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おはなし



「ああ、」
雨だねえ。この世で一番綺麗な人に似合わない濁った雨空を背景に、彼はそう呟いた。あたしは雨女だ。だから、しょうがない。雪に変わりそうな雨は、一瞬だけ二人きりになった教室から、ひどく綺麗に見えた。

最初に見た瞬間から、叶わないことは分かっていた。直感だった。どれ程真摯に恋い焦がれたとしても、あたしが彼と結ばれることは、絶対にない。万が一にも億が一にも、無い。知恵を絞って狡賢く、女らしく強かに、蛇のように抜け目なく、自分を捻じ曲げてまで、長年画策を練ったとしても、「ともだち」止まりにしかなれない。関係は深まらない。解けもしないけれど、結べない。分かっていた。分かっていたけれど、恋い焦がれるのはあたしの自由だとも思った。隠していたつもりの好きな人だったのに友達にすぐバレたり、修学旅行でノーメイクばっちり見られたり、いろいろしたけど、茶化し冷やかす人はいなかった。恐らくはあたしの思いを知っているはずの当の本人ですら、何も言わなかった。苦しいほど募ったあたしの気持ちは、誰にでも分かるものなのに、誰にも知られずに三年間秘められ続けた。今更、なんて幸せだったんだろうなあ、と思う。
それは突然だった。三年生の冬。卒業を控えたあたしたちは、然程今までと変わりもしない日々を送りながら、寒さに凍えることもなく短いスカートを翻して、学校へ通う。学校は勉強するところでしょう、と真希は不思議そうな顔をしていたけれど、違うよ!都築くんに毎日会える場所だよ!と珠子は反論していた。あたしは内心でそっちに賛成したっけ。至って平凡なある日、授業もとっくに終わって、何の話だったか分からなくなるくらい三人でくっちゃべってたら、突然珠子が大声を上げた。
「あ!」
「うわ」
「喉乾いた!」
「……もうこんな時間だしね」
「飲み物買ってくるー」
「帰んないの?」
「えー、雨降って来ちゃったし」
「そんなこと言ってたら帰れないじゃない」
「まあまあ」
「今日これからずっと雨だって」
「まあまあまあ」
灯ちゃん帰っちゃやだからねー!と言い置いた珠子が、真希の背中を押して教室を出て行ってしまった。長くなりそうだからと思って、先手を打って鞄に手をかけていたのを、ちゃんと見られている。ああ見えてしっかり者。今このタイミングで大声を上げて自販機へ向かったのだって、ここから見える昇降口へ向かう一階の廊下を歩いている江野浦と都築と辻が見えたからだ。真希と江野浦をどうにかしたいらしい珠子は、こそこそ動いているけれど、あんまり上手く転んだ試しがない。今回も多分同じく。
しとしと降り出した雨は、この先強くなるのだろう。雨予報が出ている日はいつも、あたしが外に出ようとするタイミングで、降り出す。今日も同じく、運が悪い。しとしと、から、ぱらぱら、と音が聞こえるくらいに強まっていく雨足に、ぼんやりと外を見ながら溜息をついた。飲み物、あたしの分も買って来てって、お願いしておけばよかった。そんなこと、さらりと頼めた試しはないけれど。縒れて捻じ曲がった性格は、お願いやお強請りの類を喉から滑り落とすことの足を引っ張って、つまづきやすくしている。
「あれ、」
「っ!」
「どうしたの、こんなとこで」
振り返らなくても声で分かる。高井さんたちと下で会ったよ、と扉を開けて入って来たのは、都築忠義その人だった。振り向けるわけもなしに、ただ窓の外を見ているあたしに、上履きの靴音が近づいてくる。机の目の前、窓際まで来て、ああ、と彼は漏らした。
「雨だねえ」
「……………」
「財布財布。忘れ物しちゃった」
一瞬、世界が切り取られて、すぐに色と音が戻って来た。忘れたらしい財布を取りに自分の机の方へ行った都築を、窓硝子越しに見ながら、だくだくと鳴る心臓の音を聞く。彼が隣に来たほんの数秒を、あたしは忘れないだろう。きっと一生、誰にも上塗りされずに、残り続ける。遠く遠くの方にぼんやりと見えた、雲の切れ間から穿たれる光線のように射している光が、酷く眩しく思えた。雨を綺麗だと思えたのは、後にも先にもこの一度だけだ。

そんなことがあったなんて、きっと彼は覚えていない。高校を卒業して、何度か同窓会で顔を合わせて、個人的に話しかけられたことは特段なかった。それが、真希と珠子と三人で集まるつもりが珠子は来られなくて、その代わりばったり都築に会って、なんの流れだったか真希と江野浦が二人きりになって、二人をこそこそ尾行して、ばれて、と言うかばらして、その後また集まり直してみんなでお酒を飲んではご飯を食べている、今現在。なにがあった、と数時間前の自分に問いかけられても、今のあたしも答えられない。よくわからない。でも、こうなっている。わいのわいのと飲めや歌えと騒ぐ中、後から参加してきた珠子と仲有は、夫婦揃って酒に弱いタチなので、ふにゃふにゃしている。仲有が特に。なんて思ってたら、珠子がぺろんとしなだれかかってきた。あつい。
「あーかりちゃんっ」
「……ん」
「さっき、真希ちゃんと江野浦くんが二人で帰ってる時、灯ちゃんも都築くんと二人だったんでしょお?どう?なに話した?思い出?」
「よしみつがいたよ」
「瀧川くん?あんなんいいんだよ、いなかったってことにしときな」
「……特になにも」
「えー、好きだったとか、言ったら良かったのに」
なんなら今からでも遅くなんかないよ、と柔らかく言う彼女は、純粋にあたしの背中を押してくれている。しかも、もしあたしがそうしなくとも「なんちゃってね!」と誤魔化して笑い飛ばせるくらい、ごくごく弱い、強制力のない力で。それを優しさと取れるようになれて、よかったと思う。
好きだった、とすら、言えないのだ。今になって考えれば、あれは恋愛にすらなりきれなかった出来損ないの憧れ以上でしかなくて、未だに顔を見ればどきどきして、言葉に詰まってそっぽを向きたくなるけれど、それでも好きの気持ちは胸の奥底に残ったままだ。燻り続けて、もう燃え上がることはないと分かっていて、それでもまだ抱えていたいと思う。高校時代の思い出、ということなんだろうか。甘酸っぱくて、苦くて、苦しくて、愛おしい。あの雨の光、ぼんやりと見えた光線と、「雨だね」なんて短い言葉に、ずっとずっと、胸をいっぱいにされている。すんなり話せるようにはいつまでもなれなくて、見た目もイメージも変えてもあたしの本質は変わらなくて、きっと死ぬまで恋い焦がれ続ける。そんなのも、いいんじゃないかな、なんて。
「ねえ、なに話したの?」
「秘密」
「なんでさ!灯ちゃん、前もそんなことあったよ!」
そういえば、あの雨の日、廊下で都築とすれ違ったらしい珠子は、彼が教室に立ち寄ったことを知り、あたしが教室に残っていたことを分かっていたので、なにがあったか質問攻めにしてきたっけ。その時のあたしも今と同じ、何もなかったと嘘はつけずに「秘密」と返した。秘密は秘密だ、言わずに隠すから秘密なのだ。ずるーい!と怒る珠子越しに、こっちを見て笑った真希が見えて、ふわりと教室の匂いがした気がした。



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