このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

おはなし



「横峯さん」
「ん。今行くので待っててください」
「あっ、あの、そんなに急がなくても、私あと帰るだけですし……」
「てんちょお」
「はいはい。行ってらっしゃい」
「……すいません……あと帰るだけの人が……お仕事の邪魔しに……」
「薫さんチキン食べます?」
「た、たべ、い、いいです」
「辛いのと普通の」
「……ふつうので……」
しどろもどろしながら受け取って、こっちが食べたのをちらちらと確認しつつ一口頬張って、嬉しそうに目が輝いた。かわいいな、と素直に思うのだ。見られていると思っていないところまで含めて。ていうか、コンビニのチキン似合わないなあ。半分ぐらい食べたところで、お金を、とおろおろし始めたので、もう廃棄のやつだし休憩中に食べるつもりだったから大丈夫だと断った。困ったような顔のまま、それでもお財布にかけた手を引いてくれる辺り、大人だと思う。恐らく数日中に同額程度のなにかが差し入れされるんだろうというところも予想して。
薫さんのことが好きだと気付いてからしばらくが経つ。最初はただの「おもしろい人だな」だったし、おもしろいからもっと見てたいと思っていただけなんだけど、そのはずが、いつのまにか。変なもやもやが混ざりだした感情に、どうやらこれが好意らしい、と思い至るまでには多少時間がかかった。生憎、そういう経験があまりないもので。
思えば、女の子とお付き合いしたことはあるけれど、年上と付き合ったことはほぼないに等しい。というかそもそも、自分から押したことがないので、どうしたらいいのかが全く分からない。好きだと伝えるつもりは今のところあまりないのだけれど、だからといって、薫さんが誰か俺の知らない人とお付き合いを始めましたと教えられて笑って頷けるかと言われたら、それはそういうわけではないのだ。なんだかなあ。
なので、とりあえず年上と付き合ったらどんな感じなのか、的な感じのことを身の回りの人にリサーチしようと思った。全くの未知よりは、他人に聞いた話でもある方がマシだよね。
「ゔ、え、年上……」
「そお。ベースくんの彼女いくつだった?」
「と、そんなに、年上ではない……」
「そっかー。年上どう?いける?」
「う……」
というわけで、とりあえず手近にいた一番年上に聞いてみた。練習休憩!ってボーカルくんが言って、りっちゃんがタバコ吸いに行ったのを見て、自分も出て行きたかったのに被っちゃったからタイミングを見失ったベースくんを捕まえた。そしたら空っぽになったペットボトルをポイしたボーカルくんも来た。二人ともおんなじぐらいの年上だったよね。
「なに?ぎたちゃん年上好きなの?」
「ううん。特にこだわりない」
「なんだ」
「ボーカルくん年上と付き合ったことある?」
「聞いて驚け……俺は……高校一年生の時に三年の先輩と付き合っていた……!」
「それはノーカンじゃない?」
「えっ、えう、そ、そうかな……」
「は?ノーカンじゃないですー、年上ですー」
「高校生の時の2個上なんて今にしたら年上に入んないと思いますー」
「入りますー。ねっべーやん」
「あ、え、えと」
「入りませんー。ベースくんもそうだって言ってますー」
「いっ、言ってない……」
「べーやんは俺の味方ですー!」
「ひい、いた、痛い痛いっ」
「あー!ベースくんかわいそー!ボーカルくん暴力!」
ベースくんを真ん中に引っ張りあいっこになってしまった。これを続けてもただ単にベースくんをいじめてるだけになってしまうので、手を離す。せーので離すんだよ!って言ってるのにボーカルくんがせーので離してくれないから何回かベースくんの手が千切れそうになった。かわいそう。
「年上?」
「そお。年上と付き合うとしたら」
「……どらちゃんに聞けば?」
「うん……一番、こう、経験が……」
「あれは違うじゃん。もう全部違う。ああいうのじゃなくて、普通に付き合うってなったらどんな感じかを知りたい」
「俺もぎたちゃんには賛成なんだけど、ぎたちゃんすごいなって今思ってる」
「すごい?だめってこと?」
「ダメではないんだけど……なんていうか……ぎたちゃん、恐れっていう感情ある?」
「あるよお。賞味期限切れてるもの食べる時とかにドキドキするし」
「そうじゃないんだけどまあいいや」
ボーカルくんにせっつかれて、口を開く。別に好きな人がいるとかそういうのは言わなくていいでしょ。気になった理由は興味本位でも構わないはずだ。年上とお付き合いした時の経験談があれば聞きたい、という旨を伝えれば、二人は意外と真面目に聞いてくれた。他人のそういうのがあてにならないことは知ってるけど、こう、薫さんがもしそうだったら…って想像するのは自由じゃん?
「だから俺は年上の女性と付き合ったことあるってば」
「うーん。もうそれでいいや」
「ぎたちゃんめんどくさくなってない?」
「どんな人だったの?」
「ど……どんな人かって言うとさあ……うーん……」
「……?」
「……顔はまあまあかわいかった。目がでかかった」
「うん」
「優しかった。俺がめちゃバカなのもかわいいねって言ってくれた。むしろそこメインで付き合ってた節あった」
「ボーカルくんがバカだから目がでかくてかわいい先輩と付き合えたってこと?」
「そ、そんなはっきり言い直さなくても……」
「いや。ぎたちゃんの言う通りなんだ。俺がバカでかわいかったから目がでかくて優しい先輩と付き合うことができたんだ」
「今ちょっと言い方変えたでしょ」
「あとおっぱいがおっきかった」
「えっ!?」
「あっ!嘘嘘!そうじゃない!」
「目がでかくて優しくて、なんだって!?」
「言わないつもりだったのに!その印象ばっかり残ってるなんて知られたら恥ずかしい!」
「全部自分で……」
ボーカルくんの「優しい」の一言だけで、薫さんと親和性があるな…ってこっちは想像する準備してたのに、余計な情報が入ったので打ち切った。違う!とボーカルくんは真っ赤っかになっているけれど、もう聞いたし絶対忘れてやらない。ていうか下手に薫さんのこと思い浮かべてたから、危うく危ないところだったんですけど。自分で言うのもなんだけど、こちとら若い男の子なんですけど。ていうか、求めてたエピソードまで辿りつかなかったし。まあいいか。ボーカルくんは自爆して静かになったので、ベースくんに聞いてみることにした。
「ベースくん、年上の経験は」
「う……そ……そんなには……」
「嘘だあ!べーやん5歳上の彼女がいたことがあるの俺知ってる!」
「しっ、」
「痛い!」
「ごさいうえ」
「ち、違くて、彼女、彼女とかではなくて」
「べーやんと俺が知り合ったばっかの時だよ。今の、じゃない、前まで付き合ってた彼女の前って言ってたよ」
「そういうのではなくて!」
「痛い痛い!さっきからべーやんつねんないでよ!」
「ご、ごめん、あの、でも、だ、黙って欲しくて……」
「見て。赤くなっちゃった」
「かわいそう」
「これはべーやんの5歳上の彼女の話を聞くしかないですなあ」
「ですなあ」
自爆したはずのボーカルくんが生き返って爆弾を落としてくれたので、ベースくんの周りを回りながら強請ることができている。人命大事。さっきは年上じゃないって言ってたじゃん、と思ったけど、その彼女の前の人ってこと?でも別に彼女とかじゃないって言ってたしなあ。ベースくんはあまり嘘をつかないので、まあ嘘なんかつかれても俺見抜けないんだけど。つねられて赤くなった手の甲を突きつけられたベースくんが、目をうろうろさせながら青い顔で口を開いた。赤くなったつってもほんのちょっとだし、絶対明日には消えてるし、こんなことでそんな顔しなくても。と思ったけど、どうやら原因はそれではなかったらしい。
「……ほ、本当に、彼女とかでは……」
「ボーカルくんあんまちゃんと覚えてないからなあ」
「それはマジでそう。俺記憶力ないから」
「なんで自信満々?」
「……あの……なんていうか……そもそも旦那さんがいる人で……」
「不倫」
「略奪」
「旦那とは離婚するから貴方と結婚したいって言われた?」
「あ。りっちゃんおかえり」
「ボーカルくんの超でかい声がずっと外に響きまくってたんだけど。なんの話だよ」
「今はー、ベースくんの元カノが旦那持ち疑惑って話の途中」
「旦那がいるっての隠されて付き合う羽目になるこっちの身にもなってほしいよな」
「ち、ちが、ぜ、全部違う、いっ、いつから、どこに、ど、ドラムくん」
「途中からドアのとこにいたけど。ずっと」
「なんで盗み聞きしてたの。悪趣味」
「おもしろかったから」
いつのまにか俺の後ろにりっちゃんがいて、ベースくんが椅子から落ちそうになったけど、セーフだった。青い顔のまま震えてるベースくんに絡んでべらべら捲し立ててるりっちゃんの顔には「機嫌がいいです」と書いてあるので、しばらくほっとこう。細かい話を聞き出す以前にめちゃくちゃ弄り倒されてるから、ベースくんが赤とか青とか白とかになってる。ぼおっとそれを見てたら、同じくぼけっとしてたボーカルくんが我に帰って、そんで結局5歳上人妻となにが?とベースくんに聞いた。
「だ、だから、その、旦那さんがいるのに、すごく、こう、なんていうか、あの、お出かけに誘ってきたりするから、っこ、困ってたっていう……」
「お出かけ?」
「わざわざ言葉を濁すな」
「ほ、ほんと、ほんとに、ショッピングとか、一回付き合ったら、なんかすごい高いブランドものの店入って、怖かったから帰った……」
「そんなん貢がせとけばいいのに」
「べーやんはどらちゃんと違って良心があるから」
「良心なら俺にもある。破産はさせない」
「ていうかほんとに俺の記憶おかしかったじゃん。べーやんごめんね」
「ぅ、ううん……」
「だから結局なんの話?」
「りっちゃんが入ってくると生々しいからもういい」
「は?」
「よーしもう練習しよ練習!どらちゃんこっからここまでなんて読むか全部分かんないから教えて!」
「小学二年生ぐらいの国語の教科書からやり直せば?」
呆れた声でボーカルくんをあしらったりっちゃんを見ながら、ボーカルくんは多分、りっちゃんは機嫌良い時に機嫌悪くなることすると普通にテンション下がって態度悪くなるだけじゃなくて今まで機嫌が良かった自分に気付いて更に不貞腐れるからめんどくさい、ってことを知ってるな、と思った。俺はそれを知ってるからって今まで対策をとったことがなかったけど、さっきの口の挟み方からして、めんどくさくなる前に回避したっぽい。えらいな。今俺普通に火に油注いでから、余計なこと言ったな、って思ったよ。いつもそう。反省はしない。

あの3人はダメだったので、別の人に頼ることにした。
「予約していた石原です」
「足濡れたあ」
「雨降ってたんだから仕方ないよ」
「ヨシズミとご飯来ると必ず雨じゃん、もうヨシズミ誘うのやめよ」
「でもそうするとお金払ってくれる人がいなくなっちゃう。食い逃げは犯罪だし」
「そうじゃん。えっ?そうじゃん!かきたん頭良くない?東大出身?」
「そお」
「そこのバカ二人早く来い」
ミコトさんとヨシズミさんとご飯食べに来た。ミコトさんは多分俺と同じぐらい……同じぐらいだよな?ちょっとだけ上かも。でもそんなに離れてないと思う、多分。年とか聞いたことないけど。ヨシズミさんは知らない。俺よりは上であるということしか知らない。でもいつもご飯食べに来ると特に求めてなくても必ず全部奢ってくれるから優しい。ヨシズミさんが予約してくれていたので、畳張りのちっちゃい座敷に通された。薄い仕切り越しに他人のどんちゃん騒ぎが聞こえてくる。
「かんぱーい」
「うえー」
「イエー」
「まともに喋れないのかよ」
「レタス嫌い」
「肉食べたい」
「やりたい放題するな!お前ら絶対末っ子だろ!」
「え。あたしお兄ちゃんいるんだけど」
「俺お姉ちゃんいる」
「だからそれを末っ子って言うの!バカだねこの子たちは!」
「ヨシズミうるさあい」
「ミコト!」
「いたーい!」
お通しをヨシズミさんの方へ追いやったミコトさんが耳を引っ張られている。仲良しか。
しばらくだらだらと飲み食いして、それなりにお腹が膨れてきた頃に、本題に入る。俺の中での本題っていうだけで、二人からしたら別に全くそんなことはないんだけど。
「年上?」
「そお。ミコトさんある?年上」
「んー、ないなー」
「ないの?」
「ねえんだ。あると思ってた」
「だって年が上ってだけでめっちゃガミガミ言われんの腹立たん?あたし彼氏には甘やかして欲しい派だから」
「あれ?りっちゃんは?」
「はー?あんなん5歳児だし。年下だし」
「りっちゃん。ドラムの」
「ヨシズミさん知ってんの?」
「ミコトに聞いた」
「あたしとタメぐらいでしょー?あんなんどうでもいいの、つーかクソえらそうにしやがってムカつくし!」
「まだムカついてんの……」
「思い出そうとすると顔がぼやけるけどムカつくね!」
「もうそれ覚えてないじゃんか」
あれ、りっちゃんとベースくんが同い年じゃなかったっけ。それともそうやって嘘ついてるんだっけ?ほんとはもっと下なんだっけ。それともそっちが嘘だっけ?なんかわけわかんなくなってきたな。ミコトさんがやいのやいのと文句を言い出したので、もういい。ねえ聞いてんのお!?と半ギレで振られるのに適当に返事をしながら、ヨシズミさんに聞いてみる。
「ヨシズミさんは?」
「年上なあ……あるにはあるけど」
「へー。いくつ上?」
「7つ」
「いいじゃないですかあ」
「なんだよ。気持ち悪いな」
「なんかないんすか?甘酸っぱいエピソード」
「うーん……」
なんかスナック菓子みたいなつまみをぽしぽし齧りながら思い出してるヨシズミさんの背中に向かって、ミコトさんが「だいたい人のこと見下しやがって勉強できるのがそんっなにえらいんですかあ!?」とかなんとか文句を言いながらぽかぽか手を出している。前から思ってたけど、この二人仲良いよな。付き合ったりとかしないんかな。おもしろいのに。でも別れてギスギスされてもバイト先でいずらいから嫌だな。そんなことを考えていたら、ヨシズミさんがぽんと手を打った。
「エピソードあった」
「お。話してくださいよ」
「彼女、髪が長くてさ。真っ黒で、ストレートで、綺麗な髪だったんだけど」
「ほう」
「えなに?恋バナ?」
「そう。ヨシズミさんの元カノ」
「めちゃ聞きたいやつじゃん」
背中を叩いていたミコトさんが、ぺたぺたと前に回ってきた。俺が胡座をかいていたからか、膝を抱えて体操座りをしたミコトさんが、続けて続けて!と畳を叩く。
「俺、別にロングヘア好きとかいうわけじゃなかったけど、彼女の長い髪はわりと好きでさ。手入れしてんのとか、ずっと見てられた」
「なんか変態ぽい……スキンケアとかヘアケアしてるとこヨシズミみたいなのにニチャニチャしながら見られてんのとか地獄?だから別れたの?」
「うるせーな!違えよ!」
そういえばサヤとミヤコちゃんも、なんかいろいろ手入れしてたっけ。髪になんか塗って梳かしたり、顔になんか塗ったり貼ったり、してた覚えはある。なんとなくふわふわいい匂いがした記憶も残っている。それは一体なにをしているのかとずっと昔に聞いたことがあるけれど、細かく説明されてもいまいち俺が理解しなかったので、難しい顔で少し考えた二人には「チューニング?」「メンテナンス?」と首を傾げられたっけ。合っているのかどうかは分からない。でも、少し甘いいい匂いの中にいる薫さんは、ちょっと見たいかもしれない。でもそれを見れるってことはもう付き合ってるよな。告白もできそうもないのに、いや、でも、妄想ぐらいいっか。見ないで、って恥ずかしがりそうだな。いやかわいいな!
「かきたんがにたにたしてる」
「吐くならトイレでやれよ」
「うえ、え、あ、吐かない、なに?」
「酔っ払っちゃったのー?」
「ううん……」
ぼおっとしてた。なんか、思ったより想像上の薫さんがやばかったから。とりあえずこの案件は持ち帰ってミーティングしましょう、と薫さんがこないだ会社の人に言ってた言葉を反芻しながら、一旦妄想はお預けする。しばらくこれでダメになりそうだし。いい意味で。俺が吐かないということを確認したミコトさんが、早く続きを話せとヨシズミさんに強請って、ヨシズミさんが口を開いた。
「彼女が、おばあちゃんが亡くなったって。形見の櫛をもらってきて。ああいうのって使わないと傷むらしいな。知らなかったけど」
「へー、あたしも知らん。それ良いやつなんじゃん?」
「多分。なんか昔からずっと使ってたらしい。おばあちゃんも形見分けでもらったとか、どうとか言ってたから」
「いいなー」
「彼女、ずっとそれで髪梳かしてて。なんか随分ハマってんなって思ったんだけど、思い入れもあるんだろうから、あんまり気にしないようにはしてて」
「……………」
「……かきたん?」
「んー?」
「……これ怖い話?」
「さあ……」
「しばらくしたら、忙しいから会えないってしょっちゅう言うようになったんだよ。まあ仕事もあるし、忙しい時期があるってのは知ってたから、がんばれーってぐらいの返事しか俺もしなくてさ。それで3日ぐらい経ったかな。一日一回は連絡とってたはずなんだけど、音信不通になって、さすがに心配じゃん?だから家に様子見に行ったわけ。そしたら玄関の鍵が開いてて」
「これ怖い話!?ねえヨシズミ!これもしかして怖い話!?」
「中は真っ暗で」
「かきたんこれ怖い話だよねえ!」
「んー、……ふ……」
「笑ってんなよてめえー!」
「部屋の奥にドレッサーがあるんだよ。真っ暗な部屋の中じゃ鏡なんか見えるわけないだろ?なのにそこに彼女がいて、こっちに背中向けたまま座ってんだよ」
「ギャー!」
「ミコトさん早い」
「俺も何も言えなくてさあ。でもどう見ても様子がおかしいから、もう思い切って電気つけたんだよ。なのに、蛍光灯がバチバチッてなったっきり明かりつかなくてさあ」
「もうやだあ!怖いの嫌だって言ってんのに!バカ!バーカ!」
「聞かなけりゃいいのに」
「最後まで聞かなかったらどういう終わりなのかわかんなくて余計に怖いじゃんかきたんのバカ!」
「あいた」
「しょうがないからスマホのライトつけて彼女のこと照らしたんだよ。暗い中にボヤーっとしか見えないから、近づくしかないだろ?」
「ひい……ひ……ひいい……」
「ミコトさんの全ての爪が俺に刺さってんだけど」
「ちょっとずつ近づいて、真後ろまで来ても振り向かないんだよ。声かけても反応しないし、ずっと櫛で髪梳かしてんの。あんまりこっち向かないから、もう鏡の方に明かり向けたら、顔見えたんだけど」
「ギャー!」
「だから早いって」
「そしたら彼女の顔、異様にしわしわで年取って見えて、そしたら目があって、ニヤって笑われたんだよね」
「ア″ー!」
「ぎゃあ」
「以上」
「もう今日鏡の前行けないいいい」
「ミコトお前、横峯のこと突き飛ばすなよ。軽いんだから、吹っ飛んだだろ」
「俺も俺がこんなに吹き飛ぶとは思わなかった」
「もおやだあ!ヨシズミなんか祟られろ!顔の皮全部溶け落ちろ!」
「えぐいタイプの祟り」
俺は別に怖い話とか特に怖くないし、ミコトさんがびくびくしてるのが面白かったからいいけど。と思いながら転がってたら、ヨシズミさんに引っ張り起こされた。どうせ作り話だよ、ってミコトさんに言ったら、「作り話かどうかは関係ない」「想像しただけで怖かった」「鏡の前という同じシチュエーションに立たされたら否が応でも思い出してしまう」って感じのことをめちゃめちゃ痞えながら言われた。
ていうか、思ってたエピソードと違ったんですけど。

当てにしてた人たちが全員使えなかったので、最後の望みをかけることにした。俺がもっと上手く話を持って行ってたらそれぞれからちゃんと年上彼女とのエピソードトークが聞けたのでは?とは思わなくもないけれど、そんな綺麗に話を運んでいける自信は全くないので、彼らがちゃんと話してくれなかったのが悪いということになる。そういうことにしよう。
「関さん」
「んー?その段ボールつぶしていいよ」
「うん」
「……あ、や。そうだった。ごめんな、後でいいよ」
パソコンに向かっていた関さんが、時計を見上げて動きを止め、申し訳なさそうな笑顔で向き直った。別にいいのに、俺が今は休憩時間だと思い至ったんだろう。段ボールつぶすぐらいやるよ。なにやらパソコンに向かって一人でうんうん唸っている関さんに、今暇ですか、と問い掛ければ、少し間を置いてから深い溜息が返ってきた。
「暇。俺も休憩する」
「やった」
「煙草」
「俺も行く」
「横峯吸わないだろ」
「話があるんです」
「……ん?じゃあここで聞くよ」
「でも関さん休憩するんでしょ」
「ああ、うん、そうだけど……なに?話しにくいのか?」
「いや別に」
「?」
すごい変な顔されたけど、ついていくことには成功した。受付の前を通り過ぎた時にも、関さんどこ行くんですか?えっ横峯も一緒?どこ行くんですか?って戸惑った声を投げ掛けられた。俺もそっち側の立場だったらそうなってる。缶コーヒーを自販機で買ってくれた関さんが、不思議そうな顔でこっちを見ながら煙草に火をつけたのを見て、口を開いた。
「年上と付き合ったことあります?」
「……あるけど。一応」
「どうでした?」
「なんだ。好きな人でもできたのか」
「ううん」
「違うのか……」
「気になったから。年上と付き合うってどんなもんなんかなって」
「ふーん。んー、どうっつってもなあ」
みんな俺が言う「特に好きな人がいるわけではなく、気になっただけ」をちゃんと信用するからえらい。こういうのって大体好きな人がいる人が言うもんだと思うんだけど。でも俺も誰かにそんなこと言われても、ふうん、って思うだけだろうから、そんなもんか。
ぼんやりそんなことを考えている間に、どうと言われても、なんて考え込んでいた関さんが、煙を吐いた。
「大人だったなあ、としか」
「おとな」
「そう。なんか、いろいろ連れてってくれたりしたよ。プレゼントもたくさんもらったけど、それは出来るだけ返したかったな。財力で甘えるのはカッコ悪いと思ったから」
「ふむ」
「今の自分にはできないことを、たくさんしてくれたって感じかな。金銭面でも、経験でも。もらいっぱなしは嫌だったけど、そんなに返せるものもないからなあ」
「プレゼント返し続けてたら送り合いになりません?」
「そう。なったなった」
思い出したのか、関さんが可笑しそうに顔を崩した。誕生日をお祝いし合うとかならまだ可愛いもので、なんでもない日に「似合うと思ったから」と服なんかをプレゼントされることもあったりして、どうお返ししたらいいのか考えたもんだ。そう独りごちた関さんが、ふっと目線を上げた。
「でもそれは年上と付き合ったから云々じゃないかもな。その人の性格だから」
「……あー。そっか」
「年齢はあまり関係ないんじゃないか?横峯なんて年上に囲まれてるんだから、いろんなパターンのやつがいること知ってるだろ」
それは確かにそう。自分よりも年上であると認識している人たちの顔はぱっと浮かぶけれど、特に共通点は見当たらない。こうしたら扱いやすい、みたいなのも思いつかない。まあ相手は人間だから、当たり前なのか。新学期、クラス替えの後に絶対100%友達ができる方法、なんてものはないみたいなもので。
「悩みは解決しましたかね」
「うーん。うん。なんとなくは」
「人に聞くより、自分がその人と付き合ったらどうなりそうかを想像した方が早くないか?」
「……いやあ」
「いやあ?」
「それは恥ずかしくないです?」
「そんなもんか」
「そんなもんです」

結局特に得たものはないまま、いつも通り薫さんの隣でお喋りしている。いつも通り、だと思うんだけど、なんか薫さんの様子がおかしいんだよな。風邪でも引いたかな。
「あの」
「あのっ」
「あ。どうぞ」
「いやっ、や、えと、お先にどうぞ」
「……お腹でも痛い?」
「い、痛くないです……」
「そう?なんかそわそわしてるから。あ、なんか楽しみなことがあるとか?」
ぶんぶん首を横に振られた。タイミングを計ってたっぽい割に思いっきり被ったのが、ちょっとおもしろい。落ち着きなく足の爪先をぱたぱたしている薫さんが、こっちに向かって手を出した。
「あ、の。バレンタインデーが、近いので、職場でみんなに配ることになって、作ったんですけど、たくさん作りすぎちゃってそれで、特にあの、なんの意味もないというか、重く受け止めないでほしいというか、あ!これはバレンタインとか関係ないプレゼントなので」
「……くれるの?」
「ど、どうぞっ」
「開けていいですか」
「……はい……」
「クッキーだ。食べていい?」
「い、家で」
「おいしい」
「家で食べてくださいってば!」
めっちゃ言い訳してたけど、小さい紙袋に入ったクッキーはちゃんとラッピングされてたし、おいしかった。さっきの薫さん語を要約するなら、「余り物をあげるだけだから気を遣わないでほしいしお返しとかもいらない」って感じだろうか。そうばっさり言う人ではないことは知ってるし。じゃあ誰か俺の知らない人もこのクッキーをもらうのだろうなってことは、なんとなく分かるし。それは少し嫌だけれど、それがしょうがないことなんて分かっているのだ。自分は薫さんにとってのなんでもないんだから。
おこぼれでもらえるクッキーでもこんなに嬉しいのに、わざわざこの関係を壊すようなことは言えないな、と思ってしまう自分は、おかしいんだろうか。残りは家で一人で食べようと思って、袋を閉じた。
「……クッキー、好きですか?」
「うん」
「お菓子だったら他に、何が好きですか?あっ、ええと、手作りのもので」
「あんまもらったことないからなー。なんでも食べるけど、手作りなのがどこまでかが分かんない」
「そ、そう、そうですかっ」
「薫さん?」
「なんでもないです!」



18/47ページ