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おはなし



兎丸ひびき。入学式の前に、書類で名前を見た時にふと気になったのは、普通は空いているはずの特記欄のせいだった。見慣れた文章に、書類を手に取ると、砧先生が生徒を気にするなんて珍しいですね、と主任の先生に笑われた。確かに、そうかもしれない。俺は人を好きになりやすいから、一人の生徒にばかり気を配ってしまわないために、あえて特定の個人に目を向けることをしないようにしていたから。どちらかといえば仏頂面の写真に、同じような表情が得意だった彼女を思い出した。
それから二年。俺は兎丸のクラス担任になって、修学旅行のシーズンになって、あまり友達のいない彼女も会話がそれなりに続くグループに入れて、入学当初の仏頂面が影を潜めて来ていた。俺は安心した。と、同時に、そろそろかなあ、とも思っていた。
「ひびき!?」
「どうしたの!?」
修学旅行初日、夜。ごとん、がたがた、何かを階段の上から転がり落としたような、というか正にそのものの音がして、女子生徒の悲鳴が響いた。駆け足で角を曲がれば、せんせえ!と叫ばれて、床に伏せた兎丸を抱き上げる。うん、この感じ、知ってる。
「兎丸。聞こえる?おーい」
「……、」
「意識はあるね。一瞬くらっと来ただけかな」
「せ、せんせ、ひびきどうしたの」
「うん?大丈夫大丈夫、すぐ良くなるから。よいしょ、っと」
お姫様抱っこが、一番楽だから。彼女にそう言われたのを思い出しながら、兎丸を横抱きにする。ひゅう、ひゅう、と息を漏らしながら、目線だけこっちに向けた兎丸を抱き上げて運ぶ。意識があるだけ全然良いかな。取り敢えず救護室に運ぶことにしよう。
「はい、お布団。声は出るかな?」
「……、せ」
「お薬、あるでしょう。鞄?」
「……………」
「ポケットか。いつも持ってないと不安だもんね。ちょっと、ごめんね」
女の子のポケット弄るの、ちょっと抵抗あるけど、仕方ないよね。可愛いうさぎさんの巾着に入った、可愛くもなんともないピルケースを取り出す。薬の名前も見たことがある、無理に飲み下さなくても効くやつだ。注射は、先生じゃ出来ないからね。
しばらくすると、兎丸はすうすうと寝息を立て始めた。思いっきり倒れたから、体力的にもきついんだろうな。眠ってばかりだった彼女と被って、ちょっと目の奥が痛くなった。

朝になると、兎丸は目を覚ました。養護の先生の依田先生が見回りに行っている間、俺が兎丸の様子を見ていることになって、その時に目を覚ましたから、彼女からしたら俺がずっと一晩中診ていたように思えるのかもしれない。そうではないんだけどね。
「……先生、ありがと」
「いえいえ。発作だろ?大変だったね」
「……知ってるの」
「そりゃあ、まあね。勝手なことしたのは謝るよ。緊急用の薬だろうと思って」
「砧先生、養護の先生じゃないのに、よく知ってるね」
「……ああ」
先生だからね、と誤魔化したけれど、兎丸は少し疑っていた。そりゃあ、そうか。緊急投薬の銘柄まで知ってたら、疑うよね。保護者に連絡したけれど、と一応告げれば、そんなことしたってあの人たち忙しいから、と兎丸は諦めたような声で零した。自分の家のことだから、きっと周りよりずっと分かってる。我が娘のことが大切だから、少しでも長く生きて欲しいがために、忙しくなって、結局結果的に娘を蔑ろにしてるのは、皮肉なもんだなあ。
「砧先生」
「依田先生。兎丸、目を覚ましました」
「ああ、よかった。気分はどう?」
「……平気です。もう、慣れました」
「兎丸さん、今日はここで寝てなさい。」
「……嫌だ」
「あのね、」
「寝てるなんて嫌だ。修学旅行なんだよ。もう無茶しないから、ねえ、砧先生、いいでしょ」
「……兎丸。駄目だよ」
「……せんせ……」
「今日1日ゆっくりして、明日の班行動から参加出来るように、体調を整えるんだ。それならいいだろう?」
「……………」
ああ、仏頂面。拗ねた顔。自分の思い通りにならない体に、腹を立てている顔。何度かその顔にやつ当たられたのを思い出して、少しおかしかった。じゃあ、と続けた兎丸に、目を剥いたけれど。
「砧先生が一緒にいてくれるなら、寝ててあげてもいいよ」

結局、今日の活動の引率は、依田先生が変わってくれることになった。俺は兎丸とお留守番。なんでこの子が俺と一緒じゃなきゃ嫌だって言ったのかは分からないけれど。
「……つまんない」
「それは先生にはどうしようもないな」
「砧先生、なんで薬のこと知ってたの」
「……うーん」
「調べたの?」
「元々知ってたんだよ」
「なんで」
「いいでしょう、なんでも」
「ねえ、なんで?」
「……強情だなあ、兎丸は」
過去話、得意じゃないんだけどな。兎丸には、話してあげてもいいかもしれない。境遇とか、立場とか、そういうの的に。
「幼馴染がいてね。君と同じ、心臓の病気だった」
「……ふうん」
「ただ、多分、俺の幼馴染は、君よりも病状が深刻だった。走ったりするのなんか、夢のまた夢で、毎日すごい量の薬を飲んでて、しょっちゅう入院して、気づくとすぐ眠ってるような子だったんだ」



「てったくん」
声の小さな女の子。細っこくて、背だって小さくて、吹けば飛んでいきそうな、霞のような。春日奏。彼女の名前だ。生まれた時から心臓が弱くて、物心ついた時から俺はずっと彼女のことを気にかけて、面倒を見ながら一緒に過ごしてきた。きっと最初から最後まで、俺は奏のことが大切だったんだと思う。好きとか嫌いとか、恋とか愛とか、そういうんじゃなくて、彼女のことがただただ大切だった。
「てったくん、ごめんね」
「どうして?」
「かなでの身体が良くないから、てったくん、いつも遊びに行けないでしょう。かなでのこと置いて、お友だちのところに行ってきていいんだよ」
「……奏といたいんだよ」
そんな会話を何度もした。かなでのことは置いてって、と儚く笑う彼女を置いて行ったら、本当に次の瞬間には消えてしまう気がしていた。二人で夏休みの宿題をしている時に、てったくんはすごい、てったくんなら先生になれるよ、と奏に言ってもらっていなかったら多分先生になろうとは思わなかった。彼女が、俺の人生を決めたのだ。
彼女は、周りの誰にも、自分の病気のことを言わなかった。何かしらの理由があって学校に通い続けられないことはみんな分かっても、如何してかは知らなかった。奏が隠したから。どうして隠すのか聞いたけど、心臓が悪いなんて言ったらみんな心配しちゃうから、と困ったみたいに笑うだけだった。知ってて、世話をできたのは、俺だけ。小さい頃からずっとそうだったから、どっちの両親もそれを許容していた。けど、よくある恋愛ドラマみたいに俺たちが愛し合う恋人になるようなことは絶対に無かった。お互いにお互いのことはなんとも思ってないけれど、大切。家族みたいなものだったのかもしれない。小学校も、中学校も、入退院を繰り返す彼女は勉強に全然ついて行けなくて、それでも俺に勉強を教えてくれと強請って、必死の努力で俺と同じ高校に入った。泣きながら喜ぶ彼女に、俺まで泣いた。どうしても、彼女に幸せになって欲しかった。好きな男の子とかができて、お姫様みたいに結婚式を挙げる彼女の夢を見て、すごく良い気分で目が覚めたりなんかして。けれど、御伽噺のように眠り続けるのも、薬の量も、失神を伴う発作も、検査入院の日数も、全てがどんどん増えていった。ちょっとずつ、元から不完全な奏の身体が、限界を迎えて壊れていくみたいだった。
「お姫様抱っこがいいなあ」
「……どうして?」
「楽なの、身体が。ぎゅーってされると」
「ふうん」
「ふふ、てったくん」
「ん?」
「ううん」
高校に入って、一年も経たない頃だった。いつの間にか棒みたいな身体になった奏は、少し歩いただけでも息切れを起こすようになった。それでも健気に毎日学校に通う彼女は、それまではあんまり友達らしい友達もいなかったのに、女の子同士で楽しそうにしてる姿を見られるようになった。発作を起こさないように、静かにその場を離れては、大量に薬を流し込む。辛いなら友達にも言えばいいよ、誰もそんなことで君を見放したりしないよ、と何度も言ったけれど、奏は首を横に振った。
「てったくん、ありがとう」
「……なにが」
「てったくんは優しいから」
哀れんでいるわけでもなく、下心もなく、ずっと奏を支えてきた。それが俺にとっては当たり前だったから。奏はそれを知っていて、てったくんは優しいね、ともう一度繰り返した。きっと、優しくなんかない。優しい人は、もっと奏のためになるようなことをするのだ。俺は、奏のためになるようなことは、一つも出来ていないと思った。
奏の命の期限は、あと少し。1年にも満たないと、ついに宣告を受けたらしい。そっかあ、死んじゃうのか、と奏はちょっと残念そうに言った。彼女があんまりに普通だったから、俺もあんまりショックを受けなかった。普段通りがいいよ、だからてったくんも誰にも言わないで、お願い、と首を傾げられて、頷いた。
「ねえ、てったくん」
「なあに」
「かなで、旅行に行きたい」
「そういうことは、お父さんお母さんに言ってよ。俺はどうにも出来ないから」
「言ったよ。そしたら、行ってらっしゃいって言ってた」
「……ん?誰と旅行に行くの?」
「てったくん」
えへへ、と笑われて、自分の口元が引きつるのがわかった。俺は女の子の友達じゃないぞ、しかも俺たちは高校生になったんだ、小さい頃とは違うんだから、そんなことできない。きちんとそう言って含めたけれど、仏頂面で不貞腐れた奏は、じゃあお父さんとお母さんにそうやって言うからね、と拗ねて、俺と奏の二人旅が決定した。そんな馬鹿な。
「新幹線、新幹線っ」
「奏、あんまり急がないでいいよ」
「だって楽しみなんだもの!」
「ゆっくり歩いたって間に合うから、ね?」
「でも、あう」
「ああもう、ほら、転ぶから」
ふらりと足をよろめかせた奏を支えると、ごめんね、と申し訳なさそうに笑われた。期待と希望もいっぱい詰まって、荷物でぱんぱんの大きなリュックは、彼女には重すぎる。貸して、とそれを取れば、男らしい、素敵、とひゅーひゅーされた。茶化さないでよ、もう。
二人で新幹線に乗って、仙台の方まで行った。それより先は、奏の身体のことを考えると、厳しかったから。休み休みゆっくり少しずつ、観光して、美味しいものを食べて、奏はずっと笑ってた。泊まる部屋が二人で一つだと言われた時には、流石に頭を抱えたけれど、ベッドが二つだったからまあいいか。
「ふかふかー」
「広い部屋だね」
「見てー!大きい窓!」
はしゃぐ奏につられて、一緒にはしゃいだ。広いお風呂に入って、ふわふわのベッドに寝そべって、二人でたくさん話した。頰も耳も真っ赤に染めた奏が、かなでに好きな人ができたって言ったら、てったくんどうする?と小さく聞いて、俺はそれに大喜びしたり。誰なの、と聞いたけど教えてくれなかったり。てったくんは好きな子いないの、なんてせっつかれたり。そんな話を奏としたことはなかったから、楽しかった。まるで修学旅行みたいだと思った。奏がずっと笑ってるのが嬉しかった。てったくん、てったくん、って何回も呼ぶ声を、ずっと聞いてられるような気がした。
その日、奏はほとんど眠らなかった。俺とずっと話をして、ころころと笑っていた。俺も楽しかったから、うっかりしていた。残された1年に満たない時間を、まだ奏は全うできるのだと思っていた。



「……その、奏さん、どうしたの」
「旅行の一週間後に、天国に行ったよ」
「……………」
「家に帰ってすぐ、容態が急変した。俺のせいじゃないってみんなは言ったけど、どう考えても俺のせいだと思ったよ。走りこそしなかったけれど、はしゃいでたのは事実だからね」
「……でも」
「それがあってから、先生しばらく、立ち直れなかった。奏のことを殺したのは俺だって、ずっと思ってた」
こんな話、生徒の君にする必要はないかもしれないけど。そう零せば、薬の入った巾着を握り締めた兎丸は、口を引き結んでいた。ここまで話したら、最後まで話さないと、救いがないよね。兎丸のためにも、彼女のためにも。
「でもね。葬式の後、手紙が出てきたんだ」



「……奏から……?」
「ええ。あの子、哲太くんに言ってなかったのね。余命、1年も無かったのよ。元々残り一ヶ月って宣告されてた。そしたら、修学旅行に行きたいって、どうしても哲太くんと二人で過ごしたいって、あの子が言ったの」
「なんで、俺なんかと」
丁寧に畳まれた手紙の中には、奏の丸っこい字が綴られていた。4枚組の手紙。哲太くんへ、と普段と違う呼び方で始まった手紙の内容に、俺は、やっと前を向くことができた。



哲太くんへ。
手紙を書くのは初めてですね。ちょっとだけ、楽しいかもしれません。哲太くんがこの手紙を読む頃には、奏はもう、隣にはいられないのかな。それはちょっと悲しいな。
この前、一緒に旅行に行ってくれて、ありがとう。どうしても、哲太くんと旅行に行きたかったんだ。大好きで、大事で、一番奏のことを助けてくれた貴方と、最後の思い出作りがしたかったの。我儘言って、困らせたよね。
哲太くんは、みんなのお兄ちゃんだから、奏の面倒もたくさん見てくれたね。これからもずっと、素敵なお兄ちゃんでいてね。奏のこと、忘れないでいてくれたら嬉しいな。今までありがとう。
大好きなてったくん。奏より。

本当は死ぬのが怖いです。奏、生まれて初めて好きな人が出来たの。生きたいって思った。けど、その人よりも哲太くんと過ごしたかった。悔いはないけれど、もっと時間があったら、クラスのみんなと修学旅行に行ったり、できたのに。やだなあ。一ヶ月なんて、短すぎるよ。哲太くんと一緒にしたいこと、全部するだけで、終わっちゃう。死にたくないよ。まだたくさんやりたいことがあるのに。お友達とお出かけしてみたり。好きな人に告白もしてみたかった。哲太くんにこんなこと言っても仕方ないけど、正直そんな感じです。もっと生きたかった。

だから、だからっていうのもおかしいけれど、哲太くん、奏の分まで、生きてね。楽しく、笑って、最後には良かったって思える生き方をしてね。ずっと奏のこと考えててね。奏に誇れるように生きてね。そうじゃないと、天国で会った時に、怒っちゃうから。その代わり、哲太くんも怒っていいよ。一ヶ月のこと、1年無いぐらい、って嘘ついちゃったからね。

奏の分まで生きてくださいね。何回でも言うからね。奏の分まで、笑って。哲太くんらしく、いてね。



「……奏のお母さん。俺、奏の代わりにはなれないけど、頑張って生きるよ」



「だから、俺は先生になった。奏に胸を張れるように、生きてる。君にこの話をしたのも、奏ならそうしろって言うだろうと思ったから」
「……先生、その人のこと、すごく大切だったんだね」
「そうだね」
「あたしにも、そんな人、できるかな」
「出来るよ。君には、あの子よりももっと、時間がある。やりたいことがたった一回できなかったからって諦めないで、挑戦してみるとか。不貞腐れないとか。無理はしないで、身体を大切にするとか。たくさん出来ることはある」
「……砧先生、思ってたよりも、大人だった」
「なんだと」



「は?奏の話をした?」
「うん」
「なんで?」
「……そうしたかったから」
「はあ、そう。別にいいけど」
若干怒り気味だったのをすぐに覆い隠して、まあ、なんて酒を傾けたヒーローくんは、心が広い。何を隠そう、英雄は彼女のことが好きだったから、この話題はデリケートなのだ。
「心臓の病気持ってる奴はお前に集まる仕組みになってんのかな」
「女運がないってよく言われるよ」
「……逆にあんだろ、運が」
「え?俺幸運?」
「幸運ではない」
「なあんだ」
「その生徒、元気なのか」
「うん。実は、手術を考えてたみたい。アメリカに行くって、手術は怖いし嫌だけどちゃんと生きたいって、言ってくれた」
「……奏のおかげだな」
「うん。嬉しい」
「天国で笑ってるんじゃねえの」
「そうかなあ。そうだともっと嬉しいね」
「……お前のそういうとこ……」
「ん?」
上手く聞き取れなくて聞き返せば、はあ、と溜息をついた。少し言い淀むみたいに呼吸を止めたヒーローくんは、言葉を選びながら、零していく。君がそういう、気を使った丁寧な言葉選びをする時は、他でもなく君自身がちょっとばっかし傷ついてる時だよね。
「……そういうとこが、奏にそっくりだよ、お前は。まるで代わりみたいだ」
「そう?」
「ああ」
「奏の方がずっとすごいよ。俺なんかより、ずっと」
「……高校生の時にな、奏にも同じように言ったことがあるんだよ。お前は哲太とそっくりだって」
「ふうん?」
「そしたらあいつ、てったくんの方がすごいんだよ、って笑いやがった」
「……ふうん」
「な、そっくりだろ」
「……そおねえ……」
「泣くか?」
「……泣かない……」
「泣いてもいいぞ」
「泣かないっつってんでしょ!ヒーローくんの馬鹿!」
「ははは」

君に胸を張れるように。
君にまた会えたら、すごいよてったくん、かなでの見る目は確かだったよ、って飛び上がって跳ね回って喜んでもらえるように。
そうやって、明日も生きます。



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