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ありまとおべんと




お別れを、言いたいと思いました。
あなたがあたし以外の人の事を考えているのは知っていました。あたしを見ているようで不意に気持ちがそっぽを向いていることも分かっていました。ずっと見てたんだからそのくらい察します、女の子のしつこさを舐めないでください。それが誰なのかまで聞きたいとは思わなかったし、そんなの構わないからあなたのことを好きでいようって思っていました。あなたの隣に立って、彼女として他より少しだけ特別な存在になっていることで満足だって思い続けていました。ほんの昨日まではそう思えていたんです。
でもやっぱり駄目でした。あなたの全部が欲しいって、言ってしまいそうになりました。けれど、それはしちゃいけないことなんです。あなたは、はるかちゃんは、あたしになら全部あげられるよって笑うかもしれないけど、そんなことを言わせたいんじゃないんです。有馬はるかを独り占めにすることなんて、井生千晶には出来ません。
一緒にいるのにあたしから視線が外れた時に、目は合っているはずなのにどこか遠くを見ているように思える時に、あなたが何を思っているのか分からなくて、それはとても怖くて、挙動不審な態度を取ってしまったことも何回もありました。その節は本当にごめんなさい、今更だけど許してほしいな。もしかしたら、あなたは覚えてすらいないかもしれないけれど。
好きってことと、付き合うことと、幸せでいることって、結びつくものじゃないと思います。今のあたしはあなたと一緒にいて本当に幸せなのかな、これからのあなたはあたしといて幸せになれるのかなって考えた時に、ちょっと違う気がしました。幸せな未来は想像できたけれど、それと同時に、あたしは永遠にこっちを向かないあなたの背中に恨み事を投げ掛け続けているような、そんな後ろ暗い想像もついて回りました。
こんな綺麗事言っといて、実際はただの我儘な嫉妬なのかもしれません。視線も心もあたしに向けてほしいだけなのかもしれません。というか、そうです、きっとそうです。それでも、あなたの隣を歩くことが今のあたしには出来そうにないなって、思ってしまいました。
あなたのことが嫌いになったわけじゃありません。むしろずっと好きでいられる自信の方があるし、さよならを言った後しばらくはあなたのことばかり考えるんだろうし、毎晩あなたの名前を呼んで泣くかもしれないし、打ちひしがれて学校に行く気もなくなるかもしれません。でもお別れしなくちゃって思ったんです。また思いつきで行動して、って怒られちゃうかもしれないから、お友達にはしばらく黙ったままにしておこうかなとも思ってます。
今からあなたに会いに行きます。こっちから告白してお付き合いしてほしいって言ったくせに、さようならもあたしから言い出すなんておかしな話ですね。でもあなたはあたしのお願いをいつも聞いてくれる優しい人だから、きっと何を言っても頷いてくれるんだと信じています。
さよならのついでに、あなたがあたしを通して誰を見ていたのか聞いちゃおうかな、なんて考えたりもしています。そうです、最後に意地悪したいんです。無意識だったのなら、あなたはあたしが言っていることの意味が分からなくて混乱するんでしょう。意識的なら、あたしに対して色んなもやもやを抱いたままお別れするでしょう。普段なかなか頭なんて使わないんだから、最後にあたしのために一生懸命いろいろ考えてくれたらとっても嬉しいです。
あなたの前でこんなに上手に喋れるわけが無いので、試しに頭の中で零してみました。この通りに話せたらいいのにな。きっと無理だね。あと、最後に。
あたし、泣かないようにがんばるから。はるかちゃんも、余計なこと言わないでよね。





待ち合わせ時間の二分前。俺にしては早い到着だと自分を褒めてあげたいところだったけれど、いつもと同じ待ち合わせ場所に千晶が立っているのが目に入って、駆け寄った。彼女はこっちに気が付いていなくて、この前一緒に買いに行ったワンピースがひらひらと風に舞っていて、もうちょっとスカートが短かったらなあ、なんて下世話なことを考えてみたりして。
「ちあきー」
「……えっ」
名前を呼ばれてこっちを見た千晶が、俺を視界に入れた途端に腕時計を見たので、そんなに俺が間に合うのは珍しいかよ、と口を尖らせる。そんなことは、と笑って誤魔化す彼女の前で立ち止まって、俺より低い位置にある顔を覗き込んだ。なんか違和感、というか。
暑いからどこか入ろうよ、と急かされてすぐに退く羽目になったけれど、さすがの俺でもこれは分かる。隣を歩く千晶に、前髪どうしたの、と呼びかけた。
「あー……分かるよねえ」
「そりゃあ、まあ、そんだけ思い切ればな……」
「ほんとは全部短くしたかったんだけど、前髪で大失敗しちゃったからやめたの」
「えっ、切んの?」
「だって、はるかちゃん髪の長い子が好きなんでしょ」
そうだけど、と返しながら首を傾げる。長い方が好きだと教えた時には確か、じゃあ伸ばそうかな、と可愛いことを言ってくれた覚えがあるんだけど。まあ夏だし、女の子は髪の毛が暑そうだと思ったこともあるし、千晶の好きにすればいいと思う。
今朝切ったの、と照れたように笑う千晶のことを見ながら足を進める。最初から店に行けばよかったんじゃないかと思わなくもないけれど、付き合いが長くなってくるにつれてだんだん分かってきた。千晶は弁当と同じで、肝心要で詰めが甘いタイプの人間だ。
ここでいいかと話しながら、適当にその辺にあった店に入る。当たり前だけど店内は涼しくて、席に通された途端二人で何となく息を吐く。あまりにタイミングが合っていたから思わず顔を見合わせて笑って、待ち合わせには間に合ったものの俺は結局千晶を待たせてしまっているわけで、だから好きな物頼んでいいよ、と促せば、緩やかに首を振られる。
「いいの?なんでも食べていいよ」
「うん。あたし、はるかちゃんと別れようと思うの」
そっか、と普段の調子で頷いて、そのまま自分の動きが固まるのが分かった。聞き間違いならそれはそれで笑い話になるからいいんだけど、今、彼女はなんて言ったっけ。
いつもと変わらない様子でにこにこと笑っている千晶からそんな言葉が出たとは思えなくて、聞き返すにもなんて切り返したらいいか分からなくて、お互いに無言が続く。ふと目を向けた、机の上に並んだ細い手首に巻きつく腕時計は、十一時半過ぎを指していた。
水を持ってきた店員に彼女が注文するのをぼおっと見ながら、あれ今の夢かな、もしかしたら俺の聞き間違いかな、とか何となく思う。メニューを指す爪先を目で追って、揃った桜色を見ながら、そういえばこの間どっちの色がいいか聞かれたっけ、と忙しなく現実から逃げる。
「はるかちゃん何にするの?」
「え、っえ、なにが?」
「じゃああたしと同じのね、コーヒーフロート二つでお願いしますっ」
彼女の様子があまりに普段と変わらないので、嫌な白昼夢もあったもんだな、と一人で無理やりに納得する。さっきまでの沈黙とは裏腹に明るい声で、それでさっきの話なんだけどね、と千晶が言うので、台詞を横からひったくるようにして、前髪の話だよね、と続けた。
「ううん、はるかちゃんとあたしが別れる話」
「……冗談だったら、笑えねえけど」
「笑わないでよ、本気なんだから」
笑われたら、傷付くよ。そう呟いた千晶の指先は震えていて、ようやく現実が頭に流れ込んでくる。なんで、どうして、俺なんかしたかな、なんて言葉が口から飛び出しそうになった寸前、彼女の言葉に遮られる。それは想像していた別れ話の切り出し方とは違ったけれど、口下手な千晶らしくて、困ったように笑う顔はいつもと変わらなくて、ペースに乗せられる。
どうしようもなく寂しい話をしているはずなのに、今まで通りの調子を崩さずにアイスを掬いながら二人向き合って笑えたことは、きっと彼女のおかげだ。
「あたし、はるかちゃんのこと嫌いになんかならないよ」
「うん」
「でもね、別れようって思って、嫌だけどそうした方が絶対いいから」
「なんで?千晶のこと、俺好きだよ」
「嘘だあ、違う人とあたしの事重ねてるよ、重ねまくりだよ」
「重ねまくってるかなあ」
「ミルフィーユの方がまだ重なってないくらいだと思う」
「そんなに?」
「そんなに」
「そっかな」
「心当たりある?あっ、言わなくっても良いよ、あたしの知ってる人だったら、あれだ、その、困るっていうか、三角関係っていうか、昼ドラ!」
スプーンを慌てたように振る千晶に、分かったと頷きながら、重ねてる相手とかいう奴を何となく想像する。真っ先に思い浮かんだのは一人、けれどそれはただ単に何となく千晶とあいつが似てるから、この前あいつも同じようなこと言ってたなあって思うとか、何かするときの動作がそっくりだったからついその時の事を思い出してしまうとかそんなもので、あって。
それが重ねてるってことなんだろうな、と頭の隅で思いながら、冷えた銀のスプーンに歯を立てた。何も言わなくなった俺を見ながら、あたしの事好きだって言ってくれるのは疑いたくないし本当だと思うけど多分自分でも気付いてないだけではるかちゃんはその人の事の方が好きなんだよ、と物知り顔の千晶に一息で言い切られて、いやいやと手を振る。
「無いって」
「あるってえ」
「ない、それは違う、好きとかそんなん」
「あー、ほら、そういうとこ往生際悪いんだから」
「ちがっ、だからそもそもそういう相手じゃ」
「今まで気づいてなかっただけなんだから、今からどうにかしたら良いのっ」
がんばれよ!と力強く肩を叩かれて、ほんとにそういう感じじゃないんだけど、ともう一度だけ保険代わりに告げておく。けど、千晶はこうと思い込んだらちょっとやそっとじゃ引かないから恐らくこれもほとんど聞こえちゃいないんだろう。そういうとこほんとそっくり、ってそうじゃなくて、そういうんじゃないんだって。
じゃあそういうことなんで、と立ち上がって財布を取り出した彼女を、なにがそういうことなんだと慌てて止める。別れたいのは分かったし、理由も何となく分かった、けれどまだ話足りないし俺は千晶と別れたくなんかない。そう伝えてもきっと彼女の意志は変わらないだろうし、だからと言ってこういう時の上手な引き止め方なんて俺は知らないし、彼女を悲しませてまで傍に縛りたいとも思わない。そんなことは全部理解できている癖に、このままさよならなんてやっぱり絶対に嫌で、ぐるぐると回る思考からは言葉なんて見つからず、何も言えないままに目を彷徨わせる。咄嗟に掴んでいた指先を緩く握り返されて、視線が合った。
「あのね」
「……なに」
「花火見に行ったよね、この前」
「い、ったけど」
「海も行ったね、海岸歩いただけだけど」
「だって千晶が水着は嫌だって」
「半年くらいだったけど、他にもいろんなとこ行ったよね」
それで良かったし、楽しかったし、と続けながら、指先が離れていく。雪見に行こうっていう約束は反故になっちゃうね、なんて言葉に耐え切れずに、嫌だと零す。けれどそれはただの我儘でしかなくて、そんなこと誰よりも自分が分かってて、掴んでいた指がするりと抜けた。
嘘を吐くのが苦手な貴方が好きだと言ってくれて、とても嬉しくて、一緒にいた時間は楽しくて、確かに幸せだった。じぐざぐに切られた前髪じゃ涙が溜まる瞳は隠し切れていなくて、けれど俺にはもうそれを拭ってやることは出来ないのだ。滴が零れる前に彼女はもう一度笑って、俺にさよならを言った。
例えば、立場も交友関係も周りの環境も全てが今と違うものだったとして、それは生まれ変わったらを想像するのに近いことだけれど、もしそんなことがあったらきっと俺は彼女の事をまた好きになっていたと思う。今度は本当に、心から彼女を幸せにしようと努力して、彼女を悲しませることなく、ずっと一緒に。





「もしもし?なに、どうし、はあ!?」
自分でも驚くぐらい大きな声が出て、薄い壁が思いっきり叩かれる。お隣さんがどうもここ一週間くらいとても大事な仕事をしているらしいことは聞いていたので、反射的に壁に向かって大声で謝っておいた。それより、電話先でぐずぐず喋るこいつは、今なんて言った。
『だから、千晶と別れたの』
「なん、お前何したの、今からでも遅くないから謝ってこいよ」
『ううん、別れたのもう一週間前だし、ちゃんと話し合ってっていうか』
「え、ええ……」
『ていうか、なんか、お前に電話っていうのがまた、なんか』
電話の向こうで溜息を吐く有馬は声色こそ何とか元気なものの結構やられているようで、少し心配になる。原因とか理由とか、話したくないなら突っ込んで聞くつもりもないけど、相当参っているのが容易に想像できるのも事実だ。話を聞いてほしいわけではなさそうだけど、気分転換くらいはしてやった方がいいのかもしれない。
冷凍庫からアイスを引っ張り出して開けながら、電話越しだということも忘れているのか、ぐちぐちとこっちには声量不足でよく聞こえない言葉を吐き出す有馬に呼びかける。どこにも行きたくないんだったらそれはそれで良いけどどこか行きたい場所があったら言ってくれれば付き合ってやる、なんて若干、正直かなり回りくどい言葉だけれど、お前が落ち込んでるのは嫌だからどこか行こうか、とかなんとか馬鹿正直に言えるわけないじゃないか。
『……高いとこ、とか』
「飛び降りるつもり?やめて、無理」
『しねえよ!』
「危ないから展望台とかにしような」
『だから!さすがにそこまで絶望しきってないから!』
「いつにすんの」
『今からがいい』
「何言ってんだお前」
アイスを舐めながら鼻で笑うと、でもまだ昼前だし全然行ける時間だしお前俺の事慰めたいのか傷付けたいのかどっちなの、とぶつぶつ呟かれて、分かったから落ち着いてくれと溜息を吐く。テンションの高低差がありすぎる、考えているよりも重症なのかもしれない。
気分が落ち込んでる時に家に籠ってると余計に酷くなる事は、俺が身を持って知っているので、手間かもしれないけれどこっちの方まで出てきてもらうことにした。高いところに連れて行ってやるから駅まで来いと電話口に告げれば、生気の抜けた声が返ってきて、一瞬迎えに行った方が無難かと思ったくらいだ。溶けかけのアイスを咥えたまま啜りながら外に行く準備をして、家の鍵をかける。数歩歩きだしてから、食べ終わった棒のゴミを何故か持ったままだと気づいて戻り、自分も大概動揺しているなと他人事みたいに思う。
有馬と井生さんが別れたらきっと俺は喜んでしまうんだろうと思っていたし、実際そういう気持ちも無いわけじゃない。口に出さなかっただけで、さっきの電話での驚きの中には確かに歓喜が含まれていた。そんな自分は予想済みだったけれど、それよりも明らかに憔悴しきっている様子が窺えたこととか、有馬であれなら井生さんは大丈夫なのかとか、他人の心配がよっぽど頭を占めていて。サンダルを引っ掛けた足の進みはどんどん早くなって、予定よりも大分早く駅に着いてからも、井生さんに俺から急に連絡するのはおかしいかな、伏見か誰かに頼むとしたら二人が別れたことを言わなきゃいけないわけで、そういうことを本人の知らない所で吹聴するのは気が進まないし、なんてことばかりが回っていた。
「べんとー」
「あり、あ?」
「あっつ……」
ふらりと駅から出てきた有馬はどうにもやっぱり様子がおかしくて、来てくれてありがとうなんて殊勝なことを言い出して正直気持ちが悪い。どこ行くのとぼうっとした瞳を道に向ける有馬に、調子とか悪い?と聞いてみれば、暑いから頭が働かないんだとか適当な答えが返されて、納得は行かないままに頷く。確かにそりゃあそうかもしれないし、正論なんだけど。
「お前、熱とかない?」
「え?」
「こっち来い、顔赤すぎだって。おかしいよ」
「やだ、暑いだろ」
様子云々以前に、観察なんてしなくてもぱっと見でもうおかしい。表情や声、言葉遣いはまだぎりぎりはっきりしているものの、目は虚ろだし足元もふらつきかけで若干危うい。体調が悪いことが誰の目から見ても明らかだ、こんなんなら断ってくれても、と思いかけて、恐らく自分の体の異常に気付いていないのだろうと考え直した。暑いからとか、気分が落ち込んでるからとか、そんな理由を自分で勝手に当てはめているんだろう。
どっち行くの、とふらつきながら歩き出す有馬の額でも首でも、なんなら手でもいい、体温が分かりそうな場所に何とか触ろうと周りをうろつきながら道を先導する。一生懸命手を伸ばしてはいるものの、暑いから触るのやだと一蹴され軽々と避けられてしまった。半目しか開いてない癖して飄々と手を躱しきられ、挙句の果てに、何で今日に限ってそんなべたべたすんのと嫌そうな顔をされてしまえば、もう何も言えない。何で俺がそんな顔を向けられなきゃならないんだと、いっそ腹立たしく思えてくるくらいだ。
「お前熱ある、絶対高い」
「夏なんだから体温だって高くなるよ」
「なんないよ、お前の体調が悪いの!」
「坂かあ、弁当引っ張って」
「本気で言ってるの……」
「だって元気そうだし」
はい、と両手を差し出されて、仕方がないから握る。掴んだ手のひらは案の定熱くて、出した手を思わず一瞬引っ込めてしまった。当然のように俺よりこいつは重いし、しかも上り坂だし、引っ張れる自信は正直言って全くない。体重かけられたらお前諸共転げ落ちるからな、と先に言うとそんなことは知っていると真面目な顔して頷くので、手を離してやろうかと割と本気で思った。せっかく予防線を張ってやったのに、こっちの心配も知らないで。
引っ張って、なんて言った割にそれほど力はいらなかったけれど、とにかく暑いし有馬は歩くの遅いし、公園の頂上に着いた頃にはお互い息が上がっていた。どさりと座り込む有馬を見下ろすと、夕焼けになりかけた辺りに照らされてやっぱり顔が真っ赤だった。帰りは家まで送ろう、と内心で決めながら、何があったの、と小声で聞く。
「……んー」
「言いたくなかったら良いよ」
「……ミルフィーユだったんだって」
「あ?」
「千晶のこと、重ねまくりで」
「……はあ?」
「俺だって、はあ?なんだよ……」
こっちを見上げて、お前がさあ、と小声で呟かれて、俺は何もしてないよとつい食い気味で答える。逆に怪しいかもしれないけど、だってほんとに何にもしてないし、心当たりもない。すると、確かにお前のせいではないけれど責任がないわけではないと言うか、と煮え切らない様子でもごもごと零し出したので、一応謝っておいた。求められているのは謝罪ではない事くらい分かるけれど、俺のせいにしてちょっとでも楽になれるならそれはそれでいいと思う。
黙りこんでぼおっとしている有馬に気の利いた言葉や遠回しな励ましを掛けることも出来ずに、ただ隣に立ったまま無言を貫く。夏風邪を引いたんだか知恵熱なんだかは分からないけれど、らしくもなく精神的に弱っているのは確かに少なからず体の方にも影響しているんだろう。
ふらふらと力なく上げられた左手を目で追って、ついこの前まで嵌っていた指輪が無くなっていることに気が付いた。別れたと言い切る以上あの指輪が外されるのは当たり前のことなのだけれど、半年で有馬の薬指にすっかり馴染んだそれが存在しないことが現実を否応なく突きつけているようで、つい目線を逸らす。指先は、小さく見える建物の群へと向いていた。
「学校あっち?」
「あっち。そのへんが駅」
「じゃああの辺りが弁当の家、俺ん家あっち」
「そうだね」
「それで、井生家はあっちかな」
順繰りに指差していた有馬が、動きを止めて手を降ろす。そうなんだ、と適当な相槌を打ちながら気取られないようにそっと顔を覗き込む。けれど有馬は座っていて低い位置にいる上に俺に半分くらい背を向けた状態で、表情までは窺い知れなかった。
しばらくまた無言が続いた後、黙ったままで立ち上がった有馬がポケットを探り始めた。鞄なんて基本持ち歩かないような奴なのでその行動自体には何も違和感が無かったけれど、引っ張り出された手の中に握られた、日の光を反射したそれを見て、思わず口を開く。
「有馬」
「んー」
「それ、どうすんの」
取り出されたのは今さっき頭を過ぎった指輪で、手のひらでそれを転がす様子に何となく嫌な予感がして、咄嗟に服の裾を掴む。こっちを振り向きもしない有馬の手から指輪を取り上げて自分の手のひらに隠せば、消え入るような声が投げられる。
返せよ、なんて言葉に従ってしまえば、こいつは指輪を勢いのままに投げ捨てかねない。それはきっと、してはいけないことだ。まず第一に、見たくないから捨てていいとかそういう問題ではないし、というかそれ以前に俺はこの問題にほぼ無関係のはずだから、こんなことをする理由も意味も義理も無いんだけど、それでもこうして止めることが今まで抱いてきた泥のような感情の分の罪滅ぼしになったらいい、とは思う。それは恐らく誰のためにならないことは知っているし、有馬がこの指輪をもう見たくもなくて全部なかったことにしてしまいたいなら俺に止める権利なんて無い。けど、それでもせめて、自己満足だけでも、と思ってしまった。
今この瞬間、俺の手の中に指輪があるなんて、数日前までの自分からしたら狂喜乱舞してもおかしくないシチュエーションだ。捨ててしまおうか、適当な誰かの鞄にでも入れてしまおうか、俺は笑みを浮かべて考えていたに違いない。それはどうしようもない事実だし、紛れもなく俺自身が考えていたことで、今更そんな些細なことを偽るつもりは無くて。
体温が移って生温くなった指輪を追ってくる手から遠ざけながら、いいからとりあえず座れと反対側の手で示す。俺ではなく指輪を握る手だけを見ている有馬の頭を押さえつけると、いとも簡単にがくんと膝を折って地面に座り込んだ。俺の方が力はないけど身長はあるんだ、弱り切った有馬相手なら互角に戦えるかもしれない。
「返せって」
「い、やだ。今は返さない」
「指輪欲しいの?じゃあそれあげる」
「そうじゃなくって」
「じゃあ新しく買ってやるから」
「ふざけんな」
「ふざけてない、そんなら返せよ」
もうこれじゃあ堂々巡りだ、埒があかない。座り込んで膝に顔を埋めてしまった有馬の隣にしゃがむと、往生際悪く手を伸ばしてきたので半歩程距離を取った。
帰ろうと声を掛ければ首が横に振られる、そのくせげほげほ苦しそうに咳き込みだしたりなんかして、どうにもできずに少しずつ沈んでいく夕日を見送った。夏の日暮れはただでさえ遅いのに、その間ずっと公園で黙って座ってたんだから、過ぎた時間は推して知るべし、といったところで。もう何回目になるか分からない、帰ろうよ、にようやく有馬が頷いた頃には辺りは暗くなりかけていた。来た時より体調の悪そうな様子に、内心で自分に舌打ちした。


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