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ありまとおべんと


口をぱくつかせる鯉を眺めて時間を潰していると、有馬がふらふらと帰ってきた。そのまま俺の隣に寄りかかり、下を見下ろす。
「何見てんの?可愛い?」
「かわ、いい?鯉だけど」
「あー……俺が思ってた可愛いとは違うわ……」
「だと思った。ちゃんと買ってきた?」
「はい、かぼちゃ」
「ふざけんなよお前……落ちろよ……」
「池に!?そんな怒ると思わなかったんだけど!」
嘘だよかぼちゃと普通のは俺のだよ、と弁解して袋を手渡してくる有馬に疑いの目を向け、中を確認する。小声で、もう食べ物関係で嘘吐くのやめるわ、と零したのは無視した。そんなこと当たり前だ、世の中にはやって良いことと悪いことがある。
なぜか二つ持っている有馬に理由を聞けば、両方とも美味そうだったから、なんて平然と言ってのけられた。優柔不断というかなんと言うか。ふうん、ととりあえず生返事をして自分のうぐいす餡に齧り付くと、横から伸びてきた手に途中で掻っ攫われて。
俺の手が辿り着いた先は、有馬の口だった。
「ん、こっちも美味い」
「あっ、てめ、んぐ」
「俺の両方とも一口あげるから怒んないで弁当」
ね!と力強く頷かれながらぐいぐい押し込まれているのは、有馬が持っている二種類の内どちらかのそばパンで、もう片方の手にあるのには餡子が見えていた。ということは、今食べさせられているこっちがかぼちゃか。味なんて息苦しさに負けてほとんど分からないけれど。
何とか逃れて、第二波を回避するために有馬の手からそばパンを奪っておく。怒ると思ったから何か言われる前に口を塞ぎました、と先に自首した点だけは褒めてやりたい。
「すいませんでした」
「……喉が詰まったら、人は死ぬんだ」
「はい、次から優しくします」
「そうじゃない」
次なんかあって、しかも優しくされてみろ。俺はきっと羞恥で爆発する。
誤魔化し混じりに有馬のそばパンを齧って突っ返すと、殊勝にも若干反省しているようだった。きっと本気で死にそうな顔でもしていたのだろう。けれどどうせこいつは、じゃあそろそろ縁結びの寺にお参りにでも行こうか?とか俺が切り出したらすぐに元気になるんだから、そんな顔したって無駄だ。無意識だか意識的だか知らないけど、絶対騙されない。
まあ結局のところ、もそもそと無言で食べる空気に耐え切れずに、それを言うことになるのだけれど。別に、俺個人に関してはお参りしたくなんかないし、逆にお参りして妙な縁が出来ても嫌だし。絶対的に神様を信じている訳ではないが、例え神頼みであっても現状維持を破壊する可能性は出来るだけ減らしておきたいというか。
「なあ、弁当」
「ん?」
「ご縁があるってのと、金額が高いの、どっちのがご利益あると思う?」
……もう、こいつが楽しそうだから、いいか。
さっきまでとはうってかわって笑顔で財布を漁る有馬に、お札はやめておけ、とだけ忠告をした。注意しないと絶対やるし、確実に後で後悔すると思うんだ。もう今からでも、今月末辺りに財布と頭を抱えて唸る有馬が手に取るように想像できる。
じゃあ五円か五十円か五百円か、と財布の中の小銭をかき集め始めた有馬を放って、自分の分を財布から出す。ちょうどあったし、無難に五円玉で良いだろう。人も引いたから、とお賽銭を投げ入れて、手を合わせる。お参りのやり方とかいまいち分かってないんだけど、見よう見まねの適当で何とかなるだろうと思う。
「あっ、お前先やっちゃったの!?待っててくんなかったの!?」
「だって遅いから」
「ちゃんと俺に彼女が出来るように頼んだ?」
「世界平和のが大切だろ」
「確かにそれは大事だけどさあ……」
当たり前だが、嘘に決まっている。あんなおざなりなお参りで聞き入れてもらえるかは分からないけど、一応きちんと現状維持と願っておいた。縁結びの寺だし、今存在する縁くらいは結び続けておいてくれるといいのだけれど。
「弁当」
「なに。早くやってきてよ、寒い」
「小銭無かったから貸して」
「一銭もないの?」
「五百円玉がいい。でも無い、五円玉も無い、五十円玉も」
「……崩してくれば?」
お守りやら何やらを売っている所を指差せば、そうする!と走って行ってしまった。遠ざかる背中に呼びかけても聞こえなさそうだったので、温かい飲み物、とだけメールすると、数分も経たない内に、遠いから嫌だ、と返信が来た。酷い奴だ。
立ち止まっていると寒いのだが、ここから動いてはぐれるのも馬鹿らしい。案外人が多い境内を眺めながら突っ立っていると、行った方向と違うところから、有馬が小走りで帰ってきた。
「買った!」
「お守り?」
「缶コーヒー!」
「くれんの?」
「どうしよっかなー」
「寒いんだってば、寄越せよ」
「態度が悪いなー」
「俺お前のこと待ってるんだけど」
「だってそれは弁当が先にやっちゃうからじゃん」
へらへらと逃げる有馬を追うのを諦めて、早く済ませて来いと追いやるように手を振ると、つまらなそうに口を尖らせて、手の中の缶を俺に投げて行ってしまった。まだ温かい缶を開けながら、ポケットの中にさっきまでは無かった袋があったな、と思う。恐らくあれはお守りだろうし、有馬は俺には秘密にしているつもりでいるはずだ。
丁寧に手を合わせている有馬はどうせ、可愛くて優しい彼女が自分の前に舞い降りることを望んでいるんだろう。あっちは何にも知らないわけだし、この行為に絶対性があるわけでもないし、別に俺には関係ない。そんなことは分かっているくせに、コートのポケットの中で爪が手のひらに刺さって傷んだ。無意識に入れていた力を無理やり逃がして、振り返った有馬に訝しがられないように、平静を取り繕って。
「おまたせー」
「あんな長さじゃ神様も途中から欠伸するよ」
「心広いから大丈夫だろ、五百円入れたし」
「そういう問題?」
「どうする?五百円だし、百人くらいから急に告られちゃったりしたら」
「もうちょっと現実的な数にしなよ」
「五人くらい?」
「思い上がんな」
「三人?」
「そんなだったら彼女欲しいってお参りに来たりしない」
「……それもそうだな……」
肩を落とした有馬を先に歩かせながら、手をポケットから出した。爪の痕は手のひらに思ったよりもくっきりと残っていて、それを隠すように握りこむ。爪を切ったらいいのか、早く自分の気持ちを切り捨てたらいいのか、よく分からなかった。
帰り道に何の話をしていたんだかは、いまいち思い出せない。いつも通りのしょうもない話だから覚えてないのか、別のことで俺の頭がいっぱいだったからなのか、そのどちらかだとは思うけれど。考え事をしていたにしても、その中身を覚えていないんじゃ意味がない。
覚えていないんじゃなくて、覚えていたくなかったのかもしれない、と思うと少し笑えた。
「じゃあ、服洗って返すな」
「うん」
「飯とかもありがと。今度弁当かなんか作ってよ」
「やだよ、めんどくさい」
「言うと思った」
明日な、と笑われて、また明日、と返せることに慣れ切っていたのがいけなかったのかもしれない。神頼みなんて所詮、と内心で思っていたから罰が当たったのかもしれない。
駅に消える背中を見送りながら、明日も明後日も変わりなく毎日が過ぎていくことを、疑いもしなかった。隠したままの気持ちを後生大事に抱えて、口にさえしなければ傷付けることもなく、ずっとこのままでいられるんだと。根拠もなく、本気で思っていた。
どうしてこうなったんだか、俺が有馬といたこと自体が最初から間違っていたのか、どうしたら良かったのかなんて、分かりやしないけれど。俺はもうちょっと、ほんの少しだけでも、現実を顧みるべきだった。そうしたからと言って何かが変わるわけではなくても、もしかしたら今より少しだけ、諦めが付けやすかったかもしれないな、なんて。

あれから数日が経った。貸した服も返ってきて、日に日に寒くなる外に耐え切れなかったのか、流石の有馬も家からマフラーをして来るようになった頃。普段通りの授業を終えて、当然のように机に突っ伏して寝こける有馬を起こして、帰らないの、なんて声をかけて。
「んー……」
「……出ないの?」
「行く」
ぐすりと鼻を鳴らした有馬が、携帯を何の気なしに見て、こっちを向く。何故か座ったままの有馬に、どうかしたのかと聞こうとした、直前。俺さあ、と視線を落としながら呟かれた言葉に、世界が壊れる音を聞いた。
「彼女、できた」
ああ、そっか、良かったじゃん。五百円もお賽銭に入れてお守りまで買った甲斐があったんじゃない?神頼みに頼りすぎだってこの前から言おうと思ってたけど、案外お参りしたおかげなのかもしれないし。ていうかいつから付き合ってたの、もしかして俺が知らなかっただけなの?今も彼女の授業終わり待ってんのか、廊下寒いもんな、俺だって教室で待つかもしんないや。じゃあこれからは俺とふらついてた無駄な時間全部彼女と一緒に過ごすのかな、クリスマス前だし、タイミングとかそういうのとか、とにかくほんとに良かったな。
照れたように、幸せそうに笑う有馬に、俺はそんな言葉を掛けたかったはずで、確かにそうするつもりで。なのに、頭の中で縦横無尽に流れた言葉はどれもこれも自分の思い通りにならずに、口にする前に全て潰れて、一つ残らず使い物にならなくなった。
嘘だろとか、そんなわけないとか、信じたくないとか、じゃあ俺ってなんなのとか、ほんと
はずっと好きだったとか。喉に引っかかった汚い単語を全部飲み下してようやく吐き出したのは、笑えていたかどうかも分からないくらいに、精一杯の単語だった。
「……そ、うなんだ」
「なんだ、もっと驚くかと思ったのに」
「別に。そんなに」
「でもさあ、俺もびっくりしたんだよ。年度初めの時に俺の隣に座ってて、それからずっと好きだったって告られてさ」
そんなこと言われたら嬉しいじゃん、と髪を掻き回すにやけ顔の有馬に、お前といた時間なら俺のが長いよ、と口走りそうになって、殺した言葉の名残で喉から血が出そうだった。
自分の鼓動と呼吸の音が煩くて、目の前で話している声すらもよく聞こえない。今自分がどんな表情を浮かべているのかも分からない。それどころか、これ以上いつもと同じように会話を続けることが可能だなんて思えないし、出来ることなら今ここで溜め込んだ色々を全部吐き出して何もかも放り出してしまいたかった。
相槌ってどうやって打ってたんだっけ、こいつとはどうやって話してたら『普通』なんだっけ、好きって何で言っちゃいけないんだっけ。ぐちゃぐちゃに掻き回された頭に飛び込んできたのは、有馬の手の中で鳴る携帯の着信音だった。知らない名前が表示される画面に、有馬の隣を誰かが歩く光景が鮮明に突きつけられたようで、一瞬で現実に引き戻される。普段通りが当たり前に存在する中で、自分だけが爪弾きにされている気がして、眩暈がした。
「ん、電話来たから行く。明日なー」
「……うん、明日」
明日、って、なに。自分で言ったはずの言葉の意味さえ分からずに、無理やり笑って有馬に手を振った。もうそんなことしたってなんにもならない癖に。そんなこと今までだって何の意味もなかった癖に。
緩やかに落ちた手のやり場も見つからなくて、有馬が開け放したまま出て行った、俺以外誰もいない教室の扉を閉める。扉の閉まる重い音に顔を上げると、窓ガラスには半笑いのまま固まった間抜けな顔が映っていた。ああ、なんて馬鹿みたいなんだろう。
いつかはきっとこうなる、なんて心の何処かでは分かってたはずじゃないか。今更実感したってもう何にもならない、後悔するような資格だって俺にはない、無いものだらけだ。有馬は良い奴だから、彼女が出来たところで、俺といた時間やこれからをないがしろにはしないだろう。そんなことはしない、それでも、会話や動作の端々に混じって日に日に増えていく、今までと違う感情や行動に、俺が耐え切れるかどうかを考えたら、今まで通りなんて無理だ。
手のひらにはまだ、あの時ついた爪痕がうっすらと残っていて、固まりかけた傷口を引っ掻くと、弱くなっていた皮膚はすぐに破けて血を滲ませた。じわじわと広がる傷に、はっきりしないな、と思い、まるで今までの自分のようだと下手くそに笑えば、喉の奥が嫌な音を立てた。
手のひらを隠すように鞄を手に取ると、爪の痕がほんの少し抉られて傷んで、なぜか無視したくてもできなくて、力を抜いて鞄は指先に引っ掛けた。結局、傷なんて隠せなかった。
いっそ、あいつが実はとんでもなく酷い奴で、一瞬で大嫌いになれたら良かったのに。きっぱりと諦めが付けられないなら、記憶でも何でも失えたら良かったのに。自分では血の流れは止められないのと同じだ。もう、自分だけじゃどうにもならない。好きだって言ってたらこうはならなかったのにって誰かが言ってくれたら、お前がそんなだったからこうなったんだって俺を詰ってくれたら、そっちの方がまだマシだった。嫌いになるどころか、好きでいることをやめるのだって一人じゃ出来やしない。自分のことを見てもらえなくても、それでも思い続けていたい、なんて感情だったら抑えだって効いたのに、俺は身の程知らずにも顔も知らない彼女に嫉妬にも似た感情を抱いていて、どうしようもないと自分でも思う。
突然の喪失感にぽっかりと開いた穴は時間の経過じゃ埋められそうになくて、蓋が消えたことで収まりきらなくなった汚い感情は見境なく誰かに向かってしまいそうで、自分のことのはずなのにただ恐ろしいだけだった。今あいつの顔なんて見たら、今までもこれからもかなぐり捨てて詰め寄ってしまいそうで、かたかたと鞄に触れる指先が震えていた。漫画や映画でよく見るような、女の子が相手を可愛らしく詰問するのとは訳が違う。俺は男で有馬も男で、あいつにとっては俺の気持ちなんて想定外にも程があって、きっと言ってしまえば最後でもう戻れなくて、きっと距離はあっという間に開いて、それで。
教室の外で響いた誰かの笑い声に、いつの間にか俯けていた顔を上げる。次に授業が無いことは知っているけれど、誰かがこの教室を使いたいかもしれない、とふと思う。時計を見れば有馬が出ていってからそんなに時間は経っていなくて、さっき自分で閉めた扉を開いて廊下に出た。一歩外に出ただけでも寒さは桁違いで、ポケットに適当に突っ込んでいた手袋を取り出す。瞬間、貸して、と笑う顔がフラッシュバックして、自嘲じみた溜息が漏れた。
普段通りの道を歩いて、見慣れた景色を横目に見過ごして、その中で自分だけ切り離されたみたいな感覚にマフラーを引っ張り上げるふりして目を擦る。家に着く直前、鞄の中で震えた携帯を見れば、画面にはメールが来ていることと、その差出人が表示されていた。開いてみれば、彼女も会いたいって言うし今度一緒にご飯でも、なんて内容があいつらしい無駄ばっかりの文で綴られていて、安堵と吐き気がいっぺんに込み上げる。
靴を脱ぎ散らかして家の鍵も閉めずにトイレに駆け込んで、腹の中の物を全部吐き出しても何もすっきりしなかった。むしろ余計自分は汚いんじゃないかって気分にさせられて、惨めで苦しくて、家まで我慢しようって決めていた色々が全部ぐちゃぐちゃに混ざって、嗚咽交じりに流れ出した。
死にそうなくらい嘔吐いて、眼球がおかしくなるくらい泣いて、誰も聞いていないと思って酷い言葉をひたすらに口走って、そんな自分を殺してしまいたいくらい嫌いになった頃、ようやく携帯を拾い上げることが出来た。さっきのメールの返信はそっけない短い文だけで、これであいつが愛想を尽かしてくれたらいっそのこと楽なのに、なんて思った。
自分が有馬を好きじゃなくなることは相変わらず考えられなくて、また少し涙が溢れた。


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