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ありまとおべんと




有馬の彼女の物であろう電話番号からの着信を拒否に設定して、ついでに伏見と小野寺からのしつこい追及のメールも拒否して消去した。なんで有馬とだけ連絡取らないのって、お前らには関係ないんだから放っとけばいいだろ、と思う。それと同時に、そんなことばかりを考えてしまう自分は酷く汚くて、どうしようもないとも思う。二人から心配されてるのも、善意からの言葉を掛けられているのも分かっているから、それは尚更で。
そこまでしておいて、定期的に入る有馬からの連絡は拒否できない辺り、俺はやっぱり自己中心的で我儘で、こんな自分が一番嫌いだ。受信フォルダはつい数十分前に更新されているけど、送信済みのフォルダはずっと止まったまま。もうあれから三日も経つのに、飯も食えないし学校にも行けないなんて、笑っちゃうくらいに弱い。
大学やめちゃおっかな、とさっき呟いた言葉を頭の中で繰り返す。ちょうどすれ違ったお隣さんに大仰に心配されたから、ふざけたつもりで言ったんだけど、意外とそれもいいかもしれない。やめてしまえば誰とも会わなくなるし、会わなければ記憶だって薄れるし、新しい何かを始めたらそっちに一生懸命になれるかもしれないし。
諦められないなら、無理にでも存在ごと忘れた方がいいのかもしれない。俺にも、あいつにも。有馬は人付き合いが上手いから、俺なんてすぐ必要なくなるだろう。それなら、いっそ。
「   !」
「……え、」
呼ばれた気がして、振り返る。暗くなりかけた道の途中、夕日が眩しくてほんの少し目を細める。走ってこっちに向かってくる必死な表情を見て、お前そんな顔も出来るんだ、と場違いにも嬉しく思った。
「あ!?なんっ、お前、待てって!」
背中側から掛けられる声を無視して、走り出す。地の利はこっちにあるし、きっと逃げ切れるはずだと頭の中に地図を思い浮かべた。何で会いにくるんだ馬鹿、せっかく出来た彼女と一緒にいてやれよ、俺の事なんてどうだっていいだろうが。走りながら喋れるなら、そんな言葉が口をついていたんだと思う。
細い路地や駐車場の中を通り抜けて走る途中、自然と人のいない方へ進んでいるのが分かった。迷うことは無いにしろ、こんなところで撒かれて有馬はちゃんと帰れるのかな、なんて考えながら速度を緩めて振り返って、思わず喉奥で悲鳴を押し殺した。いくら俺の足が遅くて有馬が体力馬鹿だったとしても、ここまで着いて来られるわけないと思っていたのに。
らしくもなく無言で、というより若干どこかがぶち切れたような顔で、付かず離れずの速さを維持して追い掛けてくる有馬に、スピードを上げる。なにあいつやばい、もういい加減に諦めろよ馬鹿じゃねえの。その言葉は俺に対してもブーメランみたいに返ってくるはずだって、頭のどこかで何となく思った。いつもみたいに大声上げてくれたら何考えてるか分かるのに、今日に限ってなにも言わずに走るあいつが怖くて、追いつかれたらと思うともっと怖くて、振り返る頻度はどんどん上がって、前なんて見えてなくて。
「う、あっ」
「ば……っ!」
ずっと飯も食えてないし外にだってほとんど出てない、その上もともと走るのなんて苦手な俺が後ろを向きながら走るなんて芸当出来るわけが無いんだから、いつかこうなることは予測出来ていた。ただ、タイミングが悪かっただけで。
足を引っ掛けて転んだ俺の真横からはちょうどバイクが出てくるところだった。それが視界に入った瞬間、いろんな人に迷惑掛けたし因果応報かな、なんて普通に納得するような感情が頭を過ぎって、でも有馬に怪我するとこなんて見られたらきっともう忘れてもらえなくなっちゃうな、と残念に思って、意外と余裕あるじゃんって最後に自分を笑った。勢いのままに転んだせいで思いっきり打った膝と頭が痛くて、足に力が入らなくて。
前振り無しに思いっきり首の後ろを引っ張られて、比喩じゃなく本当に、息が詰まった。
「ぐ、げほっ、うえっ……」
「はっ、はあっ、っすいません、おどろか、せてっ」
ぜえぜえと荒い有馬の息が耳のすぐ横で聞こえて、俺は轢かれてなんかいなくて、頭で現実が理解できなくて呆然とする。分かるのは、痛む場所は膝と頭と首の三箇所に増えたことと、有馬が息も整わないままにバイクから降りてきた人に謝ってること。それと、俺の首筋に触れてるのはコートの首元を引っ張った有馬の指で、それが凍りそうなくらいに冷たいこと。何でこんなに冷たいのかってそれはきっと、防寒なんて碌にしない有馬が長時間外を走り回っていたからで。さっき俺を見つけるまで、ずっと外にいたからで。
心配そうな顔をしたバイクの運転手は俺を見て、有馬と数言会話を交わして、またバイクに跨って行ってしまった。それを見送って、お互い呼吸も落ち着いた頃、有馬が口を開いた。
「……当也」
「へ、」
間抜けな声を上げた俺のことを、有馬が叩いた。音と衝撃に最初は何をされたのか分からずに、ただ熱い右の頬を押さえる。叩かれたことが理解できても、何で叩かれたのかはよく分からなくて、でもきっと俺が悪いんだろうと思って考えるより早く謝った。予想より小さな声で響いたごめんなさいは、それでも有馬に届いていた。俯いたままのあいつが、静かに首を振る。
「……ちっげ……」
「え、ごめん、有馬、俺」
「違うって、お前が謝るんじゃないだろ、俺だろ」
「なにが……?」
「……なにが、って」
今叩いたのも、お前と連絡取れなくしたのも、他にもたくさん、と独り言みたいに呟く有馬に、何か声を掛けたくて、でも出来なかった。だって全部俺が悪いのに、きっとそう言ってもこいつはまた違うって首を振る。こんなに会話が通じないことなんて今までなくて、何を言っても今は無駄な気がして、二人して道端に座り込んだまま静寂が続く。
どのくらい経ったかもよく分からない。夕日に照らされていたはずの辺りが大分暗くなった頃ようやく有馬は顔を上げて、一度言いかけてやっぱり止めて目を逸らして、と普段の落ち着きのなさとは違う様子でひとしきり迷った挙句に、口を開いた。
「あの、俺の事、殴っていいよ」
「は?」
「さっきのお返し、っていうか、何あぶねえことしてんだって腹立って手え出たけど、俺が追っ掛けなかったらまずあんなことになんなかったわけだし、だから弁当殴っていいよ」
自分より慌てている人がいると逆に冷静になるというけど、今この瞬間身に染みてよく分かった。悲鳴を上げかけたくらいに怖かったこいつはどこに消えたんだって疑いの目を向けるくらい、目線も言葉も忙しなく揺れている有馬を見てると、一周回ってこっちが落ち着ける。
落ち着いて考えてみれば、こっちから一切の連絡を取らずにいた俺も悪いけど、それをわざわざ家まで来て追いつめるこいつにも非がある気がした。引っぱたかれた右頬も痛いし、力の加減なんてされずに引っ張られたせいで首おかしくなるかと思ったし、本人も殴れって言ってるし、一発食らわせてもいいんじゃないだろうか。
おろおろと効果音が聞こえそうなくらいに慌てながらまだぶつぶつと何やら言っている有馬のことを、言われた通りに殴った。こめかみ辺りに当ててから、もしかして握り拳じゃなくて平手だったかな、と思ったけれど、もう遅い。不意打ちだったのもあって特に抵抗もなく殴られた有馬が普段通りの顔に戻って詰め寄ってくるのを、後ずさって避けた。
「いってえな!」
「だってお前が殴れって言ったんじゃん」
「殴んねえだろ普通!しかもグーで!」
「意味分かんな、いった」
「弁当はそんなことしたくないとか言うと思、って!」
「また殴ったら数が合わないだろ!」
「だから何でグーだよ!俺はパーだろうがよ!」
「細かいことでうるさいな」
お返しだと言わんばかりにまた平手で額を叩かれて、そのまた仕返しに俺が有馬の頬を殴って、その結果、お互いに手首を押さえて牽制する羽目になった。このままじゃ何も解決しないと思ってはいるのだけれど、優しい言葉で問い掛けられたりおかしな気を使われるよりも全然良い。会うつもりなんて無かったし、何で避けていたのか追及されても答えられる気がしない。
道端で男二人で座り込んで言い争いしてるなんて、人が通らなかったことを感謝すべきだと思う。ぎゃんぎゃんとうるさかった有馬が不意に立ち上がろうとして、眉根を寄せる。
「……あ」
「……まだ何か文句あるの」
「口ん中血出てる。お前のせいだ」
「はあ!?」
「うがいしたいから弁当ん家行こ」
「やだよ、帰れ」
帰らん、と言い切った有馬が、俺の二の腕を掴んで無理やり立たせる。何すんだと噛みつけば、返ってきたのは、だってお前立てなさそうだったから、なんて言葉で。確かに足に上手く力は入らないし、正直支えなしで立ち上がれたかは分からない。原因は何となく分かってる、単純に著しく運動不足なのと、体力も落ちている所に負担をかけすぎたのと、転んだ時に足首捻ったせいだ。有馬が殴れだの何だのぶつぶつ言っていた辺りで立とうとして失敗したけれど、そんなの気づかれていないはずなのに。
背負うのは無理か、なんて零す有馬に、どうして分かったんだと聞きたかったけれど、やっぱりやめた。何も言わなくても分かってくれたって事実さえあれば良い気がして、口を噤む。
「弁当、これどっち。道わかんね」
「……右?」
「お前も分かんないのかよー……」
分からないわけないのに、俺の嘘を毎回本気にする馬鹿なこいつは、きっと今頃何で自分があんなに必死になっていたのかも忘れているんだろう。けどそれでいいし、そうでなくちゃ困る。今更この感情を捨てられないなら、これからも隠しながら抱き続けるしかないのだから。
もう戻れないと本気で思って逃げ出した光景の中から、いとも簡単に手を伸ばして受け入れてくれたことが嬉しくて、思わず笑った。笑うこと自体も久しぶりのように思えて、一旦笑いだしたらもう止まらなくなった。
「なに?くすぐったい?」
「違う、馬鹿。ほんっと馬鹿」
「うるせえな、分かってるよそんなこと」
分かってたらまずこんな所まで来ないし、俺みたいに面倒な奴にも関わらないと思うんだけど、どうやらそこまで考えてはいないらしい。これ以上妙に頭が回るようになられると余計なことまで突っ込まれる恐れがあるし、出来たら有馬にはこのままであってほしいところだ。
疲れたとか足が痛いとか寒いとか、二人してぐだぐだ言いながらほんの少し前に走り抜けた道を戻る。ずっと肩を貸された状態で歩いていたので、もう大丈夫だと途中何度か訴えたのだけれど、軽いし細いしお前また痩せたんじゃないの、とその度に捲し立てられて話を逸らされるので諦めた。隠し事も嘘も他人の心配も下手だなんて、生きるのが大変そうなやつだ。
お前がいない間にさ、と前置きしながら有馬はいつまでも口を閉じずに喋り続けていた。それは休んでいた間の講義の事だったり、伏見や小野寺の事だったり、それでも大半は彼女のことだったりしたけれど、聞いていてどこかが痛むような感覚はもう無かった。俺がいない間に有馬が家まで来ていて、お隣さんに会って俺がどこにいるか教えてもらったと聞いた時には、流石に色々な意味で頭痛がした。誰がとは言わないが、余計なことしやがって。
もう何も失くさないようにしよう、とだけ強く思った。有馬のことが好きだとかそれでも諦めなくちゃならないだとか、そんなの俺がどうこう出来る問題じゃないんだから、せめて思い出だけでも取っておきたい。一緒に過ごしている時間を頭の中に焼き付けて、いつもみたいに隣で笑って、これからもずっと。
俺の家に着くと、有馬は当たり前のように炬燵に侵入しようとして、当然俺をささえていた手は離れていく。咄嗟に服の裾を掴んでしまったけれど、本人は炬燵に入るのを阻止されたんだと思っているらしく、不満げな声を上げた。一安心なんだけど、複雑な気分だった。
「弁当、飯」
「帰れよ……」
「違う、作ってやるよ」
「つく……いい、遠慮する……」
「包丁は使わないから大丈夫だって」
ちょっと引くくらい痩せた、と言われた通り、三日間きちんとした食事を取れていない体は若干骨が浮くレベルで、心配されるのも仕方ないと思える。レトルトとか無いの?と聞きながら冷蔵庫の中を確認して、ゆっくりとこっちを振り返った有馬と目を合わせないように、消化が良いものにして、と注文を付けた。今日買い出しに行ったのは冷蔵庫の中身が絶望的にすっからかんだったからで、でも結局買い物は出来てなくて、だからこそのあの顔なんだろうけど。声色に対して目が笑ってない、怖い。
戸棚を漁る有馬を特に止めもせず寝転がりながら見ていると、これでもいいかと買い置いてあったお粥を見せられて、頷く。そんなんあったっけ、と思ったくらいだ、賞味期限が過ぎていなければ何でもいい。温めるだけなら危なっかしくもないし。
「火ってどうやったらつくの?こう?あっ、ここか」
「……火事だけはやめてね」
「家のやつと違うから分かんないんだよ」
「普通のコンロですけど」
「お前ほんとに体調悪かったの?」
背中を向けたまま投げかけられた言葉に、顔が凍りつくのを感じた。そうだよ、と無理やり絞り出せば、そっか、と普通のトーンで言葉が返ってきた。がちゃがちゃと食器を重ねる有馬は、上に乗せた皿を降ろして別の場所にずらしてまた乗せて、とほとんど意味のないことをしていたので、流石にこれは信じてもらえないかもしれないな、と思う。
今の気分だけで考えたらお粥どころかステーキだって全然行けそうだけど、そうは行かない事くらい分かってる。食欲が無かったのは、食ってもどうせ吐いてしまうから何かを食べるということ自体を諦めていたからで、別に本気で体を壊したわけじゃないんだけど、体調が悪かったことにしておかないと説明のしようがない。病名が付いたとしても心因性のものだ。
信じてもらえなくてもいいから、追及だけはしてくれるなと落ち着きなく皿を弄る有馬の背中を睨む。それが通じたのかは分からないけれど、ようやく振り返った有馬は俺を通り越して後ろの壁辺りに目を向けたまま口を開いた。
「弁当はずっと体調が悪かったわけだ」
「うん」
「俺が連絡した時は毎回返事が出来るような状態じゃなかったんだ」
「……うん」
「そう思うけど、いい?」
言った本人がそんな顔をするようじゃ、嫌味だったとしても効果がない。ばつが悪そうな表情を隠し切れずに浮かべる有馬に、いいよ、とだけ答える。ここで全部吐き出したら今の俺は楽になれるだろうしお前の抱えてるもやもやした物も消えるかもしれないけれど、それだけは何があってもしちゃいけない。せっかくここまで戻ってこられたのに、またこの場所を捨てるなんて、臆病で弱い俺には出来ないから。
「分かったー」
「……有馬」
「分かったって」
「ごめん」
「……わかった」
また背中を向けた有馬の声は何となく震えてて、ごめん、ともう一度口の中で呟いた。ここまでしておいて内心では、帰らないでほしい、なんて自分の欲に塗れたことばっかり考えてるんだから、三日程度じゃ人間の本質は変わらないらしい。
手伝おうか、と俺が言うのを頑なに拒みながら、ようやくお粥は完成した。と言ってもただ温めるだけだから、そんな大げさな物でもないんだけど。三回目の手伝いの申し出に業を煮やした有馬からついに病人は寝てろと言われてしまったので、敷きっぱなしだった布団に転がって待っていると、相変わらず危なっかしい手付きで皿とスプーンを運んできた。受け取って手を合わせると、有馬は布団のすぐ隣に座り込んで、何も言わずにこっちを見てくる。
「……いただきます」
「食わせてやろうか」
「いい、邪魔、どいて」
「うまい?」
「レトルトだし」
久しぶりの食事に胃が鳴っているのを感じながらもそもそと口を動かすと、可愛くねえ、と零される。可愛かったら気持ち悪いだろ、よく考えろ。人が食事をとっているところにべたべたと触ってくる有馬を払いのけながら完食すると、さっさと皿を持って行ってしまった。世話を焼きたいならもう少しこっちに猶予を与えてくれないだろうか。
まさか皿洗いまでやらせるわけにもいかないので、後始末は自分でするからと有馬を炬燵に送る。すると、じゃあ帰る、と言い放ってマフラーを手に取り、立ち上がって玄関へと向かってしまった。てっきり我が物顔で炬燵を占領すると思っていたので驚いて後を追うと、だってもう用は済んだし、と至って普通に言われて、動きが止まった。
「え、あの、帰んの?」
「帰るよ。弁当お前、早く寝なきゃダメだよ」
「は、い……」
「顔見れたし、飯食わしたし、学校来たくなったら来ればいいし」
指折り数えられても、それに何の繋がりがあるのかよく分からない。ただ、来られるようになったら、じゃなくて、来たくなったら、とわざと言ったことだけは理解出来た。それがどうしてなのか、意識して言ったのかまでは顔を背けられてしまって窺い知れなかったけれど。
玄関扉を開けて、吹き込む風に二人して首を竦めて。呼び止めるのもおかしい気がして家の中から動かない俺を見て、へらりと笑った有馬が手を振って、言った。
「待ってる」
それっきり閉じた扉に、手を伸ばしかけて止める。追いかけても何を言ったらいいか思い付かないし、誰を待ってるって、きっとそれは俺の事なんだろうけれど。
薄い扉越しに、有馬の足音が遠ざかっていくのを聞いて、その場に座り込んだ。このままでいい、たとえ自己満足でも俺だけがひっそりと思い続けられれば何もいらない、なんて思ったけど、そんなの嘘だ。だって、たった一言でこんなに嬉しい。あいつの中で俺は、待っている事に値する人間で、いなくなったら追いかけたいと思える相手で、分かり切った下手な嘘を吐いても受け止めてもらえる関係で。これ以上の繋がりは求めない、だってもうこれで充分だ。
無意識に上がる口角をなんとかしたくて手を当てると、思ったより頬が熱くて自分でも驚いた。きっと今の俺は、久しぶりに笑ったにしてはいささか緩みすぎな、締まりの無い表情を浮かべているんだろう。ようやく付いた心の整理は、この短時間で溶けて流れて、あっという間に消えて無くなってしまったようだった。
人の幸せと不幸せは平等に訪れるんだって言うのなら、この後突然家が燃えたっておかしくない。俺はそれに見合う幸せを与えられていると素直に納得さえ出来るように思える。立ち上がって台所へ歩く途中、流しに乱雑に突っ込まれた皿や鍋や箸が目に映り、数分前がフラッシュバックして変な笑い声が抑えきれずに漏れた。これは我ながらまずい、もう重症だ。
自分のことながら現金なもので、有馬が待ってるなら待たせちゃいけないとか、そういえば代返も頼みっぱなしだったとか、今まで考えもしなかった言い訳が面白いくらいに浮かんでは弾けた。ほんの数時間前までは学校やめようかなとか思っていたくせによくもまあ、と思わざるを得ない。けれどもう、嬉しくて嬉しくて、早く明日にならないかな、なんて。
自分なんて誰かがすぐに代われる存在だと思っていた。だから急にいなくなったって、せいぜい言葉上での心配があれば良い方、ましてや呼ばれることはないはずで。その上あいつには彼女だって出来たんだから、尚更俺なんて必要とされるわけなくて。でも現実は想像とは違って、あいつは今まで見た事も無い顔をして追いかけてきた。らしくもなく焦って、かっこ悪くて、俺に対して怒るんでも悲しむんでもなくただ謝って、本当にもう、なんというか。
「……すき、だ」
何となく零れただけだったけれど、声に出したらすっきりした。俺が抱いていたのは最初からたった二文字で纏まる単純な感情だったのに、色んな物に気を取られすぎてしまっていた。
馬鹿でどうしようもなくて、お節介で嘘が下手でうるさくて、それでもいつも前を向いている有馬のことが、俺は好きで。一緒にいられるなら、隣を歩けなくてもいい。中身のない話で笑って、時々怒って喧嘩して、でも何となく仲直りして、喧嘩の原因も忘れてしまうような、そんな関係だけはどうか壊れないでほしい。そのためなら、一生口に出せない言葉があることも我慢できるから。
ポケットに入れていた携帯が震えて光って、メールが来たことを示す。受信フォルダを開いて確認すると、俺のお守り知らない?なんて文字が並んでいた。布団の横に転がっているお守りと携帯の画面を見比べて、ここにあるよ、と返信を打つ。取りに戻ってきたら嫌だな、と思いつつ窓を覗くと、ガラスに映った自分は案の定酷い顔をしていて、若干引いた。筋の残る頬を擦ると、目尻が赤くなっていて、泣きすぎだと笑いたいのと明日までに赤味が引かなかったら説明が面倒だと思うのがごちゃ混ぜになって、変な表情を浮かべる。結果、焦りと安堵からか誤字脱字だらけで送られてきた返信に、笑ってしまうのだけれど。
明日になったら、まず伏見と小野寺に謝って、着信拒否を全部解除して、有馬の彼女に会ってみよう。電話で少し話しただけだけれど、きっとあいつにはもったいないくらいに良い子なんだと思う。それで最後に、ありがとう、とだけ有馬に今日のお礼を言おう。恐らく何が?と聞かれるだろうし、それには答えないし答えられないけれど、どうしても言っておきたい。
好きにならせてくれて、好きでいさせてくれて、ありがとう。
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