに聞いてみるよ。平気って言うかもよ」
その「平気」は絶対自主的じゃない。言わせている。当也もそう思ったのか、朔太郎んちは無しって言ったら無しだよ、とごろごろ横になった。ということは選択肢がいよいよ無くなったということだ。さっき当也が言ってたように、動物病院で飼い主募集をしてもらうか。それとも、三人のうち誰かが親を説得してこいつを家族にするか。しばらく無言が流れて、当也がむくりと起き上がった。
「……とりあえず航介お風呂入ったら?雨くさい」
「うん……あ。悪い。ベッド」
「いいよ別に」
いつもだったら、「汚い体でベッドに寝るとかあり得ないんですけど。シーツも枕も全部替えて欲しい。ついでに帰って家で寝て欲しい」ぐらい言いそうなもんだけど。それがないのが、物語っていた。

「あっ。あ、ダメだってダメだってそっちは!こら!」
「あー……あーあー……」
「きゃあ。あは、かわいい。ふふ」
「……………」
「……朔太郎、回収に行けよ」
「……ゆりー?服着てるー?」
「うん?着てるよ」
「そか……よかった……」
流石に友達の妹といえど、裸を見るのは話が違ってくるので。お風呂上がりでぽかぽかした友梨音が、灰色のちびを抱えてリビングに戻ってきた。好奇心旺盛な性格らしいこいつは、朔太郎の静止も聞かずにロケットのような勢いで脱衣所の方へ消えたのだ。友梨音がお風呂に入ってるのを知ってる俺らには、どうしようもなかった。フローリングをちゃかちゃか鳴らしながらまたロケットスタートでリビングの方へ突っ走って行った子犬の後を追う。
今日は朔太郎の家で、子犬を預かることになった。朔太郎のお父さんが犬を大の苦手としている、という問題はあったが、本日は残業で帰りが遅くなるらしい。もしも本当に行くところが無かったらうちで飼ってもいいよ、と朔太郎には言ってくれたらしいが、さちえが教えてくれたところによると実際マジでほんっとに洒落にならんレベルで犬を恐怖の対象にしているらしいので、流石の朔太郎も「うちは無理かもしれん」と言っていた。それは仕方ない。でも1日ぐらいわんちゃんと一緒に暮らしてみたい、と言った朔太郎に、「は?犬の世話舐めてるんですか?初心者に突然どうこうできるとは思えないんだが?」とは言ってないがほぼそう言いたげな態度で当たり前のようについてきた当也、朔太郎のことがあまり好きではなく最初に食べ物をくれた俺にとにかく懐いている子犬、なんとなくついてきてしまった俺、といった感じだ。
「あれ、ちょっとおっきくなった?」
「一日二日じゃ変わらないだろ」
「……毛並みが良くなったからじゃない。洗ってあげたし」
「かわいいねー、あ!そういえば名前は?」
「名前」
「そう。航介なんて呼んでるの?」
「……名前とかつけてない」
「えー、そうなの?ないならいいけどさー」
ししまるが喜ぶところを撫でるとこいつも同じように喜ぶので、わしゃわしゃとくすぐってやりながら、ちょっと考えた。名前か。つけなかった、というよりは、つけようとしなかった、の方が正しいかもしれない。名前までつけて、執着したくなかった。きっと別れるのが辛くなるから。頭を冷やしてよく考えろと言われたけれど、きちんと冷静になって現実を見ると、あの時自分が言ったことは出来ないことだらけなのだ。だったらきっと、他の誰かに育ててもらった方が、幸せになれるんじゃないかと思う。くすぐられて興奮したのか、猛然と俺の周りをぐるんぐるん回り出した子犬を見ながら、内心で決めた。

「体重も増えてるね。えらいえらい」
「……あの」
「うん?」
いつもの動物病院。三日分出された薬が無くなったので、経過観察でつれてきた。どうやら病院は嫌いらしく、またもぎゃうぎゃう吠えながら威嚇してはお医者さんにのんびり流されて、診察が終わった。温厚そうなお医者さんは、診察に使っていた器具を片付けながら、俺に目を向けた。
「……この子、あの、拾ったんですけど、どうしても飼えなくて」
「うん」
「飼い主さんをしてくれるひと、できればいないかなって……あの、無責任でごめんなさい、拾ったのは俺なのに」
「ううん。見つけてくれてありがとうね。無責任なんかじゃないよ」
世の中にはね、かわいいってだけで小さい命を買って、期待外れだったり予想と違ったりしたらそれだけで用済みにして捨ててしまう人もいるんだよ。君は正反対に、ぼろぼろのこの子を拾ってくれたんだよね。最後まで面倒を見ることだけが責任ある行動とは、思わないよ。そうのんびりと告げられて、ぐっと喉の奥で息を殺した。ずっと責め続けた自分を、許してもらったみたいだった。返事をしない俺に、ちょうどいいタイミングでね、とお医者さんはポスターを指さした。
「明日の午後、ブリーダーさんが来てくれるんだ。この子みたいな、行き場のない子の面倒を見てくれていてね。本当に家族になりたいと思っている人に譲る仕事をしているんだよ」
「……あ、明日の午後?」
「そう。あー、うーん、ちょっと急かな。心の準備もしたいよね」
「や!あの、いえ、明日の午後、また来ます」
長く一緒にいたら、離れるのが余計に辛くなるから。まるで自分が飼ってるみたいな気になって、手放しにくくなるから。そうは言えなかったけれど、お医者さんには伝わったようで、じゃあ待ってるからね、と言う言葉を最後に診察室を出た。待合室で待ってた二人にそう説明すれば、二人とも「わかった」「それがいいんじゃない」という返事だった。
その日はうちで預かることになった。朔太郎と当也が来るかと思ったけど、朔太郎は「明日はゆりとお買い物に行く約束してたから今日は早寝する」だそうで。当也はものすごく苦い顔で「小テストあるから勉強しなきゃやばい」だそうだ。ここ数日やらなかったツケが回ってきたらしい。だから、今晩は俺と一匹だけ。もう聞き慣れた、ちゃかちゃかと床を蹴る爪の音。ベッドに無理やりよじよじ登ってきた子犬を抱き上げてやると、ぐるぐる周りを回って、足の隙間に飛び込んできた。
「……、」
良い人に貰ってもらえるといいな、とか。元気で過ごせよ、とか。悪戯ばっかりしちゃダメだぞ、とか。いろいろ言いたいことはあったけど、喉につっかえて言えなかった。諦めて横になったら、頭の方に移動してきて、遊んでほしいと顔に乗っかる勢いでじゃれてくるので、起き上がった。
ふかふかになった子犬は、良い匂いとも言えないけど変な匂いとも言えない、不思議な匂いがした。それがどうして、嫌いじゃなかった。

「それじゃあ、お願いします」
「おねがい、します……」
「はいー。元気いっぱいだね!絶対、いい飼い主さんに会えるからね」
子犬から手を離した瞬間、もうきっと二度と会うことはないんだろうな、と強く思ったのは覚えている。ブリーダーさんは優しそうな顔をしていた。任せることに不安があったわけじゃない。むしろ、そっちの方が絶対幸せになれるとは思った。お医者さんは、俺に何度も「ありがとう」と繰り返していた。後になって思えば、そのおかげでなんとか泣かずに済んだし、自分のしたことは良かったことなのだと思うことができた。
それからずっと、成人してからもずっと、道端で灰色の犬を見ると目で追ってしまう。犬種が分からないから、小さかったあの犬は成長してどうなっているのかも分からない。配達回りをしている途中、小学生くらいの女の子が灰色の犬を散歩しているのをぼおっと見送っていたら、戻ってきた父親が口を開いた。
「お待たせ。車の中にいても良かったのに」
「うん……」
「航介、まだ犬飼いたい?」
「は、えっ?別に……なんで?」
「ううん。昔、犬拾ってきたことあったなあと思って」
「ああ。うん」
あの時みわこちゃん、頭冷やして考えろって言ったでしょ。俺は家で、そうやって言ったってみわこちゃんから聞いたんだけど、もしも航介が冷静になって考え直してそれでも飼うって言って聞かなかったら飼ってもいいかって、俺みわこちゃんに聞かれたんだよ。良いよって言ったけどそうならなかったってことは、航介がやめたんだろうなってずっと思ってた。そう訥々と語られて、ああ、そう、とぼんやり答えた。そうだ。冷静になって考えて、現実を見て、俺には無理だと判断したから、あの子犬を手放した。その通りなのに、ずっと嫌に未練がましいのはなんでなんだろうな。もうずっと前のことなのに、それなら我儘でも無理でも飼いたいって言ってれば良かったと思ってしまうのは、どうしてなんだろう。しばらく黙って隣に立ってた父は、でもね、と零した。
「うちに犬がいたら、大変だったと思う。大変だろうなって思ってやめられた航介のこと、すごいなーって思ったんだ。まだ子どもなのにそんなことまで考えてんだって。感心したよ」
「……え。なに今更」
「なにって。その時言い損ねたから今言っとこうかなって」
「……………」
「褒めてるんだよ?」
「はいはい」
「嫌味とかじゃないよ?」
「はいはい」
これからもずっと、灰色の犬がいたら、目で追ってしまうんだろうと思う。いつかそれが、未練がましくならない日が来たらいい。


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