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おのでらとふしみ



初めてそれを見たのは、中学に入学してすぐだった。特に入部する気も無くてただ参加するだけだったはずの部活紹介オリエンテーションで、静かな体育館に響き渡った弓鳴りと、矢が的を射った音に、開いた口が塞がらなかったのを覚えている。
始めてから一か月は弓に触る事すら許してもらえず、同じ袴を身に纏って道場の中を闊歩する先輩を歯噛みしながら眺めていた。それでも辞めようかという気にはならなくて、早々に退部届を出してしまった同級生を見ながら首を傾げた。夏も近くなってきた頃に始めて引いた弓は想像していたより重くて、後ろで先輩に支えてもらいながら必死で構えて、矢も番えていないのにこれじゃいつになったら追い付けるんだろう、とか本気で悩んだ。
蝉がうるさく鳴く中、一人で的前に立って構えた時の高揚は、きっと一生忘れない。耳元で響いた大きな音と同時に放たれた、不安定な軌道を描きながらも安土に刺さった自分の矢を見て、緩む口元が抑え切れなかった。左手に残った衝撃も、汗で湿った弽も、酷く鮮明に残っている。その時の感覚は体に染みついて、麻薬みたいに回り切って、俺は朝も放課後も道場に入り浸りになった。一人きりの道場で時間の限り練習を重ねて、近くで大会がある度に覗きに行って、上手な人の型を観察して試してみたりして。
中りの数は同級生と比べても飛びぬけていて、下手をしたら一つ上の先輩と並ぶか、抜かす程の時もあった。そのせいで妬まれていることも、何となく聞こえてきた話から知っていたから、俺は出来る限り良い奴でいようと決心した。人当りが良くて、非の打ち所のない友達。そうなれば、俺を悪く言う奴らはきっと自然に淘汰されていく。だって、自分の友達が謂れの無い理由で貶されていたら、暴言を吐いている側に良い印象を持たないのは当然だし。
次第に俺は大会出場の常連になって、部内でもみんなから頼ってもらえる存在にのし上がって、それに比例するように妬みや陰口は増えた。そういうの人間らしくて俺の中では好印象なんだけど、それだけで世界が回るわけじゃない。練習したから上達した、ただそれだけなのに俺を悪者にするってこいつら馬鹿なんじゃねえの。そう思わなくもなかったけれど、そんな正論だけは言ってはいけないとも分かっていたので、周りを見下しきった本心を隠すためにも尚の事分厚い化けの皮を被って、笑顔は常に顔に張り付いているようになった。
優しくて品行方正で頭も良くて練習熱心で、友達が悩んでいる時には親切丁寧にアドバイスをしてやるような、自分でも笑っちゃうくらいに、絵に描いた良い人。それが俺だった。
大会でもそれなりにいい成績を収めていた俺は名前が売れていたようで、高校入学してすぐ弓道部を覗きに行っても好待遇を受けた。同じように入部した同級生が弓に触らせてもらえないのを見てこっそり素引きさせてあげたり、嫌味や自慢にならない程度に今までの話をひけらかしたりなんかして、ここでの生活が少しでも俺の手のひらの上に乗るように基盤を作った。こんなの今までだってしてきたことだ、単なる焼き直しなんてただ面倒なだけ。
ほんっと、言っちゃ悪いけど、お前らみんな馬鹿ばっか。
「あっ、ええと、ふ……じ、かた」
「伏見だってば、もう」
「ふしみ!ごめんなあ、名前覚えるの苦手でさあ」
「いいよ、一文字目は覚えてくれたみたいだしね」
この数年でコピペしすぎていっそ焼き切れそうな笑顔を顔に張り付けて、振り返る。ここ最近で史上最高の馬鹿はこいつだ。弓道部に入部した同じクラスの小野寺とかいう奴。何よりもまず、人の名前を覚えない。入学からもう一か月経つっていうにも関わらず、だ。いくらどうでもいい人間の名前だってあだ名とセットで覚えておかないと後々不便じゃないかと思うんだけど、まあ俺は予防線を張ってるだけだし、記憶力ももともと良いから、単にこいつが可哀想なくらいに馬鹿なだけだろう。いっそ哀れだ。
同じクラスということもあって、何だかんだこいつとセットにされることは多かった。そんなもんこっちから願い下げたいところだけど、そう言うわけにも行かないし、腹の中隠してにこにこしながら付き合ってやる他に方法もない。まあ、高校から始めた割に筋が良いとは思うし、一生懸命練習して弓道に向き合ってるのは認めてやってもいいけれど。
「桐沢が、今日も放課後練習するの?って」
「させてもらいたいけど、先輩に聞いてみるよ」
「そっかあ」
いつもへらへら笑ってるのも気に食わない。自分のことを棚に上げて何を言っていると思わなくもないけど、何が面白くてこいつは笑ってるんだか意味不明だ。
俺よりはるかに身長が高いのも、話している時に見下されているようで腹が立つ。というか俺より背が高い奴はみんな常に四つん這いになれば良いとすら思う。とにかく、俺が成長するのを他の人間は待つべきだ。こいつに至っては一生這いつくばって生きればいい。
「伏見はいつも練習熱心だよなあ」
「頑張らないと、みんなに置いて行かれちゃうからね」
「んー……そうかなあ……」
俺がそう言ったらそうなんだよ、馬鹿は黙ってろ、と内心で罵る。他の奴だったら口先だけでも俺に畏敬の念を抱くって言うのに、ほんとにこいつだけはどう扱ったらいいのか分からない。
この間、新入部員だけで飯を食いに行ったときにも、小野寺だけは他の奴と少し違う対応を返してきて正直驚いた。何となく話の流れで弓道の試合について説明していた時に、伏見は順当にすぐレギュラー入りするんだろうな、と誰かが自然に言ったのを受けて、そんなことはないよと上っ面の謙遜で笑った俺を見て、そうかも、もしかしたら俺がしちゃうかも、とか小野寺は零し始めたのだ。その場での周りの反応は、はあ?みたいなもんで、ほとんど相手になんてされていなかったけれど、あの中で小野寺だけは本気で、何で笑われてるんだか分からないとでも言いたげで、背筋を悪寒が走り抜けた。そういう奴は土壇場で強いって、俺は知ってる。三年間遊んできたわけじゃないし、いろんな考え方の奴や人それぞれのやり方を見て来た。普段どんなに上手に引けていて中りが良かったとしても大会では緊張するものだし、弓道は精神面がかなり濃密に関わってくる競技だ。何をするにしても当たり前のことだけど、緊張したままでいい結果が残せるわけが無い。特に弓道に関しては、どんな時でも自分のことを信用出来て、結果を疑わない奴が強い。
だからぞっとしたんだけど、今のこいつを見る限りじゃ恐らく気のせいだ。アホ面で紙パックのジュースを啜っているような奴に怯えるなんて、冗談じゃない。
「今日の五限って小テストだっけ」
「そうだったはずだけど」
「そーだよなあ……」
「……ノート見る?一応まとめてあるよ」
「いいの?」
いいよ、と答えながら、お前に恩を売っておいて損はないだろうからと口の中で呟く。見た目だけ繕っとけば俺が何を考えているかなんて分からないんだから、好き放題心の中で言ったって誰も咎めたりしない。こいつのことだって、俺の居場所を奪おうとした頃に何の変哲もない言葉で徐々に殺していけばいい。真綿で首を絞めるような、とかいう表現が俺は大好きだ。
高校入学から一か月、この先過ごす三年間を想像することがもう既に酷く簡単で、こんなもんなんだろうな、なんてどこか冷めた感情しか抱けなかった。

いつも通りに授業を終えて、鞄の中に形だけ教科書とノートを入れて立ち上がる。持って帰ったところでどうせ触りもしないのなんて目に見えているけど、こうしておいた方が真面目そうに見えるから、なんてまた裏がある理由。だってこんなの一種の儀式みたいなものだ。固めきった体面を取り繕って守りきるためなら、俺はなんだってする。
一人で教室を出て部室棟に向かう途中、後ろからばたばたと走り寄って来る音と耳たこになりそうなくらいに聞いた声が届いて、見えないように思いっきり舌打ちした。特に呼んでないんだから尻尾振って寄ってくんな、どうせ友達気取るならお前より頭の良い奴を選びたい。
「先に練習すんの?」
「うん、安土と弓の準備もしたいし」
「俺もやるっ」
「……いいけど……」
まだ先輩に許可も貰ってないし、初心者にいきなり弓を引かせられない理由だって最初に説明されてるんだからそんなことしたって無駄だ、と馬鹿にしかけて、ふと思った。もしかしてこいつ、手伝ったら恩売れるかもとか胡麻擂りたいとか、そういう考えは一切無しにただ何となく俺についてきてるだけなのか。楽しいからとか、見てみたいからとか、花畑みたいな頭の中にはどうせそんなことしか詰まってないんだろう。
「なあ、ついでにいろいろ教えてくれよ。俺頭悪くってさあ、忘れちゃうんだよね」
「え、うん、いいよ」
「なんだっけ、手袋みたいなのが弽で、それに付けんのがきな粉?」
「ぎり粉。射法八節は覚えた?」
「残心!」
「……それは一番最後」
これだけは覚えた、だってなんかかっこいいじゃん、と笑う小野寺につい面食らう。こんなの覚えるなんて面倒だと言うやつばかりだったから、そんな素直な感想を聞いたのが久しぶりで。ちょうど三年前の自分が重なって、笑い飛ばすより先に、口が動いた。
「足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心。この八つが射法八節って言って、後で引きながらもっかい説明するから覚えろよな。練習してく内に会がどんどん無くなる奴もいる、これは射癖の一つで早気って言うんだけど、林崎先輩とかがそう。射法八節が出来てもいない癖に中りが良いよりは、基礎が出来てて中り数が少ない方が全然いい。あと他にもいろいろ、いっぱい覚えなきゃいけないことはあって、小野寺?聞いてんのか」
「伏見って、ほんとに弓道好きなんだな」
「す、きって、いう、か」
「ははは、伏見が照れてる」
ふと気づけばもう部室棟はすぐそこで、周りが見えていなかった自分に腹が立つ。それと同時に、こんなにたくさん喋る伏見初めて見た、なんて腹を抱えて笑う小野寺に怒りが込み上げてくる。照れてなんかない、恥ずかしくもない、せっかく教えてやったのに。
それでもここで怒ったりしたら今まで培ってきた俺のイメージが台無しだ。慣れきった作業で感情を押し込めて、無理やり笑顔を作った張りぼての顔面で、酷いなあ、なんて零せば、笑うのをやめた小野寺が俺の両頬を引っ張った。
「ふぎっ」
「さっきの話し方が良い」
「ひゃっひ……?」
「伏見さっきのが素っぽかった」
 さっきって、と思い返して、頭の天辺から一気に血の気が引いた。我を忘れて話す事に夢中になっていたにしても、程度ってものがある。当たり障り無く優しい奴だと思ってもらえるように口調まで偽って過ごしてたっていうのに、よりによってこの馬鹿にばれたら一巻の終わりだ。黙っているなんて高等技術、こいつに出来るとは思えない。
なんとか誤魔化すか言い包めるかしないと、と頬を引っ張られたまま目を泳がせると、小野寺の鞄から漫画の表紙がほんの少し覗いていた。確かあれ、家族を人質に取られた主人公が見た目も中身も偽って決死の潜入捜査、みたいな内容じゃなかったっけ。そうそう、そんな感じの話だった。もう、それでいいか。
「お、おのれら」
「ん?離そっか?」
「……実は俺、こうしなきゃいけない理由があるんだよね……」
「りゆ……あっ」
こいつみたいなタイプにはぐだぐだ言い訳して墓穴を掘るよりも、いっそ一回思いっきりふざけてしまった方がいいと思って、あえてさも重大な何かがあるように顔を背けながら言う。思い当る節がある、というかそんな展開を知っている小野寺は、ぱっと口を覆った。ほら乗ってこい馬鹿、お前みたいなやつはこういうネタ大好きだろうが。
こいつの事だからこんな茶番にも乗っかって来るだろうと思って打った布石だったんだけれど、すっかり忘れていた。小野寺が俺の予想通りに動いたことなんて、今まで一度もなかった。
「……伏見、お前」
「ごめんな小野寺」
「お前、おもしれっ……」
「は?」
「そういう、っそういうノリ出来る奴だったんだ、つんけんしてるとか思って、ご、ごめ」
口を覆ったまま、何とか耐えようとしてるのか肩を震わせる小野寺に、思わす真顔で蹴りを食らわせる。ついでに堪え切れずに舌打ちすると、我慢しきれなくなったらしい小野寺は思いっきり噴き出して笑い始めた。ふざけんな、お前の小さい脳みそに合わせて同レベル演じてやったのにこれじゃこっちが馬鹿みたいじゃねえか。そのまま過呼吸にでもなっちまえ。
息も絶え絶えになりながら、そっちが素かよ、えげつねえ、と笑う小野寺相手にもう何も取り繕う必要はない。せめて口封じだけでも、と襟首を引っ張ると、笑う方に意識が行っているのかいとも簡単にふらりと寄ってきた。腰を折られている事実にどうしようもなく腹が立つ。
「楽しそうなとこ悪いけど、俺の話聞いてくんない?」
「ふっ、ふは、ははは」
「俺がこんなだってこと他の奴らに言わないでおいてくれないかなあ、面倒なんだよね」
「いいじゃん、お前今すげえ底意地悪、ぐえっ」
「そうだけど?お前にだけ教えてあげるよ、秘密とか特別とかそんなんでいいから」
思いっきり首元を引っ張りながら目の前で笑顔を浮かべてやると、もうそれ信じらんねえとか言ってまた笑うから、無意識に舌打ちが漏れた。これだけ言っても分からないようならもういい、こいつなら放っておいても大丈夫だろう。小野寺に対する信頼とかそんな綺麗な根拠じゃなくて、ばらされたところで信じてもらえなさそうだから大丈夫だろうって憶測だ。
制服から手を放して一足先に部室へ入り、溜息を吐く。読み違えにも程がある、こんなの反則だ。小野寺相手にもっと警戒すべきだった、そんなこと今更言っても仕方ないけれど。
がたがたと扉を開けて、伏見伏見、と俺を呼ぶ声に、どう転んだところでこいつ相手に隠し事は出来なかった気がする、と思って寒気がした。そんなはずないんだけど、逃げぎる道を考えてみてもいずれ捕まって白状する自分が思い浮かぶというか、なんというか。
「なんだようるさいな」
「交換条件しよう」
「は?」
「俺は伏見の中身を黙って今まで通りに過ごす、その代わりお前は俺に素で接する」
「……それ、俺になんか利点あるの?」
「息抜きが出来る!」
「遠慮するね」
自分の道着を取りながらばっさりと返すと、飼い主に置いて行かれた犬みたいな声をあげて抗議してきて、気持ちが悪かったのでいい加減な態度で了承した。弓道着に袖を通しながら小野寺の方を振り返ると、上機嫌そうに鼻歌を歌いながら着替えをしていて、何がそんなに楽しいんだか、と思う。俺の弱味が握れて嬉しいのか、この外道め。
袴の紐を締めながら足袋を突っかけると、俺も一緒に行く、なんて声が飛んできて、思わず紐を握る手に力が入った。仲良しごっこをするつもりは毛頭無いとこの際きっぱり言ってやろうと、不快感を隠しもせずに小野寺の方を向いて、愕然とした。
「……小野寺、お前」
「ん?」
「今までそんなだらしない袴姿で道場に入ってたの……?」
「えっ、そう?先輩に教えてもらった通りに着てるんだけど、なんか違う?」
「こっち来い、ふざけんな本当」
「なに、な、何で解くの!?」
ずるずると部室の中にもう一度入って、小野寺も一緒に引き摺り戻した。帯紐を引けば案の定緩みまくっていて、袴ごとずるりと落ちる。恥ずかしいだの何だのとうるさい小野寺の腰を一発殴ってから、家以外の場所では久しぶりに浮かべる真顔で詰め寄った。
「先輩に?教えてもらった?なにを?」
「え、だから、これ」
「馬鹿も大概にしてくんない?こんなんじゃ弓引き出したら袴脱げるよ」
「今伏見が脱がしたんじゃん!」
「黙れよ露出狂。一回しか見せないから脳みそに叩き込め馬鹿」
頭から花飛ばしながら、なにを?とか言ってる馬鹿の後ろに回り込んで、帯紐と袴を上げる。下だけ向いてろと言い置いて、正しい結び方と緩まない締め方を実際にやってみせれば、意外にも無言で大人しく自分の腰元を見ているようだった。
帯を何度か十字に交差させて結ぶ、といった簡単なことなのだが、交差させた後の締め方が甘いと後々大惨事になる。太鼓の上に交差させた紐を持ってきて帯の端に紐が掛かるようにすると袴はずれない。なんて豆知識じみた言葉を添えながら袴を着せ、ヘラを差し込んで前に回る。確認のためにしゃがんで結び目を見ていると、小野寺がようやく口を開いた。
「……ありがと」
「あんなずるずるの袴で練習された方が迷惑だよ」
「今の覚えたから、明日っからはちゃんとするから!」
「どうだかな」
「伏見ってばー」
名前を呼ばれて顔を上げれば、小野寺は何故だか心配そうな表情を浮かべていて、つい笑ってしまった。冷たくされて不安になるなら、最初からあんなこと言わなければ良かったのに。
可哀想な頭だと憐れみを込めて、今まで通りに善良な人間の皮を被り直してやろうと笑顔を向ければ、安心したのかつられて笑った小野寺が言った。
「こうやって見ると、伏見って女の子みてえな顔してるな!」
上目遣いが余計に、と付け足されかけて途切れた言葉に、静かに後ずさりながら思う。前言撤回、こいつがいくら可哀想なくらいに馬鹿でも、もう二度と上っ面で媚を売るような真似は出来ない。何故かって、うっかり言葉より先に手が出てしまうからだ。
部室に倒れ伏している小野寺を置いて道場へ向かった。死んでないならほっといても大丈夫だろう、馬鹿の良いところは普通の人間より基本的に頑丈なところだと俺は思う。

「馬手もっと引いて、肘下げて」
「無茶だよ!」
「引いてる時に口開けんな、口割りずれる」
巻き藁用の矢でばしばしと小野寺の腰元を叩きながら言うと、離してすぐにこっちを向きやがったので、死にたいのかと小声で吐く。慌てて顔を戻し、弓倒ししてから恐る恐る俺を窺う小野寺に、にっこりと笑顔を向けた。もちろん、小野寺が大嫌いな他人用の笑顔だ。
「もう一回」
「もう無理だって!何本引いたよ!」
「百射会だと思えよ」
「こないだやったろうがよ……!」
夏休みも後半、一年は合宿中に弓に矢を番えて引くことを許可され、俺一人だった自主練の時間はついに小野寺の介入の憂き目にあった。学校にいる中で唯一静かな時間だったのに、何でこんな馬鹿の相手して過ごさなきゃいけないんだ。心が全く休まらない。
まあ六月頃から、見てるだけでいいからと駄々を捏ねられて放課後に俺一人で練習してる道場内に存在はしていたんだけど、喋ったらお前を的にするとは言ってあったし、ほぼいないようなもんだった。でも、弓を引ける人間に向かって黙って見てろとはもう言えないし、だからと言ってぐちゃぐちゃな射形のまま隣で練習されても気が散って仕方がない。結果、俺の練習に区切りが付くまでは小野寺には視界に入らない場所で勝手に練習してもらって、その後射形を見て指導する、という形を取ることになった。
教えてやるなんて俺が言い出したわけじゃない、断じて違う。ここどうしたらいいの伏見ちょっと見てこっち来て、と練習中に小野寺がうるさいからこの形を取ることになっただけだ。
「本数重ねて体で覚えないと最初はどうにもなんないんだから、黙って引け」
「でも俺一年の中じゃ一番上手だって、先輩が」
「俺より?」
「はい……すいません……」
矢取り行ってきます、と肩を落とす小野寺に、俺が行ってくるからお前は今言われたこと考えながら巻き藁入れ、と言い置いて草履を突っ掛けた。口を開けて分かりやすく驚いている阿呆面を嘲笑しながら道場を出て、口元を押さえた。今、絶対にやけてる。
確かに面倒だし苛つくし小野寺は心底邪魔なんだけど、あいつが目に見えて上達しているのは明らかだ。元々の素質なのか性格なのか教えたことの吸収は早いし、俺に引っ付いてるから練習量も他の部員とは桁違いだし、何より自分が上手くなっていることに本人が気付いていないから自信を持ちすぎて溺れることが無い。だから上達するのは当たり前、なんだけど。
看的から赤旗を出して矢取りに入ると、小野寺が道場の奥で言われた通りに練習しているのが見えた。そろそろ暗くなってくるし帰らないといけないんだけど、あいつ馬手下げたら弓手上がりやがった、あれ下手したら引っかかって離れなくなると思うんだけど。
いらない的を外しながら道場の様子を窺っていると、案の定違和感を覚えたらしい小野寺が弓を戻して首を傾げていたので、後でわざと暴発させてこのままじゃどうなるか教えてやろうと思う。何だかんだ言って、きっと俺はあいつに教えるのが楽しいのだろう。
矢を拭きながら道場へ戻ると予想通り小野寺がこっちに寄ってきて、弓が壊れたとかほざくので、無視して矢を渡した。肩を回しながら的前に立ち、こっちを振り向いて口を開く。
「伏見ー、帰りアイス食うー」
「食えば」
「……奢れとかねえの?」
「その金貯めて教本買えば?」
「図書館で借りたのあるもん、買わなくてもお前いるし」
「じゃあ駅前のさあ、コンビニの横の」
「コンビニでパピコ買って二人で分けよう!なあ!」
「勝手に決めないでよ」
「だってお前の言ってんの、あの、がちゃがちゃかんかんやるやつじゃん、歌う店員の」
「それそれ、奢れよ」
「五百円もすんじゃん!」
「早く引いて、六百十円の成果出してくれないと」
「サイズでかくしてんじゃねえよ!」
なんて、話している間に小野寺はさっきの巻き藁での引っ掛かりを忘れたようで、計画通りだ。引いている間に妙なこと考えられても困るからわざと思いっきり話を変えたのだけれど、単純馬鹿はこういうところが便利で良いと思う。
さっきまでと同じように背後に立って、手に取った巻き藁矢で下がり切っていない右肘を刺した。忘れるのはおかしな射形だけでいい、俺が言ったことまで忘れんな馬鹿が。
「馬手下げろっつってんだろ」
「んー……え、あっ」
「……ほら、こうだって」
「中った!伏見!中った!」
「こっち向くな、後三本残ってんだろ」
「はい!」
気分的には、人懐っこくってでかい犬を飼い始めたんだけど余りに阿呆なので芸を叩き込んで躾をしている、みたいな。笑顔で矢を番える小野寺を見ながら、そう思った。


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