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ありまとおべんと



寝返りを打とうとして、妙に窮屈なことに気が付いた。もう一度転がろうとして、やっぱり身動きがとれないことでようやく意識がはっきりしてくる。眠気に纏わりつかれたまま無理やり目を開いてはみたものの、眼鏡をかけてないので何も見えず意味がなかった。どこ行ったんだ、俺の眼鏡。靄がかかったような視界じゃとにかく何が何だか分からなくて、とりあえず自由だった右手で目の前の何かを引っ掴んだ。
「いって」
「……ん?」
「いっ、だから、痛いって!なんでいてえって言ってんのに引っ張り続けるんだよ!」
「めがね……」
「眼鏡じゃねえよ、有馬だよ。そんでお前が引っ張ってんのは俺の髪だよ」
「あー、ありま」
「そうです有馬ですー。ほれ、眼鏡」
「ありが、と、う……」
眼鏡が返ってきたことで、視界が一気に綺麗になる。くっきり見えるようになって一発目に目に飛び込んできたのは、欠伸をしている有馬だった。片手でがしがしと髪を掻き回しながら、風呂入りたいから弁当服貸してよ、などとほざいている。もう片手は当たり前のように俺の背中に回されていて、寝返りが打てなかったのはこのせいだったらしい。視線を下に向けると、腰から下は二人して炬燵に埋まっていて、暑かったのか邪魔だったのか、有馬はいつのまにかジャージを脱いでいた。ついでに気を使ってくれたらしく、俺の首元も開けられている。ふと頭の上の方を見れば、恐らく俺のものであろうベルトと、有馬のジャージと、昨日空けた缶と、その他お菓子や何やらのゴミが散らばっていて。
有馬はきっと、俺が寝苦しそうだったから気を使ってくれたんだ。当たり前じゃないか、なにか起こる方が間違ってる。だって俺あの後のこと何にも覚えてないし、泣きながらだったけど普通に寝たし、酔って記憶なくなったこととか今まで一回もないし。
どうも俺は顔が青くなっていたらしく、気分悪い?吐きそう?なんて親切な言葉を掛けられる。それに首を振って、無理やり炬燵から抜け出し、何となく正座をして向き直る。すると、なにを思ったのか有馬まで正座になっていた。いや、なんでお前まで正座するんだよ、逆に話しづらいだろ、分かれよ。そう言いたいのは山々だが、そんな余裕は残念ながら無い。
「あの」
「はい」
「昨日お前がその、酔って俺の上で寝て、その後俺も寝て」
「うん。重かっただろ?ごめん」
「起きてたの!?」
「いや、寝てた寝てた。二時くらいかな、目が覚めたら俺の下でお前が泣きながら苦しそうに唸ってたから、一応起こしたんだけどさあ。弁当ぐすぐす言って全然起きないの」
「あ、そう……」
「だから炬燵に引っ張りこんで、暑かったから服脱がして、あ、ベルトその辺に投げた」
「うん……」
「それでもお前がぐずるから、かなたがちっちゃい頃ならこうしたら泣き止んだなあって背中トントンってしたら、弁当すげー幸せそうな顔で寝た。その後は俺も寝ちゃったけど」
「そう……」
「だから風呂入りたいんだよね、俺。弁当なんか服貸してよ」
「……持ってくる」
「うん、あと」
お前さっきから顔真っ赤だけど大丈夫?という有馬の言葉は聞かなかったことにしてクローゼットを開け、適当な服を見繕って投げる。確か、身長は俺の方が若干高いけど、体格的には有馬の方が良かったはずだ。多分どれでも着れるだろうけど、と言いながら振り返れば、有馬は炬燵布団に顔を埋めていた。
「何してんの。風呂は?」
「昨日から気になってたんだけどさあ」
「なに」
「弁当ん家の匂い、っていうか。これ、洗剤か何かかなあ」
「うわっ、やめ、嗅ぐな!気持ち悪い!ほんとにやだ!」
それとも弁当本体の匂い?とか言いながら首を傾げる有馬を布団から引き剥がそうと近寄ると、さっき投げた服を素早くかき集めて逃げられてしまった。狭い部屋の中を上手く逃げ回る有馬の手には俺の服。しかも、これも同じだから多分洗剤だな、と結論を出す声は布に埋もれて不明瞭で、なんだかもう泣きたい。もう一回泣きたい。
「あ、なんか腹減ってこない?弁当の匂いとか言ったからかも。後で朝ごはん作って、弁当」
「作るから!作るから服一旦返せ!」
「風呂どっち?あ、これトイレか」
「お前いい加減にしろよ!?」
有馬が引っ込んだ脱衣所の扉を思いっきり閉めると、中から笑い声がした。何で俺はこいつを家に入れてしまったんだろう、昨日の気分を返してほしい。風呂場の使い方くらい分かるだろうと炬燵に戻って、溜息を吐いた。朝からこれだけ騒いで、昨日の夜もあれじゃあ、きっとお隣さんから苦情が来るのも時間の問題だろう。
炬燵周りのゴミを片付けながら、何となく服の袖口を鼻に近づけてみる。自分じゃ分かんな
いだけで変な匂いとかしてたらやだな、と思いながら嗅ぐと、確かにどうも違和感を感じる気がした。なんだこれ、酒臭いわけじゃないし。一人で眉を顰めていると、元凶が髪も拭かずに風呂から上がってきた。
「ありがと弁当、シャンプー切れかけ」
「……ああ、有馬臭いのか……」
「俺、今風呂上がったとこなんだけど……」
俺ってそんなすごい匂いすんの?とこっちを真顔で見る有馬に、空き缶を投げつける。残り片付けといて、と言い置いて風呂場へ行くと散乱しているのは有馬が脱ぎ散らかした服。思わず、今まで生きて来た中で最高レベルに深く、溜息を吐いた。何で有馬に彼女が出来ないのか、この十数分間でちょっと分かった気がする。きっとこういう細かいところを女の子は見て幻滅していくんだ。俺だけはこうはならないように覚えておこう。
風呂から上がって部屋へ戻ると、お菓子の袋やアイスのカップ、それに空き缶はきちんと分別されてまとめられていた。また炬燵に取り込まれている有馬が、テレビを指差す。画面には見覚えのある景色が映っていて、若い女の子がなにやらインタビューをされていた。
「これってここの近く?」
「深大寺?近くだけど。朝飯パンでいい?」
「食えればなんでもいい。今日弁当休みなんだよね」
「そうだよ」
「行こうよ」
「……寺だよ?」
「知ってるよ、今特集されてんだから」
また急に何を言い出すんだ、という感情を顔の前面に押し出しつつ、台所から買い置きの食パンとマーガリンとジャムを持って炬燵へ向かう。ごろりと床に寝転がった有馬が、縁結び寺なんだって、と俺を見上げながら言う。確かに縁結びの寺ではあるけれど、人の家を好き放題散らかして家主の心にダメージを与える妖怪にはきっとなんのご利益もないと思う。
二人してもそもそと味気のない食事を取る。途中小さな声で、この甘党が、と聞こえた気がしたので黒胡椒を台所から持って行ってやると、ぐったりと俯せたまま動かなくなった。甘党なんじゃなくてただ家にあったのが果物系のジャムだっただけだ。俺だってどうせならピザトーストとかを食いたい。
「他になにがあんの」
「マヨネーズは昨日ので底付いた」
「この家の冷蔵庫事情じゃなくて」
「ああ、ここ?行ったことないの?」
「ない。だから行こうって」
「男二人で行ったところで何にも楽しくないと思うけど」
「あっ、蕎麦!弁当蕎麦!」
俺と話している間もずっとテレビから目を離さなかった有馬が、画面に蕎麦が映った途端騒ぎ始めた。パンを持っていない方の手を取られ、揺さぶられながら、有馬ってそんなに蕎麦好きだっけ、と思う。聞いたことないけど、こういう話を奥まで突っ込んで聞くのは苦手だ。グラタンの時然り、思い出の藪を突いて元カノという名前の蛇が飛び出して来たら、自分が噛まれて苦しむのは目に見えている。
ぼうっとテレビの音と有馬の話を聞き流しながらパンをかじる。どうも蕎麦辺りから深大寺周辺の食べ物に話は移っていたようで、何かの番組で見たことあるような見た目の人が通りを歩きながら店に立ち寄り、味を細かく説明しつつ食べていた。家の朝飯の惨状とは大違いだ。
「弁当団子、団子もあるって、あと饅頭、弁当饅頭」
「ちゃんと区切りながら話してくんないと、もうそれ別のものになってるんだけど」
「お前和菓子好きじゃなかった?こんなんとか」
こんなん、と指差されたのは、確かに俺が好きそうなもので、というか前食べた時に結構気に入ったやつで、少し驚いた。そんな話をした覚えはないのに。まあ、別に、と返事を返しながら、少しだけ嬉しくなる。俺が有馬の好物を覚えるならまだしも、逆なんてないと思ってた。
蕎麦、団子、弁当、食い行こう、しか徐々に言葉を発さなくなった有馬は、傍から見たら腹が減って言語中枢がやられた可哀想な人だ。食ってるのもただの食パンだし、一人分しかない買い置きを二人で分けてるから、確かに腹は満たされないけど。もうちょっと、あと一言、俺が行きたくなるような言葉を付け加えられないもんだろうか。
「……ここ行ったら、お前にもいい縁が生まれるかもしれないよ」
「は?」
「あっ、行かなくても!行かなくても平気かもね!お前ほらあの、誰にでも親切だしね!」
俺が待ってたのはそんな台詞じゃない、なんて感情を口に出せない分思いっきり視線に込めると、どうやら余計なお世話だと言いたいのだろうと勘違いされてしまったらしく、こっちが若干引く勢いでフォローされた。そうじゃなくて、別にいい縁とかいらないから、現状維持でいいから、って意味も込めてたんだけど、違うんだよそれを求めてたんじゃねえよ馬鹿が、という意志ばかり伝わったために目つきがとんでもなく悪くなっていたらしい。
まあどうせどっちも正確に伝わらなくても支障のないものなので、別にいい。かといって、ちょっと古めの少女漫画みたいな、歯が浮くくらいに甘ったるい台詞を待っていたのかと言われたら、そういうわけでもなく。求めているのは、普段通りのふざけた誘いの言葉で、余計なものなんてむしろ要らない。有馬は俺の交際関係の心配なんてせず、発作のように彼女欲しいと騒いでいてくれればいい。このままでいてほしいと直接言うことさえも、このぬるま湯みたいな関係を崩す原因になりそうで、怖くて仕方がない。
誰にでも親切なわけじゃないよ、と弁解する言葉は、喉の奥へ引っ込めた。そのせいでまた黙り込んでしまった俺を見て、最後の一切れを口の中に放り込んだ有馬が首を傾げる。
「……やっぱ弁当調子悪くない?頭痛い?」
「悪くないよ、別に」
「そう?でも俺帰ろうかな」
「何言ってんの?俺の今日の昼飯は有馬の奢りで高級な蕎麦だから」
「お前が何言ってんの?」
泊めてもらった礼に奢るくらいのこと出来ないの、とわざわざ聞けば、深夜にあやしてやったじゃん?と腹の立つ顔で聞き返されたので、炬燵の中で足を踏んでおいた。頼んでないし覚えてないことが礼にカウントされるわけがないだろう。
再び炬燵に顔を埋めながらちらちら俺を窺ってくる有馬は、恐らく本気で心配しにかかっている。ばれていないだろうと高を括っているのかもしれないが、分かりやすすぎる。全然体調なんて悪くないということをアピールするため、行くならとっとと昼前に行こう、なんて一人で意気込んでいたら有馬が不意に口を開いた。
「そういえばさあ」
「なに?金無いなら下ろしてきて」
「違うし、金ならめっちゃあるし」
「じゃあ蕎麦だけじゃなくても大丈夫だね、デザート考えとく」
「考えんな!じゃなくて!俺確か昨日着てきたジャージに酒零して、だから脱いだんだよね!」
「で?」
「……食い物全部奢るんで、これ着てってもいいすか……」
「有馬臭くなるじゃん」
「今の俺は完璧に弁当の匂いしかしないから平気、ってえな!いちいち蹴んなよ!何がお前の気に障ったんだよ!」
「気持ちが悪いので、今すぐに出て行ってほしいんですけど」
「違っ、お前の家の風呂入ってお前の服着てっから違和感が半端じゃないんだよ!嗅ぎたいわけじゃなくて確認しないと落ち着かないんだよ、今度弁当も家来て風呂入って俺の服着たら分かるから、おいこら聞いてんのか!」
聞いてないし、あまり聞きたくないし、財布だけもらって、縛るなり袋詰めにするなりしてゴミ捨て場とかに置いてきたいと結構本気で思う。けれど残念なことに、今日はゴミの日ではない。思わず溜息が漏れた。ぐだぐだとうるさい有馬は一旦なかったことにして、身の回りをざっと片付け、必要な物だけ持って玄関へ向かう。マフラーを巻きつけながら振り返ると、ようやく現実に帰ってきたらしい有馬が訝しげな顔でこっちを見ていた。
「お隣さんに捕まる前に早く出たいから先行く、現地で待ってるから」
「それは良いけど、お前が持ってるの俺の財布じゃない?」
「有馬の財布はもっとこう、開ける時にバリバリっていうやつだったはず」
「そんな財布今時小学生でも使ってないよ」
「そうなの?」
言いながら、携帯をポケットに突っこんで家を出てくる有馬を待つ。さっきは言い訳で使ったけど、正直な話お隣さんに捕まることは結構本気で避けたい、と思いながら欠伸をかみ殺す。気にし始めた途端、扉が開きそうな気がしたので有馬を何となく急かして鍵を閉めた。
「そんな怖いの?」
「そうじゃなくて、わーって話し始めると止まんないタイプ」
「ああ分かる、いるいる」
「分かる?有馬も同じような感じだし、やっぱり通じるもんがあるの?」
「ねえよ!お前俺のこと馬鹿にしてるだろ!」
「今はしてる。普段は控えてる」
「……知ってたけど……」
はっきり言わないでほしいとかなんとか言いながら項垂れる有馬に、こっそり持ってきた手袋とマフラーを渡す。途端に顔が明るくなるんだから、現金な奴だ。寒いと言い出さなかったのはきっと、一応もう色々借りてるし、という引け目からなのだろうということは簡単に予想できた。歩きながらもそもそと礼を言われて、言葉を返す。
「じゃあ、晩飯もよろしく」
「これやっぱ気持ちだけ受け取って返す」
「返却不可です」
「……分かった、お前俺のこと嫌いなんだ」
「んー?」
 どうかなあ、と誤魔化して隣を歩く。それだけでもう、充分満足だった。

「京都。か、鎌倉。日本の街並み?」
「……あー、何となく分かる」
特に急ぐわけでもないので、コンビニに寄ったりしながらのろのろと歩く。目的地に着いた時には、もうお互い腹が限界だった。育ち盛りだからなあ、とか有馬は零していたけどお前が
俺に肉まんの一つでも奢れば話は違ったんだと言いたい。
何が珍しいのか、きょろきょろと忙しなく辺りを見回しながら一歩先を歩く有馬についていく。店が建ち並ぶ通りを進むごとに周りからいい匂いがしてきて、思わず腹が鳴った。
「有馬、昼どうすんの」
「……あー、適当に買ってくる」
ここにいて、と行ってしまった有馬はどうも心ここに在らず、という感じがして、眉を顰める。知り合いでもいたんだろうか。思ったよりも混雑している道の端に寄り、人に紛れてしまった有馬を待つ。斜め前には家族連れがいて、可愛らしい晴れ着に身を包んだ子どもが団子を一生懸命に食べていた。反対側の隣には仲睦まじいカップルがいて、寒いのか女の子が彼氏に縋り付いていた。なんだか両隣りが共に幸せそうで若干居心地が悪いので、有馬には是非とも早く帰ってきてほしいところだ。
「弁当半分持って」
「うわ、なに、多くない?」
「イライラには甘いものってよく言うだろ」
「……いらいら?」
「お前の顔が険しふぁっはふぁら」
「何言ってんだか分かんないよ、食いながら喋るな」
両手にいろんな種類の団子を持って戻ってきた有馬から半分受け取り、礼を言う。まさか本気で全部奢ってもらおうなんて思っていないので、この分は後で返すとしよう。実際目の前に食い物が出てきた時の視覚効果は絶大で、盛大に主張してくる腹の虫を宥めつつ、餡子にみたらし、黒胡麻と食べ進めていく。久しぶりに食べたけど、出来立てだしやっぱり美味しい。
ぼうっとさっきの家族連れを眺めながら団子を食べていると、そういえば俺みたらし食えないんだった、の言葉と共に一本串が渡された。
「なんで買って来たの」
「弁当は好きだから二本食いたいかと思って」
「……別に好きじゃないよ」
「嘘つけ。間違えて一個食べちゃったけど、これ」
手渡されたみたらし団子を口へ運ぶと、間接キスだねえ、なんて間延びした声が聞こえて、思わず足が出た。脛を抑えて蹲る有馬は無視して、食べ終わった串を捨てに行く。ようやく絶望的なまでの空腹からは脱したものの、甘いものを食べたせいで喉が渇いた。
「飲み物買いに行きたいんだけど」
「そこに水がたくさんあるみたいだから、飲んで来いよ」
「あれは池だし鯉も泳いでるから無理」
「死んだ魚みたいな目してるくせしてさあ……」
拗ねている有馬に何が飲みたいか聞いてもどうやら無駄らしいので、とりあえず諦める。というか失礼だろ、よりにもよって死んだ魚って。せめて生かしてほしい。
このまま突っ立っているのは寒いし、せっかく来たんだから蕎麦も食べたいし、と考えていると、さっきまで団子を食べていた子どもが家族に記念撮影をされているところだった。自分のそういう写真は見たことがないし覚えてもいないけれど、こんな感じだったんだろうか。若干照れつつ笑う子どもは普通に可愛くて、微笑ましい。ふと有馬の方を見ると、同じように家族連れに目を向けていて、妙に真面目な顔をしていたので、少し可笑しかった。。
「……七五三かな」
「多分なー」
「かわいいね」
「子持ちだと手が届かなくて辛いけどなー」
「……お前……」
「え?なに?」
来た時から心ここに在らずだった理由も、真面目くさった顔の意味も、ようやく分かった。こいつは最初からお母さんしか見ていなかったらしい。確かに若くて綺麗だけど、もういっそ池に落ちて頭を冷やしてきたらいいのに。微笑ましい家族の光景が崩れ去った絶望を込めて有馬を見下ろすと、まだへらへらと笑っていて、どうにも救いようがなかった。俺の感覚がずれてておかしいのか、彼女欲しい病の発作なのかは分からないけれど、相手がいる人に手を出すというか、そういう危なそうなのだけはやめてほしい。
そこまで考えたところで、反対側にも仲睦まじいカップルがいたことを思い出し、早くここを離れようと思う。これ以上有馬の「可愛い」を聞いてたら俺が持たないような気もするし。
「俺さー、最近気づいたんだけど、黒髪でストレートの子が好きかもしんない」
「有馬、蕎麦、あっち、ほら」
「いたっ、なに、急に押すなよ!」
「でかい声出すな、うるさい」
「……黒髪でストレートの子が好きかもしんない……」
「小声で言い直さなくても分かったし、それを俺に伝えて何になるの」
「弁当の姉ちゃんとかが黒髪ストレートで俺のタイプかもしれないじゃん?」
「生憎一人っ子だよ」
「黒髪ストレートのロングで、弁当似の眼鏡っ子かもしんないじゃん……」
「一人っ子だって言ってんだろ、聞けよ」
「そこは覆せよ、妹でもいいよ」
「……でも、例えば俺に妹がいたとして、自分の妹と同い年くらいの子と付き合いたい?」
「……………」
黙ってしまった有馬を先に歩かせながら、蕎麦屋まで移動する。だらだらと喋っているうちにさっきの場所からは大分離れていて、一安心だ。ついでに言うなら、黒髪ストレート、という言葉は耳にたこが出来るくらい今の短時間で聞いたので、当分遠慮したい。
店に入って席に座って、品物を注文するまでずっと考えていたらしい有馬が、ようやく口を開いたかと思えば、「もう女の子なら十五歳差くらいまでなら平気」だったので、黙って水を勧めておいた。上ならまだしも、十五歳下は五歳だ。しっかりしてほしい。
「上は……二十、いや、二十五……」
「有馬ってお母さんが幾つの時の子なの?」
「この話やめよう!」
「二十五より上?下?」
「弁当やめて!もうやめて!」
聞きたくない!と耳を塞ぐ有馬を笑って、他愛のない話を続ける。この前の講義中に鳴った誰かの着信音の曲名がどうしても思い出せないだとか、どこの店にいつ何回行ってもなぜか常にレンタル中で借りられた試しのないDVDがあるんだとか、基本的にはそんな話だ。
ちょうど昼飯時だったこともあってか、少し店内は混んでいた。そんな中テーブルに何も置かずにだらだらと話しているのは何だかどうにも心苦しかったが、しばらくしたら蕎麦も来たのでそんなことは頭から吹っ飛んでしまった。さっき団子を食べたとはいえ、とにかく腹が減っていることに変わりはないのだ。
「いただきます」
「……弁当って、行儀良いよな。貴族?」
「は?」
割り箸片手に首を傾げると、当の有馬はといえば、言いっぱなしで勝手にいただきますをして、蕎麦を食い始めるところだった。ちょっと待ってほしい。変なことを言うだけ言って自己完結で話を中断するその癖、本気で改めた方がいいと思う。
「だから、いただきます、は基本にしても。なんか食ってると静かだし、食い方もなんかさあ」
「……よく分かんない、自分だし」
「食い方がなんか、なんつーか、んーと……」
「もういいから食べれば。食うとこ止めてごめん」
「あっ、そうだ、弁当はアイスの食い方がエロい!」
口の中に蕎麦が入っていたら、確実に有馬にぶちまけていた。まだ食べていなかったからセーフだったけれど、そういう問題でもない。そうそうそうだった夏なんかもうお前毎日アレだったよなあ、とか何とか言いながら一人頷いて割り箸を振る有馬を黙らせようと手を伸ばした。
ちなみに足を出さなかったのは、ここが食事の場だからであって、今日だけで普段の倍くらいのダメージを負っている有馬の足に配慮した訳では断じてない。
「っ!た!」
「声出すな、ただでさえでかいんだから」
「なんっで、箸っ」
「指で抓るより箸で捻った方が痛そうだからだよ」
「だってお前いちいちアイス舐めんじゃん、歯を使えばいいじゃんっ」
「うるさいな、麺類啜んのへったくそな癖に」
「はあー?弁当なんか眼鏡とったらなんも見えないじゃないですかー」
「ちょっとは見える、ていうか有馬だってこないだ伊達眼鏡で恰好つけてたじゃんか」
「弁当なんていい年してホラー苦手じゃないですかぁー?恥ずかしいー」
「苦手なんじゃなくて好んで見たくないだけだし、その口調やめろし」
以上、有馬の手の甲を割り箸の裏で捻じりながら小声で交わした会話である。有馬が妙なことを口走り始めた辺りから、俺から見て正面に座っている女の人の視線が痛かった。そのアイス、きっとデザートでしたよね、すいません。と心の中で謝っておく。
お互いこれ以上相手の欠点を晒しても何の利もないので、黙って飯を食う協定を結んで箸を引いた。有馬の手の甲は案の定綺麗に赤くなっていたけれど、本人はそんなことよりもどうしたら蕎麦を上手に啜れるのかに夢中なので放っておくことにした。そういうのって小さい頃からの癖だって聞いたことあるし、今更試したところで多分無駄だ。
蕎麦はやっぱり美味くて、ようやく満腹になったところで店を出ることにした。席を立つ前に、有馬にもう一度だけ聞くと、このままじゃほんとに何の礼もできないから蕎麦に関しては奢り、ということで。デザートは?と聞けば、あれなら買ってやると指をさされた。
「どれ?あれ?」
「うん、そばパン?美味しいって聞いたんだけど」
「うん。俺うぐいす」
「早……」
買ってこい、と有馬に手を振って見送り、込み合った道をすり抜けて、人が少ない小さな橋の上で待つことにする。ぼうっと下を見下ろすと、餌を待っているらしい鯉がこっちに寄って来つつ口を開けていた。残念ながら餌になりそうなものは持っていないし、今から食うものは餌になりそうだがあげられない。

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