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おはなし



十年以上ぶりに顔を見て、一目で思い出が蘇ったのは、きっと私が君のことを心の何処かで思い続けていたからなのだ。ロマンチックに言わせてもらえるならば、そういうことなのだろう。記憶に残り続ける君。今この瞬間まで、頭の中の片隅にすら存在しなかったくせに。

引越しの理由まで、私は知らない。小学六年生に上がる頃だった。父の転勤とか聞いているけど、転勤があるような仕事だったかと言われるとそうではないし、母が体調を悪くしていたことも知っていた。体調の悪化の原因が、心因性なのか、持病だったのか、そんなことも私は知らない。まあ、なんというか、知らされなかったから、という順当な理由である。ちなみに、母は未だ元気だ。そう考えると、あの引越しは善手だったのだろうな、とか。
都会で生まれ育った私が、日本列島の北の端っこにいきなり追いやられて、すぐに馴染めると思ったなら、馬鹿だ。頭を疑う。外国みたいだった。喋ってる言葉も、流行ってるものも、違った。私は恐らく外見的にも精神的にも大人びているタイプで、見た目にもかなり気を使う方だったから、同い年が酷く子どもに見えた。浮いていたけれど、要するに周りは、都会っ子で擦れた私をちょっと憧れの目で見ていて、私もそれを知っていて、尚更馴染もうとしなかったのだ。運動靴だって可愛い紐じゃなきゃ嫌だったし、通学に使う手持ちの鞄だって体操服袋だって、キャラクターものなんて使えるわけなくて、かっこつけて。そういう子どもだった、十年ちょっと前の話だ。
頭一つ抜けて背が高かった私の前の席には、小さな男の子が座っていた。背中を伸ばして前を向いて、ひょこひょこと前の人の隙間から顔を出しながら、真面目に授業を受けていた。その子が、案外真面目じゃなく授業に臨んでいたのだと知ったのは、六年生の夏前だった。
「……あっ、み、見た?」
恥ずかしそうに隠したノートの端っこには、変な生き物がうようよしていた。ちらっと見えただけでも、ワニとカメの合いの子みたいなやつとか、おにぎりが勇者の格好をしているやつとか。空想の世界に生きる子なのだなあ、と私は思った。それと同時に、絵が上手だなあ、と思った。後者を口に出せば、すごく嬉しそうに笑うから、それが正解だったらしかった。
まもり、と呼ばれていたから、私も「まもり」と呼ぶことにした。どうも彼は周りに、変な生き物の落書きたちのことを秘密にしているらしかった。だから私が後ろからうっかり覗いてしまった時も、恥ずかしそうにしていたのだ。しかしながら、彼は絵が上手かった。図工の時間に、その才能は遺憾無く発揮された。写生画なんて頭抜けて上手で、まるで彼にだけ別の世界が見えているかのようだった。イラストになると、へたくそかわいくて、女の子たちに人気だった。しかし変な生き物たちは誰にもお披露目されないまま、いつしか私と彼だけの秘密になっていた。私はそれが、きっと心の何処かで、優越感にすり替わっていたのだろう。だから、思い違いをした。いくら大人びていたと言っても、小学六年生だったから。
「……ななしちゃん、ぼくのノートをいつもこっそり見る……」
プリントを回す時、ついに小声で文句を言われた。ばれていたか、そりゃあそうだろうな、と特に悪気もなく思った。ワニとカメの合いの子にはライバルが生まれて、ライオンとキリンの合いの子とこの前バトルしている絵を盗み見たところだったので、素直に続きが気になっていたのも本当だ。プリントの端っこにそう書いて前の机へ投げれば、気づいてそれを開いた彼が勢いよくこっちを向くもんだから、先生も流石に気づいて咎めた。砧くん、と飛んだ声に首をすくめた彼は、ばつが悪そうに前を向いた。
それから校舎の片隅で、時々ひっそり、彼からノートを見せてもらうようになった。ストーリー仕立てになっている変な生き物たちの絵は、私には想像もつかないことばかりで、興味を惹かれた。まさかヒマワリがあんなことになるなんて。サンドイッチはこれからどうしたらいいの。ウサギの伯爵は敵と味方どっち。不思議な世界観の変な生き物たちは彼の頭の中にしか存在しなくて、彼が授業中に背中を丸めて周りからノートを隠していると、少しだけわくわくした。見せろと強請ると少し渋りながらも見せてくれるもんだから、特別扱いされていると思った。
小学六年生。恋だの愛だの、実しやかに囁きはじめられるようになって、彼女は彼のことが好きらしい、彼は彼女のことが好きらしい、二人は両思いらしい、云々。彼が私に好意を抱いているのではないかと噂が流れてきたのも、そう遠くない話だった。二人でこっそりと不思議の世界を共有していることが、そう捉えられても致し方なかった。私はそれに、恐らく内心では満足して、しかし外見では格好つけたがって、うざったいなあ、と思うことにしたのだ。
「えっ、」
反骨精神の塊。私は、彼に、嫌われることにした。私は君に何の感情も抱いていないのだと示す方法に、嫌いだと表すことを選んでしまったのだ。今思えば、酷いことをした。見せろと強請ったくせに、ぱらぱらと捲られるノートの端に確かに存在した世界を、ぐちゃぐちゃに塗り潰した。幼稚だ、馬鹿だ、と罵ったような気もする。私の手で、消せないペンで、黒く染まっていく変な生き物たちを見て、彼は何も言わなかった。えっ、て漏らしたっきり、何も。そんなもんだったのか、と思った。大切にしていたように見えたけれど、えっ、ぐらいでおしまいにできる程度だったんだなあ、と。
それからしばらく。私たちは中学生になって、私は友達が増えて、憧れの対象でもなんでもなくなった。人はそれを慣れと呼ぶ。彼の一人称は「ぼく」から「俺」になった。それから喋ったことはない。関わり合いになったことも、ない。恐らくは避けられていたのだろう。あの、彼の世界を私がぐちゃぐちゃにした日から、ずっと。

高校生の時の彼氏と、卒業してすぐ結婚して、子どもができた。可愛い反面、大変で辛くて、私なにしてんだろうなあ、とよく思った。そんな時、ふとつけたテレビに、彼が映っていた。あの時と変わらない笑顔で、楽しそうで、嬉しそうで。涙が出そうだった。絵を描く君のことが、きっと私は好きだったのだ。自分の世界を作る君に、私は憧れていたのだ。あの変な生き物たちを殺した時、私は確かに高揚して、勝利感に充たされたけれど、それはイコール、世界を作る彼を殺したことと同義だった。そんなことにも気づけなかった。
おかあさん、と呼ぶ声に、自分の手が止まっていることに気づいた。今更、思い出したところで、何にもならないのに。私はもうとっくに、ななしちゃん、ですら無いのに。そもそも「ななしちゃん」ですらないと訂正する機会すら失ってしまった。旧姓だから、もうどうだっていいけど。今会ったら、またそう呼んでくれるのだろうか。ななしちゃん、と呼んで、笑ってくれるのだろうか。変な生き物を、不可思議な世界を、また見せてくれるのだろうか。
絵を描いている君のことが、ずっとずっと、好きだった。もっと早く、十年ちょっと前に、気づけてたらなあ。あの時に、素直になれてたらなあ。こんなことには、ならなかったのかな。



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