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執着と終着


遡りましては、長袖で当たり前に過ごすような季節。もっと根本的なことを言えば、中学二年生のあの日か、朔太郎の19歳の誕生日を少し過ぎたあの夜とか、そういうターニングポイントが無いわけでもないのだけれど、そこまで戻ると手に余る。だから取り敢えず、今回の引っ掛かりのきっかけ、というところで。
きっかけと言うからには、本当に些細なことだった。それだけ?と疑問を覚えるくらい、些細なこと。さちえから買い出しを頼まれて、友梨音と朔太郎と向かったスーパーで、子どもが走っていた。ぱたぱた、きゃあきゃあ、楽しそうにじゃれ合う二人の子どもの手を引く母親。急に進行方向を変えた子どもにぶつかりそうになった友梨音が、ごめんね、と小さく謝って、母親が柔らかい笑顔を浮かべて、申し訳なさそうに頭を下げた。それを見た朔太郎は、多分独り言のつもりで、零したのだ。
「……いいなあ、子ども」
続けるなら、欲しいなあ、だろうと思った。羨望と憧れが沢山篭ったその言葉に、友人としての同意が被さる前に、どこか心の柔らかいところをさくりと潰された気になった。
だって、そんなの、当たり前じゃないか。今まで考えもしなかっただけで、いずれは彼女ができて、結婚して、子どもができて、そうやって年を取っていくのだ。俺がそうなれるのかは知らないし、そんなことは今この瞬間どうだっていいけど、世の中の大多数と同じで、朔太郎だって、そうなる。恐らくはきっと。家庭に憧れがあることは知ってる。子どもが好きなことも知ってる。けど、本人から直接聞くことと、俺が知ってることとじゃ、受け止める時の重みが違った。想像してこなかった未来が、はっきりとした輪郭を持って目の前に広がったのだ。それは幸せな未来、どうしようもなくハッピーエンドなんだろうけど、自分だけはそこで笑える気がしなかった。
それから、しばらく、考えた。朔太郎がこっそり遊び歩いてることも、こっそりと言わず大々的に体良く八方美人していろんな女の子と関係を持ってることも、俺だって別に知らないわけじゃない。それについては特段何か思ったことはないし、まああの見た目であの性格で、上手くやる方法を知ってるんだから、引く手数多になるのは当たり前だろうとすら思う。俺はその中の一人。甘いものばかりじゃ飽きるし、しょっぱいものって気分でもない時に、時々食べる変わった味のおやつ、とか。そんな扱いなのかなあ、とぼんやり思った。考えれば考える程、ざくざくと心がささくれ立って、きつい。受け止め切れてるつもりなのに、手の中に収めたものはただの針山で、大事にしようと握る度に柔らかいところを思いっきり刺した。俺じゃなくてもいい、ただの繋ぎなんだから、飽きたらそれまで。分かってる。普通は女の子とそういうことをして、女の子と幸せになるのだ。分かってるんだよ、そんなことは。俺だって、女の子の代わりとしてそこに自分が立ってる図は想像できない、ていうかしたくない。気持ち悪いじゃんか、俺は男だぞ。だけど、その座に誰とも知らない奴が君臨するのだけは、息が詰まるほど気分が悪かった。とんだ我儘、いかれた屁理屈、どうしようもない矛盾だ。俺に対して、幼馴染の立ち位置を与えられることは、分かる。欲の発散相手の立ち位置も、まあ、分かる。じゃあ恋人かと言われたら、それは意味が分からない。知らない女が朔太郎と揃いの指輪を嵌めて家庭を築く、それに至っては最早、ちゃんちゃらおかしいな、って感じ。じゃあそれはなんでなんだっけ、って、なんでなんだろう。元々考えたことも無ければ、向き合ったこともなかった。見直してみると、すごく曖昧で、不安定で、奇妙に捩れた綱を渡らされていたようなものだった。そして俺は、つまづいた時点で落ちたのだ。地面でぐちゃっと潰れてから、気がついただけで。
だからしばらく、本当に心底悩んで、朔太郎には考えていることすら察されないようにして、ようやく結論が出た。あいつはあれでいて意外と鈍感だから、顔を見てない期間が少しずつ伸びてることにすら、気づきやしないだろう。そう思えたのは、もう、季節は冬から春に近づいていて、肌寒いを通り越して、重ねていた長袖は一枚でも事足りるようになった頃だった。
「……、」
手の中に収まる携帯電話。俺の名義じゃない、連絡先はたった一つしか入っていない、通話専用の小さな機械。ポケットに入れておくことが多いせいで、傷だらけだ。ほとんど使われたことのないそれを手にとって、ぼんやり掲げた。
そろそろこれ、返そうかな。


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