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コウノトリと幸せ



「行ってきます」
「こーちゃん、いっちゃやだ」
「うん。俺もやだ」
「やだなの……」
「海、おいで」
「うう」
ぎゅー。大丈夫、って三回肩を叩くのは、航介しかやらないけれど、海はしっかり覚えてて、真似してる。離れた海は寂しそうな顔はしていたけれど、泣きはしなかった。こいつなりに、我儘言っていい時、悪い時は、ちゃんと分かってるから。
航介の悪阻は思ったよりも酷くて、前回よりももっとものが食べられなくなった。仕事なんてできる状況になくて、病院の準備が整い次第、すぐに入院が決まった。どうして離れることになるか、海には言ってない。産まれるかもしれない弟か妹が、本当に生まれて来られるのかどうかすら、まだ分からないからだ。いってらっしゃい、と手を振る海はさちえとみわこに手を繋がれて、俺たちが乗り込んだ車をずーっと見ていた。航介もずーっとそれを見てたので、心持ち的に、出発できなかった。俺だって、そんなすぐ発信できるほど、冷めてない。
「お見舞い、海も連れて行くからさ」
「おう」
「毎日……は、無理かもしれないけど」
「いいよ。海が離れても平気そうなら、それでも」
「航介は?」
「俺は平気だよ」
「……もう一回聞こうか?」
「……嘘ついた」
「はい」
「きつい……」
ほんとはやだ、と小さな声で漏らした航介は、窓の外を見ながら言った。

それから、またしばらくして。こーちゃんのかお、と通算何百枚目かになる航介の似顔絵をせっせこ描いている海に、声をかける。ちなみにその似顔絵、一応全部航介に渡してはいるんだけど、もう引き出しにも入りきらないし紙袋にもいっぱいになったしどうすればいいんだ、ってこの前呆然としてたから、そろそろ遠慮してあげたほうがいいかもしれないよ、海。
「海ちゃんに、お知らせがあります」
「なーにー?」
「こーちゃんがちょっと前から入院していましたね」
「ぬーいん」
「にゅ、う、い、ん」
「わかってるもん!まちがえちゃっただけ!」
「そんなこーちゃんが、明日帰って来ます」
「えー!おみまいちょっとしかいってない!もっかいいく!」
「喜びなさいよ!先にやったーでしょ!」
「やったー!」
能天気。やったー!の勢いでクレヨンセットも色鉛筆セットも逆さまにした海が、我に返ってきちんとそれを片付け始めた。偉いぞ。
入院初期は普通の病室だったのだけれど、途中から隔離で個室になったおかげで、海はあんまりお見舞いに行けなかった。というのも、何故個室になったかっていうのが、航介の体調がかなり芳しくなかったからだ。海の時よりも、つわりが思ったより長引いて、激しかった。それと二人分ってことなのか体力をかなり奪われてたみたいで、ここ最近はもう眠たすぎて、起きてすらいなかった。そんな航介に会っても、海は心配そうな顔ばかりするし、病室の中は無言になっちゃうし、だから航介もなけなしの体力を振り絞っちゃうし、誰も楽しくない。ので、毎日は無理かも、くらいだったお見舞いは、週一とか十日に一日とか、そのくらいのペースになった。だから「おみまいちょっとしかいってない!」なのである。だって、俺が一人で行った時なんて寝こけてて、ぴくりともせずに目も醒まさない航介だよ。海がいることで何とか会話してる感じだったのに、無理させられないでしょ。
まあ航介も不安がりだから、安定期に入ってからもずっとはらはらしてたし、海の時も、産前ぎりぎりなんて特に不安定になりすぎて、生まれてくるまでずっと泣きそうな顔してた。今回はそこまで不安そうでもなかったけれど、どちらかというと、海を連れてきた時ですら眠たそうで、俺が一人で来た時は基本寝ぼけてたくらい体力を吸い取られてお休みモードで、そんなこと考えてる暇もなかった、って言うのが正しいのかも。それはそれでよかったのかな。
「びょーきなおった?」
「病気じゃないって何回説明したかね」
「びょーきのひとがにゅーいんするの!うみ、テレビでみたんだからね!」
「じゃあもう明日驚きなよ」
「ふん!さくちゃんとふたりきりなんて、もうやれやれ!」
「夜泣きしてたくせによく言うよ!」
さて、弟ができると分かったら、海はどんな顔をするのだろうか。それはちょっと楽しみだ。

「おむかえいくー?」
「そうね」
お迎えといったら、なのか、じゃのめでおむかいうれしいなー、と歌っている海の手を引いて院内を歩く。昨日の感じだと、何もかも全く分かってないっぽかったけど。こーちゃんが帰ってくる、うれしー!ぐらい。
航介の病室に入ると、ベッドの横で立って何やら準備をしていたらしい航介が振り向いた。久しぶりに立ってるところを見た。海が、俺の手を振り払って走り出す。個室だからいいか。
「海」
「こーちゃーん!こ……」
「おかえりー」
「ただいま。……まだ早くないか?」
「……………」
「海?」
「……あかちゃんだー」
「そうだよ」
「あかちゃんねてる、しー」
「海の弟だよ」
「……、はは?」
「久しぶりに見たなー、誤魔化しの半笑い」
「去年くらいまでよくやってたけどな」
半笑いから、数分後。現実を受け止め切ったらしい海の口が開いたと同時に、静かなはずの個室が一気に音で溢れかえった。
「えー!うみの!おとーと!」
「寝てるって!起きるって!」
「りょうほう!?どっちも!?うみのおとうとと、うみのおとうと!?」
「そうだよ!」
「先に言っとけよ」
「今それを痛感してるところ!」
「ひゃああああ!」
案の定、とても騒がしかった。久しぶりのうるささに、航介はちょっと嬉しそうだった。ベッドの周りをぐるぐる回って、ぴょこぴょこしながら弟二人を見ようとして、うまく見えずにそれでもまたぐるぐるしだした海を抱きとめる。発散が下手くそか。やだの!と俺の頰を押しのけて脱出した海が、航介に抱っこされて、弟を覗き込む。航介ならいいのか!さくちゃんは悲しい、ふあー、と涎でも垂らしそうな顔で覗いた海が、にまにましながらこっちを向いた。
「うみの、おとーと。おとーと」
「名前があるんだよ」
「なんてゆうの?」
「空と陸」
「そらちゃーん」
「そっちは陸」
「……りくちゃーん」
「海も、面倒見てやろうな」
「うん!うみ、おにいちゃん!」
ふんす!と鼻息荒く宣言した海が、拳を突き上げた。赤ん坊二人は、騒がしい兄のことは知らず、すやすやと寝ている。いいお兄ちゃんになってくれよ、海。

「りくちゃん、おむついっぱいだよ」
「そらちゃん、おなかすいたって」
「ふたりでねてるー」
今まで遊んでた時間を全部投げ打って空と陸に付きっきりになってくれている海は、すごくよく面倒を見てくれている。そしておしゃべりなので、今なにしてる、今これしてる、を全部報告してくれている。いっそやかましいくらい。家に帰って来て1日目なんて、あ!いま、そらちゃんまばたきした!ぱちって!りくちゃんもした!ってとこまでいちいち教えてくれた。まばたきは勝手にするから大丈夫だよ。
少し小さく生まれて来た空と陸は、順調に成長しているらしかった。空の方が活発で、陸の方があんまり動かない。しかし陸の方が食べるので、航介がはらはらしている。自分の幼い頃を思い出しているんだろうか。分かる。
「そらちゃん、りくちゃん、はやくうみとあそぼうねー」

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