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コウノトリと幸せ



それは、遡って、しばらく前の話。

航介が震えるように溜息を漏らしたのは、東京の病院の待合室でだった。産科の中でも人工妊娠を主としている、特別隔離された建物。プライバシーの確保だとか、特別な検査器具が必要とか、そういう理由で、自然妊娠じゃない人ばかりがこっちに集まる。だから、男の人も普通に座ってるし、女の人もいるし、今診察室に入って行ったのは幼く見える女の子だ。きっとあの人にもなんらかの訳があって、ここに赤ちゃんのきっかけを貰いに来ているんだろう。
複製細胞がなんたらかんたら、妊娠の自由化がうんたらかんたら、って騒がれたのは、今は昔で、それぞれにいろんな理由で子供を諦めていた人たちが、可能性を持てるようになるって話が、いつしか当たり前になった。例えば、病気や事故で子宮を失った女の人。取り糺されて矢面に立ったのはそういう人だったけれど、実際蓋を開けてみたら、縋ってくるのはもっとたくさんの人だった。それぞれにいろんな事情があって、子どもを切に願っている人たちが、ここには集まっている。貰えるのはただのきっかけだろうと、確率的にはとても低い可能性にかけて、ほとんど神頼みでも、縋るのだ。赤ちゃんは、奇跡だから。
「……やっぱり、」
「やっぱりは無し」
「じゃあやっぱりじゃなくて」
「じゃなくても無し」
「……なあ、帰ろう、今ならまだ平気だし、もうちょっと様子見てからでも」
「もう今の時点で、ご飯食べられないんだよ?あっちの病院じゃ、精密検査はできないって、ここに紹介状書いてもらったんでしょう。帰れないよ」
「……そうだけど」
ずっと眉毛が下がってる航介は、数年前から俺のお願い事を聞いてくれている。赤ちゃんを望む薬を、飲んでくれている。地元で一番大きい病院での定期検診では、複製細胞の定着が見られるとか、若いから進行が早いとか、これなら望みは持てるとか、いいことをたくさん言ってもらえた。自分の体の中のことなんて見えないのに、航介は自分のお腹を見下ろして、唇を引き結んでいた。素直に嬉しいのとか、本当にこれで良かったのかとか、全部混ざって、複雑そうな顔。その度にお医者さんに、この先のことは二人で決めてください、と念を押された。けど、俺の頼みを航介が断れるわけもなく。頑張りたいけど怖いんだ、と航介は迷い続けて、先の見えない恐怖に立ち向かいながら、二人でちっちゃな幸せの未来を望んでいた。
微熱続きになって、謎の吐き気に襲われて物が食べられなくなって、時間と場所を問わずに大欠伸をしては眠気に襲われるようになった航介が、この前の定期検診で、新しい命が宿っているかもしれないことをお医者さんから聞いた。ただ、それはまだ不確定な可能性で、きちんと検査をしたいなら東京にある大きな病院に行って欲しい、と紹介状を渡されたそうだ。俺はその時の検診には一緒に行けなかったから、雪の中玄関先で真っ青な顔して紹介状を突き出して来た航介から、その話を聞いただけ。こんな顔するまで思い詰めるなんて、思ってなかった。それからすぐに、仕事の休みを取って、新幹線の切符と宿を取って、東京に向かった。案内されたのは、特別病棟。確かに、地元で一番大きな病院でもないような設備がたくさん揃ってて、人がたくさんいた。
「……帰りたい」
「診てもらうだけだから」
「なんかあったらどうすんだよ……」
「なんかって」
「……赤ちゃんができただけなら、いつもの先生でも分かるって。こんなとこまで来て、きっとなんか変だったんだ、俺の体」
「思いつめすぎ!」
「だって」
「一緒に来て正解だね!もう!」
ばかだねー、と膝を叩けば、ぽろぽろと本音が溢れ出した。ここまでがんばったのにだめだったって報告だったらどうするんだ、とか。もし赤ちゃんが出来てたとしても普通に元気じゃないからこっちにお願いされてるんじゃないか、とか。普段通りを大切にする航介だから、イレギュラーには滅法弱いことは、分かってた。分かってるつもりでいた。俺の我儘が少しずつ、航介を抉り削っている。これで駄目だったら、もう終わりにした方がいいかな。引き時だってある。別に俺は航介をいじめたいわけじゃないし、傷付けたいわけじゃないし、どちらかというといつもみたいに怒鳴り散らされてる方が性に合ってる。ぽそぽそと小声で、言葉を探しながら不安を呟いた航介が、俺の方を見た。
「やーっと目が合った」
「……うん」
「言いたいことあるなら全部言って。俺、航介の気持ちはこの世で一番分かんない自信があるよ」
「……こんなこと言っちゃいけないと、思ってた」
「そうかね」
「……がんばるって言ったのは俺だし」
「でもさー、がんばらせてるのは俺だし?」
「……それもそうな」
「でしょー」
少し表情が緩んだ。不安定を形にしたらこう!って感じ。アップダウンが激しい。診察室から出て来た女の子二人組が、順調で良かったね、と大きくなったお腹を撫でながら笑顔を浮かべているのを、いいなあ、とにこにこしながら航介が目で見送った。ついさっきまで眉下がりだったくせに。およそ正常ではない精神の上がり下がりに、ちょっと引っかかった。
名前を呼ばれて、診察室の中へ。こちらでお待ちください、と俺が座らされたのはパイプ椅子で、すごく不安そうな顔の航介が看護師さんに連れられて、壁の向こうへ消えた。微熱、食欲不振、眠気、精神不安定。順調だと言ってくれたお医者さんが、きちんとした設備で正確な検査を受けた方がいいと、断定した。俺の予感が正しければ、ここでお医者さんの口から出る言葉は、これで間違いない。
「おめでとうございます」
「……、」
「正常な妊娠です。現在までの診察では、元気な赤ちゃんですね」
ぽかんとしている航介が膝の上に揃えていた手の甲を叩けば、びくんと跳ね上がった。いっそ大仰なくらいに。あ、え、えっ!?とでかい声を出した航介に、病院だよ!と返せば、もごもご口を閉じる。俺たちを見て苦笑いを浮かべたお医者さんが、おめでとうございます、ともう一度繰り返した。聞いてないと思われちゃったじゃないか。ええと、とまだ動揺している航介が、言い澱みながらお医者さんに聞いた。
「ど、どうして、いつもの病院から、出されちゃったんでしょうか」
「お住まいは、青森県ですよね。恐らく、単なる設備不足でしょう。最初の診断だけはきちんと正確にしておきたいと、そちらのドクターが判断されたのだと思いますよ」
「はあ……」
「見ますか?赤ちゃん」
「えっ!へえ!見れるんですか!赤ちゃん!」
「ふぎゃっ」
航介を押しのけてお医者さんに詰め寄れば、まあ落ち着いて、なんて目を丸くされて。エコー写真です、と見せられた黒っぽい何かは、確かに人の形をしているようだけど、よく分からなかった。


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