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おはなし



「さちえー」
「朔太郎」
「どっか行くの?」
「お買い物。の前に、友梨音をピアノ教室に送っていかなくちゃ」
「俺も行っていい?」
「あら。珍しい」
「荷物持ちいらない?」
「いるいる。お一人様2点までが4つ買えちゃうからね」
「よくばりだなあ」
寝起きなのかぽやぽやとあんまり開いていない目で、そっか、じゃあ着替えてこよおっと、とまた部屋に引っ込んでいった朔太郎は、確かにてろてろの部屋着だったので、あれで外に出るのはお母さんとしてもあんまり、とは思う。親が言うのも悪いけど、お洋服のセンスは残念な子なので、着替えてきても大差ないかも知れないけれど。なんで冒険しようとするかな、と呆れたのは一回や二回じゃないもので。
しばらく経っても朔太郎が降りてこない上に、友梨音もなかなか支度を済ませて来てくれないので、様子を見に行ってみることにした。ずっとピアノの音は聞こえているので、友梨音は練習に夢中で時間を忘れてしまっているのかもしれない。朔太郎はどうしたのかしら、と思いながら階段を上がれば、友梨音の部屋の前でぺたりと座り込んで、扉に耳を付けていた。
「……どうしたの。入ったらいいじゃない」
「……入ったら、やめちゃうと思って」
「……でも、もう出る時間なのよ」
「……さっきから同じところで何度も止まってるんだ。難しいのかな」
「……そうねえ……」
顔を寄せて小声で話していると、ピアノの音が鳴り止んだ。がたがたとにわかに騒がしくなった中に、出て来るのかと思って立ち上がれば、扉の外に人がいるとは思ってもみなかったらしい友梨音が、勢いよく飛び出して来て朔太郎にぶつかった。ふぎゃあ、うにゃあ、なんてお互い踏まれた猫みたいな声を上げて、でもなんとか朔太郎は友梨音を受け止められたみたい。良かった。
「急に飛び出したら危ないよ、友梨音」
「ご、ごめんなさい、急がなくちゃって思ってそれで、お兄ちゃんとお母さんがいるなんて気づかなくて、あの」
「まあまあ、落ち着きなさいな」
「お兄ちゃんは全然大丈夫だけど、友梨音は痛くなかった?」
「……だいじょぶ……」
「うん、よし」
それじゃあ、行きましょうか。

友梨音の通っているピアノ教室は、スーパーの近くにある、おばあちゃんのお家。娘さんが先生をしていて、おばあちゃんは生徒たちにすごく良くしてくれるんですって。友梨音も他の子に違わずおばあちゃんのことが大好きで、今度練習している曲も、先生が見本で弾いていた時に廊下を通りかかったおばあちゃんが「素敵な曲ね、貴女が弾くのが楽しみ」と笑いかけてくれたから、頑張りたいんだとか。すごくあの子らしい、優しい理由。お母さんは嬉しいです。
運転手は、朔太郎が買って出てくれた。友梨音を下ろして、二人だけの車内。お休みだからって、急に荷物持ちなんて、どうしたのかしら。なにかあったの、お母さんに特別な話でもあるの、と勘繰ってしまうのは、心配症だから。もっと信じてあげなよ、と幸太郎さんに笑われそうで、鏡越しに朔太郎をちらちらと窺っていたことがばれないように、目線を外した。それが分かったのか、朔太郎が口を開いた。
「さちえ」
「ん、なあに?」
「俺が、独り立ちしたいって言ったら、どうする?」
「どう、って……やってみたらいいんじゃないかしら。つまづいたら、助けてあげるから」
「待って、いや、しないけどね?えっ、ほ、本気にしないでね」
「しないの?」
「してほしい?」
「……ちょっとくらいは寂しいかな」
「俺も寂しい。一人はそんなに、得意じゃないし」
どうして急にそんな話を、と思えば、航介とそんな話をした、そうで。三人が二人になって、残った二人もいろいろ思うところはあるらしくって、朔太郎がこの前東京出張から帰って来た時にあっちの賃貸物件の資料がファイルにたくさん入っていたり、それを私が見つけた次の次の日ぐらいにすごく不安そうな顔をしたこーちゃんが「あいつ一人でどっか行ったりしないよな」と私に聞いて来たり、した。二人の間にどんな話があったのかは分からないけれど、朔太郎があれだけ懐いてるこーちゃんを置いていきなりどこかに行くとは思えないし、ファイリングされていた物件は明らかにお一人様用よりは広かったし、だからと言って朔太郎が女の子と二人暮らしをしようとしているようには到底見えないし。私はあの子の母親だから、あの子がなにを考えてどんな提案を持ちかけたのか、何となくなら、分かる。例えば、予想するだにきっと、一人は嫌だから二人で行こうって言って突っぱねられちゃったんだろうなあ、とか。そんな話をした、の内訳は、そういうところだろう。一人は嫌だ、がどっちに当てはまるかまでは、分からない。どっちも、なのかもしれないし。ただ一つだけはっきりしてるのは、一人にした時間が長かったから、朔太郎は一人で生きていくことが苦手、ってこと。それはまごうことなく、私のせいだ。
「朔太郎。もしもお母さんのこと気にしてるなら、やめてね。好きにしていいんだからね」
「充分好きにしてるよ!なあに、さちえ、不安になった?」
「……朔太郎が急に独り立ちなんて言うから」
「いつかね、いつか。今は、お一人様2点までを4つ買える方が大事なの」
「そう?」
「そう。お手伝いも、したくなったからしてるだけ」
「そういえば、今日の夜は都築さんのお家に行かないの」
「みんな忙しいみたいだからね、ここ最近」
「そう……」
「夜ご飯なに?」
「……朔太郎が手伝ってくれるなら、餃子でも焼きましょうか」
「やったー!俺、包むのならできるよ!」
「ふふ、知ってるわ」
小さい頃たくさん手伝ってもらったから、と続ければ、きょとりとした不思議そうな目が返ってきた。何度も皮を破いては、もうやらないって怒ってたの、本人は覚えてないのかもしれない。他にも、朝お布団を畳んだら、決まって重なって膨らんだふかふかの中に飛び込むこととか。お皿を拭くと、残ってた水が全部床に垂れてそこらじゅうびしょびしょになることとか。私は、全部覚えてる。朔太郎は小さい時からお手伝い好きだったから、今日はなんとなく、貴方が貴方のまま大きくなってくれたことが分かったみたいで、嬉しいのです、よ。
「さちえ?」
「ふふ」
「なに笑ってるのさ」
「嬉しくて」
「お一人様2点が4つ買えるから?」
「それもまあ、そうねえ」
「俺が家出て行かないから?」
「それはいずれは出て欲しい」
「……食い気味でそんな……」

「……………」
「……さく」
「なに」
「たろ、う」
「……………」
「集中してるところ悪いけど、一応アドバイスすると、中身の具が多すぎるのに無理やり包もうとするから破けるんじゃないかしら」
「……………」
「朔太郎?」
「……盲点……」
「でしょうね……あなた自分が食べたいように包むから……」
「さちえの見して」
「どうぞ」
「ちっちぇえ……」
「たくさん作るんだから、中身ばっかりたくさん詰めたら、皮が余っちゃうでしょう」
「……やりなおしする」
「大丈夫、大丈夫。お母さんに任せなさい」
変わらないんだから、もう。そう口に出すのはやめて、心の中でだけ笑った。



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