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全部お前のせい



ゆり先生は優しい。
勉強について行けなさ過ぎて授業をサボりまくってたら見事に落第不良のレッテルを貼られた俺を、「聡はそんな子じゃない」と信じてくれた両親が呼んだ家庭教師が、ゆり先生だ。悪いことがしたかったわけじゃないし、自分でも引くほどマジでバカなので、楽しそうなことにばかりついて行った結果が、教師陣からの冷たい目だっただけだ。良くて留年、悪くて中退、と思われてる。できれば後者を選んでくれた方が学校にとって都合がいいっていうとは、最近察した。けど、何度も言うようだけれど俺は学校を辞めたいわけじゃないし、ヤンキーになりたいわけでもない。だからといって一人で勉強なんてできるわけがないし、できないなら学校にはいられない。しょうがないのかな、と思っていた。そういうもんなのかな、って。親には迷惑をかけるかもしれないけれど、世の中っていうのはきっとそういうようにできているのだ。学校行くんじゃなくて働いた方がいいか、頭の悪い俺を雇ってくれる心の広い会社はあるだろうか、とスマホで検索していたある日、「今日からお前に勉強を教えてくれる家庭教師の川野先生だ」と父親がゆり先生を紹介してくれた時には、はえー、と間抜けな声が出た。まずはちょっとずつがんばりましょう!と両手をグーにしてぎゅっとしたゆり先生に、頭がついていかないまま同じように手をぎゅっとして真似したら、笑われた。笑った顔がかわいいな、と思った。
「できた」
「お、だんだん早くなってる。えらいぞ」
「うん……」
「待ってね。どれどれ」
ゆり先生は、中学生レベルからズタボロの俺の学力を知っても、バカにしなかった。ここまではできてる、というラインをはっきりさせて、次の日にはいっぱい赤線が引いてある参考書を俺に見せながら、丁寧に説明してくれた。分かんないことだらけで、どう?分かった?と聞かれるたびにアホの顔をして口を開ける俺に、ゆり先生はちょっと唇を尖らせて考えては、もっと分かりやすく言い換えてくれた。優しい。いい人だ。敬語もロクに使えない俺に、「無理しなくてもタメ口でいいよ」「なんなら名前呼びでも平気だよ」と言ってくれた。ゆりちゃん、と呼んだら、ちゃんはちょっと恥ずかしい、と耳まで赤くなって手をぱたぱたしていた。その日からゆり先生はゆり先生だ。
「ここが難しかったかな。どうやって解いたのか見せてくれる?」
「……ええと……」
「そう、うん、そこまでは合ってる。あ、掛け算で間違えちゃっただけなんじゃない?もっかい計算してみて」
「……はちかけるろくってなんだっけ」
「分かんなくなっちゃったら、書いて整理してごらん」
俺は、いろいろ考えてると分かるはずだったことがどんどん分からなくなってしまうので、ゆり先生が教えてくれたのが、紙に書き出して整理する方法だった。九九とか超忘れるんだけど、8つ丸を書いたのを6つ重ねて数を数えると、思い出せる。なんていうか、メガネ頭の上に引っかかってんのにメガネメガネ!っつって探してる感じだから。そこにあることを思い出せば、なんていうことはないのだ。
「よーし、全部合ってる。倉原くんはかしこいな」
「かしこくないよ。バカだよ」
「教えたことがすぐにできるようになるんだから、かしこいよ。自分のことをバカにするのはやめなさい」
「うい」
おでこをデコピンされた。えらいぞ!と俺の頭をがしがし撫でたゆり先生が、帰り支度をはじめた。それをぼんやり見上げて、ふと思い出す。
「あ、ゆり先生、これ。こないだ貸してくれたやつ」
「どうだった?」
「かっこいかった。ぎゅいんぎゅいんしてた」
「ぎゅいんぎゅいんだよねー!」
ゆり先生はライブに行くのが好きだ。俺は、音楽の好みとかあんまなくて、テレビでよく聞くやつとかネットで話題のやつとかを上っ面だけ攫って聞いてる。けどゆり先生はもっとなんかちゃんと調べてて、メジャーデビュー?する前の人たちのライブとかに行ってるんだって。メジャーデビューがなにかは知らないんだけど。とりあえず周りの誰も知らないことを知ってるってのがすげえと思うから、恥ずかしそうにその趣味を教えてくれたゆり先生に素直にすげえって伝えたら、好きなバンドのCDとかを貸してくれるようになった。感想らしい感想が言えた試しがないけれど、次はあれ持ってこようかな、あっちにしようかな、とうきうきしているゆり先生がかわいいので、これでいいことにしている。こないだは、ライブのフライヤーとかいうのをくれた。行きたいって言ったら、でもまだ高校生だしなー、夜だし時間がなー、とうんうん悩んで、「気分だけでも」って。それに載ってる人たちのことは一人も知らないんだけど、確かになんか知ってるみたいな気分になるので、壁に貼ってある。ゆり先生がそれに気づいた時のにんまり顔が面白かった。
「じゃあまたね」
「うん。ありがとお」
「学校の先生にもちゃんと頼るんだよ!」
「うーん。うん」
曖昧な返事をした。学校の先生は、俺のことをバカにするので、分からないところがあっても聞きに行きたくない、んだけどな。



「さと、どこ行くん」
「……んー。ちょっと待ってて」
「ふらふらすんなってえ」
いろいろ遊びに連れてってくれる先輩と、カラオケ行こってなって、気づいたら補導される前に帰れるギリギリの時間だった。こっから電車乗って駅から歩いて帰って、ちょっと急がなきゃ間に合わないってのは分かってんだけど、大通りのネオンの隙間に、ゆり先生がいた気がしたのだ。先輩を置いて早足で追いかける。おいこらー、ってのんびりした叱り声は背中で受け止めた。見間違いかな。それか、ライブ見に行った帰りとかかも。びっくりさせちゃろ。こんな遅くまで遊んでないで!って言われるかもしれないけど。一本入ると急に明かりの数が減って、ついていった早足を思わず止める。いや、男といんじゃん。あぶね。背の高い赤っぽい頭の男と、俺の知らない顔をしたゆり先生は、こっちには全く気がついていないみたいで、寄り添いながら建物に入っていく二人を見送る。後ろから先輩に蹴飛ばされて、つんのめった。
「おい」
「うわ」
「ふらふらすんなっつったろ。なに?」
「……知り合いが」
「知り合い?友達?」
「家庭教師の先生」
「はあ。お前バカだもんな。厳しい?」
「超優しい。俺高校入って初めて問題集の例文意味わかった」
「すげーじゃん。その先生どこ行ったの?」
「そこ入ってった」
「ラブホじゃん。残念だったな」
「……彼氏ってこと?」
「知らんけど……彼氏なんじゃないの?そんなに優しい先生なら」
「……………」
「……あ、ごめ、好きだった?わりい」
「ううん。好きとかそうゆうんじゃない」
「複雑な感じ?」
「フクザツなかんじ……」
「そかそか。おうちで泣きな」
「泣かねーし」
「さとちゃんは脳味噌が赤ちゃんでちゅからねえ」
「そうでちゅね」
がしがし頭を撫でられて、ああ慰められてんだな、って思った。こいつ失恋してかわいそうだと思われてんのかな。そうじゃないんだけど、先輩の下手くそな優しさが嬉しかったので、しばらくされるがままに頭を撫でられたり背中を叩かれたりしながら歩いた。駅に向かう途中で先輩がいろんな人に声をかけられては「あ未成年なんで」「飲めないんで」と適当に断っては片手を振って歩いていく。あの人たちなにしてんの?って聞いたら、キャッチ、って言われた。こないだ覚えた英単語だった。
「あ、おにーさん」
「あーあー今帰るとこなんですよお」
「いやいやお兄さん。ん?なにしてんだ、こんなとこで」
「げ、ぇ、ツツジさん」
「友だち?かわいーね、高校生?」
「そうなんすよ、未成年送って帰るとこで。はは、行くぞクロダ」
「はえ?だれ、それ」
「また今度事務所伺いますんでー!」
「おー」
「俺クロダだっけ?」
「黙って」
低く吐き捨てられて、言われた通りに黙った。駅について、ホームで立ち止まるまで、先輩は黙り込んだままだった。取られてた腕が離されて、ようやくふっと肩の力が抜ける。あの人は怖い人だから、と内緒話のように教えられて、知った風な顔でうなずく。ないとは思うけどどっかで話しかけられたら無視しろ、人違いだって言え、なんか貰ったりすんな、とにかく走って逃げて俺に連絡しろ。と頬を潰された。分かったけどさ。
「鼻水出た」
「きったね!」
「先輩が顔つぶすから……」


それから数日が経った。
「ゆり先生、彼氏いんだね」
「は、え、えっ!?なん、なんでっ?」
「……や、いそうだなーって思っただけ……」
「か、彼氏、は、いな、い、いないかな……」
「えっ?そうなの?」
「そう、うん……そう……」
流石に「ラブホに男と入ってくとこ見たからそう思った」と正直には言えなかったので誤魔化したんだけど、ゆり先生の動揺の方がすごいから、多分俺の変な感じは全く気にされてない。ていうか、彼氏じゃないんだ。それに関して喜びとか悲しみとかはないんだけど、彼氏なんだろうと思ってたから、へえー、って思う。意外っていうか。ゆり先生、一途っぽいじゃん。付き合ってもない人と、そういうことしなさそうっていうか。それも俺が知らないゆり先生なんだろうか。ものすごくあわあわしていたゆり先生が、咳払いを一つして、机に肘をついた。ちなみに一応、今は休憩中であって、勉強時間ではない。
「倉原くんは?好きな子とかいるの?」
「いない」
「そ、そっか……」
「ゆり先生は?」
「……い、いるけど……」
「へえ」
「……真顔で聞くのやめてよお……」
「えっ……?ニコニコしたらいいの……?」
「もーやだあ!倉原くん恋愛の話とか女の子としたことないでしょ!淡々とされると恥ずかしい!」
そりゃ、最近はもう学校にあんまり行ってないし、行ってても授業にほとんど出てなかったんだからクラスの女子と話す機会なんてあるわけがなかった。もっとうきうきした方が話しやすいのか、と思ってニコってしたら、大人を馬鹿にしてえ!って机を叩かれた。どうしたらいいんだよ。
「いいでしょ!先生の話は!休憩終わり!」
「えっあと3分残ってる」
「そうでした!もう!」
「告白しないの?好きなのに」
「……高校生すぐ告白さそうとする……」
「だって、ダメなら早く次に行ったほうがいいよ。オッケーもらったら付き合えるんだし」
「合理的……」
「だいじょぶだよ。ゆり先生かわいいよ」
「……倉原くんが高校生じゃなかったら今の一言はやばかったですね……」
「ロリコンってこと?」
「ちがーう。全部違うー」
とかやってるうちに3分経って、切り替えの早いゆり先生は、参考書を片手にテキパキと俺に説明を始めた。ゆり先生がそうなっちゃうと、別のことを考えながら勉強できるほど器用ではない俺は、分からないところを分かるように噛み砕いては飲み込む作業で手一杯になるのだ。自分は書いて覚えることなら得意だっていうのが最近分かって、それが分かってからは英語の単語帳がめちゃくちゃ面白いものにしか見えなくなった。未知がめっちゃいっぱいある。図鑑見てるみたいな感じ。文法とかいうのも、苦手だけどがんばってちゃんと整理しながら考えれば、訳せる。だから、今のところの俺の得意科目は英語である。一応高一の範囲は半分追いつけたし。
「今日はここまでね。宿題いる?」
「うん。英語がいい」
「えー、数学やってほしいな。それか国語」
「英語がいい……」
「じゃあ、国語のここ。このページと、英語はこれにしよっか」
「なにこれ?」
「歌詞カード。分かる単語から訳してごらん。文章として成り立たなくてもいいから、単語帳だと思ってね」
「うん。あ、これこないだ貸してくれたやつ?」
「そう!なんで分かったの?」
「題名」
「……見て覚える記憶力はあるのにねえ」
ゆり先生が帰ってから、ずっともやもやしてたのを思い出した。あの、ゆり先生の彼氏っぽかったけど彼氏じゃなかったみたいな男。どっかで見たことあるけど、でもぱっと思い浮かばないし、暗かったからなんとなく誰かに似てるのを知ってる人と勘違いしてるんだろうなって自分で自分を納得させてたんだけど。
「……うーん?」
壁に貼ってあるフライヤー。写真自体がそんなに大きくないし、絶対そうだと断定はできないけど、この人に似てるような気がするって人がいる。試しに部屋を暗くしてスマホの懐中電灯で照らして見たけれど、大して変わりはなかった。バンドの名前で検索して、名前も分かったのでいろいろ調べてみて、とベッドに寝転がりながらだらだら調べて。なんかいい噂全然出てこないんだけど。バンド自体の記事なら割と評価されてるぽいし、ファンも多いっぽい。ゆり先生が貸してくれた中にもあるんだと思う。なんか聞き覚えある曲あったし。けど個人になると、固定アンチついてます?ってぐらい検索の色が変わる。有名だからってこと?天才は憎まれるみたいな?なるほどね。
バンドの公式に戻ってつらつら見ていたら、近々ライブをやることが分かった。行かないけどさ。忘れないうちに宿題やっちゃおうかなってスマホを伏せて、分かる範囲で単語を訳しながら、ついこないだまで全部わかんなかったのになあ、とぼんやり思った。



ゆり先生が来た時の休憩時間。貸してもらったCDの話になって、こないだ行ったライブのことを嬉しそうに話すゆり先生に、ふと思って聞いてみた。
「好きな人とどうなった?」
「どっ、こ、どうもこうもないよっ、あれから何日かしか経ってないじゃんっ」
「それもそっか」
「……倉原くんは、こう、私が上手くいったらいいなーと、思ってるの?」
「うん。それはそう」
「……そか……」
あ、嬉しそう。あんま周りにはおすすめされてないのかもしれない。だってちょっと調べた感じめっちゃ叩かれてたもんな。特に女関係。音楽のことはよく分からないけど、多分そっちは褒められてるっぽかった。けど、噂でも何股もかけてる疑惑がある人を好きになっても幸せではないと思うんだけど。俺はね。だってゆり先生、叱れなさそうじゃん。言い負かされたらあせあせしてちっちゃくなってそう。好きになった側の負い目から逃げられないのが目に見えるっていうか。そうやって考えてたらなんかもやもやしてきて、ゆり先生がもし告白してオッケーもらってもあんな悪評高い人のところに行かせるの嫌なんだが?って気になってきた。
「……ゆり先生さーあ?」
「ん?」
「あんまさ、その……なんていうか?その人だけで、好きになっちゃだめだよ。多分」
「……へ?」
「あの、や、わかんないじゃん。嘘つかれてるかもしんないじゃん?ちょっとこう、周りの意見とか、あ、ネットとか!ツイッターで検索するとか、そういうのも込みで好きになるっていうのはどうだろうと、思って」
「……な、に言ってるの?」
「……んー。なに言ってんだろ俺……」
「……………」
「……あんまり、こう、悪い人?ていうか、悪い噂がある人、好きになって欲しくないなーって、ゆり先生に」
「何言ってるの」
「う、え」
硬い声だった。聞いたこともないくらい、厳しい声だった。話してるうちに自分の爪先を見ていた俺は、それを聞いてようやく顔を上げた。多分もっと早く前を向いて、ゆり先生の顔を見ていたら、話をやめなきゃいけないことは察せてたと思う。低く早口で吐き捨てられて、喉が詰まった。
「何を知ってるの。何も知らないくせに。ちょっと調べただけで知った気になって、何様のつもり?直接話したこともないくせに。私にどうしてほしいの?」
「……え、と……」
冷たい目だった。見たことのない顔。人を見下しきった表情。すっかり慣れきったはずのその感情が、ひどく怖かった。馬鹿にされることも下に見られることも、よくあることで、そんなの当たり前だって知ってるのに。きゅ、と喉が変な音で鳴って、こめかみがじくじくした。無理やり絞り出したのは、自分を守るための言い訳。
「……お、おれ、ゆり先生が、誰のこと好きかなんて、知んないよ……」
「……そう?」
「そ、そう」
「……そう。そうだった。そうだったねっ」
にこ、と笑ったゆり先生は、いつもと同じ顔だった。



ゆり先生は変だ。もう好きな人の話なんか振らない。そんな勇気はない。けど、ゆり先生が変な男に引っかかって変な風になるのも嫌だ。なので、直接相手と話したらいいんじゃないかと思った。調べてみれば幸いなことに「出待ち」という行為があるらしく、待ってれば会えるかもしれないらしい。それか別に、話せるようになるまで後ろついてってもいいし。どうせ学校なんてギリギリの瀬戸際なんだし、ゆり先生に勉強教えてもらってなんとかなってきたけど、ゆり先生のために全部棒に振るならそれはそれでありだと思った。ライブがある時は公式にアナウンスされるし、もっとつぶさに調べていったら、練習してるらしきところも分かった。そこはもうSNS社会に感謝するしかない。多分そのスタジオのバイトなんだろうなって人が、写真を上げてただけだから、確約はできないけれど。
けど、なんていうか、俺はまだ高校生だし、高校生に見えない見た目をしているわけでもないので、待ち伏せしていると割と警察に声をかけられて「どうしたの?こんな時間まで。君いくつ?」って聞かれることが多いのだ。困る。ほっといてほしい。別に家出してるわけでもないし、悪いこともしてない。ただ人と話がしたいだけだ。とりあえず声をかけられたら逃げることにしてるんだけど、それもどうかと思う。やり方を変えた方がいいんだろうか。何日も何日も待ち続けて、一回他のメンバーの人が出てきたのが見えたからあとちょっとだと思ったのにタイミング悪くガラの悪い集団に絡まれたので走って逃げたこともあった。でも多分、待ってる場所は間違いじゃないはず。毎日待ってればいつか会える、と思う。ゆり先生の授業がある日以外はずっと、毎日同じ場所から見張り続けて、なんかもう警察が見回りに来る時間が分かるようになっちゃった頃。
「こんばんはぁ」
「……こ、んばんは……?」
「こないだからずうっと、なに見てんの?必死な顔して何時間も、毎回しょんぼり尻尾垂れた犬みたいに帰るだろ?もー気になっちゃって気になっちゃってさあ。ついに話しかけてみたってわけなんだけど」
「……はあ」
「で?なに見てんの?好きな子の着替え?」
「ちが、出待ち、です」
「好きな子の?」
「……嫌いな人の……」
「うんうん。好きより嫌いの方が気持ちは強いもんね、分かる分かる。分かるんだけど、どうしてあたしが君に声かけたか分かる?」
「ぇあ、いや……」
「大雨の中ぺらっぺらのレインコート一枚で突っ立ってる若者を、ほっとくわけにはいかないの。ちなみにあそこのスタジオ今日臨時休業。オッケー?」
「……………」
「信じなくってもいいけど。誰も来ないし誰も通らないよ?」
雨の日でも傘をささないのは目立たないためだし、よりによって大雨なのは思っていたよりも雨脚が強くなったからだ。スタジオが休みのことは知らなかった。短い髪を揺らして、足元をびしょびしょにした女の人が、首を傾げた。
「あたしの職場、あそこね。明かりついてんでしょ?事務所兼家なんだけど、とりあえず上がってってよ。そんな濡れ鼠じゃかわいそうでしょーがないよ」
「え、い、いい、っす」
「うるさいうるさい。ほら傘持って!」
「ぎゃっ」
「進め少年!ほら!早く!」
無理やり傘を握らされて、ぎゅっと寄り添われて、俺が手を離したらこの人は一瞬で頭から雨に濡れる。下手くそな二人三脚みたいに進んで、三分も経たないうちに建物の中に入った。ボロいアパートを古いエレベーターで上がって、突き当たりの部屋。
「タオルあげるから。風邪ひくよ?」
「……ありがとうございました……」
「ございますだろ?なに帰る的な空気出しちゃってんの?」
片眉を跳ね上げた女の人に押し切られるように部屋の中に入る。とりあえず着替えて、と男物の上下を押し付けられて、混乱する頭で、言われるがまま言うことを聞いた。なんなんだ。変な人。乾いたタオルで髪を拭きながら戻ると、女の人はお湯を沸かしていた。
「適当に座って。車出してあげるから」
「えっ、いいっす、ほんとに、電車で帰るんで」
「なんなのもううるさいなあ君は!はい分かりましたありがとうございますは!?」
「は、はい」
「ありがとうございます!」
「ありっ、ありがとうございます!」
「よし!」
ばしばし背中を叩かれて、ここから君のことが見えていたんだと窓際に連れて行かれる。本当だ。今は雨だからあれだけど、よく見える。あたしがいつも座ってるとこがここだから毎日君のことが見えてた、とキャスター付きの椅子に腰掛けた女の人がくるくる回った。目が回らないんだろうか。デスクの上にはパソコンとかペンとかがとっ散らかっていて、写真立てがあった。何の気なしに見たそれに、知っている顔がいて、二度見する。
「せん、この人、先輩。俺の先輩」
「あ、そお?世の中狭いね」
「なんでこんなとこに」
「こんなとこって、失礼だな。これはあれだ、懇親会?みたいな感じの時の記念写真だったと思うよ。先輩くん、あたしの同僚なんじゃない?」
「じゃない?って……」
「だって知んないもん。あたしが任されてるのはこの事務所だけ。外で働く人のことは知らないの」
「……何の、仕事なんすか?」
「んー?なにって、番犬?わんわん。うはは」
変な人だ。ものすごく変な人。お湯が沸いたのでそっちに行ってしまったのを目で追って、いつ帰ろう、とぼんやり思う。早く帰らないと、いつもどんなに遅くなっても必ず家には帰ってたわけだし。流石に親を泣かせるのは心外だ。ソファーに座るよう促されて、女の人は隣に座った。前に座ればいいのに。
「お菓子もあげようね。クッキー好き?」
「ふつう」
「ラムネは?」
「ふつうです」
「そかそか。お砂糖は入れる?」
「うん……あ、はい」
「別に敬語じゃなくていいよ。不審者相手にかしこまる必要ないでしょ」
「……………」
不審者の自覚はあるらしい。ポケットに突っ込んだスマホをなんとなく上から触りながら、出された紅茶とお菓子をつまんだ。あったかい。自分では気がつかなかったけどお腹が空いていたらしく、ラムネとクッキーをぽりぽり齧りながら紅茶を飲んでたら、女の人が口を開いた。
「そんで?嫌いな人のこと待ち伏せして、どうする気だったの?」
「……話したいことがあっただけだから、どうもこうも……」
「えー。ぶん殴ったる!とかそういうわけじゃないんだ?いい子だね」
「うーん」
「なんで嫌いなの?恋人でも寝取られた?」
「ねっ、そ、そんなことない」
「そお?この世に人を嫌いになる理由ランキングがあったらかなり上位だと思ったんだけど」
「……好きとかじゃなくて、なんか、お世話になった人が、遊ばれてる疑惑だから、相手の人にもしそうならやめてくださいって、直接頼みたくて」
「……………」
「……なに?」
「……超いい子じゃん……」
「ぶわっ」
「お姉さん感動しちゃった!自分のためじゃないってとこがいいよね!他人のためにあんな毎日同じとこに突っ立っては意味なく帰って次の日同じことする!?しないでしょ!かわいーねバカだねえ!」
「ゔっ、重、どいて」
女の人が飛びついてきた。カップの中に紅茶が入ってなくてよかった。飲んじゃったからなんだけど。頭をぐりぐりされて、頼むからどいてくれと体を押したものの、腕も足も絡められて全然離れてくれなかった。いやこっち健全な男子高校生なんですけど。若干ペットにするようなじゃれつき方なのが気に食わないだけで、普通に女の人にそんなくっついてぎゅってされたらどきどきするんですけど。細っこい指で前髪をいじってはおでこをくすぐられて、うろうろと目を泳がせることしかできなかった。くすくす笑われて、はだけた上着からのぞいた二の腕を無理やり指差して話題に飛びついた。
「な、なにそれ、なにこれ、いいねこれ」
「ん?これ?タトゥーだよ。こっちが椿。あたしツバキっていうんだ」
「つばきさん、あの」
「これはツツジ。あたしの飼い主。いいでしょ?かわいいでしょ?下の方にもあるんだよ、見たい?」
「み、っいいです、みなくて、俺帰んないとっ」
「かわいー。志野くんに売られちゃってかわいそーにね、クロダくん」
「へ、ぇ?」
「はい、あーんっ」
口の中に放り込まれたラムネに、女の人、ツバキさんの目が細まる。そっと頬に手を添えられて、甘ったるい声が降ってきた。
「いくら大事な人のためでも、君がそこまで頑張る必要なんかどこにもなかったんだよ。他人に任せて、知らんぷりして逃げちゃえばいいでしょ?上っ面だけでちゃらついた好きとか愛してるよりも、お世話になったっていう感謝とか尊敬の方が深くて重たかったのかもしれないけど、いくらそのためでも君が時間を棒に振らなきゃいけない理由にはならないよね?だったらもっと楽しいことしようよ。どうせみんなすぐ死んじゃうんだよ?君が嫌いな誰かさんも、君に嫌われてることなんて知らずに、どっかの誰かと楽しいことしてるんだからさ。当て付けに君も、めいっぱい人生無駄にしてみよっか?」

頭がぐらぐらして、よくわからなかった。




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