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おのでらとふしみ



「えー、と。俺が大前で一番前。で、崎原がなんだっけ」
「中。お前の後ろ」
じゃあ伏見は?と立て続けに聞かれて、この説明何回したと思ってんだと頭を叩いた。三人立ちで行われる新人戦、とはいっても一年は全員出場なのだけれど、そのメンバーが発表されたのがついさっき、部活終わりの事だった。それからずっとこいつはこの調子で、一回で頭に入れろって何度言っても聞きやしない。学校の道場は六的取り付けられるようになっていて、練習の時はそれを半分に区切り三人立ちを二つ作っているのだが、どうもこいつはまずそれすらよく分かっていなかったらしい。まあ確かに射込みや個人練習の時は立ちなんて気にしてたら練習が進まないからそんなの無視だけれど、それにしたって半年もの間こいつは何を見てたんだ。もう十月だし、いい加減目が節穴ってレベルじゃない。
道場の壁際に置いてある、普段は中り数や次の立ちに出る人の名前などが書いてあるホワイトボードの前で、小野寺が首を傾げる。分かりやすいかと図まで書いてやったのに、これ以上何をどうしろっていうんだ。せめて分かったんだか分かってないんだかぐらいははっきりしてほしい、これ以上の手間はごめんだ。そろそろ部室に戻って着替えたいし、後は明日でいいかと聞くと、ううん、と煮え切らない返事が返ってくる。
「俺、明日も朝来るから、その時にしてよ」
「待って、なあ、俺から順番に引くの?」
「そうだって。俺が離したらお前が打起し」
「後ろ向いていいの?」
「駄目に決まってんだろ」
「でも道場には俺達以外にもいるんだろ?伏見がいつ離したかなんて分かんねえよ」
「勘でどうにかなるから平気だよ」
うええ、と頭を抱える小野寺は、また無理難題言いやがって、と零したけれど、これだけは意地悪でも何でもなく本当の事だ。勘で判断するか、離れの時の音を聞き分けるくらいしかない。けれど音で判断なんて方がよっぽど無理難題だ、いくら人それぞれ癖があるにしたって離れる瞬間の音で誰が引いたか分かるなんて、それこそ動物じゃないんだから。
そう思ったので、特に飾りもせずそのまま伝えながら道場の電気を消して帰り支度をしていると、シャッターを閉めていた小野寺がぱっと振り返って言った。
「それいいなあ」
「はあ?」
「伏見が離した音だって分かったらいいんだろ?そうしよっと」
「うちの学校以外に三校一緒に引いてんだし、離れの音なんてみんな一緒なんだけど」
「犬の聴覚は人間の四倍だって昨日テレビで言ってた」
「……なにが?」
「伏見が言ったんじゃん、大型犬って」
そういえば、言ったような言ってないような。まさかそれがただの比喩だってことすら分かってないわけじゃないだろうなと聞けば、それは流石にと頷かれてとりあえず安心する。勿論冗談だろうと真意を確かめる前に、伏見って図とか書くの下手なんだな、と振り返り際に言われて思わず言葉より先に手が出た。何でこいつは人が親切心で教えてやった直後に神経を逆撫でするような余計な一言を付け加えるのか不思議で仕方ない、学習能力が無いんだろうか。
「いって」
「犬のがお前より利口だ」
「大会って何日後?」
「俺の話聞いてんの?」
俺より犬の方が頭が良い、と復唱した小野寺に、まるでご褒美のように大会の日程を教えてやる。というかこれもさっきから何回も教えてやっているんだけど、こいつの記憶力は鳥より酷いので仕方がない。別れるまでにあと何回聞かれるか数えてみようか。
それから普段通りに時間は過ぎて行って、試合用に立ちでの練習も増えて、いつもの練習通りに試合会場でも引けたなら一回戦くらい余裕で通れそうだな、と思う。小野寺には恐らく緊張なんて概念が存在しないだろうから心配いらないけれど、崎原はどうだか分からない。引いているのを見る限り、調子が良い時とそうでない時の振れ幅は少ない方だけれど、なんせ初めての大会なんだし残念でもまあそんなにおかしなことではない。ただその場合、一回戦突破には俺が皆中して小野寺が一中、とかの結果が必要なわけで、その流れで二回戦に進んだところでいい結果は出ないだろう。それに、この後にいくらでも大会はあるのだ。ここで妙なトラウマを作られて、大会恐怖症になられても困る。これだから団体戦は嫌いなんだ。
「小野寺、よく振り返らないでタイミング分かるよな」
「すげえだろー」
それと、結局本気で俺の弦音を聞き分けられるようになった小野寺は、もういっそとっとと人間をやめるべきだと思う。すごいすごいと笑う崎原に、すごいっていうか怖えよ、と詰め寄りたかったけれど、なんとか堪えて一緒に笑っておいた。
部活中は矢取りの間くらいしか満足に話すことが出来ないから、看的に入ると割とみんな饒舌になるんだけど、小野寺の前であまり上っ面に喋っているとどんな爆弾を落とされるか分かったものじゃないし、だからと言って崎原に普段の様子を見られるわけにも行かないし、すっげえストレス溜まる。小野寺どっかいけ、と思わざるを得ない。
「伏見は大会とか慣れっこだろ?場馴れしてるっていうか」
「中学の時は部員数も少なかったから、出してもらえた、って感じだけど」
「でも慣れるだろ、雰囲気とか」
「矢道の横に人が大量にいるのには慣れらんないよ」
「先輩に聞いたことある、中学大会の個人戦ですげえ成績出した奴がいたって」
「あっ、こないだ言ってた!高校の大会でも一回噂になったって、それお前なんじゃないの」
「俺の二つ上にも化け物みたいな先輩いたよ、十二射皆中、しかも全部霞的のほぼ真ん中、なんて見たことないでしょ」
「十二射!?」
「機械かなんかじゃねえの」
「あれには勝てないよ、勝てる気がしない」
からからと看的を回しながら話して、赤旗を出す。崎原が第二射場に入ったのを見て、お前が行って来いと小野寺の事を突き飛ばすと、唇だけを動かして、猫かぶり、と舌を出された。中りの読み上げは大声を出さなきゃいけないからやりたくないんだ、無駄に声がでかいのはお前の数少ない取り柄の一つだろうが。
矢取りを終えて道場に戻る途中、小野寺がふらりとこっちに寄ってきて、後ろに回していた手を引っ張られた。言葉も無しに結構な勢いで歩みを止められたため、バランスを崩して抵抗するのを忘れた。目を丸くしたままとりあえず崎原に助けを求めると、何をどう勘違いしたんだか、自主練してから入んの?とか言いながら笑顔で俺の持っていた矢を親切にも持って行ってしまい、そうじゃなくて、と顔を引きつらせる。ゴム弓を取ってきてあげようと一旦道場の中に引っ込んだ崎原を見送って、振り向きざまに手を振り払う。
「なんだよ馬鹿」
「だって、なんか、伏見が」
「蹴ったの怒ってんの?」
「それはいつもだからいいけど」
声もかけずに呼び止めた割には自分でも意味が分かっていなさそうな顔を浮かべていて、そんな表情をされるとどうにも強く出づらい。崎原が戻ってきたため一旦話を中断して、伏見達が外で練習してるって先輩に伝えとく、との言葉に礼を言った。
受け取ったゴム弓を小野寺に渡して、練習してる体は取り繕っとけと言えば、こくんと頷かれる。道場の玄関扉は閉まっているし、立ち終わりに看的や記録が入れ替わる時以外は誰も出て来ないだろう。それで、と言葉を掛ければ、握りを手に当てていた小野寺が口を開いた。
「……十二射、かあ」
「あ?」
「ううん、伏見が弓道始めたのって中学の時だったよな」
「そうだけど」
「さっき言ってたすげえ先輩とまだ連絡取ってんの」
「別に。なんでそんなこと聞くの」
「まだどっかで弓道やってんの、その人」
「知らない、けど。小野寺?」
「一個上なら、どっかで会うかもなあ」
小野寺が指を離すと同時にばちんと音がして、馬手下がってた?なんて聞きながらこっちを向いた時にはいつも通りに笑顔を浮かべていた。けれど、俺の方に目線もくれずに、こっちの話なんて一切聞かないで淡々と言葉を吐き出していた時の瞳は、あの時と同じで。自分の中でとっくに答えが出ていて、世界が閉じきっている。忘れてしまいそうになるけれど、こいつは時々そういう顔をするんだ。俺がレギュラーを取るかもしれないと周りの目も気にせずに疑いも無く言い切った、初めてこいつに恐怖心を覚えたあの瞬間を思い出して、頭を振った。だから、こいつ相手に怯えるなんて、冗談じゃない。
「……喋りながらやったら、口割り合わないって何回言わすんだ」
「あー、そうだった」
そうやって笑ってたら、ただの大型犬の癖に。呆れて目も当てられない、そんな振りをしながら顔を背けた。こっち向けよお、なんて言葉は無視して、溜息を吐く。
こいつが俺の思い通りになる事なんて今の段階ではほとんど有り得ないんだと、いい加減俺だって学習したらいいのに。吹き抜けた風に身を震わせながら、そう思った。

新人戦、一回戦。恐らくここにいるほとんどの人間が初めて経験する大会で、俺にとっては見知った顔もちらほら、と言ったところで。とにかく出場人数が多いため、道場での場所取り一つとっても面倒極まりない。そういう雑用は基本的にやっぱり一年の仕事なわけで、まあそれはきっとどこの部も変わらないのだろうけれど。しかも俺が場所を知っているとどこかの馬鹿がうっかり零してしまったので、今まで新人戦には必ず引率が付いたはずなのに今回に限ってそれが無くなった。信頼されていると見るか利用されていると見るかは、俺の自由だけど。
待ち合わせ時間はほぼ始発、弓と矢を背負っているからすぐに分かる。指定した時間の十分ちょっと前だから、俺より早い奴はいないはずだ。
「ふしみー!」
小野寺は絶対に遅刻すると思ったので、前もって三十分前を待ち合わせの時間として教えておいた。だからいるのは当たり前として、隣に立ってうるせえと舌打ちをする。ついでに本当の時間を教えてやれば、携帯を開いて、俺の方を見て、もう一度携帯を見て。
「……えっ」
「良かったな、一番で」
「そっか、そうかな?良くはないだろお前、でも遅刻するよりはいいかな、なあ伏見」
「俺が小野寺のためにならないことしたことあったっけ」
「……その聞き方ずるくねえ?」
そうかなあ、と答えながらエスカレーターを上ってくる同級生に手を振ると、俺との話まだ終わって無くない、と小声で言われたので、きっぱり無視した。何で他に関わる相手がいるのにわざわざ小野寺との交流を深めなきゃいけないんだ、苦行か何かの一環だとしか思えない。
昨日調べておいた電車に乗り込んで、数駅。弓を持って移動するだけでも意外と時間がかかるもので、電車の扉に引っかかったり駅の看板に弓ぶつけたり、傍から見ていたらきっとつい笑ってしまう。けれど当事者達は笑ってなんかいられないわけで、だって弓は基本的に学校の物だし壊しましたなんて洒落にならない。しかも今向かっているのは新人戦会場、十二的並んで引ける程大きな道場なんて見たことも無いだろうし、緊張しているのが当たり前だ。
「あれなに、すげえ美味そう」
「小野寺!こっち!この電車乗んの!」
「六島、あれなに?」
「買ってみれば分かる」
「置いてくぞ!良いのか!?」
そのはずなのだけれど、能天気な小野寺に引っ張られてまず六島がふらふらし始め、それを叱っている内に桐沢の緊張が解けて喋れるようになり、崎原がそれを見て笑い、遅刻ギリギリだった西前が居眠りするほどに落ち着きだして。どう緊張を解いてやるかな、と思っていたから、拍子抜けした。使うべき場所を間違えなければこいつにも利点があるらしい。
「伏見しか道分かんねえんだからはぐれんな馬鹿!」
「俺コンビニで飯買っていい?寝坊したからさあ、腹減っててさあ」
「いいけど、道場に荷物置いてからにしたら?」
「また弓引っ掛けて転ぶぞ西前」
「転んでないじゃん、未遂じゃん」
「あれ?六島は?」
「さっき自販行った、弓は俺が持ってる!ほら!」
「なんで止めないんだよ!小野寺の馬鹿!」
ほら!じゃねえんだよ!と小突き回されている小野寺を見ながら、六島が戻ってくるのを待つ。改めて見ると、弓を持っている時は身長があまりない方が辺りにぶつけなくて済むから移動には楽なのかもしれない。現に小野寺と西前は身長がある分駅の案内板にがんっがん引っかかってたし、俺や六島は人込みの中を割と容易にすり抜けられる。まあ慣れとか器用不器用の問題もあるけれど、そういうことにしておいた方が精神安定上良い。
「六島迷ったって、西前がその場で倒立してくれたら目印にしていくからって」
「桐沢やってよお」
「やだよ、ていうか何で迷うんだよ!もう!」
「弓上げれば良くない?あっ」
「あー……小野寺ぶつけたー……」
うるさいことこの上ないけれど、集合当初のお通夜状態よりは断然マシだ。予定していた時間よりは遅れてしまったけれど、まあ順当な時刻に大会会場の道場に到着して列に並ぶ。コンビニの場所を西前と六島に教えて、道場が開く時間まではとりあえず暇を持て余す。ついでだからとお菓子やら昼飯の追加やらを注文したものの、あの二人じゃ本当に買って来るかどうかすら怪しい。しれっと忘れて帰ってくる様子が容易に想像出来た。
声を漏らして大きな欠伸をした桐沢から、それを見た小野寺へと眠気が伝染する。しばらくぼおっと眠たげに目を凝らしていた桐沢が、道場内のトイレか何処かで顔を洗ってくる、と荷物を置いて立ち上がって、ふらふらと覚束ない足取りのまま歩いて行った。
「俺も行こっかなー」
「崎原は?荷物見てるから行ってきてもいいよ」
「俺もいいや。小野寺、追っ掛けるなら早くしないと」
指をさした先、桐沢の背中はもう遠くて、走るのかったるいからいいやと零した小野寺がその場に座り込む。一人がしゃがむとどうにも耐え切れないもので、つられるように残った二人も腰を下ろした。確か道場にあったレジャーシートを持ってきたはずだと荷物類を見回してみたものの、今この場にいない奴らの鞄に押し込まれているらしく見つけられなかった。
もそもそとおにぎりを頬張る小野寺を眺めていると何となく腹が減ってきて、無意識に羨ましげな視線を向けてしまう。それに気付いたのかちらりとこっちを見て隠すようにそっぽを向いた背中に、別にいらないし、と小声で投げかければ、隣からお菓子の箱が渡された。
「はい。チョコ平気?」
「え、くれるの?ありがと」
「うん。思ったより腹減ったね」
にっこりと笑ってお菓子を口に運ぶ崎原にお礼を言って分けてもらうと、続けて左隣からぐいぐい引っ張られる。ついさっきそっぽを向いたはずのそいつに、わざとゆっくり振り返って何か用かと聞いてやる。おにぎりしかないけど、と勧めてくる手を渾身の力で握り潰しながら一口貰うと、悲鳴混じりに弁解の言葉が飛んできた。
「だって今のタイミングだったら下手に出たりすんのかなって!いっ、ごめんごめん痛い!」
「小野寺?」
「お、こんなとこにいた」
見えない位置を狙った甲斐あって、小野寺の声を聞いて首を傾げた崎原が、後ろからかけられた声に振り向く。つられてそっちに目を向けると、片手を上げて近寄ってきたのは二年の先輩達だった。現部長の水無瀬先輩が辺りを見回して、他の奴らは?と聞く。
「買い物行きました」
「そっか、呑気だなあ」
「俺ら去年震えまくってなかったっけ、特に高梨とか」
「まくってねえ、倉科黙れ」
「伏見のおかげかな、やっぱ頼んで正解だったわ」
笑顔の水無瀬先輩の後ろで副部長二人が半笑いのまま睨み合っているけど、どうも気づいているのはこっちだけのようだ。仲が悪いんだか良いんだか、よくもまあこの三人で大会立ちが組めるものだと六月の大会では思ったし、案の定次の大会ではばらされたようで、これで水無瀬先輩の心労も少しは減るだろう。喧嘩腰二人に挟まれて練習なんて堪ったもんじゃない。
そんな話をしている内に、コンビニに買い出しに行っていた六島と西前が袋を抱えて帰ってきて、先程までの大欠伸はどこに消えたのか普段通りのしかめっ面を浮かべた桐沢も戻ってきた。先輩方に挨拶をしつつ、もうじき道場開くらしい、とこっちに向かって投げかけた桐沢に首を傾げる。
「ほんとに?なんか早いね」
「外待機の人数が大会側の予想より多いみたいだな、中でおっさんが話してた」
「倉科先輩チーズ食べます?チーズ味とかじゃなくてチーズなんすけど」
「チーズ?いる、六島ありがと」
「後輩にたかってんじゃねえよ」
「たかってねえ、好意をありがたく受け取ってんだ」
「これって入っていいんですかね、水無瀬先輩。会場準備とかしてたり」
「入れるけど受付はできない、みたいな感じになるだけだと思うから。な、伏見」
「そうですね、開始は絶対時間通りだから」
「良かったじゃんか。早く入って早く支度出来るに越したことないぞ」
「中って学校ごとに分かれてたりしないんですか?」
「しねえなあ、場所取り合戦だ」
「待機場所もだけど、矢道の横で記録取る場所もちゃんと取れよ」
「それは俺が行きます」
「じゃあそっちは伏見に任そうか。誰か荷物持ってってやれ」
「あ、俺持ってくよ。待機場所も連絡する」
「うん、ありがとう崎原」
飛び交う会話についていけなかったらしい小野寺と西前が、買ってきたお菓子を開けてばりばり貪っているのを横目に、崎原に荷物を任せる。受付関係の色々は先輩もいるし、桐沢と崎原がしっかり覚えてるから大丈夫だろう。俺以外は初試合だし、立ちの前に雰囲気だけでも見て慣れておいた方が良いだろうから、一番いいとこ取りに行かないとな。
少しずつ進みだした列に流されながら、待機場所を取りに行った組と別れて道場の方へ向かう。両方の場所が確定したら先輩がこっちに移動してきて、道場横で記録係をしてくれるらしい。ちらほらと増えてきた人の中を縫って、全部の的が見える椅子をなんとか席取りして、溜め息。ここだと道場側がちょっと見づらいけど一番見やすい場所はもう他の学校の人が座ってるし、と辺りを見回して、目が合った。
「……お久しぶりです」
「……あ」
あからさまにばつの悪そうな声を上げて顔を反らした、一つ上の先輩。中学の時に見た以来だけど、あんまり変わってないんだな。同じく席を取りに来たらしい吉川先輩は、小声でなにか呟いてぱっと踵を返してしまった。少し離れた席に座った彼が呟いたのは、ただの挨拶かもしれないし、俺に対する悪態かもしれなかった。
俺が外面貼り付けるようになったきっかけで、俺の一番最初の踏み台。こんな場所でこんな風に見たい顔ではないことだけは、確かだった。
俺が中学の部活動オリエンテーションで晴臣先輩に憧れて弓道部に入って、道場に入り浸って弓ばっか引き続けて、大会立ちに選ばれるようになった頃のことだ。一年生の中では飛び抜けて結果が出ていて、二年生の当たり数と並ぶのは毎日になってきていて、先輩の立ちに混ぜてもらえて本当に嬉しかった。練習することは好きだった。上手くなりたいとか大会で優勝したいとかそういった理由はなくて、ただ純粋にもっと沢山矢を放ちたかった。そんな何にも考えていないような人間が初めて出た試合で、一年も長くやってきた自分より上に立ってしまったとしたら、まぐれだったとしてもそりゃあ良い気分はしない。そんなの当たり前だ、誰も彼を責められない。特に先輩はその時結果が伸び悩んでいて、そんな時に俺は彼に追い討ちをかけたわけで。別に俺だってしたくてやったわけじゃないけれど、彼が俺を嫌っても何の文句も言えないことくらいは中学一年生の頭でも分かった。
頑張った分だけ疎まれることは知ってたし、吉川先輩が俺を嫌っていることも知ってた。それでも吉川先輩は、俺にとって利用価値のある人間だった。先輩の射形には特徴的な癖があって、お手本にはならなかったが見取り稽古するにはうってつけで。だから俺はあの人の衝突を避けるために、出来るだけ良い後輩になろうと思った。投げつけられる悪態も文句も嫉妬も、みんな目を瞑って見えないふりをして耳を潰してなにも聞こえなかったふりをして、周りの人間に愛想良く懐いては悪態をつく方が悪者になるように、逃げ回っては守られる側の立場に滑り込んで。重要なのは、相手にとって自分がどの立ち位置にいてどんな価値を持っているか、だ。先輩にとって俺は妬ましくて疎ましくて邪魔な存在でしかなかったし、それは俺には変えようが無かった。それでも、あの人は頭が良かったから。俺を嫌って強い態度で接することで、俺が味方を増やしては他人の影に隠れていることに真っ先に気づいて、今までのことは無かったことにするように手を引いた。察しが良くて立ち回りが上手かった、きっと俺が弓道にここまでのめり込まなかったなら後輩として可愛がってもらえたんだろうし仲良くなれたと思う。けれど俺は、そんな先輩の場所を自分のためだけに掻っ攫ってしまったわけだけど。
先輩が高校に入っても弓道を続けているだなんて、思いもしなかった。だって俺は先輩を踏み付けて上っ面を繕った結果、今の立ち位置にいるわけで、先輩本人だって恐らくそれに気づいている。上っ面を取り繕うやり方も、自分にとって都合の悪い人間を悪者にして周りに守ってもらう方法も、みんな吉川先輩で練習してきた。あの人がどんな気分でそんな俺を見てきたかなんて知らないし知りたくもないけれど、中学の部活動なんて嫌な思い出を引きずってまで続けるものじゃないだろう。こっちを向かない吉川先輩を窓硝子越しに視界に入れながら、目を細めた。なんだかすごく久しぶりに、嫌な気分だ。
曲がり角の向こうから、ひょこりと顔を出した小野寺とその後ろをついてくる先輩達が見えたので、立ち上がって笑顔を作る。ほら、作り笑いがこんなにうまくなったのだって、吉川先輩のおかげだ。


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