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ありまとおべんと



それから二か月はあっという間に過ぎ去って、いつの間にか今日が結婚式の当日で、結論から言って俺は入院した。しかも三日前、結婚式の直前に。ここまで来るともう笑えてくる、妄想と現実の区別が付かなくなったのかと本気で思った。
あの時みたいな、心因性の何とかが恐らく原因で、みたいな話では別に無くて、家でいきなり俺が倒れて夏目さんが救急車呼んでくれて、内臓がどうにかなっているらしいって話を医者から聞かされて、手術はしないにしても安静が条件ということで、一週間くらい入院する羽目になって、ってだけだ。ずっとベットに拘束されている訳ではない、けれどだからと言ってふらふらしているのも良くは無いし、とにかく暇だ。痛み止めのおかげで辛くもないから余計にどうしていいのか分からない。夏目さんは俺の言うことを全く信用してくれないから、とにかく寝てろって毎日のように何度も釘を刺してくるし、こういうとこ本当あいつにそっくりだ。
こんなんなら、胃が捻じり切れるくらいストレス溜まっても良いから、結婚式行った方が良かった。行けないからそう思うんだってのは分かってるけど、そう思うくらい良いだろう。
「千晶達に、当也くんは?って聞かれたから、緊急入院中ってちゃんと教えといたよ」
「わざわざごめん」
「ううん、有馬がすっごい変な顔してて超笑ったからいいよ」
「すぐ退院だって言わなかったの?」
「言ったもん、千晶にだけだけど」
面会時間ぎりぎりに病院に来て、今日の報告、と写真を見せてくれた夏目さんがあっけらかんと言い放ったので、嫌な予感しかしないと頭を抱えた。あと何日入院期間が残ってると思ってるんだ、今一番会いたくないのに。そんな思わせぶりな言い方して、数日中には絶対来るじゃないか。もう賭けても良い、井生さんはまずすぐ退院するってことを伝えないだろうし、あいつは入院=重体だと思ってるから血相変えてすっ飛んでくる。
「……夏目さんさあ」
「私の名前覚えてる?」
「は?」
「千晶はもう井生さんじゃない訳なんだけど、私の名前は覚えてる?」
「……芽衣子、さん」
「そうですね」
もう出ないと、と時計を見ながら立ち上がった彼女に合わせて体を起こすと、寝てろっつってんだろうがと怒られた。剣幕に押されて布団を被れば、鞄やら紙袋やらを重そうに持ち上げて、まるで悪役の捨て台詞のようにつっけんどんに吐き捨てて、俺の返事も聞かずに行ってしまった。らしいと言えばらしいけれど、ここ病室だし、勿論隣の人は思いっきり聞いてるし、結局答えも聞いてない。けれど、そんなこと彼女は気にしたりしないのだろう。
そろそろ私も夏目さんじゃなくなりたいんですけどね、なんて半分ぐらいキレ気味の、そんな催促あるかよって笑ってしまいそうな程不器用な言葉が、羨ましくて仕方がなかった。そんな風に本心を言えるのがどれだけ幸せなことか知らない癖に、受け取ってもらえる事を疑いもせずに投げて寄越して、断る訳がないって俺みたいなの信用しきっちゃって、酷い話だ。
最初から分かってた、俺が自分を殺して何もかもを黙ったままで流されるままに頷いていれば誰も傷付かないってことくらい知ってた。だからあの言葉だって断ったりしないし、ちゃんと彼女の思い通りに現実は進んでいくから安心してほしい。
辛いとか苦しいとかそういうんじゃなくて、もうこういうものだって受け止められてもいるんだけど、喉の奥に骨が引っかかってる時みたいな、そんな感覚だった。
来なくていいという俺の祈りも空しく、翌々日にはあいつが病室に駆け込んできた。久しぶりに顔を合わせるわけだし、こっちとしては何となく感慨深いというか、まず結婚のお祝いと式に行けなかったお詫びを言いたいというか、とにかく話したいことはたくさんあったはずなのだけれど、ベットの横に辿り着くとほぼ同時にへたり込まれてそれどころではなかった。
「ちょ、え、どうしたの」
「……元気そうじゃねえか……」
「だってあと二日もしたら退院だし……」
「そうなの?」
「期待に添えなくて悪かったね」
「や、回復早いに越したことはないんだけどさ」
いつかお前はこうなると思ってたんだと椅子を引っ張り出しながら言われて、うるせえなと内心で呟いた。言っとくけどそんなに体は弱くない。確かに体力とかはないけど病気は滅多なことじゃしないし、お前が大仰にいちいち騒ぐからそんな風に思えてくるだけだ。
椅子の上で落ち着きなくきょろきょろする様子なんかは変わらない癖して、ちゃんとスーツを着ていたり、薬指には指輪が嵌っていたり、見たくない変化は全て視覚から弾き出した。そうしたらどうしたって目を逸らすしかなくて、自分が指先を擦り合わせてるのしか視界には入らなかったけれど、顔を上げて真正面から話すのより数百倍マシだ。
「なんなん?病気?」
「うん、でも手術も無いし検査入院みたいな」
「お前食わないからそんなんなんだよ。退院したら体重量れ、絶対また痩せてる」
「腹いっぱい食って寝れば治るって言うの、お前と芽衣子さんくらいだからな」
「食欲がなくなるってのがもう意味分かんない」
「体力馬鹿のアドバイスは当てになんないし、してない」
ぐだぐだと会話している時間は求めて止まなかったはずのもので、喉に詰まっていた何かが腹まで落ちて行ったように思えた。息のし辛さは変わらなかったけれど、今この瞬間に呼吸困難になったってここは病院だし、いっそそうなってしまって精神科か何かに掛かった方が楽になれる気もする。そんなことを考えながら自嘲気味に笑って、結婚式の招待状が届いた日から聞こうと心に決めていたことを口に出した。どうせこいつくらいしか聞ける相手はいないし、もうこうする以外に引き止める口実も思い浮かばないし、まだどうしても一緒にいたい。
そのためなら、どんな理由だって。
「け、っこんしきの」
「ん?」
「結婚式って、いくらかかんの」
「……へっ、え?」
「だから、費用とかやる事とか、お前まだ覚えてんだろ」
「弁当が?夏目さんと?結婚式?」
「なんか悪いの」
「いや、ほらお前それは、ほらあ!」
「いってえ、な……」
仮にも病人の背中を思いっきり叩くだなんて、と苦情を言おうと顔を上げれば、叩いた張本人は嬉しそうに笑っていて、つい言葉を飲み込んだ。どうせどこまで行っても他人だし、会う原因を作ったにせよ究極的には関係ない話のはずなのに、こうやってこいつは笑えるんだ。
まるで自分の事みたいに笑いながら楽しげに頷いて、俺が何考えて結婚式の話を持ち出したのかなんて露程も知らずに、ずっと騙されてきたのに。笑いながら髪を掻き回すその癖、久しぶりに見たけれど、薬指の指輪にばかり目が行って息が出来ない。
まだ言ってないけど、芽衣子さんに結婚しようってきちんと告げる時を想像して、下手したらそれより喜んでんじゃないかってくらい浮かれて笑ってる様子を見たら、これで良かったのかなって。呼吸も、瞬きも、全てが儘ならないままに口を開いた。
「ありま、っ」
「やる事なんてすげえあるって、まずプロポーズだろ、親に挨拶、式場探して指輪買って」
「まっ、ちょっと待って」
「あっ、まず婚約指輪だ、ぶっちゃけすげえ金掛かるし大変だよ」
久しぶりに、比喩じゃなく本当に数年ぶりに、名前を呼んだ。無意識に頭の中で呼ぶことすら避けてきた言葉は実にあっけなく零れ落ちて、今更口にしてはいけない言葉だったように思えて咄嗟に口を押さえる。酷く喉が渇いていて、今すぐ窓から飛び降りて逃げたかった。
そんなこと知りもしない有馬は俯きがちに指折り数えていて、俺の制止なんて全く聞こえていないようで、あれもこれもと一区切り吐き出した後に、ようやく顔を上げた。
「ていうか最初は、お幸せに、か!」
「……そ、うだね」
今俺はちゃんと笑えてるのか、顔とか引き攣ってないか、まさか泣いたりしてないか、鏡もないからなにも分からない。有馬の目に映る自分は嘘っぱちの張りぼてだ、信用ならない。
浅い呼吸に目の前はもうぐちゃぐちゃで、これでいいんだって自分を押し込める言葉ばかりが頭を回って、握りこんだ手の力はもう抜けそうになかった。これで良かったんだ、これでみんな幸せなままだ、俺の事なんてどうだっていいから、有馬が笑ってくれたらそれで、もう。
とっくに壊れてた何かが、直したらまだ取り返しがついたかもしれない感情が、砕けて飛び散ったみたいだった。元々持っていたものが手からすり抜けたわけじゃない、ずっと勘違いしていただけで、最初からあんなもの俺が持つには大層な、綺麗すぎる感情だったんだ。だってそうじゃないか、世間一般で言う恋愛感情はこんな泥に塗れたものじゃない。きらきら光ってる割にはただの硝子玉だった、幼い頃に拾って大切にしていたガラクタの宝物と一緒だ。だからこんなのいらない、もう欲しくもない、執着してきた今までが馬鹿だったんだ。
もう何も考えたくなくて、つられるように笑う。嘘八百を笑顔で並べ立てながら内心では血反吐吐いて、滑稽すぎて笑いだしたら止まらない。捨てたくない、なんてもう二度と思っちゃいけない。今まで隠してきた思いは、まとめて燃やしてしまおう。死ぬまで諦められないって言うのなら、いっそ死んでやる。言われた通りに幸せになんてなってやるものか、いっそ周りを巻き込んで道連れに不幸になってやる。もう追い掛けない、見たくもない、大嫌いだ。
「じゃあ、俺帰るな」
「うん、ありがと」
出ていく背中に笑いながら手を振って、そのまま布団に潜りこんだ。芽衣子さんになんて言おう、プロポーズの言葉なんて考えたことなかった。ていうかまだ何となく気恥ずかしくて本人に向かって名前で呼んだことも無いんだ、まずはそこからかな。そしたら二人で指輪選びに行って、結婚式の事とか、ご両親に挨拶に行くこととか考えて、それで。
薄暗い布団の中で目を見開いてぼろぼろ泣いて、ここで一回死のう、って思った。ここから先は、俺じゃ無理だ。もう息をすることも疲れたし、これ以上嘘吐きで居たくないし、有馬の事をまだ好きでいたい。嫌いになんて、そんなに簡単になれてたらこんなことになってるわけがないのに、今更何を血迷ったこと言ってるんだろう。
だから一回、ここでおしまいにしよう。これからの事は上っ面の自分に任せて、俺はいなくなろう。別に二重人格でも何でもないけれど、そんな気分だ。言えもしない、言うつもりもない、好きだって言葉だけ腕いっぱいに抱えて、そのまま飛び降りて俺はここからいなくなる。
 これでも頑張った方なんだ、誰かに褒めてほしいくらいには。ぼやけて何も見えない視界の中、もういいよって聞き慣れた声の誰かに笑われた気がして、目を閉じた。
俺だって、お前と二人で幸せになれるんならなりたかった、なんて未練がましく吐き捨てて。

「……お前はほんと、無駄に正装が似合うな」
「普段の行いがいいからかな」
「自分で言うし!俺すこぶる似合わなかったんだけど!」
「有馬のタキシードとか、直接見たら笑う自信ある」
「うるせえな。ていうか旅行行くって話どうすんの?千晶の予定日一か月後なんだけど」
「赤ちゃん連れては無理だろ、ちょっと大きくならないと」
「分かってるよそんぐらい!延期ってことな!もう!」
「お互い子ども出来たら、子ども同士が仲良くなったりすんのかな」
「どうするよ、付き合ったりしたら」
「なんで男女前提なわけ、同性かもしれないのに」
「あー……そっか、思い付かなかった」
「まずお前似だったら芽衣子さんが止めるな」
「弁当似だったら千晶は推す、絶対推す」
「俺に似てて女の子だったら可哀想だよ」
「女の子はお父さんに似た方がいいって言わない?」
「そうだけどさ」
「あ、もうそろそろ俺行かなきゃかも」
「……ウエディングドレスって長いじゃん、二人で歩くとき踏んだりしないの」
「少なくとも俺はしなかったけど……」
「俺一人ならともかく、芽衣子さんが転びかけて俺に掴まったりしたら共倒れなんだけど」
「それすげえ面白いからやった方がいいよ」
「切実なんだよ!昨日っから!」
「そっか、そう、うん」
「笑ってんなよ!ほんとに!」

「あ、弁当」
「なに?早く行けよ、俺もういっぱいいっぱいなの」
「泣きたいなら早いとこ泣いとけ、あの新婦絶対泣かねえ」
「あの人意外と情緒不安定なのお前知らないだろ」
「そうなの?後でよく聞かせろよ、それ」

もう今更遅いし、せっかくやっとの思いで殺したのに、墓場掘り起すつもりかよ、馬鹿。
あと数時間で指輪が嵌る薬指を見下ろしながら、『これでよかったんだ』なんていう、吐き慣れた呪いの言葉を舌の上で転がして、口元を歪めた。


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