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おはなし



「りつき兄ちゃん」
「あ?」
「好きな人いたことある?」
「……………」
「りつき兄ちゃん?」
「……ない」
「そっかあ。まもりと一緒だね」
可愛い弟にとって、誇りを持って自慢できる兄でいたいがために、嘘をつきました。そういえば美里が言ってた。まもちゃん好きな子がいるのかもしれなあい!って。こういうことか。そういうことか。にこにこしながら、まもりは兄ちゃんと姉ちゃんのこと好きだけど、そうじゃない好きがあるんだよ、と教えてくれる弟の頭に手を置いて、立ち上がった。
「どこ行くのー?」
「煙草」
「くさーいって言われちゃうよ」
「あー」
「わるいんだー!」
悪くてなにが悪い。

好きな人がいなかったわけじゃない。叶ったことが一度もないだけ。他の奴らは、好きになったらそれなりに上手くやって、告白するとか、付き合うとか、その先まで進むとか、するんだろうとは思う。だから、俺にはそこまでの勇気がない、ってだけの話だ。俺には、好きになったことを表に出す勇気すら、無かった。
失敗談ならいくらでもある。中学生の時の失敗談は、俺の今現在にまつわる全然笑えない話になってしまう。なので、小学生の時の失敗談なら、まだ笑って話せる、のかも。この話は、俺が小学校六年生の時の話だ。馬鹿の美里や、記憶能力をどこかに落としてきた清楽は忘れたかもしれないが、恐らく藍麻は覚えている。その時点で三年生とかだし、先生との仲も良かったから。
うちは、真守が生まれるより前の時点で既に6兄弟だった。当然だけれど。そんなわけで、小学生のうちは所謂、学童保育、というやつに多大にお世話になっていた。哲太も、巧も、美里も、清楽も、藍麻も。余すところなく全員が。美里が小学校六年生、つまりは俺が五年の時、新しい先生が学童に来た。名前は忘れた。忘れたというよりは、黒歴史だから思い出したくもないのかもしれない。あの時はずっと先生って呼んでたから、先生と呼びたい。
俺は多分あんまり良い子ではなくて、あの哲太と巧の弟なのに、って扱いだった。別に、表立って悪いことをしたわけじゃない。分かりやすく、跳ねっ返りだったのだ。大人の言うことは聞きたくなかった。さぼれることはさぼりたかった。自分が楽しければそれで良かった。その辺は未だにそうなんだけど、人間、根っこは変わらないもんである。大人の言うことを聞かない跳ねっ返りが同年代にどう受け止められるかといえば、俺の場合は、クラスの中心で踏ん反り返っていた。他からしたら、ちょっと悪いのが格好良かったのだ。運動神経がいい奴がモテる、みたいなやつの発展系なのかもしれない。繰り返すようだが、別に表立って悪いことをしたわけじゃないんだから。そんな、有り体に言えば「手のかかるめんどくさい子ども」だった俺のことを、それが当たり前のように普通に叱り、反抗して騒ぎ逃げる俺を雨の中に突き飛ばし、十も離れた小学生の子どもを睨みつけながら、「そこで立っとけとか言ったらあたしが怒られるからそんなんなるならあたしも一緒に立ってやるからな!」と叫び散らし、本当に俺の隣で長々と一緒に雨の中突っ立ち続けた女が、俺の失敗談の主人公である。
なんでそんなに叱られたのかは覚えてない。多分調子に乗りすぎたのだと思う。誰かに迷惑をかけたつもりはなかったが、きっと自分では分からなかっただけで、先生からしたら俺はどうしようもないクソ野郎だったのだ。なにしたんだったかなあ。覚えてないってことは、あれだけ叱られるに値するどうしようもないことを、自分ではとっても小さな些細なこととしか受け止めていなかったのだ。二人でびちゃびちゃに打たれた雨は、酷く冷たくて、そりゃあ当たり前だけれど、風邪を引いた。子どもの回復力と母親の献身的な看病により、すぐに治って鼻水を垂らしながら学童に向かった俺の前に、先生はいなかった。あいつどこ行ったんだ、と聞いた俺に与えられた答えは「先生は風邪ひいて休みだよ」だった。
ふざけんな、と思った。今からすれば、傲慢だけれど、その時は本気で、あの女!風邪なんか引きやがって、逃げたな!と思ったのだ。悪ガキだった俺は、学童の職員室に忍び込んで、先生の住んでるところを突き止めた。あいつが自転車で学童に来てることは知ってたから、歩いて行ける距離だろうと予測したのだ。幸いなことに知ってる住所だった。そして重ねて幸いなことに、先生は堂々と表札を出すタイプの人間だった。
「……………」
「……………」
「……アホガキ……」
「なんで風邪引くんだよ!」
「お前も鼻垂らしてんじゃんか」
「俺のことを一人で外に出しときゃあんたは風邪なんか引かなかったろ!ばーか!」
「頭痛いから叫ぶな、大人に風邪は辛いんだ」
「うるっせえ!ばーか!」
「ていうかなんでここにいるんだよ」
「……カン!」
「馬鹿丸出しか、クソガキ」
悪いことをした時は悪いことをしてすみませんでしたって謝るんだ覚えとけ、と軽く頭を叩かれて、先生は玄関を開けたまま中へ入って行ってしまった。どこ行くんだ、と玄関先でたたらを踏む俺に、くそきつい、と眉根を寄せる先生はすぐ帰ってきて、その手には自転車の鍵を持っていた。
「後ろ乗りな」
「歩いて帰る!」
「馬鹿か?」
「せっ、おまえ、先生面しようったって無駄だからな!面倒見ようとすんな!」
「先生は子どもの頭を叩いたり子供に風邪を引かせたりしねえんだよ」
ごもっともだった。あの先生は、先生として落ちこぼれだったのだ。怒りっぽくて、めんどくさがりで、子どもでも容赦なしにド正論でぶち抜いては勝ち誇るような、そんな女だった。結局その日は、担ぎ上げられて自転車に乗せられて、猛スピードで走り出しやがったので、なにも反論しないまま、どうしてあいつの家に行ったのかも訳が分からないまま、帰らされた。親にはめちゃくちゃに怒られた。哲太にもめちゃくちゃに怒られた。後者ですごく泣いた。美里には結構真顔で「りっちゃん、この先ずっと、ううん、学童にいる時だけでもいいから、みりの弟ではないことにしてえ……?」って言われた。
美里が卒業して、中学生になった。俺は最高学年ってやつになって、ちょっとは跳ねっ返りが落ち着いた。先生は去年と変わらず、キレやすくて、子どもと一緒になって転げ回って遊んでは、自分が負けるとブチ切れて、勝つと全力でドヤ顔をかましてくるような女だった。
終わりが来るのは突然だった。
「そういうわけで、先生、鹿児島に行くことになったから。みんなのことは忘れませーん」
軽かった。どうしてー?と聞いた空気の読めない方の妹、清楽に、結婚するからだよー、大好きな旦那さんがもうじき鹿児島に転勤だからだよー、と先生はこれまた軽く答えた。空気の読める方の妹、藍麻はちゃんと悲しげな顔をしていた。俺は、どんな顔をしていたんだろう。
先生が鹿児島に行くまで、俺は先生に全力で迷惑をかけ続けた。意訳、こんな奴を放って行くのかクソ女、である。ちょっとは良くなったと思ったけどやっぱり律貴は律貴だったか、哲太や巧みたいとは違うんだ、って目で見られた。あいつらと比べるんじゃねえ、とも思った。だって俺は、あいつらみたいに良い子にはなれないんだから。けど、先生は俺の大暴れを意にも介さず、またやってんのかクソガキ、と俺の頭を叩き、学習しろ馬鹿が脳味噌無えのか、と辛辣に吐き捨て、それで俺が反省しなければ寒かろうが暑かろうが構わず外に出しては一緒に突っ立ち、ふざければげらげら笑って、しょっちゅうブチ切れて、俺に負けると「ふざけんな勝ち逃げかオラァ!」と殴りかかって来るような女であり続けた。今考えればとんでもない。およそ先生ではない。周りの奴らも、あいつのことを名前にちゃん付けとかで呼んでた。けど、俺はあいつを先生と呼び続けた。だって、俺の先生だから。俺は、そんな破茶滅茶でどうしようもなくて、それでも心底正しくて、曲がらず折れず、先生であり続けた彼女のことが、好きだったから。
あいつがいなくなったのは、急に冷え込みが厳しくなった、冬の入口だった。学童のみんなでお別れ会をするとか言って、清楽も藍麻もそれに出席したらしいけど、俺はそんなんまともにやるつもりはなくて、じゃあぶち壊してやろうかってそんな気にもなれなくて、一人で校舎の屋上で寝転がっていた。古い平家を増改築した学童保育の建物は、変なところに扉がたくさんあって、よくかくれんぼしたっけ。先生は隠れるのが下手だった。大人だからだよ!体がでかいから!とキレていたけれど、そういう問題ではなかった。カルタ取り大会とかもした。先生の総取りで一人勝ちだった。校庭なんて大層なもんはないから、外で遊びたいとなったらこの狭い仮屋上みたいなところで走り回るしかなかった。先生対俺の集めた精鋭五人でリレーとかもした。先生は勝てないと分かるとバトンで俺たちを攻撃してきて、ずるかった。春にはお花見をした。夏には花火をした。秋にはお月見もした。冬には雪で遊んだ。たった一年と半年ちょっとくらいしかいなかったはずなのに、先生の思い出がしこたまこびりついたこの建物で、残り僅かな時間を過ごせる気がしなかった。置いていきやがって。せめて俺が卒業するまでいろよ、馬鹿女。ふざけんな。なんだよ、結婚って。なんなんだよ、大好きな旦那さんって。そんなタマじゃねえじゃん。アホ面でにやにや笑いやがって。俺と話す時とは、違う顔しやがって。ふざけんな。だからあんなやつ大嫌いなんだ、くそったれ。
多分、声を上げて泣いていたんだと思う。気づいた時には、俺の服の袖口はぐっちゃぐちゃのびちゃびちゃで、喉が痛かった。いつの間にか薄ら暗くなった辺りに、顔が直ったら下に降りてあったかい飲み物でも貰おうかな、なんて思いながら体を起こして、柵に寄っかかって下を見下ろした。
「、……」
「……なにしてんだよ」
見上げていたのは、先生だった。わあわあうるせんだよ、男だろ、泣くなや、といつも通りに吐き捨てた彼女の左手には、今までなかったきらきらがあった。ああ。あーあ。
「……、……」
好きです。声に出なかった。好きです。ああ、好きなんです。唇が氷になったみたいだった。見下ろす俺を不思議そうに見上げた先生は、悪い顔で笑って、言った。
「なあ、律貴。あたし、あんたの先生でいられたことが、一番楽しかったよ」

この話のどこか失敗談だったかというと、迷惑をかけることで興味を引こうとしたあたりなのだけれど、中学生になった俺は、その逆、迷惑をかけず相手の言うことを聞いて褒められる快感に溺れる失敗をしているので、先生の言うところの「馬鹿なクソガキ」は、最高に俺にぴったりな言葉だったのだと心底思う。
なあ、先生。あんたが俺の先生で、良かった。




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