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全部お前のせい



「おつかれさまでーす」
「おつかれさま」
「あ、店長聞いてくださいよ。さっきミヤマがキッチンでソースぶちまけてえ」
彼女の言い方を借りると「めちゃうけた話」をからからと吐き出して、楽しそうにアハアハお腹を抱えて笑っている。どこが面白かったのかはいまいちわからなかったけれど、楽しそうな彼女が年相応に可愛らしかったので、つられて笑った。
彼女は自分が店長を務めているファミレスのバイトで、依多さんという。割とたくさんシフトにも入ってくれるし、誰かの体調不良とかでヘルプを出すと大概すっ飛んできてくれる。お金ないんで!と笑って誤魔化しているけれど、バイト面接の時の志望理由を聞いている自分は、それを一緒に笑って流してあげられないのも事実だ。けど彼女は、そんなことをおくびにも出さず毎日笑って楽しそうに働いている。こんなおじさんの自分にも積極的に話しかけてくれるし、ホールスタッフともキッチンスタッフとも仲が良い。今時の、若くてかわいい女子、って感じの見た目だ。
「ねー店長」
「はい」
整えられてきらきらしている爪でスマホをいじりながら、休憩室の隅にパーテーションで区切られただけの「店長室」に向かって声をかけてくる。この「店長室」という張り紙も、彼女とキッチンの宮間さんが楽しそうに作っていたものだ。これがあるだけでなぜか特別に見えてくるんだから不思議だ。シフトを組んでいた手を止めて振り返ると、テーブルにぺったりと伏したままこっちを見ていた彼女と目があった。
「あたし来月やっぱもうちょっと入りたい」
「……うーん……わかった」
「無理かったらいいんですけど。他の人のシフト減らしたいわけじゃないから」
「今月厳しかった?」
「べっつにー。欲しいものあんだよね」
「そう」
無理のない範囲内でなら、考えることはできる。むしろ来月は人手が足りないぐらいのところだったから、助かるかもしれない。彼女の言葉に甘えて突っ込みすぎると、「依多ちゃんのことなんだと思ってるんですか?」「働かせすぎてかわいそう」「店長の鬼」とシフトを見るなりみんなから貶されるから、注意しなくてはならない。まとめていた長い髪を指で解いている彼女が、店長も休憩中?と足をぱたぱた揺らした。休憩、そういえば取ってなかったな。午前中はホールに出てたし、お昼ご飯は食べたけど、午後はずっと事務仕事でパソコンにかかりきりだった。思い出すとじんわり目の奥が痛くなってくる。
「休憩、今から取るよ。10分だけ」
「コーヒーもってくんね」
「ありがとう」
彼女にとっては、人と話すことが休憩になるらしい。歳の近い子と休憩時間を被らせられる時は必ずそうしているし、楽しそうにきゃいきゃいとはしゃぐ声が響いてくる。しかし、相手が話したくなさそうなら絶対に喋りかけない。距離の読み方も上手だと思う。こんなファミレスでバイトしてないで、彼女ならもっと稼げる仕事あると思うんだけどなあ。別に変な意味じゃなくて。
「見てこれ。ちょーかっこいいの。店長ロックとか好き?」
「昔は聞いたかな……」
「こないだ生で見に行っちゃったんだー、マジめっちゃ盛り上がったし。筋肉痛なったし」
「そんなに」
「かっこいくない?」
「うん」
「ねー!」
スマホを横向きにして、画面が見えるように傾けられる。若い子の間で流行っているらしい。あたしの友だちもバンドやっててえ、とリプレイが始まった動画を画面から消しながら口ずさんだ彼女が、楽しそうに目尻を下げた。自分には相槌を打つことしかできないけれど、それでも構わないらしい。
「今度ご飯行くんだー」
「この人たちと?」
「違うよお!友だちと!あははっ、この人たちとは知り合いじゃないもん」
「ああ、そっか……」
「てんちょーうける!でも知り合えたら面白いからそん時は言うね」
「……楽しみにしてるよ」
「あ!店長んちの犬見たい、なにちゃんだっけ?ココア?」
「チョコ」
「チョコちゃん!ちびちゃくてかわいいー、やー、犬かわいー、飼いたいわー」
家に見に来てもいいよ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。それは流石に、公共良俗に反するだろう。



「……………」
「……………」
「……………」
「……依多ちゃん、なにかあった?」
「……ど、どうして僕に聞くんでしょう……」
「何か知ってるかと思って……」
休憩室に一番最初にいたのは自分で、いつものことながら区切られた店長室の中で事務仕事をしていた。休憩入りますー、という依多さんの声がして、それに軽く返事はしたものの、珍しく話しかけてこないなとは思ったのだ。けど別に、彼女にもそういう気分の時くらいあるだろうし、と特に振り返ったりもしなかった。次に棚部さんが休憩室に入ってきて、「休憩いただきま、えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。流石に振り返ったら、机に突っ伏している依多さんと、入り口で立ち尽くしている棚部さんが見えた。棚部さんはもう中学生のお子さんがいるお母さんなので、我に帰るなりまず彼女の体調を心配したらしく、どうしたの?お腹でも痛いの?早退した方がいい?と背中をさすって、首を横に振られていた。それから、めちゃくちゃちっちゃい声でなにか言ったらしい彼女の顔に耳を近づけて「え?はあ、うん。ああ、うん?そうなの?はあ……そう……」と要領を得ない返事をして、こっちに来た。そしてなぜか店長室のパーテーションに寄りかかりながら休憩している。意味がわからないのはこっちなので、説明してほしい。
「……体調は……大丈夫なんですか?」
「体調は大丈夫」
「はあ……」
「思い出に浸ってるだけみたい」
「……はあ」
「良い方のね?」
肩を竦めた棚部さんが、ロッカーの方へ行ってしまった。良い思い出。なにか、友達とどこかに遊びに行った、とかだろうか。それで楽しかったのを思い出して、……楽しかっただけでああなるかは微妙だけれど。少なくとも自分はなったことがない。それとも、あそこまで何度思い出しても楽しい経験というものを自分がしてこなかっただけなのだろうか。ぼんやり考えていたら、彼女が足をばたばたさせだしたので、少しびっくりした。
「っあー!ああー!苦しかった!」
「……大丈夫……?」
「だいじょぶなんだけど、あー、あたし顔赤くない?ふふっ、うー……」
へらりと崩れかけた顔を恥ずかしそうに隠した彼女が、また机にうつ伏せた。だから、それをするから苦しいんじゃないかと。ただ、なにかあったの?と聞くのはなんとなく躊躇われた。だって、こんなおじさんに話したって、なんにもならないでしょう。ロッカーから戻ってきた棚部さんが、まだ伏せている彼女にちらりと目をやって、時間までには戻ります、と煙草の箱を見えるように振った。どうぞ行ってらっしゃい。自分の机に向き直って、彼女に背中を向けて再び仕事に戻って、数分。がたん、と大きな音がして、彼女が立ち上がったようだった。
「店長!」
「はい」
「だめだ!しゃべんないと!」
「……うん?」
「聞いて!あたし昨日友だちと夜ご飯食べ行ったんだけどあいつあたしに黙って男呼んでたっつーかそうなるとほぼお見合いみたいなもんで友だちはそういうんじゃないって言い張ってたんだけど!」
「そ、待って、それは、僕じゃなくて別の人に話した方がいいんじゃないかな」
「だってミヤマ今日休みだし、店長暇そうだし!」
「ひ……」
暇ではない。暇では。断じて。でも、頬を真っ赤にして口をぎゅっと噤んだ彼女の目に「聞いてくれ」とくっきり書いてあったので、その言葉は飲み込んで、頷いた。すっかり冷めているカップを持って、斜めの対面に座る。正面は嫌がられるかと思って気を使ったんだけど、そんでさあ、と話しながら靴を鳴らして歩いてきた彼女が隣の椅子に座り、尚且つ近くに椅子自体を寄せ直したので、気を遣った意味は全くといっていいほどなかった。まあ、いいか。
「そしたらさあ、なんかバンドの関係の知り合い?みたいで、今度ご飯食べ行こ〜ってあたしともそっちとも話してたからもうめんどくさいし一緒くたに呼んだとか言われて、そんなことある?あたしとその人初対面なんですけど?って感じだったんだけど」
「はい」
「でも普通に良い人だったし、なんか帰ろうとしたらお金払われてたし。気遣いの鬼かよ!やべーな!とは思った、絶妙なタイミングで店員さん呼ぶし、話上手いし、……んー、だから、楽しかったんだよね。それであたし絶対普段より飲みすぎてた、あんまお酒飲めないから」
「うん」
「そんでちょっと気持ち悪くて、でもそれって自業自得じゃん?だから解散まではちゃんとしなきゃなって思ってたし、友だちには絶対バレてなかったから、まあいけっかなって。そんでバイバイってなって、よし帰るぞ!って気合入れ直したのよ。駅で。一人でね」
「一人で」
「そう。一人で。こう」
「……ふふ……」
「あー、店長笑った。あーあ。萎えました」
「ごめんね」
こう、とその時の自分を今ここで再現する方がいけない。ぐっと拳を握って、応援団の待機の形みたいな格好で、一人で駅で覚悟を決めている様を想像したら、少し面白くて。ぶーぶー言っていた彼女が、まあそれで、と話を戻す。
「そしたら、大丈夫ですか?って。例の気遣い男が隣にいたの。割とでかくて、結構冷ための顔?でも笑うとそうでもない感じ」
「うん」
「自分も家がこっちの方だって。あと女の子が一人で帰るのは危ないからって。いや女の子っていうか……友だちも女の子なんだけど一人で帰ったんだけど……」
「うん……」
「そんで一緒に帰ったの。あたしが降りる駅までだけど。ぶっちゃけ超楽しかったの。めっちゃ話せたし」
「うん」
「あたしが電車降りる時うっかりついてきちゃって、いやうっかりじゃなかったのかな?うっかりじゃないかもしんない。うっかりじゃないわ、今考えたら。うっかりじゃなかった。普通についてきてたわ」
「落ちついて」
「駅のホームで連絡先交換した。あの、あと、良ければまた会いましょうって。そんでその気遣い男はまた電車に乗って帰って行ったんだけど、それがさあ、乗ってきたのと反対側のホームに行ったんだよね。わかる?店長この意味わかります?」
「……本当はもっと早く降りたかったか、そもそも逆方向ってこと?」
「そう!そうなんですよ!あたしを見送ったあとそっちに行ったから、多分あっちは気付いてないと思ってんだよね!そういうとこだよ!ねえ!わかるでしょ!」
「な、なにが」
「絶対優しいじゃんもうやだー!好きになっちゃうじゃん!もう既に会いたくなってる自分がいるの!バカじゃん!?女子高生かよ!そんなちょろく好きになんなよ!わああああ!」
「ちょ、ちょっと、お、落ち着いて」
「……休憩終わりますね」
「あっ!棚部さんに話したら?僕じゃなくて!」
「ていうか今日一日ずっと考えてたけど好きになっちゃうよって思ってる時点で絶対もうちょっと好きじゃんあたしさあー!だって喋ってんのめちゃめちゃ楽しかったんだもんしょうがないじゃんか!」
「この年で若い女子の恋話にはついてけないんでいいです」
フィーバーしだした彼女を見た棚部さんが、本当なら煙草をロッカーに片付けに来るはずだったのに、巻き込まれないようにそっと休憩室の扉の隙間から覗いて、そのまま去っていった。置いていかないでほしい。大声をやめない彼女が、がっしりと自分の袖を掴んで揺さぶった。
「店長どうしよお!今日ずっとあたしにやにやしてっからもうほっぺ痛いんだよ?でもあんな一瞬でちょろく落とされる女になりたくないよお!」
「え、ええと、じゃあ、これから何度か会って、好きになるかどうか見極めればいいんじゃない…‥?」
「……………」
「………?」
「‥…店長天才……?」
「えっ」
「そうじゃん!何回も会ったら、その間に好きになったことにできるじゃん!ていうか連絡先交換してほしいっていったのあっちだし!今度またって先に言ったのもあっちだし!あたしは別にそういうんじゃないんだけどしょうがなくみたいなとこあるし!別にね!好きとかじゃなくて!」
「はい、わ、わかったから」
「店長ありがとー!元気出た!あと希望!勇気とやる気!」
「はは……」
いろんなものを湧き上がらせることができたようで、何よりだ。



「店長聞いて」
「……ちょっと今待ってね……」
「うん」
彼女は話が分かるので、「待ってね」と言うと必ず待ってくれる。書類をまとめてファイリングしたくて、穴同士を重ねた紙をばらけないようにリングに通していたところだったので、助かる。通し終わってぱちりとそれを閉じれば、おめでとうございます、と拍手された。そこまでのことはしてないので、ちょっと照れる。すっと差し出されたお皿の上には、ちょっと黒くなった飾り菓子がいくつか置いてあった。
「これはご褒美です」
「えっ……えっ?これどうしたの」
「ミヤマが焦がした。パフェの上に乗せるやつでしょ?これ」
「いくつ失敗したの……」
「二十作ろうとして全滅したって。店長には後で休憩の時謝りに来ると思うよ」
「ううん、いいけど……あ」
「ん。これはこれでおいしくない?あまにがくて」
「そうだね」
「まあ失敗作なんだけどね。あはは」
ここ最近のお決まりになった、彼女が「店長聞いて」と前振って話し出す時は、少し前に会ったという、気遣い上手で背が高くてあまり笑わなくて頭のいい彼の話をしたい時だ。あれから順調に回数を重ねて会っているらしく、「大学院生なんだって」とか「留学してたことあるんだって」とか、情報がちょくちょく更新される。顔も見たことのない男について何故か自分が詳しいのも、あっちからしたら気持ちが悪いだろうけれど、まあ知る由もないから我慢してもらうしかない。昨日ね、と彼女が椅子に背を預けながら言った。
「ご飯食べ行ったの。なんかめっちゃ美味かった」
「なに料理?」
「わからん。イタリアン?フレンチ?そういう系。聞いたことない料理だったし、でもよく行くらしいよ?だから連れてってくれたぽいし」
「へえ」
「大人だ」
「……そうも離れてないんじゃ……」
「年齢的には多分そうだけど。なんか、すげーなって思う。あたしが知らないことたくさん知ってるし、手ぇ引いて連れてってもらってる感じ?安心する、てゆうか、任せられる?みたいな。うーん、伝わるかなあ」
「いい人なんだね」
「うん。なんか、やっぱ好きだなーって思う。でも、あたしが告白しても付き合ってくれなそうっていうか、や、付き合ってはくれるかな?でも釣り合わないからそうなるの想像できないし。だったら今みたいに、時々遊んで、都合いい感じの立ち位置にいたほうが、いいかなーとかも思うよ」
「……依多さん?」
「ん?」
「……悩んでる?」
「うん。あ、でも別に店長に解決してほしいとかじゃないよ!ただ誰かに聞いて欲しかっただけだし。あたしが自分で決めることだし」
ぱたぱたと手を振った彼女が、ごめんねえ、と笑いながら目を伏せた。きっとそれはもう既に同じ歳くらいの女の子の友だちにも言っていることで、誰になにを言われようとも、彼女が出した答えに勝ることは一つもないのだ。隣に立てたらいいなと思うんだ、でもそんなことは想像できないんだよね、と歌うように相反する二つを呟いた彼女は、ぱっと体ごとこっちを向いた。
「店長はあたしのこと応援してくれる?」
「……僕で良ければ……」
「イエーイ。百人力」
嬉しそうに笑った彼女が、机の下でぎゅっと拳を握ったのが見えた。


「店長聞いて」
「はい。待ってね」
「今日は待てない。耳だけ貸して」
「……別にいいけど……」
珍しい。いらない昔の書類をシュレッダーにかけていただけだから、聞くことはできるけど。いつもの「聞いて」の時間は、お互い休憩室で座って話をするから、少し戸惑った。少し薄暗い廊下の突き当たりで、周りには荷物が積まれているけれど、いいんだろうか。がががが、と紙を切り刻んでいた音が途切れた合間に、彼女が口を開いた。
「彼氏できた」
「えっ。おめでとう」
「……相手誰?とか聞いて……」
「……相手は誰?」
「こないだから話してた人いたじゃん、あの、背が高くて、そんでこないだ勇気出して、ちょっと成り行きっぽかったけど告白してっ、そんであの、考えさしてって言われたからやっぱダメかな言わなきゃ良かったかなって思ってたんだけど昨日オッケーもらったの」
そうだと思っていたから「おめでとう」が先に出たんだけど、望まれていた反応は「えっ?誰と?気になる!教えて!」だったらしい。ぼそぼそと、下手したらシュレッダーの音に掻き消されそうなくらいの声で早口に言い切った彼女が、そわそわと靴の爪先を落ち着きなく揺らしていた。うーん。
「……おめでとう?」
「なんで疑問形なんだようっ」
「痛い。ごめん」
「……やっぱり釣り合わないかなあ……でもさあ、考える時間があって、それで許可したってことは、あたしのこと多少は好きってこと?それともめんどくさくなったとか?あー、なんかさあー、友だちはおめでとって言ってくれるからありがとーとしか言えないしさー、でも告白オッケーされてこんなモヤモヤすることある?もー、やだなー」
「……うーん……」
こっちにパンチを繰り出す力はあるようだったのに、随分悩んでいるらしい。壁にもたれて、ごつりと重い音を立てて頭も預けた彼女が、目を閉じてうんうん唸っている。自分には、いいアドバイスもできないし、彼女としてもそれを求めているわけじゃないだろう。悩んでいることをあえて口にして、自分の心を整理している側面が強いように思う。だから、こっちにできることと言ったら「黙って聞く」くらいしかないのだ。相槌を打つくらいは、いいかもしれない。でもなー、うーん、と眉間に皺を寄せたまましばらく独りごちていた彼女が、ぱちりと目を開けた。
「店長はもしあたしがやっぱ別れるっつったら、えー!なんで!って言う?」
「……いや別に……依多さんがそうしたいなら……」
「あっちに申し訳ないとか思わない?だってあたしから告ってんだよ」
「まあそれは、そうだけど」
「そんなのは別にいいやって感じ?」
「……もう既に別れたいのに付き合ってるの、いつか辛くなるんじゃない?」
「なるほどね」
大きく頷いた彼女が、まあやっと付き合えたとこだし別れたりはしないんですけど…と無い顎髭をなぞるような仕草をして、シュレッダーの電源ボタンを押した。まだ書類が残ってるのになぜ、と思ったら、紙がもうパンパンだったらしく、ダストボックスが満杯のライトがついているのを指さされた。捨てといたげるね、と空の袋を僕に渡した彼女が、にんまり笑った。



「店長聞いて!」
「はい」
「あれ?今は休憩中?」
「うん」
「珍しー。店長がちゃんと休憩してんの」
「そんなことは……」
「いつもあそこかあそこにいるじゃん。もしくはホール。キッチンにはあんまいないけど」
「……………」
あそこかあそこ、と両手で指さされた、区切られた店長室と、休憩室の隅にある棚を見て、なにも言い返せなかった。確かに。最近持ち込んだらしい、電源に繋ぐとあったかいまま保温できるマグカップ置き場を机の上に満足そうに設置した彼女が、スマホを取り出していじりながら口を開いた。
「別れたんだけどさ、彼氏と。やっぱ友だちのがいいわー。なんか近すぎると逆にダメだったっていうか、でも何ヶ月?三ヶ月ちょいとか?まああたしもあっちも譲歩したよね。つーかあっちは絶対他の女とも遊んでたから。あたし知ってて見逃してやってたわけだから、あたしの方が我慢度合い高いよね?」
「はあ。えっ?別れたの」
「うん。もうちょっと彼氏がいる生活満喫したかったけど、なんかいいやってなっちゃった。別に喧嘩別れとかじゃないよ、ふつーに友だちに戻った感じ」
「そっか」
「店長チョコ好き?」
「普通、あ、いや、割と食べる」
「何で一回嘘ついたん?あはは」
店長が甘いもの好きなこととかみんな知ってるしね、と笑いながらロッカーの方へ消えた彼女が、小さな紙袋を持って戻ってきた。薄青のそれを手渡されて、一応受け取る。
「ハッピーバレンタイン」
「……いやいや。いやいやいや、返すよ」
「なんでさ。ちゃんといいとこのチョコだよ。あ!手作りとかじゃないから安心して!」
「……じゃあ、ホワイトデーに」
「あーあーお返し目当てとかそう言うんじゃないからマジで!あれなんだよね、お取り寄せで一ヶ月ぐらい前に頼んじゃったやつだから、彼氏に渡すつもりで注文したけど渡す当てなくなっちゃったから、そんならいつもお世話になってる店長かな?って感じだから、ほんと!」
「……自分で食べるとか……」
「えーやだよ、さみしーじゃん!」
からからと笑った彼女が、じゃあ一個だけちょうだいよ、と自分でラッピングのリボンを解いた。お友達にあげたりとかはどうかとも一応提案したのだけれど、みんな彼氏と別れたって知るとかわいそがったりとか心配したりとかするからいい、とチョコを頬張りながら返された。おいしいよ、食べなよ、なんて呑気な言葉に指を伸ばす。おいしい。中身がとろっとしてて、ちょっと柑橘っぽい味がする。
「そいえばさあ、ずっと聞こうと思ってたんだけど」
「はい」
「店長って優しいよね。なんで?」
「……優しい……?」
「あ、うーん、別に嫌とかじゃないんだけど?あたしのこと、ちゃんと特別扱いしてくれるじゃん。でも多分ミヤマが同じ風に恋話しにきても聞くんだろうけど、みんなそんなことしないっしょ?」
「そうだね」
「なんで、あたしの話ちゃんとまともに聞いて答えてくれんのかなって、ずっと思ってたんだよね。だってどうでも良くない?若い女子の恋愛事情。興味なくない?」
「……うーん……」
「ないとは言わないだろうけどさ。店長優しいから」
ちょっと気になってただけ、なんて軽く言いながら、いつもなら触ってるスマホはポケットに入ったままだし、せっかく用意したマグカップは手付かずのまま中身がなみなみ残ってる。じっとこっちを見る目は、答えを求めているのだろう。別に、気持ち悪いと思われていたりするわけじゃなければ、隠していることでもないから、教えるけれど。なんなら気持ち悪いと思われていてもいい。自分勝手な投影でしかないから。
「……娘が、いて。依多さんと同じ歳なんだ」
「へー!あ、だから気になってたってこと?」
「父親らしいことなんて、なにもできなかったから。罪滅ぼしじゃないけど、勝手にそんな風に使って、ごめんね」
「え、全然。むしろあたしラッキーだったじゃん。ていうか娘さん、一人暮らし中とか?あんま会わないの?」
「娘が8歳の時に離婚したんだ。それから数えるくらいしか会ってない」
「……そっかー」
「だから、今どんな風に過ごしてるのか、なにも知らないんだ」
「え、じゃあ娘さん、あたしと一緒だね」
「そうだね」
彼女がバイトの面接で、志望理由に合わせて言った言葉。「うちお母さんしかいないので、働けるだけ働きたいです」「少しでも楽にさせてあげたいから」「休みとかいらないので、よろしくお願いします」。はきはきと、まるで用意していたかのようにそう告げられて、記憶の中のまだ幼い娘の顔が過ぎったのは確かだ。あの子は今どうしているんだろう。彼女のように母親に楽をさせたいと、学校に通いながら毎日働いているのだろうか。それとも自分が知らないだけで、新しい家庭で幸せに暮らしているのだろうか。それを問う手段は自分には残されていない。連絡手段は元妻としか繋がっていない。今更連絡したところで、なんの用だと訝しまれるだろう。心配や疑いをかけたいわけじゃないから、自分からは何もできない。
離婚したきっかけは、うだつの上がらない自分に妻が愛想を尽かしたからだった。不倫だとかDVだとかのようなドラマ性は一切なく、もうあなたといる毎日は限界だから、この子は私が育てるからあなたは心配しないで、とたった一枚の紙を突き出された。離婚届。自分にはそれにサインをする以外に道がなかった。無理を言って引き留められるほど、自分には価値がないから。ただ、幼い娘がこれからどれほどの苦労を背負うことになるのか、それだけがずっと心残りだった。
娘と同じ歳の女の子を見るたびに、あの子は今どうしているだろうか、と考えてしまう。笑って幸せに暮らせているだろうか。辛い思いはしていないだろうか。もしも苦しいことがあっても、それがきちんと正当に報われているだろうか。彼女に良くしたのはひとえに、娘にできなかったことを彼女に重ね合わせて行なっているだけの、自分への慰めでしかない。多少なりとも彼女本人がいい気分を得られたのなら、少しはよかったかな、という程度。娘と同じ立ち位置にある彼女が、表情をころころ変えながら、年相応に好きな人の話をして、笑ったり怒ったり照れたりする様を見るのは、まるで自分が父親業を問題なく行えているかのような錯覚を与えてくれた。そんなわけはないのに。
「え。待って。待って?店長、離婚したの?」
「そう」
「娘さん元気なの?」
「……多分。連絡をとっていないから、分からないけど……」
「じゃあ会いに行けばいいじゃん!なんで会わないの?つーか連絡とってないってなに?元奥さんとめっちゃ揉めたの?」
「そんなことはないけど」
「なんで会わないの?」
「なんで、って」
「会えるんなら会わなきゃダメだよ!あたしの話聞いてテキトーに満足すんなし!会いたくても会えない人もいるんだからさあ!」
「……あ、会えないよ」
「なんでさ!死んじゃってるわけでもないくせに!贅沢言わないでよ!娘さんの恋話聞いてハイハイって相槌打ったげればいいじゃん!」
「し……」
「あたしのパパは死んじゃったんだぞー!会って話ができるくせにワガママ言うなー!」
ばし、と空の紙袋を投げつけられて、顔を真っ赤にした彼女が休憩室から飛び出していった。追いかけることもできずに見送る。
「なんで会わないの?」という問いかけに、明確な答えを出すことができなかった。





「おひさしぶりでーす」
「あ、依多ちゃん。店長ー、依多ちゃん遊びに来ましたよ」
「えっ、あっ、ああ、ええと、待ってね」
「待つ待つ。あ、これ差し入れ。みんなで食べてね」
「やだー、気が効くんだから」
彼女が大学を卒業して、それと同時にバイトを辞めて、一年ちょっと経った。不定期に顔を出しては、知り合いと話し、差し入れを置いて帰っていく。今日もなにか持ってきてくれたらしい。ひと段落するまで待ってもらって、休憩室に駆け込んだのはそれから二十分後だった。
「あ、お、お待たせ。ごめんね」
「ううん。店長忙しそうだね」
「手が足りなくて……」
「バイト募集してんの?」
「してる……」
「いい人来るといいねー」
頬杖をついて笑った彼女に、ポケットから取り出したスマホを操作して、見せる。少し目を丸くした彼女が、画面を覗き込んで。
「え誰?店長似て……あっ!?」
僕が言葉にするより早く察した彼女が、鞄を振り回して叩いてきたので、少し痛かった。特に何も、会えたからと言って関係性が変わるわけでもなかったし、なんなら自分は恨まれているんじゃないかとか、かなり嫌々この場に来てもらっているんじゃないかとか、そんなことばかりを考えてしまっていたけれど、でも会えた。時間は経ってしまったけれど、それは他でもない彼女のおかげだったと思うから、報告がしたかったのだ。聞かれるがままに質問に答えていると、頬を紅潮させた彼女が、満足そうに笑った。
「なんかさあ、前さ、店長の娘さんあたしと一緒じゃんって言った気がすんだよね。あれ嘘だから、ずっと心残りで。だって嘘じゃん?店長と娘さんは会えるけど、あたしはパパともう会えないから」
「……そうだね」
「だからさー、嘘ついて一緒くたにしてごめんねってずっと思ってたの。あは、会えて良かったね」
「ありがとう」
「えーあたしなんもしてないし。なんか時々会って話聞いたげたら?店長に話聞いてもらうの結構安心するよ。あ、でも、お父さんのこと嫌いだったらダメか」
「……嫌……嫌いだと思うよ」
「照れ隠しかもしんないじゃん?パパ好き♡って言う女子逆になかなか見なくない?あたしはパパ好きだけど」
「……そっか……」
「えーなに重くなってんの!あたしは店長好きだよ!安心して!」





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