このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

おはなし



「こーちゃん」
「ん?」
「うみのママは?」
「……えっ?」
「ぞーおさん、ぞーおさん」
おーはなが、と歌い出した海に置いていかれていると、かあさんもー、と続けたところで、海の口がぴたりと閉じた。嫌に鳴り響く心臓の音に紛れて、純粋な疑問しか詰まっていない海の声が刺さった。
「うみのおかーさんは?」

「……まあ、いつか来るだろうとは思ってたけどねえ」
「今まで疑問に思わなかった方が不思議なくらいだけどな……」
「なんて答えたの」
「……………」
「なんも言わんかったんかーい、おい」
「……ん」
ご尤も。おい、と茶化すように肩を叩かれたけれど、言葉もない。黙る俺に溜息をついて、ごめん、そうだね、嘘はつけないし本当を伝えるのもそう簡単じゃないもんね、と朔太郎が零した。そう。お前にお母さんと呼べる人はいないんだ、と言って仕舞えばそれまでな気がして、俺は海を目の前に、口を閉ざしてしまった。だって俺はお母さんじゃないし、そうはなれないし、同じく朔太郎だってそうじゃないし、そうはなれない。だから、何も言えなかった。黙った俺に海は、ねえ、ねーえ、こーちゃん、と数回呼びかけて、不思議そうに首を傾げて、おなかがいたいんだ!と手を打った。頭がよろしくなくてよかった。心底そう思う。
「俺にも聞きに来るかなー」
「……そしたらどうすんの」
「どうもこうも……嘘はつかないように、本当のことをぼやかしながら伝えるしかないよ」
「なにそれ」
「俺にも分かんないけどさ。だって、海まだちっちゃいんだよ。ランドセルだってまだまだ先なんだよ。本当を教えるなら、もう少し大きくなってからだって良いでしょう」
「……うん」
「ご不満?」
「いや、なんつーか……その通りだと思う」
「……航介と意見が合うなんて、珍しいね」
「けど、ぼやかして、海はそれでいいかもしれないけど、……」
「……けど?」
「……けど……」
言葉を切ったのは、目の前で首を傾げた朔太郎のことを思ってだった。黙った俺に向けられているのは不思議そうな丸い目、海と同じ顔。母親がいない、世間とは大きく違う家庭の在り方を伝えることは、同じく片親で育ってきて、しんどいことも寂しいことも辛いことも泣きたいことも経験してきて、それでもそれをおくびにも出さずしれっと全部飲み込んで生きてきたこいつにとって、きっと自分で思っている以上に大きな深手を負わせる羽目になるのではないかと思ったのだ。言われた通り、海はまだちっちゃくて、ランドセルだってまだまだの、子どもだ。純粋で無知で、だからこそきっと、大人なら突っ込みたくないところにも突っ込んで来るし、無邪気に切り捨てて来る。いやだ、お母さんが欲しかった、と泣かれたりしたら、こいつはどうするつもりなんだろう。お父さんなんていらない、と泣き喚きながら怒った朔太郎は、自分の息子になんて言うんだろう。それは期待でも希望でもなく、ただの不安だった。

「さくちゃあん」
「んー?」
「かれーらいすたべたいー」
「今日の晩飯は親子丼だってさ」
「やああ」
「なんでさ。親子丼うまいぞ」
「うまくない!しらない!かれらいす!」
「かれらいす?」
「かれえ!らいす!まちがえちゃったの!」
「なんだよもう、魔のイヤイヤ期ってやつ?流行りに乗りやがって、このこのー」
「ぎゃーん!うみのいうこときけー!さくちゃんのはっぱー!」
「あっはははは、うける、王様かよ」
「はっぱやろう!わーん!」
「そんな悪い言葉を使う奴はこうだぞ」
「ふぎゃあああ」
「……やめてやれ……」
朔太郎は海を自分と同等に扱うので、最近学習したらしい海は、絶対に言うことを聞いてくれない上に下手したら怒る俺相手に我儘を言うのをやめた。代替案としての朔太郎なんだろうけれど、あれはあれで全く海の言うことを聞かない上に、現在進行形でやられているように、例えば足を持って逆さまにぶら下げて振り回されたりするので、早い所もう一度学習し直したほうがいいと思う。我儘を言わない方向で。
基本的に海は温厚なので、我儘言ったり駄々捏ねたりするのはレアなのだけれど、昨日のお母さん事件の後から、普段と比べ物にならないくらいぎゃんぎゃん言うようになった。さっきの「かれーらいす!」は第三弾くらいで、その前には「おえかきかべにする!」「くまさんちょこかいにおでかけする!」と出来ないことを求めてきたので、俺は断った。海はその場で転がり倒して泣いたけれど、後半は嘘泣きだった。指の隙間から目ぇ見えてたもん。
ぶーぶー言ってた割に、海用の椅子に座って、スプーンをしっかり握った海が、嫌がらせのように鼻水を吹き出したので、朔太郎が指を指して泣くほど笑った。海ちゃんのやつ、きったねー!だそうで。拭くのは俺だぞ、と思ったけれど、しこたま笑われたせいで怒り心頭らしい海は、獣のような唸り声を上げながら俺の手からティッシュを奪い取り、鼻を無理矢理拭いた。伸びてる伸びてる、ほっぺについてる。
「きらい!」
「あー、おいしーい、こーちゃんが作った親子丼めっちゃおいしーい、食べない海はかわいそうだなー!」
「うぐうう」
「いらないなら食べちゃおーっと」
「だめー!さくちゃんのねずみ!」
「食べないんでしょ」
「たべるー!」
「なーんだ、ちぇっ」
「掻っ込むな、つまるぞ」
「ぶええ」
「あー、全部出た」
吐き出して食べて泣きながら吐き出して食べた海は、ごちそうさまの頃には何故か機嫌が良くなっていた。不思議だ。どこのどういう回路が繋がっているのかさっぱり分からん。にこにこしながらラストにわざわざ残した好きな味噌汁をちまちま啜っている海が、はっと何かに気づいたように顔を上げる。
「ふあ!」
「どうした」
「でざーと!うみってば、でざーと、すきなんだった!」
「あるんすか?」
「ないですね」
「無いってさ」
「……?」
「半笑いしても駄目だよ、無いもんは無い」
「ぶやああああさくちゃんのはなみずううう」
「海の中の悪口めっちゃ面白い」
「さくちゃんなんかもうきらい!うみは、うみのママがすき!」
「ママいないじゃん」
「いるもん!」
「いないもん」
「いるんだもんんん」
「ママもどきとパパもどきしかいないもん。さくちゃんとこーちゃんが海のママだしパパだもん」
「げっふ」
「汚ね!」
突然ぶち込んでくるから、お茶を噴いてしまった。案の定、嘘泣きで伏していた海が、なにそれ聞き捨てならないんだけど?と言った感じで泣くのをやめた。気管に入った、お茶が。咳き込むのが止まらない。朔太郎は俺を無視して話をどんどん進めている。
「……おかーさん?さくちゃん?」
「違う」
「……こーちゃん?おかーさん?」
「違う」
「……んー……こーちゃん、ママ?」
「違う」
「さくちゃん、ママ?」
「ちが」
「それいつまで続くんだよ!」
「航介うるさい黙って。ママだしパパだし、こーちゃんだしさくちゃんなの」
「ええー」
「お得じゃん。海だって、アイスひとつよりふたつがいいでしょ」
「あいすすき」
「他のお友だちは、アイスひとつ。海は、さくちゃんとこーちゃんの分で、ふたつ。いいじゃん、嬉しいじゃん」
「うれしい!」
「海が好きな水陸両用バスみたいなもん」
「ばす!すき!うれしい!」
「パパとママじゃないかもしれないけど、海のこーちゃんと海のさくちゃんだよ」
「うみの?」
「そう」
「うみのこーちゃん」
「はい」
「うみのさくちゃん」
「はい」
「……ふふん」
海は、満足したらしい。むふー、と鼻息荒く口角を上げた海が、うみの、うみの、と小さく呟いて、にやにやし始めた。
朔太郎は、「嘘はつかないように」「本当のことはぼかして」とか言ってたけれど、ド直球で真実しか言ってない。言い方を多少柔らかくしただけ。らしいといえば、らしいか。パパもどきとママもどき。本物にはなれない俺たちは、もどきでしかないけれど、でも「うみのさくちゃん」「うみのこーちゃん」はどうしようもなく本当のことで、もしもそれを否定されたりなんかしたら流石にちょっと腹立たしくなるくらい、大事なことだ。デザートもカレーライスも忘れたらしい海が、なんにも考えてない幸せそうな笑顔で、言った。
「ひとつよりふたつがいいねえ」

「うお」
「……はー……」
「……なに……?」
「……しばし肩とか貸してもらっても宜しいですかね……」
「はあ」
海を寝かしつけるのを朔太郎にお願いして、洗い物その他をしていたら、背中に衝撃。どうも海は寝たらしく、朔太郎一人だった。どす、と肩に頭を擦り付けられて、またなんかお母さん関連のことで言われたのか、それともはっぱ、ねずみ、はなみず、と来たから今度こそ的確に傷付く言葉で刺されたか、と思っていたら、朔太郎が顔も見せずに呟いた。
「……一つより二つがいいなんて、俺には言えなかった」
「……ああ。さっきの」
「二つになるんじゃなくて、一つを捨てて新しい一つに移らなきゃいけないのかと思ってたから」
「……………」
「海はすごいねえ。二つがいいって、教えて貰ったのは俺の方だよ」
「……そうだな」
「泣きそう」
「泣きそうとか言ってる間は泣けないだろ、お前」
「あったりー」
ぱっと肩が軽くなって、泣き顔とは程遠い朔太郎が、でも全部本心だよ、と布巾を取った。水切りしてある分の皿を拭いている朔太郎を横目で見ながら、小さく安堵の息を吐いた。
主語がないから伝わりにくいけれど、さっきの言葉が指していたのは恐らく、中学二年生の頃の事だ。朔太郎に、新しいお父さんが出来た時の話。確かにあの時の受け取り方としては、増える、じゃなくて、更新される、に近かった。昔のこととは決別して、新しいものごとに慣れていきましょう。そんな感じ。だから朔太郎は抗って、泣いて喚いて怒って、けど子どものそんな抵抗なんて特に意味は為さなくて、なるようになった。あの時の朔太郎が、一つより二つがいい、と思えていたら、結果は変わっていたんだろうか。今でこそそれなりに、普通に仲良く出来ているお父さんに、もっと早く心を許すことができていたのだろうか。あの時隣にいた俺にだって、海みたいなことは言えなかった。全部10年以上も前のことだから、今更なにを言ったところで、といった話なのだけれど。
「海にはパパもママもいないけど、もどきなら二人ずついるって、覚えててくれるかな」
「……忘れそうだな」
「ねー。明日の朝にはまたぞうさん歌って、ママはー?って来そうだよね」
でもまあ、ほら、もどきでも、もどきなりに、がんばらないとね。そう朔太郎が隣で笑ったので、頷いておいた。もどきだからって、他の家となにが違うっていうんだ。優しいあの子を、これ以上ないくらい、幸せにしよう。
とりあえず、明日はカレーライスにするところから、はじめてみたい。


44/57ページ