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おはなし



「みり姉ちゃん」
「んー?まもちゃん、どしたのー?」
「みり姉ちゃん、好きな人いたことある?」
「あるよお、まもちゃんのことも好きだよ」
「そうじゃなくって!」
「うんうん」
ぷん!と怒るまもちゃんに、ごめんね、と謝りながらも内心で頷く。分かる分かる。まもちゃんが言いたいのは、ラブの意味で好きな人、ってことだよね。すきすき、はーとまーく、ってことだよね。美里にだってそれくらいありますよ、なんたって頼れるお姉ちゃんですからね、と胸を張ると、ちょっと微妙そうな顔をされた。どこに対してのその顔なのかしら、頼れるお姉ちゃんってとこかしら。それならまあ分かる。
「まもちゃん、好きな子いるの」
「いない」
「やー!うそお!みりにそれを聞くってことはそういうことでしょうよ!」
「真守は好きな子いないんだけど、お友だちに好きな子がいるんだ」
でも、家族以外、友達以外に、大好きって感情を向けることがどういうことなのか、自分にはよく分からないんだ、と。まもちゃんはぽつぽつと話した。まもちゃんの初恋、とか、聞いたことないしね。でもね、そうだなあ。恋を知らない君に話すには、お姉ちゃんの恋は、重たいかもしれないよ。

美里、ちょっとだけ、家を出たことがあるの。別に、家族が嫌になったとか、どうしてもやりたいことがあったとか、そういう理由は全然なかった。まもちゃんは勿論知らないし、きーちゃんとらんちゃんも、もしかしたら覚えてないかも。ほんとにちょっとだけだったしね。一年とか二年とか、三年とか?家を出て、ここより都会に一人で住んでた。働きながら、狭いアパートで、お母さんのご飯が食べたいなー、とか思いながら。電車は十分に一本は来るし、車は昼も夜も関係なくびゅんびゅん走ってるし、コンビニはいつ行っても営業してるし、お隣さんの顔は知らなかった。そんな感じで、そういう風に、人に紛れて生きていくのがきっと普通なんだろうな、って思ってた頃の話。
好きな人がいた。ふわふわしてて、地面に足が付いてなくて、夢ばかり見ているような人。多分美里は、その彼じゃなくて、彼の見ている夢が、もしくは、夢を見ている彼が、好きだったのだ。だから、さようならした理由は簡単。彼が、夢を捨ててしまったから。
出会いは偶然で、驚くほど普通で、ロマンティックの欠片もなかった。遅くに帰って来た美里が夜ご飯を買いに行ったコンビニのバイトくんが、レジを打ってくれた後に、ぽそりと小さく言った。「くじ引きますか?」。その時そのコンビニでは、700円以上買い物するとくじを引かせてくれて、美里も知らないうちに700円以上のお買い物をしていたのだ。そんなの知らなかったけどとりあえず頷いて、簡素なくじの箱に手を突っ込んで、がさがさ。引っ張り出したくじに書いてあったのは、お弁当の割引クーポンだった。また買いに来るかあ、とぼんやり思ってたら、バイトくんもちょっと笑いながら言った。「また来なきゃいけなくなりましたね」って。それが彼だった。深夜のコンビニのアルバイト。学生には見えない草臥れた背中。癖っ毛と、高い鼻。目の中に向日葵が咲いてるみたいな、不思議な瞳。調べたら、そういう色の人も少なからずいるんだって。ヘーゼルの瞳。もしかしたら家系図を辿ったら、外人さんの血が混ざってたのかもね。
仲良くなるまでの細かいことはよく覚えてないけど、いつのまにか美里と彼は仲良くなって、いつのまにかお付き合いをしていた。美里の一人暮らしの家に彼のものが増えて、彼の一人暮らしの家に美里のものが増えて。洗濯物が紛れて、二人でご飯を食べて、他愛ない話をたくさんした。
美里が彼の家をお掃除してる時のことだった。大掃除のお手伝い、というともっと正確かも。ウォークインクローゼットの扉が少しだけ開いてて、美里はその中も埃取りしようと思って、扉を開けた。中にあったのは、コートとか帽子とか鞄とか。あと壁際にひっそりと立てかけられていたのは、それなりに大きな黒いケースだった。なにかしら、と手に取った美里に、彼は驚いて、大きな声を上げかけて、すぐにその声は萎んでむにゃむにゃと消えた。きっと大事なもので、それが大事なことを彼は周りに隠しているんだろうなって、思った。
「……ずっと、言ってなかったけど」
「うん」
「音楽が好きなんだ」
「みり、それは聞いたことあるよ」
「……演奏するのも、好きなんだ」
中に入っていたのは、沢山の楽譜と、たくさん書き込みのある教科書と、メトロノームと、楽器が一つだけ。オーボエって言うんだ、と取り出されたそれは、長細くて、大きいリコーダーみたいだなあ、と無学な美里は思った。他にも彼は、ギターとかピアノとか、トランペットとかクラリネットとか、いろんな楽器を演奏できるらしかった。けど、今持ってきてるのはこれだけなんだって。上手とか下手とかは置いといて、一番好きだから、オーボエを持って来たんだ、と彼は愛おしそうにケースを撫でた。小さい頃からいろんな楽器を習わせてもらって、自分には向かなかったものも、独学で学んだものも、それぞれにいろいろあったけれど、どれも楽しかったって。
それで、彼はぽつぽつと自分の夢を話し始めた。自分の演奏を誰かに認めてもらいたいこと。例えば、オーケストラには参加してみたいし、バンドだって組んでみたいし、ソロで演奏する場も一度は持ってみたい。全てをできるとは思わないけど、一度くらいは誰かに自分の演奏を聴いて欲しい。みりも聴きたい、聴く人はみりじゃあ駄目なの、とお馬鹿ちんな質問をした美里に彼は、要するに、チケットを売り出して講演をしたい、ってことだよ、と困ったように笑った。美里は音楽に詳しくないけれど、いろんなものの演奏ができて、更にそんな素敵な夢があるっていうのは、きっと素晴らしいことだから、彼にはそのために頑張って欲しいと思ったのだ。
それから、彼の家族の話も聞いた。やりたいことがあるのにそれをできないのは、昔はお金に困ってなかった彼の家族は、彼が高校生の時にお父さんの会社が倒産して、今は困るような状況に置かれているから、らしかった。だから昔はいろんな楽器を習わせてもらえたんだ、その時に揃えてもらったのを大事に使ってるんだけどね、と彼は少し寂しげに笑った。だからバイト漬けなんだって。でも正社員になったら夢を諦めなくちゃいけないから、それは嫌なんだって。美里は、それに頷くしかなかった。彼の気持ちもよく分かったから。けれどやっぱり、夢を叶えて欲しいなあ、とは思った。
「こんな話、するつもりじゃなかったんだけどな」
「……みり、嬉しいよ」
「でも、気を遣うだろ。美里なら」
「つかわない」
「嘘つけ」
涙目、と額を指で弾かれて、頰を膨らませた。そんなすぐに泣いたりしないもの。
それから、彼は楽器を練習していることを隠さなくなった。オーディションを受けていることも、隠さなくなった。美里はそれを後押ししたくて、たくさんいろいろ手伝った。とは言ってもできることは少なくて、夜ご飯作って待ってるとか、お話聞くとか、練習した曲を聞いて欲しいって言われたら聞いたりとか。けど、どこが良い、どこが悪い、っていうのは分からないから、素敵!って拍手するしかないんだけど。そういうところが、駄目だったのかなあ。
「美里!ねえ!」
「どおしたの」
「聞いて!美里!」
「なあに、きゃああ」
多分もうほぼ同棲状態だった頃。夜も更けて、どたどた帰ってきた彼は、美里に抱きついて大喜びだった。どうしたの、と笑いながら腕を撫でれば、頰を真っ赤にして嬉しそうに笑った彼が、口を開いた。
「前座だけど、ライブハウスで演奏させてもらえることになった!時間はほんの少しだけだけど、でも、ソロだ!」
「すごい!すごいねえ、いつなの?ねえ、みりも聞きに行きたい」
「また打ち合わせがあるから、それが終わったら教えるよ。ねえ、美里、ありがとう」
「んー?」
「美里が諦めないでいてくれたからだよ」
それは、貴方が諦めなかったから。美里はなんにもしてないよ。そう告げれば、彼は目尻をくしゃくしゃにして笑った。
それからしばらくして、彼は初めて、ステージに立った。緊張して耳まで真っ赤になって、肩なんてがちがちにあがっちゃいながら、それでも彼は一曲吹き切った。拍手はまばらで、鳴り止まない割れんばかりの歓声とは行かなかったけれど、美里は一生懸命拍手をした。深く深くお辞儀をした彼に届くように。頭を下げたその中で、汗に混じって涙をこぼしている彼に、聞こえるように。
「楽しかった?」
「……うん。夢みたいだった」
「どきどきした?」
「死んじゃうかと思った」
「ふふ」
「美里が見えたよ。また泣きそうだった」
「泣いてないですー!」
その日の夜、彼は幸せそうにふわふわして、祝杯だ!って安いワインを開けて、本当に夢みたい、って言いながら寝てしまった。美里はそれを見て、その夢はこれからも続くのだと思っていたのだ。
そう上手くは、話は進まなかった。
「……あれー?」
「ん?」
「オーボエのケースがないよー?」
「……ああ、うん、今実家にある。一旦預けたんだ」
「ふうん」
「次のオーディションはピアノで受けてみようと思ってるから。オーボエがなくても大丈夫だよ」
へらりと彼は笑った。その後、オーディションの結果は、二度と聞かせてくれなかった。一番大好きなはずのオーボエのケースが、彼の手元に戻ってくることも、なかった。きっと多分、そういうことなんだと思う。あの時、彼の夢は死んだのだと思う。自分の愛したオーボエが今どこにあるか、その時の彼にはもう知る余地が無かったのだ。お金に困っている実家に楽器を預けて、それが二度と帰ってこないっていうのは、だって、きっと、もうそれが失われてしまったということでしょう。お金と引き換えに他の誰かの手に渡ってしまうとか、そういうことでしょう。
しばらくして、季節が変わった頃、彼は嫌にぱりっとしたスーツを着て、言った。これから面接を受けてくる、って。正社員採用の面接だって。演奏は?戻ってこないオーボエは?って聞く美里に、彼は無理やり作った無表情で、言葉を返した。
「だって、美里も俺がこんなんじゃ困るだろ」
別に困らなかった。彼が夢を諦めないでいてくれるなら、ずっと応援するつもりでいた。遠く先の未来まで、二人一緒にいる想像だってしていた。だけど、あの時あの瞬間、美里の中で彼は、粉々に砕け散ってしまったのだ。愛おしい気持ちも、大切な想いも、無くならないのに、ばらばらになった。それからしばらくして、美里は彼と別れて、一人暮らしを再開した。けどもうどうにもならなくて、何もする気になれなくて、逃げ帰ってきた。そう、正しく、逃げ帰ってきたのだ。

「それから、その人と会ったの?」
「うん。一回だけ。二人とも知ってるお友達の結婚式でね」
「お話した?」
「したよお。普通だったよ、会社員やってるんだって」
「……みり姉ちゃん?」
「んー?」
「好きになるって、どういうこと?」
「……んー」
結ばれても、結ばれなくても、叶っても叶わなくても、好きは好きだし、愛は愛だし、恋は恋だ。爛れていようが濁っていようが澱んでいようが、はたまた透き通っていようが、もしかしたら素晴らしく綺麗であろうが、同じ。どういうことなんだろうね。好きって、どういうことなんだろう。
「……みりにも分かんないや」
「まもりも」
「まもちゃんの好きも、今度教えてね」
「うん!」

愛した彼から貰った、銀の指輪のプレゼント。ずっと捨てられない、夢の塊。その指輪は、彼が初めての舞台出演で貰ったお金で、美里に買ってくれたものだから。
どうか、彼がもう一度、夢を見ることができますように。



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